初めてのキャンプ

西野ゆう

第1話

 小学生最後の夏休み。沙也さやは、ワゴン車のカーゴルームから、ガレージの隅に荷物を降ろす父をじっと見ていた。買ったばかりのテントやバーベキューコンロが、その役割を果たさぬまま、次々に降ろされてゆく。

 陽が落ちて一時間。夕立に濡れたアスファルトから、涙の香りに似た夏の雨の匂いがガレージの中に流れ込んできた。

 今日、沙也の祖父が亡くなった。遠く離れた父の田舎に住む祖父に、沙也は一度も会ったことがない。写真でさえ見たことのない祖父の死を沙也が悲しむわけもなく、楽しみにしていたキャンプがキャンセルになった怒りしかなかった。

「着替えはそのまま持っていけばいいか……」

 沙也の服と水着も入ったバッグを一度は降ろした父が、そう呟いて再び車に積み込んだ。

「私も行かなきゃダメなの?」

 その父の背中に沙也が怒りを含んだ声で言うと、父は普段よりも少し強くリアゲートを叩きつけるように閉めた。

「まだ怒ってるのか? 沙也ひとり留守番させるわけにいかんだろ。お母さんも行くんだから」

 そう言った父にも、沙也の怒りが伝染しているようだ。もちろん沙也も、子供の自分がひとりで家に残れないとは分かっていた。祖父の葬儀に、その長男である父が行かなくてはならないことも理解していた。それでも自分のことを優先してもらえないだろうかと、いかにも子供っぽい叶わぬ願いを、沙也は抱かずにはいられなかった。

「明日の飛行機早いから。今日の分の宿題、早く済ませとけよ」

「絵の宿題、キャンプの絵を描くつもりだったもん」

「だから、仕方ないだろ。……何度も言わせるなよ、ったく」

 何を言ってももう無駄なのだと、沙也は完全にキャンプを諦めた。


 沙也の住む街から飛行機で二時間弱。そこからさらにコミューターに乗り換えて一時間。最後は船で四時間。なぜこんな所に人が住んでいるのか。こんな所に住んでいる人たちも、自分と同じ日本人と呼べるのか。沙也は、去年の正月に家族で行ったハワイよりも、この祖父が住んでいた地、父が生まれた地が別世界のように思えた。

 キャンプが中止になってから沙也の中に居座り続けていた悔しさは、島に着くころにはどこかに消え去っていた。

 コミューターの乗り心地は最悪だったが、船に乗り、波を越えるごとに青くなる空と海に、沙也の目は輝き始めていた。

 沙也は、不謹慎とは思いながら、今度は祖父の死を喜んだ。それでもさすがに祖父の家を前にして、浮かれた気分が顔に出てはまずいと、神妙な顔を繕った。だが、そんな沙也の心配をよそに、その家に集まった人々には、笑顔が絶えなかった。

「おぉ、おぉ、ともひろくん、大きくなったねぇ」

 一人の老婆が、父の姿を見て破顔した。

「梅のおばさん、大きくなったって、もう四十ですから」

「そうかね。四十かね」

 父は、母と沙也を家に集まった人たちに紹介し、島の人たちを母と沙也に紹介した。

 沙也は、父が「梅のおばさん」の本当の名前を知らず、毎年自分で漬けた梅干を貰っていたから「梅のおばさん」と呼んでいたという話を聞いて、父のことを今までよりもほんの少し身近に感じた。父もやはり子供の頃があったのだ。

「兄貴、疲れたろ?」

 そんな父にどこから出してきたのか、水滴の付いた缶ビールを渡す男がいた。

「ああ、ありがとう。沙也、従姉の……えーっと」

うららです」

「そうそう、うーちゃん。なんだったら二人で適当に遊んできていいぞ」

 叔父の隣に立っていた女の子が、ちょこんと頭を下げた。それを見た沙也も同じように頭を下げる。

「うーちゃんは中一だっけ?」

「そうです。……じゃあお父さん、遊んでくるね」

 麗は沙也の父に短く返事をして、自分の父親に遊びに行く断りを入れた。

「はいよ。いってらっしゃい」

 遊びに行くといっても、どこで何をして遊ぶというのか。沙也は疑問に思いながらも、麗に付いて歩いた。


 沙也が辿り着いたのは、二本並んだけやきの間に挟まれた、箱のようなツリーハウスだった。ツリーハウスといってもそれほどの高さはなく、床までの高さはせいぜい二メートル程度だ。広さは沙也の部屋と同じ六畳ぐらい。そのスペースに、本や画材が散らばっていた。

