インスクリプション

柚木呂高

インスクリプション

 ソファに座った老人の脇で年季の入った機材を展開していく。ある程度コンパクトとは言え、昔のVRセットより少し多めの部品によって構成されるこれらは、人の記憶を保存し他の誰かに伝達するためのツールである。

「それじゃあ始めますよ」

「いつでもどうぞ」

 彼の中には今、彼の息子の記憶が流れ込んでいる。その内容がどんなものであるかはプライベートなものであるから、おれの知ったことではないが、多くの場合は今まで秘密にしていたことや、どうしても言葉で伝えられない複雑な思いを自分の記憶というパッケージに詰めて共有する。そこにあるのは愛なのか憎しみなのか、人はアンビバレンツな感情をこもごもに内包しているものであるから一概には言えないが、それは多くの場合感情のゆらぎを引き起こすものだ、価値観の変化も含めて。おれは記憶の伝達が滞りなく進んでいるかをモニタリングしながら、雨音と端末が発するかすかなノイズの織りなす無音を楽しんでいた。暫くして、ディスプレイにコンプリートの画面が映し出され、機材を取り外す。プライバシーの為に受け渡した記憶は相手に注入すると同時に消去される。老人は悲しみとも喜びともつかない表情を浮かべて右の手で禿げ上がった頭を後ろになでつけるように掻き上げた。彼の気持ちがポッカリと空中に浮かんで、宙ぶらりんになった両足をバタつかせているのが見えるようだった。

「息子は」

「おっと、内容は言わなくて結構ですよ、それはプライベートなものです。おれが知らないほうがいい」

「わしの気持ちが落ち着かんのだ」

「このサービスを利用する人は多かれ少なかれ、人には言えない、他の人には聞かれたくない心情を特定の人に伝えるために利用するものです、ただまあ、おれはタバコを吸わせてもらえれば、雨に耳を傾けますよ、雨の日のタバコはうまいですからね」

「そうか。そうだな。じゃあこれは独り言だ。許しというのは複雑なものだ、何処かで理解をしながら、それを許容することができないものであったり、許容する中に嫌悪感が宿痾のように体に蟠り続けたりする。悪いことをたくさんした。家に帰ると息子を殴って、そのたびにわしのようにはなるなと祈っていた。ところが、わしは憎まれているが許されてもいたことを今日初めて知った。末節に拘り空疎に過ごしていたことがわかったよ。たとえ、たとえな、愛がない場所にも、慰めはあるんだ。ありがとう」

「雨音がうるさくって、聞こえませんでしたよ」

「ハッ」老人の笑いは一種カラッと乾いて響き、彼の気持ちが再び地に足をつけたように感ぜられた。

 冬の雨は乾いていて冷たい。おれはマフラーを口元を覆うように持ち上げると、急いで車に戻る。空は彩度の下がった薄墨色に染まっていた。暖房の効いた車の中に入ると、妹のツグミが助手席でタブレットとにらめっこしている。

「暇だったか?」

「友達とゲームしてたから別に。今日の案件はもう終わり?」

「そうだな、今日はこれだけだ。タイ料理でも食って帰るか」

「やった! カオソーイ食べたい!」

 人の記憶を抽出して他の誰かに注入する技術は八年前くらいに一世を風靡した。多くの人が記憶の共有を行い、ちょっとした秘密から旅行の思い出など、幅広い記憶を分かち合ったものだ。これらはプライベートなものとして漏洩のオフラインの端末を使用して配達人が記憶を届けに走り回った。記憶のUber Eatsだ。しかし時代は進んでいき、ネットワーク上ではデータは常にオープンになりたがる傾向を示す。記憶は誰かのプライベートなものではなくなり、誰でも公開可能なデータとして流行しだした。一部の技術的好奇心を抑えきれないアーリーアダプターから、新たな楽しみに目のない快楽主義が徐々にその共有された記憶で楽しんでいるうちに、次第にキャズムを超え、動画サイトなどに変わる新しい体験として、多くのものが利用するようになった。今では経験や記憶は学生から社会人、記憶コンテンツのセミプロといった素人の自由な投稿から、企業が管理する監督付きの高クオリティのものまで種々様々なものが流通していた。価格もname your priceから高額なものまであり、サブスプリクションサービスももちろんあった。基本的には倫理的な問題がなければ投稿は許され、レーティング指定によってはゴア表現やエロチックな表現まで許されている。おれがやってるオフラインの記憶共有は次第に時代遅れのシロモノになって、利用者もだいぶ減ってしまった。今では本当に秘密の情報をやりとりする為のものとなっている、まあ秘密にも種類があるが。

