見越し入道

小此木センウ

見越し入道(一話完結)

 誰だったか作者の名前も忘れてしまったが、大正期の洋画で土のあらわな坂道を描いたのがあって、その筆づかいから、実際の道よりなお強い現実の土の手触りを感じたことを思い出した。

 今いる舗装されていない道路もそれと同じようにただ道路であるという以上の存在感を放ち、土の香りで息苦しくなるほどだった。私は早足で歩いている。


 辺りは平家か古い木造二階建ての民家ばかりで開けている。にもかかわらず私には焦燥、というよりむしろ圧迫感がある。

 原因が背後にあるとはわかっている。だが私は振り向けない。振り向けば、そこに何か恐ろしいものが存在すると認めてしまうことになる。だから私は歩き続ける。

 しかしそんな私の葛藤にかかわらず、夏の半分乾きかけて白っぽく輝く土の道に、やがて真っ黒な影がかかる。途端に足もとが、にかわか何かのように粘つき始める。心が焦っても足は重く、のろのろとしか持ち上がらない。脂汗が流れて、その跡を冷たい風が伝い、背筋が硬直した。

 私は止まってしまった。そうなれば足はもう動かない。前のめりのおかしな姿勢で、私は振り返る。


 はるか先の山の端から、白い着物をまとった白い顔の巨大な人間がこちらを見下ろしていた。髪はなく、眉もない、もちろん髭もないナメクジのような肌。口だけがいやに赤くぬらぬらして、黄色く濁りあさっての方角を向いた目が、それなのに確かに私を見つめている。

 山の向こうから腕が伸びて、民家の屋根に手をつく。堅牢な家屋が紙でできた細工物みたいにひしゃげて壊れ、砂煙が上がる。力が込められた手首から筋肉が浮き上がり、白い顔面が伸び上がるようにこちらに近づいた。逃げようとしてやはり足が動かず、私は尻餅をついた。手が土に触れる感覚。


 そこでやっと私は叫び声を上げ、自分の声で目が覚めた。

 キッチンで水を飲んでこようとベッドから降りると、隣で寝ていた妻がもぞもぞ動いた。

「今夜も夢、見たの?」

「うん……。起こしてごめん」

 妻は首を振る。

「いいの。あなたの方が心配よ。三日続けてでしょ」

「ああ。仕事のストレスかな。毎日同じ夢ばかり」

 妻は起き上がり、ベッドサイドのライトをつけた。柔らかい光で見慣れた寝室がぼうと浮かび上がり、なんとなく心が落ち着いた。

「教えてよ。一体どんな夢なの」

 怪物から逃げる夢なんて子供っぽくて話したくはない。しかし妻の口調は穏やかだが断定的で、容易には折れてくれなそうだった。仕方なく、私は夢の一部始終を伝えた。

 目が覚めるまでのことを伝えると、妻はああ、と言って自分の膝を叩いた。

「見越し入道じゃない、それ」

「みこし? お祭りで担ぐやつ?」

「違うよ。『見る』に『越える』で見越し。有名な妖怪でしょう」

 でしょう、と妻は知らない人間の方がおかしいとでも言いたそうな口調だ。

「ごめん、知らない。そいつから逃げる方法ってあるのかな」

「あるわよ。逃げるんじゃなくてやっつける方法が」

 妻は頼もしげにうなずいた。

「見越し入道ってね、見上げていくとぐんぐん背が伸びるみたいに感じるんだって。だから下から見上げずに頭のてっぺんから見て、『見越した』って言えば消えるって読んだわ」

「読んだって、何に書いてあったの?」

「小学校の図書室にあった妖怪図鑑。あなたもきっと、忘れてるけど昔同じような本を読んだのよ。その記憶がどこかに残ってるから夢に出てきたのね」

 小学校とは少々頼りないが、妻の説で納得のいくところもある。

「落ち着いた? じゃあおやすみ」

 妻はライトを消して横になると、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。私もそれで救われたような気分になって、その日は朝まで夢も見ずに眠れた。