「そっかあ。キャンプに行けなくなっちゃったんだ」

 麗はビーズクッションに座り、カエルのぬいぐるみを胸に抱いて沙也の話を聞いていた。沙也はパソコンが乗っていないパソコンデスクの椅子に座っている。

「キャンプって何が面白いんだろ……。あ、違うの。嫌いとかって意味じゃなくて、私もキャンプしたことないんだ」

 麗の言葉に、沙也は納得した。このツリーハウスのような遊び場があって、キャンプに興味が沸かないのは当然だ。

「山の中の湖でね、バーベキューして、星を見て、テントに泊って。あとは、そこの広場でバドミントンとか……あれ? 何が面白いんだろ? 私もわかんなくなっちゃった」

 沙也はそう言って、昨日泣いた自分が可笑しくなって笑った。

「じゃあさ、今晩、やってみようよ」

「え?」

「やろう。キャンプ。テントもバーベキューセットもないけど、いい場所があるからさ。しかも今日は満月だし。ねっ」

 このツリーハウスでも十分にキャンプの魅力を超えていると感じていた沙也は、戸惑いながらも麗の誘いに頷いた。


「お父さん。今日の夜は、前の海で寝るから」

 夕食の時に麗がそう言うと、それはあっさりと了承された。「前の海」とは、島の東側、砂浜が広がるなだらかな入り江になっている一帯のことだ。反対に西側は「裏の海」と呼ばれていて、傾斜が急な岩場が続いている。

「よく海辺で寝たりしてるの?」

 沙也が麗に聞くと、麗は柔らかく微笑んだ。たったひとつしか年は違わないのに、沙也には麗が随分大人に見えた。

「夏はね、よく海で寝てる。……沙也ちゃん、カメラかスマホ持ってる?」

 沙也は麗の問いに、首を横に振った。

「まだ携帯持たせてもらえないよ。カメラは家に置いてきちゃったし」

 なにか特別綺麗な景色でも見られるのだろうか。葬儀だけだからとカメラを持ってこなかった父を、沙也は少し恨んだ。

「それじゃあ、二人で絵を描こうか。道具、貸してあげる」

 この上ない申し出に、沙也は何度も頷いた。

 祖父の家を出て、なだらかな下り坂を海に向かって下ってゆく。海へと近づくにつれ、空も広くなっていった。松の樹の間を抜けて砂浜に出ると、沙也は生まれて初めて、感動で嘆息した。

「凄い。綺麗……」

 水平線から丸い姿を見せたばかりの満月は、オレンジ色に燃えていた。波静かな海には、金色のカーペットが伸びている。

 沙也は脇に抱えていたスケッチブックを開いた。だが、握った鉛筆は動かない。目の前には圧倒的に美しい景色があるというのに、絵にしてしまえば、一本の水平線とひとつの円だけになってしまう。どうすればいいのか沙也が考えていると、麗が思わぬ言葉を口にした。

「もうちょっと描くのは待った方が良いよ」

「え? どうして?」

 今はまだ、空に夕焼けの残した色がある。時間が経てば、色はどんどんなくなってゆくはずだ。月にも負けない星たちが輝くというのだろうか。理由を訊いた沙也に、麗は「内緒」と言って微笑むだけだった。


 ――金賞「ウミガメの赤ちゃんたちと初めてのキャンプ」三河第二小学校六年一組青島沙也

 十月になって届いた賞状に、沙也は目を閉じて、両手を胸の前で組んた。

「ありがとう、おじいちゃん」

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初めてのキャンプ 西野ゆう @ukizm

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