 そう広くはない明るい店内には、四人掛けの席が六つくらい並んでいて、デートや買い物帰りの客がチラホラと入っていた。通いすぎて顔見知りになった店員が、親しげに注文を取りに来て、おれたちはいつもの注文をする。程なくして二人分のカオソーイとツマミ用のラーブガイ、クンクラブアン、ムーデッディアオ、チャンビールとグアバジュースがテーブルに並んで、ツグミは持っていたタブレットを椅子に置き両手を合わせる。

「ごちそうだー!」

「今日は案件があったからな。ここのところ仕事が少なくなってきてるから贅沢はできないけど」

「プライベートな記憶デリバリー時代は終わった。今は記憶はシェアする時代。みんなで同じ夢を見よう。ゲーッ、わたしは反吐が出るけど」

「娯楽としては確かに今までの映像コンテンツとかと比べると格段に没入感があって面白いとは思うけどな、誰かと情報共有するにも解像度が高いし。おれも技術があるならそっちに転職したいよ」

「やめてよ。記憶の定着率が低いから大きな問題になってないけど、人間のパーソナルな部分への侵害だよ、わたしはわたしの人生を生きたいの」

「ツグミは若いのに考え方が古いんだな。でもおれたちがやってるのだって、同じようなことだろう。むしろいっとう悪いよ。人の心の柔らかい部分をさ、人に渡すとか。相手が傷ついたり怒ったりして。今回はたまたま良かったけど、おれはもうこんな仕事本当はしたくない」

「わたしたちがやってるのはパーソナルな要素の延長。親しい人間との秘密の共有は、思い出の補完よ。わたしたちの仕事は人が一生を費やしても伝えられないようなわだかまった言葉を、記憶を通じて伝えることができるの」

「どうだかなぁ」

 ツグミはむくれっ面をしてテーブルの下でおれの脛を蹴り上げた。彼女のSocial Memory Sharing Services、いわゆるSMSS嫌いは筋金入りだ。生理的嫌悪なのか思想的嫌悪なのかおれには測りかねたが、彼女が以前仕込んだウィルスは一時期ちょっとした話題になった。記憶をダウンロードした脳が一時的にシーニュを解体してしまい、言葉と事物の繋がりを失って、行動不能になるというものだ。記憶シェアサイトに仕込んだプログラムで、そこそこの数の被害が出たが、数日流行っただけで、そのウィルスは姿を消した。彼女は悪戯しただけと言ったが、おれは唯一の身内が捕まらないか気が気でなかった。結局、この件はろくに捜査されなかったのか、警察がうちの戸を叩くことはなかった。


 何週間も仕事が空き、暇を持て余しながら諸々の支払いに頭を抱えていると、一本の非通知電話が掛かってきた。ツグミが逆探知を噛ませておれは電話に出る。

「頼みたい仕事があるの」

「毎度あり、日本国内なら何処へでも配達いたしますよ」

 咥えたタバコをもみ消して煙を吐くと、ツグミがハンドサーキュレーターでそれを跳ね返してくる。

「今回はわたしの記憶じゃなくて、わたしの母の記憶を回収して貰いたいの。本人にはわたしが記憶を欲しがっていると伝えればどの記憶かはわかるはずよ」

「あー、一応記憶を渡す側の権利が保証されるんで、相手方が拒否した場合は強制できませんが」

「そこはあなたの話術でなんとかしてくださらないかしら、とても大事なことだから。こう言ってはなんだけれど、なるべく可能な限り記憶を回収していただきたいの。支払いはこれで」

 と言うと画面に依頼料が表示される。見たことない価格で思わずのけぞる。

「流石に桁が多いですよ。相場間違えてますよ」

「あら、ではそちらの言い値でもいいですけれど、わたしはこちらを半分前払い、半分成果払いとして提示させてもらうわ。それくらい重要な案件であることを理解して頂きたいの」

