堕落した女神

「おかえりなさい」

 

 白髪の女はリビングに寝転がって食パンを齧りながら、カバンを手に固まる俺を出迎えた。

 ……誰だ?

 俺に外国人の知り合いはいない。ましてこんな綺麗な顔の女性となれば、抑えきれない夜のためにも絶対に忘れない自信がある。

 月光を受けて輝く蜘蛛の巣を編んだような白い髪に、見るだけでもわかる滑らかな白い肌。朱の差した唇は色っぽく、瞳は生れたばかりの植物の葉っぱのような、薄い緑色をしていた。

 歴史の教科書に載っていた古代のギリシャ人が来ていたような、一枚布の服を身にまとっている。

 緩い服のせいで、健やかな大きさの胸や真っ白の太ももが見えてしまいそうだ。

 って、そうじゃない。


「ここは俺の家だ。おまえがどんな目的でここに来たのかは知らないが、今すぐ出て行くなら許してやる」


「いきなり喧嘩腰すぎませんか? そんな性格だと生きづらいでしょう?」


「余計なお世話だ。そんなことより、おまえは空き巣なんだから、すぐに警察に通報しないだけでもありがたいと思え」

 

 女性はしばらく食パンを齧りながら考えていた。

 やがてゆっくりと身を起こし、キッチンの戸棚からマーガリンをつかみ取った。

 堂に入った動作でどこからともなく取り出したバターへらパンの表面にマーガリンを塗っていく。たっぷり塗られたパンを一口頬張ると、とても幸せそうな表情をしていた。

 まるで俺のことなど気にも留めていないかのように。


「おい」


「おっと、これは失礼。パンが美味しくて、あなたのことを忘れていました」

 

 女性はちょっと申し訳なさそうにしてからパンを服の裏にしまい込んだ。

 ……マーガリンとか、肌に付かないのだろうか?

 いや、そんなことは俺が考えることじゃないな。

 俺がやるべきことは空き巣の処遇を決めることだ。

 俺は軽く咳払いをして低い声を出す。


「どうして俺の家に盗みに入った」


「盗みにはいったわけじゃないです。ここの主に相談したいことがあったんです」


「俺に?」


「そう。葛葉亜瑠人さんに。もしよかったら、ちょっとだけでも私の話を聞いてくれませんか?」


 女性はそう言って体の前で手を合わせた。わざとらしく片目を瞑って柔らかに笑い、物欲しそうな表情をして見せる。

 彼女はおろか、女友達もいない俺の心には、無垢なお願いは破壊力抜群だった。

 新手の詐欺かもしれないと思いながらも、ついつい誘惑に流されてしまう。


「俺への頼みってなんだ?」


「それはズバリ! 私、女神ムニエの神の目になるつもりはないかしら?」

 

 …。

 ……。

 ………。

 どうやら俺は疲れているらしい。

 目の前にいる女性は頭が生み出した幻影で、俺は過労のあまり幻覚症状を発症してしまったようだ。

 せっかく幻影ならば……と思ってムニエと名乗る女性の腕を揉んでみるが、しっかりとした感触がある。

 感触がある。


 ……⁉

 

 突然腕を揉まれた女神さまは眉を引き攣らせてちょっと怒っていた。

 こめかみをピクピクと痙攣させながら、無言で腕を鷲づかみにしている俺を睨みつける。

 

「私がこの世界では無名な女神であることは理解しているつもりでしたが……さすがにいきなり身体を揉まれる謂れはないと思うんです」


「こっ、これはちょっとした事故なんですよ!」


「事故なら早く離してください!」

 

 俺は慌てて手を離した。

 だが、揺れる二の腕の柔らかい感触や、人肌の温かさはしっかりと感覚に刻み込まれていた。

 ムニエと名乗った女神さまは腕を組み、かなりの警戒心で俺を睨みつけてくる。

 どうやらかなりご立腹のようだ。


「……今のことを誰かに漏らしたらどうなるでしょうね」


「ごめんなさいなんでもしますから言わないでください」


「ん? 今なんでも、って言いました?」


「言ってないです」


「そうですか」

 

 ムニエはちょっと残念そうな顔をした。

 ……どうしてだ?

 まあ、そんなことはどうでもいい。とにかくさっきの失態を誤魔化すことができたのならそれでいい。

 俺は話を逸らすために咳払いをした。

 

「それで、俺の頼みってなんですか」

「それは……」

「それは?」


 ムニエは満面の笑みで俺を指さす。


「異世界で無職の放浪者になってください!」



「……は?」

 

 呆然とする俺に、ムニエは何故か満足そうに頷く。もう何がなんだかわからない。

 よくわからない女神様のツッコミどころの多い依頼に、どこから質問すればいいのかすらわからなかった。

 よし、まず深呼吸をしよう。

 ……やっぱり意味がわからない。

 

「あの、異世界で無職の放浪者になるってどういうことですか?」


「言葉のままの意味ですが」


「あ、いえ。そういいうことではなく、何を言っているのかさっぱりわからないんですよ」


「なるほど」

 

 ムニエは神妙そうな面持ちで頷いた。

 安アパートの薄い壁の向こうから夫婦の怒鳴り声が響いてきて、俺の今置かれている状況が現実なのだと再認識することができた。

 俺の前で、ムニエは軽く手を叩く。

 

「それでは、まずは私の世界で起きていることからお話ししましょうか」

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