神の悩み

 ムニエの治める世界は、この世界で言えば中世に当たるぐらいの文明が発達した世界であり、争いが絶えない世界らしい。

 神の仕事は世界が平和になるように導き、また、世界の動きを逐一記録することだそうだ。

 しかし、争いの多い世界では記録しなければならない出来事が多く、満足に記録をすることができない。

 

「記録を取るためには、私自身が下界に下りなければならないのですが、記録する出来事が多いあまり、最近はそんなことをしている時間がないんですよ」


「なるほど」


「そこで、亜瑠人あるとさんには神の目となって、世界の動きを観察してもらいたいのです」

 

 ムニエはそう言って話を締めくくった。

 女神さまの言いたいことはつまり、俺に世界を冒険しろということらしい。俺の目は耳を通して、天界にいるムニエは歴史の記録を作るらしい。

 それで下界に下りる手間を省こうという算段のようだ。

 

 俺からしても、エクセルとにらめっこするだけのブラック企業で働くよりは面白そうな仕事のだが、いくつか疑問が残る。

 

「どうして異世界の俺が、女神さまの……」


「ムニエでいいですよ」

 

 ムニエは気楽そうな調子で、薄緑の目を細めながら言った。

 

「どうして異世界の俺が、ムニエの神の目に選ばれるんだ?」


「理由は二つあります」


「それは?」


「一つ目は、私の治める世界の人間だと平等に世界を見ることができない可能性があるからです。二つ目は、あなたは人間の限界を超えた仕事をできるだけの精神と体力があるからです。神の目として長い間世界を見てもらうには、できるだけ精神も体力もある人間の方がいいですからね」


 俺はとりあえず頷いた。

 どんな手段を使ったのかは知らないが、どうやらムニエはブラック企業で俺のことを見ていたらしい。

 人間を超越した働きぶりは上司には評価されなかったが、異世界の女神さまには評価していただけたようだ。 

 ……なんだかなぁ。

 まあ、相手が誰であろうと、良い就職の機会なら遠慮なく利用させてもらう。

 俺は白い髪を指に巻き付けて遊んでいるムニエへと目を向けた。


「それで、俺は神の目として無職で放浪すればいいのか?」

 

「はい。できれば定職について一定の場所に留まらないほうがいいですね。とは言ったものの、基本的には好きに旅してもらっても構いません。もちろん、旅に苦労しないように、身体能力を強化させていただきますよ?」


 弾んだ調子の声で、ムニエの唇が弧を描いた。

 未知の大地を冒険するという文言はあまり信用できないが、もし本当の話ならまたとない機会だ。

 早朝に起きて深夜に帰る仕事を辞めることができるなら、ここではない世界で放浪の旅をするほうがずっとマシだろう。

 

 ムニエの言っていることが詐欺だとしても、それはそれでいいかもしれない。

 どうせこのまま生活を続けても、定年を待つ人生を送るだけなのだから。


「わかった。ムニエの提案に乗ることにする」


「一応言っておきますが、向こうの世界に行ったら二度と戻ってこれませんよ。大丈夫ですか?」


「どうせ親とも絶縁状態だし、友達もいない。心残りなんてないさ」


「わかりました。では」


 ムニエは白い髪を手で払って背中に回し、静かに目を瞑る。

 小さな口から呪文らしき言葉が唱えられると、俺の足元の床が白色に光り出した!

 複雑な曲線で構成された魔法陣は意思を持つ生き物のように線を伸ばしたり曲がったりして、さらに複雑な文様を築いていく。


 これは……なんだ⁉

 

 安アパートの一部屋が神秘的な光に覆われて、やがて爆発的に輝きを増す。


「それでは、いってらっしゃい!」

 

 最後に見えたのは、ムニエが笑顔で手を振る姿だった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 どれくらい眠っていたのだろう。

 瞼に差し込む光の痛みで、俺は目を覚ました。


「……ん」

 

 見えたのは青空だ。白い雲が流れていて、太陽のような明るい球がはるか上空に浮いている。

 どうやら日本でいうところの春ぐらいの気候の場所らしく、丁度良い気温だった。

 俺は重い瞼をこすって上半身を起こす。周囲は山で覆われていて、俺が転移させられたのは山の中にある丘らしい。地面には芝生が生えている。

 自分の身体を見下ろすと、ヨレヨレのスーツではなく麻っぽい素材の上着をズボンを履いていた。

  

「ムニエ、どこにいる?」


 俺が尋ねると、頭の中から何かが響いてきた。


『私はここですよ』

 

 しっかりと声がして、俺はまた丘をぐるりを見てみるが、やはり声が届く距離にムニエの姿はなかった。

 首をかしげていると、またムニエの声がする。


『私は亜瑠人あるとさんの頭の中に直接話しかけているので、近くに姿は見えませんよ』


「じゃあ、どこにいるんだよ」


『空のずっと上にある場所から見守っています。一応言っておくと、この声はあなたにしか聞こえていません』

 

「地上に降りてこないのか?」


『降りるのが大変だから、あなたを神の目にしたんじゃないですか。心配しなくても、私はいつもあなたを見守っています。あなたから呼びかけない限り私からはノータッチなので、プライバシーについては安心してくださいね』


 なるほど、そこはしっかりしている女神らしい。

 あまり深掘りしたくない家庭事情まで口を突っ込んできた会社の上司とはえらい違いだ。

 俺は脚についた芝生を払って立ち上がった。

 

「それで、ムニエ。おれは今からどうすればいいんだ?」


『どうもこうも、初めに言った通り自由に生きてください。約束通り、ちゃんと身体強化を施したので、ちょっとやそっとでは死にません』


「さすがに無茶ぶり過ぎるだろ」


『そうですねぇ……』

 

 ムニエはちょっと困ったような声を出した。

 空を見てみても、米粒ほどの大きさのムニエの身体も見えない。どうやら本当に遥か上空にいるらしい。

 

『もうすぐ男性が亜瑠人あるとさんの近くを通るので、その人についていってみてはいかがですか?』


「……は?」

 

 ムニエが言い終わるのと同時に、どこからともなく馬の蹄の音が聞こえてきた。

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社畜覚醒~仕事から逃げて異世界へ~ 天音鈴 @amanesuzu

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