「いくら?」とツグミが言う。おれは手で二と〇を並べて見せる。

「二十万?」そこに〇を二つ並べる。

「絶対ヤバいって、発信場所、六本木のどっかで見たことあるところ」

「母の住所をお送りしますわ。良い結果をお待ちしています」

「あのお名前は」

増田聯ますだれん、聞いたことあるんじゃないかしら。こんな謳い文句、幸福とは常に未来へとアップデートされうるべきもの、記憶とは自身を拡張する為のツール。じゃあ、いい結果を待ってるわ」

 相手がそう言うとおれの返事を待たずに電話が切れた。不安になって口座を確認すると既に半分の一〇〇〇万円が入金されている。振込人は、グラディーヴァコーポレーション。SMSS企業の国内最大手だ。ツグミがタブレットを小脇に抱えてこちらに来る。

「引き受けたの?」

「さすがに引き受けざるを得ない状況だろこれ」

 ツグミは両手を頭の左右まで上げて、目をぐるぐるさせながら信じられないといったジェスチャーを取る。

「クソ企業の社長よ」

「金がない事には生活はできないし、こんなデカい金が貰えるならおれはやるね。餓死しなくなるどころか暫く生活に困らない。お前もデカいPC買えるぞ」

 ツグミは物欲に素直な性格なので、具体的な成果を提示されると弱い。彼女は顔を中央に寄せて渋い顔をしていたが、やがて諦めたようにソファにダイブするとタブレットをいじりだす。

「好きにすれば!」


 依頼人の送ってきた住所は千葉の鴨川だった。フリーのローカルな走行記憶をダウンロードして車を走らせていた。初めての道も今では誰でも知った道となる。強い潮風が吹き付ける。タバコの煙を外に逃がすために窓を少し開けていたが、ツグミは「髪がベタつくからやめて」と文句を言っている。たどり着いた場所は白塗りの二階建で、浜辺から徒歩三分くらいの絵に描いたような海辺の家だ。庭では一人の背筋の伸びた白髪の女性が、ドラム缶で何かを燃やしていた。煙がもうもうと空に上って、曇り空に溶けて混ざっていく。おれとツグミは車を降りて、女性に話しかける。風が冷たく強い。

「増田聯さんから依頼を受けて来たものですが、すみませんが、増田聯さんのお母様ですか?」

 女性は振り向くと、敵を見てそれを観念するような悲しげな表情を浮かべていた。皺は多いが、目は知的な光を湛えていて、恐らく予想できる実年齢の割に矍鑠かくしゃくたる凛とした佇まいをしている。

「研究結果なら今まさに燃えているさなかです。一足遅かったですね。提供できる情報はありません」

「おれたちは、記憶デリバリーの人間で、おれは富田タカシって言います。増田聯さんからお母様の記憶を回収してきて欲しいと頼まれて来たんです」

「ああ、なるほど、どうあってもあの子は手に入れたいのですね」

「詳しい事情を知らないのですが、法律的に強制はできないので、嫌でしたら断って頂いても構いません。とは言え、できれば回収させて頂けると助かるんですがね」

 ツグミはおれの話術のなさに呆れたように首と両肩をだらりと垂れると「ハァ」とため息をついて前に出た。

「わたしたちは増田聯さんから『記憶を欲しがっていると伝えろ』としか命令を受けていません、増田聯さんのお母様ならその意味をご理解していると思いますが」

 ツグミはまっすぐに物怖じずに増田の母親を見つめて言う。彼女はツグミの視線から何かを受け取ったように表情を和らげると、「どうぞ」と言って家の中に通してくれた。

「わたしの記憶を娘にね。わたしは研究漬けで良い母親じゃありませんでしたから。ま、この親にして今の才気があってひねくれたあの子がある。そうね、最後に何かを残してあげなきゃいけませんね」

 彼女は最初の堅い態度を崩して、ある種友人にでも語りかけるようにそう言った。おれたちは小綺麗でありながら、不自然にスペースの空いている棚を見て、先程増田の母親が何かを燃やしていたことを思い出した。彼女がフィジカルの愛好家だったというのはなんとなく察したが、棚から抜かれたそれらが何だったのか興味がそそられた。娘との思いでの品? いや、研究結果と言っていたからそれに関するものだろう。彼女はなにかの研究者なのか?

