多重域層都市は、降る雨に沈んで

ごろん

1:モモカサに降る雨は、いつもの通りで

 モモカサには雨が降る。

 弱く、長く、夜の明かりを濡らし、汚れを洗わんとする雨だ。


「歪みが蓄積されて『基層記述子ジーン・コンテクスト』がおかしくなってるって、本当なんすかね」

「第二層が狂っている。中学の物理で習ったろう。今は教えてないのか?」

「やりましたよ。けど目には見えないじゃないっすか」


 使い込まれたバンのハッチバックを軒先に、男二人は呑気を交わす。

 まとう雨具の警察章を濡らしながら。


「けど、まだ『誤汚化ミューテーション』じゃないんすよね」

「ったりめぇだろ。元が何層あろうが」


 年嵩が、フードの軽く上げ視線を投げた。

 先には古いアパートメントが並んで、さらにその向こう。

 通り一つあちらで、雨の夜を払わんと投光が投げ込まれている。

 照明を集める主役は、影を踊らせ、轟音をまき散らす。


 影は、四足の野獣そのもの。

 音は、重機が破壊そのもの。


 驚異の前触れは徐々に近づいていた。

 二人は嘆息し、顔を見合わせると拳銃を引き抜き、息をこらす。


 ほどなく、それは現れる。

 アパートメントの二階までを噛み砕き、まっすぐに。

 人ほどの体高を衝動にくゆらせて、建材の『域層レイヤー』を片っ端から食い破って迫りくる。


「誤汚化しちまえば、古いアパートメントも『ああ』なっちまう!」


 本来の姿も、在り方も、中の様相も、全てが狂ってしまうのだ。


      ※


「俺が出ます! 三層に装甲を仕込んだんで!」

「気をつけろよ! 時間を稼ぐのが俺たちの仕事だ!」


 粉砕された壁向こうからも、続々と味方が集まってきていた。

 誰も一、二層は傷ついて、無傷とはいかない。けれど、残る無事な域層で以て足をつき、戦意を束ねている。


 唸り声に包囲を敷き、しかし、それでも制圧は困難だ。

 元が『アパートメントの四階から屋根まで』の計で三フロア。大きな狼程度のサイズであるが、質量は保持したままなのだから。

 破壊には重機が必要で、さらには狼のステップを捉える必要がある。


 警察には手に余る相手。

 だからこそ、彼らの仕事は時間を稼ぐことであり、


「ぐあ! くそ、止められない! そっち行ったすよ!」


 迫る牙をいかに凌ぐかが課題。

 自分を構成する域層レイヤーは、六つ。人の平均が四層であるから、上手く損傷を制御できれば余裕がある。

 はずだが、


「一噛みで四層がいかれた! 助けてくれ!」


 馬乗りで首筋に牙を突き立てられては、ひとたまりもない。

 さらに食らわんと、獣は口を開く。

 囲む仲間たちは巻き添えを嫌って銃を諦め、警棒を片手に雨溜まるアスファルトを蹴り上げる。


 が、懸命も間に合わない。

 生々しい熱を帯びたアパートメントの牙が迫り、


「衛生局はまだなのか!」


 必死に、待ちわびる叫びをあげるしかなくて。


      ※


「先輩! 一人、組み伏せられてます!」


 雨で後輪を滑らせながら、白塗りの軽バンが躍り出る。

 サイドには『衛生局』のロゴを、雨に汚しながら。


「見えてるよ。先に出るから、後から『筆』担いでこい」

「え? 一人で出るんですか!」

「お前さんが『車を止めて』『装備を整え』『足並みを揃える』うちに、お巡りさんの域層が全壊しちまうぜ」

「せ、せめて止まってからドア開けてくださいよ!」


 風景が流れるままのスライドドアを開ければ、雨が頬を殴りつけてくる。

 愛用の『域層介入装具ブラッシュ』、いわゆる『筆』を握り直せば、ステップを蹴り、飛び出していく。

 中空へ足を延ばし『踏み込む』。

 何もない、そこへ。

 鋭利で機械的な大振りである『筆』を振るって、


「六層を書き換える! 片付けは頼むぞ!」

「先輩! ちょっと、また始末書ですよ、先輩!」


 足元を『踏むことができる』に上塗りしていく。

 足裏の反射を確かめるでもなく、制服を濡らして彼は走り出した。

 第六層が『変質した』中空を。


      ※


 迫る牙は、果たして届くことはなかった。

 狼が、雨を裂いて迫る気配に、振り仰いだためだ。

 警察も視線を追えば、飛びかかる影を見る。

 

 筆、と呼称される『域層介入装具ブラッシュ』を振りかぶった、制服を翻す男の姿を。

 制服にピン止めされたネームプレートに刻まれた名を。


「ユウヤ! 衛生局の一級塗師ペインターか!」

「緊急事態って言われたからさ!」


 笑い、頬を伝う雫を舐めとって、筆を突き立てる。


「誤汚化は二層が丸々と三層の一部! 一気に『塗り潰す』から、堪えろよ!」


 警句が放たれ、身を固く。

 途端、こちらを踏みしめる圧力は消え失せて、代わるように、


「う、うわああ!」


 本来の姿を取り戻した『アパートメントの一部』が、自重に負けて崩れ落ち、がれきが降り注いでくることに。


 かくして、モモカサの『よくある一幕』は舞台を閉じるのだった。

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