 気がつけば私は見覚えのある土の道に立っている。背中に圧迫感があり、心の底の方から泡のように恐怖が浮かび上がった。私は三回深呼吸して、覚悟を決めて振り返る。

 お前の名は見越し入道だ。名前をつければ正体不明の怪異は人知の限りに収まる。お前のことは怖くない。

「見越した!」

 私は怒鳴った。その瞬間、こっちに迫りつつあった巨体はびくりと震え、動きを止めた。風に流される煙のように、相手の輪郭がおぼろになった気がした。

 黄色い瞳が私を捉える。驚きと、そして哀れみに近い感覚が私に届いた。


「ねえ、起きて。ねえってば」

 気がつくと、妻が私の肩をつかんで揺さぶっていた。

 私は大きなため息を一つつき、妻の顔を見た。

「今夜もうなされてたよ。大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ。君の教えてくれた方法、効果があったみたいだ」

「ならいいんだけど」

 妻はまだ心配そうに私を見下ろす。私は手を伸ばして、妻の頭を二、三度なでた。

「さあ、もう安心しておやすみ」

 妻を促して、自分も目を閉じる。

 まぶたの裏に、さっきの輪郭のぼやけた巨人が浮かんだ。どうも、一日で万事解決とはならなそうだ。だが、妻の対策は効果があった。何日かけても、あいつを私の夢から消し去ってやろう。


 その日から、さらに三日後である。私の心には期待と焦りの両方があった。

 妻に教わった方法を毎日試すと、見越し入道の身体は日に日にぼやけていった。おそらくは今夜、すっかり消え失せるはずだ。

 ところが、私が毎晩のようにうなされるのは変わらなかった。見越し入道の姿が薄らいでも、何故だかそれに対して感じる恐怖は消えなかったのだ。

 見越し入道の見え方にかかわらず、それが空にいること自体への恐れが先に存在するからだと、私は考えることにした。それならば、今日の夢で完全に姿が消えた時、私も長く続いた悪夢から解放されるはずなのだから。


 いつもの民家が立ち並ぶ、いつもの道路。また私はここにいる。心臓が飛び出しそうになるのを押さえるように胸に手を当て、私は振り返った。

 見越し入道は、成層圏まで届くうっすらした雲の輪郭に変わっていた。もう目と口の判別もつかない。

「見越した!」

 ぼやっとした輪郭がさらに崩れ、完全に雲と区別がつかなくなり、やがてそれは風に散っていった。

 消えた。私は青空を見上げる。ただ青い、青すぎて黒ずむほどの空。


 私は目を覚ました。朝だ。妻はもう朝食の準備を始めているらしくベッドにはいなかった。

「おはよう。昨日は夜中に起きなかったね」

 リビングに出ると、妻の声がかかった。

「うん、おかげさまで」

 自分に軽口を叩く余裕があることに安心しながら、私は窓に近寄り、レースのカーテンを開けて外を見る。

 夏の朝で、すでにセミが鳴き始めていた。家の前の道路のアスファルトが陽光を受けて焼けている。


 ふと、胸騒ぎを覚えた。


 カーテンを戻し、私は玄関に向かう。

「どうしたの?」

 後ろから妻が尋ねる。

「うん、ちょっと外の様子を見てくる」

 玄関に向かうにつれて私は早足になる。もどかしくサンダルをつっかけて扉を開け、道路に飛び出して空を見上げ、そしてその場にへなへなと崩折れた。


 もちろん、そこには何もいない。見越し入道は私が消してしまったのだから。

 代わりにあったのはどす黒い青空だ。私はそれに純粋な恐怖を感じた。

 恐怖が集まって形象化し、夢の中だけに居場所を与えられた見越し入道は消えた。だから、その形から解放され、現実と夢とを問わずあらわになった、名前もつけることのできない始原的な恐怖が私を見下ろしていた。


 この世界のどこにも、いやこの世界ではない夢の中にすら、もはや逃げ場はないのだと、私は悟った。

 アスファルトの道路に両手をついたまま、甲高い声を上げて、私はただ笑い続けた。

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