 おれはナチュラルインテリア風のきれいに整頓された居間のソファで作業をすることにした。ツグミはおれの作業には加わらず相変わらずタブレットをいじり続けている、やはり彼女にとっては仕事よりも友達とのゲームの方が楽しいものなのだろう。増田の母親はアタラクシアの体現といった落ち着きをみせていて、おれはその静謐さに敏感になりながらなるべく音を鳴らさないよう機材の準備を行った。

「最後まであの子の理想の親にはなれないですわね」

 作業が終わった後、彼女はそう言った。それは受け取り手を探して空間をさまよって、やがてツグミがまるでたんぽぽの種を空中で掴むようにしてその言葉を拾うような仕草を取った。それを見て増田の母親はニッコリと微笑んで言った。

「最上の幸福とは現在へと繋がる過去の思い出の中にあります」

「それじゃあまた」とおれが一揖して言うと彼女は手を振った。

「またはないわ」とツグミがボソリと言う。


「今日は会社に行っていないから、受け渡しはわたしの家で行いましょう」

 そう言って増田聯は電話を切った。おれは車を運転しながら二〇〇〇万円の価値ある記憶についてなんとなく考えていた。本来おれたちの仕事の相場なんて今では五万円から十万円程度のものだ。人の記憶そのものに価値の差があるとすれば、増田の母親の記憶は家族間の秘密や思い出を超えた、とてつもなく貴重なものであることは間違いない。人間の思い出などにはそんな価値はないからだ。おれがそんなことを考えているとツグミがタブレットに目を落としながら話し始めた。

「増田の母親、浜本慶子はまもとけいこは外部記憶に関する研究の権威。記憶の抽出、注入のプロセスの研究だけじゃなくて、最近は外部記憶の定着に関する研究を行ってた。現在の外部記憶は定着せずに一定期間で消えるから危険性はなく、こうやってソーシャルで流行ってるわけだよね。たまに悪意ある昔のブラウザクラッシャーみたいな記憶で精神病院送りにするやつもいるけど。まあとにかく定着しないからこその今の自由なコンテンツとしての隆盛みたいなところがある。ところが、噂では浜本慶子は記憶を他者に完全に定着させる方法を発見した。これがどういうことかわかる?」

「まて、彼女が記憶技術に関する権威? 完全定着ってことは人は無尽蔵に記憶を増やせるようになるということか? めちゃくちゃ頭のいい人間になったり?」

「記憶はそれだけじゃない、アイデンティティを形成する一因にもなる」

「記憶の改竄どころか、記憶の上書きで別の人間を作り出せるってことか?」

「そういうこともできるし、いろんな記憶を植え付けた強力なアイデンティティを持った超人も作り出せるかも。用途は色々あるね。これはそういう危険な情報の郵送任務」

 それを聞いて心配になったのは自分の身の安全と浜本のことだ。彼女がもしおれたちにその研究結果の記憶を託したとなると、それを欲しがる連中は彼女は誰かに尋問などされる状況が生まれるかもしれない。

「おれたちが記憶を持ち出したせいで増田の母親の身の安全は保証されなくなったんじゃないか?」

「彼女はもう死んだわ。ちょうど自殺するちょっと前にわたしたちは会えた」

「何故わかるんだ」

「カンだけど、もともと彼女はこの研究が危ないものだってわかってた。そりゃそう、人を人たらしめている同一性を脅かして自己崩壊したり、他者が誰かを別の人間に作り変えられるような世界が来るかもしれない、だから彼女は研究結果を破棄して、それを知ってる唯一の存在である自分自身も処理しようとしていた」

「そうまでして消そうとしていたものをおれたちに託したのは、娘のためだからか」

「おそらくはそう」

 おれは頭がクラクラした。ただの記憶の運び屋がヤバイ連中の標的になって、追われる? そんな体験したこともなければ、対処の仕方もわからない。機械を動かして車を走らせて、また機械を動かすだけしかできない男が、そんなヤバい状況で生き残れるはずがない。おれは車を止めてツグミに話しかける。

「なあ、逃げても良いんじゃないか、もう記憶なんてほっぽりだして一〇〇〇万円で満足してもさ」

「クソ兄貴! 自分の仕事を忘れんな! 浜本が何故忌避した記憶をわたしたちに託したと思う? 娘に伝えたい事があるからでしょうが。この仕事は、こういう凍りついた家族関係を溶かすことのできる、尊い仕事なんだよ」

