2:モモカサに降る雨は、止むことを知らなくて

 モモカサに、雨は降り続く。


「まぁた、雨脚強くなっちゃいましたねぇ」

「着替え持ってくりゃよかった」

「雨具も着ないで飛び出すからですよ、もう。ほら、ガラス曇っちゃった」


 ハンドルを握ったカナは、褪せた金髪を揺らして身を乗り出した。袖で水滴を拭い、夜に沈む帰路を見通す。


「瓦礫の撤去は警察と消防にお任せして、元のアパートは誤染化ミューテーションの疑いがあるので調査と封鎖をするそうですよ」

「なら、俺たちは帰ってよし、だな」


 早く帰って、ビールのプルタブを引きたいのは、カナも一緒だ。

 濡れた先輩がシートへ体を沈めるのを確かめ、気持ちアクセルを強めに。

 旧市街は街灯がまばらだ。だから、意識はまっすぐにヘッドライトが照らす先を見つめるだけ。


「先輩って」

「うん?」

「どうして『塗り潰し』しかしないんです?」


 だから、問いも闇に紛れさせやしないか、と口を動かす。


      ※


 ユウヤは最上位となる『一級塗師ペインター』の免状を持つ。

 モモカサに在るあらゆるものが有する『域層レイヤー』への介入を許された技術者だ。


 存在、もしくは概念を『そう在らしめる』ための域層は、どれかが傷つきほつれても、破綻をきたさないための防護機能。

 その保険であった『域層』へ、人為の手を加える技術を、彼は持っている。


「それもとびっきりの」


 一級となれば存在の根幹を保証する『基層記述子ジーン・コンテクスト』以外の全てへ『域層介入装具ブラッシュ』を用いての描画が可能なのだ。

 けれど彼は決して、生きた者へ描かない。

 塗り潰して『無かったこと』にするだけ。


 カナは知っている。

 彼の技術が、免状に依るものだけではないことを。


「昔、私を助けてくれたときは、驚くほど素早く精密に」


 後輩は知っている。


「人を一人、描き直したじゃないですか」


 奇跡にも近い離れ業を、彼はやってのけられるということを。


      ※


 その日はやはり雨で、カナが学校を早引けした夕暮れだった。


 誤染化したセダンが運転手もろとも異形のサイとなり、昼日中の国道を暴走。

 他の車、濡れたアスファルト、道路標識。

 あらゆるを蹴り、弾き、衝動の赴くままに駆け巡っていた。


 カナはブティックを出たところで巻き込まれた。

 悲鳴をあげ、傘とロゴが記された手提げ袋を盗り落とし、眼前を行き過ぎたサイにへたり込んでしまったのだ。


 不幸は、基層を汚した車が悲鳴に応えたこと。

 いなないて踵を返し、角先を動けない少女へ。

 

 元は車だ。

 そこに殺意や害意はなく、けれど必死に至る鋭利さだけは間違いない。

 だから、カナは腰を上げられなくなった。

 巨体が、四肢を廻して怒涛し迫っても。

 終わるのだ、と現実味がないなまま諦観を飲み込んだ。

 

 そこへ、あの背が飛び込んできた。

 衛生局の制服を濡らし翻し、介入装ブラッシュを腰だめに構えて。

 一撃で以て、サイを羊へ塗り直したのだった。


      ※


「あの一瞬ですべての域層を書き換えて、域層の矛盾もなく、完全に書き換えたじゃないですか」


 常識の埒外にある離れ業。

 時間をかければ、新人のカナにも可能だ。誤汚されていない域層から、基層記述子を読み出して転写すればいいのだから。

 けれど彼は、筆を一打ちするだけで、それら全てを完遂させてしまう。

 それだけでなく、


「車の誤染化に呑まれた運転手も切り離して、感謝されたじゃないですか」


 同一化した域層から異物を切り分け、塗り直すことができる。

 まるで呼吸でもするように。


「あの時に、すごい! って思って、私もこの道に進んだんですから」


 幾度の試験を経ても、未だに三級止まりだけれども。


「なのに、どうして今は塗り潰すことしかしないんです?」


 いくらでも塗り上げられるのに、描くことができるのに。

 どうして『なにもない』ことにしか、しようとしないのか。


「私が局に入ってからずっと……先輩が描くところを見ていません」


 言葉を重ねても、黙り込むばかり。

 これまでに感謝は伝えた。

 憧れたことも伝えてある。

 けれど、


「まあ、いいじゃねぇか。ラクチンなんだよ、あれ」


 けれど『理由』は教えてくれない。

 横顔を夜に紛れさせて、口元をもあいまいにしている。

 もどかしいけれど、深くは追えない。

 

 カナは知っているから。

 あの日。

 彼に助けられたあの日。


 救い出された運転手が感激に礼を伝えている最中。

 ユウヤはどうにも、眉をしかめ頬を歪めていたことを。

 まるで、こみあげる汚れた熱を、こらえでもするような顔をしていたことを。


 カナは知っているのだから。


      ※


「そこにある、っていうのはどういうことなんだろうな」


 沈黙の満たされた車内。

 不意の問いかけに、カナはハンドルを握る手を弱めてしまう。

 街灯で途切れ途切れに浮かび上がる彼の横顔は、夜に隠れて判然としない。


「えっと……先輩?」

「例えば、ほら、家があるだろ? 道の両脇にずらっと並んでいる」


 声音も平坦だ。

 語尾を上げも下げもせず、一人で呟くような語り口。

 カナは相手の意図が伺えず、応える言葉を見つけられない。

 続く言葉を待つしかない。

 先輩は、流れていく窓の外を見やりながら、問う。


「あの家の壁を黄色に塗りなおしたら、それは『同じ』か?」

「なんですそれ。同じでしょ?」

「じゃあ、住人が引っ越して、違う住人に入れ替わったら?」

「え? うーん……同じだと思います」

「上物を全部取っ払って、全部が同じ設計で建て直したら?」

「それは……同じではないと思いますけど……」


 自信はない。

 外装が変われば、同じではないのか。

 内容が変われば、同じではないのか。

 同一の姿をしていれば、同じであるのか。


 どこに基準を置くかで変わる話だ。どれも『違う』かもしれないし、どれも『同じ』とも言える。

 考えるほどに深みに入り込むよう。

 だから、頭を掻いて迷路の壁から頭を出して、答えを求める。


「その違いって、なんなんですかね」

「どうだろうなあ」


 けれど、設問者にも答えの持ち合わせは無かったようだ。

 乾きはじめた重い髪を指で遊びながら、先輩は目を夜に溶かして、


「全部さ『そこにある』ってことに『きっちり線を引ける』なら、俺らペインターの仕事なんか要らなくなるだろうなあ」


 そうなることはないのだ、という諦観が口元の下り具合に見てとれる。

 カナは、彼の意図を知ることはできない。

 その胸にわきたつであろう感傷など、尚更であって。


      ※


「先輩、それってどういう意味を……」

『ユウヤ! まだ戻ってないだろ!』


 後輩の探るような問いを遮り、無線のがなり声が届けられた。

 身を起こした先輩が応答すると、


『アパートの残存側が誤汚化した!』


 事態が、夜が。


「……着替えがなくて正解だったかもな」


 まだ終わってはいないことを伝えられるのだった。

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