「クソ喰らえだ! 命をかけるほどの価値がどこにあるって言うんだよ。それにおまえだって、この研究結果がグラディーヴァに渡るのが嫌じゃないのか、SMSSが一層人の人生を食い散らかそうとするかもしれないんだぞ」

「うー、それはそうだけど、浜本慶子博士の顔見たでしょ。あれは娘に何かを伝えようとする顔だ。家族を信じている人の顔」

「そんなことわかるもんかよ、娘なら今の時代の支配者にしてもいいってだけかもしれないだろ」

「わたしは自分の両親みたいな人間を救いたい。あの時代、もし記憶のデリバリーが可能だったら、二人のすれ違いが解消されたかもしれない。死ぬまですれ違ったままじゃなかったかもしれない」

 おれたちの両親はツグミが生まれてすぐに離婚した。裁判の結果父親は一生おれたちに会いに来れなくなった。おれたちは内緒で父親に会いに行くことがあった。子供なりに彼の話を聞いて、そして母親の話を聞いた。それは些細なすれ違いだった。それが膨張し、憎しみに変わって、離別へと結実した。彼らは互いに憎み合っていたが、それでも本当は互いに愛し合っていた。互いにそれを気付かずに一生を終えた。記憶デリバリーが可能になったときにおれがこの仕事を選んだのも、両親が生きていたら、もしかしたら互いの記憶を辿って、捻じ曲がった関係を修復できたかもしれないというIFのストーリーを夢見たからだった。

「ああ、クソ、人が一生を費やしても伝えられないようなわだかまった言葉を、記憶を通じて伝えることができる、か」

 おれは車のギアを入れる。

「しゃあねえ、クソ会社の社長に母親の大事な記憶を届けるか」

「クソ会社の社長でも、わたしは引き受けた仕事に敬意を払うわ」

 車を走らせていると、後ろに明らかにおれたちを追っているとわかる車両がついてきている。こんな日本でも銃を使われる可能性もなくはない、なるべく近寄らせないように、新たにいくつかのルートの走行記憶をダウンロードしておく。

「まずはおれたちを狙う連中から逃げる方法を考えなきゃ」

「わたしにもできることはあるけど、それやるとお兄ちゃん怒るからな」

「考えてることは同じか」

 恐らく、おれたちを追う連中は記憶を手に入れた今から六本木の増田の家までの間にそれを奪おうとする。ここからの道、そしておれたちの情報。それらを扱う記憶を既にダウンロードしていると見て間違いない。

「怒らないって言うならやるよ」

「今回は特別だ。頼んだ」

 ツグミは嬉しそうに手を合わせると、素早くタブレットを操作し始める。おれはバックミラーを確認しながら記憶をなぞるように車を走らせた。

「はい、アップロード完了」

 おれは相手との距離を維持したままのスピードで増田の家までの道のりで記憶にない道に入り込んだ。そのまま、まるでランダムに移動するようにちぐはぐの道のりを走る。暫く走行し続けていると、後ろについてくる車のハンドリングが怪しくなり、激しく蛇行した結果壁に激突して停止した。

「このあたりの走行記憶をダウンロードしたっぽいね。あと増田の家までの道のり、わたしたちに関する情報、もろもろにもウィルス紛れ込ませたから、こいつら以外の連中もシーニュぶっ壊れて、言葉と事象が結びつかない馬鹿になってるはず。わたしたちを特定して追う限り、追っ手はわたしたちにたどり着けない」

「ナイスだ」


 増田聯の家に着いたときには日が落ち始めていた。六本木の空は狭くて、ビルと高架の影の色がした。周りに注意を払いながら、指定された住所に着くと、迎えの使用人が出てきて、家の中へ案内をしてくれた。全面ガラス張りでプライベートのなさそうな家に見えた。増田聯は不思議と首元の大きく開いた厚めの生地の黒いシャツにゆったりしたパンツを履いていて、それがデザイナーズのプレタポルテのものであることが窺われた。

「よく無事に届けてくれたわね」

「説明、少なすぎじゃないですか。死ぬかも知れなかったんですがね」

「あら、値段からそれ相応の危険があるのはわかったでしょ。さ、早速受け渡しをお願い。それが終わればわたしは目的達成、あなたたちももう狙われないわ」

「そうですね、でもその前にこの記憶を使って、あなたはどうしようと思ってるんですか」

「記憶屋は依頼主のプライベートには立ち入らないんじゃないのかしら」

「まあ、記憶そのものに関してはおれたちは何も知らない。ただ周辺情報からなんとなくわかるってだけだけど、自分の身を守るために必要だったと言えば許して貰えますか」

「わたしの母に関する情報を調べたわけね。まあそれは妥当でしょうね、これだけ値の張る依頼を受けたら気になるものね。良いわ、別に今更隠すようなものでもないし」

「それで、さっきの質問の答えは」

「人類にとって有益になるよう利用するつもりよ。人類はより良くなれる」

 ツグミはあからさまに嫌な顔をしたが、確かにこれはおれたちの求める回答ではないことはわかっていた。それでもこの仕事を完遂すると二人で決めたのだ。おれは頷いて手続きを始めた。

 安全面と十分な広さを考慮した結果、作業は彼女の書斎で行うことにした。部屋の入口の外には使用人が見張っている。おれとツグミは手早く機材を展開して、増田聯にヘッドセットを付ける。おれたちではなく、増田そのものを追跡する場合、ウィルスを食らっていない可能性がある。いつこの家が襲われるかわかったものじゃない。そういう状態でプログレスバーを眺めている時間は気が遠くなるほど長く感じた。やがて作業が完了すると、増田聯は小さく息を吐いてから何も言わなかった。その沈黙が如何にも鋭くて、おれは上着の前を手で閉じて押さえた。ツグミもタブレットの画面を見ずに増田聯に視線を合わせていた。すると俄に増田聯が小さく「くっくっ」と笑って、「ハッ」っと吐き捨てるように息をすると、その目には涙が溢れていた。

「こんなものを頼んだ覚えはないわ」

「言われた通り言ったわ『記憶を欲しがっている』と」

「あなたわかってたわね」

「配達人に記憶の内容は確認する権利はない、内容は知らない」

「わたしの母親は良い母親じゃなかったわ。わたしは家族からの桎梏しっこくを抜け出すために必死で勉強したわ。わたしは母を恨んですらいた。いくら努力をしても知力でも彼女に勝てなかったのも尚更彼女への怒りを募らせていったわ。それがああ、もう、こんな」

 増田聯はデスクに両肘を付くと、左手で両目を覆った。

「彼女はわたしが怖かっただけで愛してた。どう触っていいかわからずにあの歳まで生きて、最後はわたしのことを考えて死んでいったのね」

 事情が飲み込めてきた。浜本慶子が残したのは彼女に宛てた遺言だったのだ。

「なるほど、後払いの金はいいですよ」

「払うわけないでしょ。でも、そうね、こんなクソみたいな気分も、たまには悪くはないから、前金を返せとは言わないわ。さっさと私の前から消えて」

 おれとツグミは顔を合わせてこれで良かったのだとお互いに目を合わせた。記憶は思っていたものとは違っていたが、それはおれたちの仕事を尊いものにしてくれた。部屋を出ていこうとして、部屋の中を振り返ると、増田聯は先程の感情の波がまるで去ったように凛とした佇まいをしてまっすぐに立っていた。おれたちが扉の方へと向かって行くと増田聯は呟くように言う。

「最上の幸福とは現在へと繋がる過去の思い出の中にあります」

 ツグミがなにかに引っかかったかのように一瞬足を止めたので、おれは何か忘れ物かと思って顔を覗き込むと、目も合わせず「なんでもない」と言う。おれは肩をすくめて部屋を後にした。


 依頼は失敗だったというのに、仕事のあとのおれは不思議と悪い気分ではなかった。人の心を氷解させる家族の記憶。そういったものが、家族の絆のあり方を変えた。心の中が温かくなるように感じた。ツグミは屋敷から出てからずっとだんまりだ。増田聯の心が完全に救われたかどうか、確かにあの状況ではわからない。完全には母親を許したとは言い難かったもしれない、それでもあの涙は本物だったはずだとおれは思いたい。おれはツグミを宥めるように努めて明るく声をかける。

「報酬は半分になっちまったけど、タイ料理でも食いに行くか」

「うん、やった! 今日は気分を変えてチューチープラー食べたい!」

 車を走らせて、灰色の空の下を通り抜けていく。ツグミは普段のようにタブレットへは目を落とさずに、窓の外の流れていく風景を眺め、何事かを考えている様子だった。その先では繁華街が色とりどりに輝いて、街行く人はつかの間の他人の夢を見ているのだ。

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