第二章 転機

 月日は流れ、少年は小学六年生になった。

三年生のときの出来事をきっかけに、自分の「痛み」が他人の心の痛みなのだと知った少年はその能力を活かして、人の悩みを解決していった。具体的には、痛みの具合で誰が痛みを抱えているかを特定、痛みの種類でどんな悩みかを断定という流れだった。最初の頃こそ失敗もしたが、小学六年生になるころには、彼の周りは彼に救われ、彼を慕う者で囲われていた。一度は心を閉ざした彼が、自分の力と向き合い、他人のためにその力を使うようになって、人気者になって、そんな順風満帆だった彼の人生に、小学六年生のある日、転機が訪れる。



 彼が小学六年生の時、彼の祖父は倒れて病院へと運ばれた。元々癌を患っていて、一度は切除手術に成功したが、別の細胞に転移していたことが今回の入院で判明した。しかも、進行速度が速く、すぐにでも手術しないと手遅れになると医師に釘を刺されるほど、危険な状態だった。だが、彼の家族は手術に乗り切ることが出来ない理由があった。それは、彼の祖父の体力に問題があったからだ。ただでさえ、高齢で体力も落ちているなか、連続での手術に、祖父の身体が耐えられる保証が無かったのだ。しかし、悠長に考えている時間はもはや残されてはいなかった。そんな彼らに医師から言い与えられた猶予はたったの二日。この二日でどうするのかを決めなくてはいけなかったのだ。もちろん少年にとって、この二日間は地獄の日々となった。手術しないと祖父は間違いなく死ぬ。けれど、手術をしても助かる保証はない、それどころか、余計な苦しみに苛まれ、死にゆく可能性まである。そんな二択は、酷く人の心に迷いを生み出した。当然、その迷いは痛みとなって一斉に少年に襲い掛かった。最も身近で、今までで一番、重みのある問題故、少年にかかる痛みも今まで以上の痛みだった。この二日間はまともに学校にも通えないほどだった。

 最後まで答えを出すことができなかった少年の家族は、当人である祖父の答えを聞くために、病院へ訪れた。少年は病院という場所が大嫌いであった。様々な思いが行き交い、別れがすぐそばにあるこの場所は、無条件に痛みを被る場所だったからだ。それでも、祖父の最後かもしれない時に立ち会うために、少年は祖父の病室を訪れた。そこには、弱々しくベッドに横たわる祖父の姿があった。少年の心は酷く揺さぶられた。今までは生き残って欲しいと手術を推していた少年も、祖父の現状を見て、その信念は捻じ曲げられた。

 「祖父と家族一人ひとりで、話をさせてくれませんか」

少年の父が医者に懇願した。医者は少しばかりの時間と、その後にどうするか決断することを条件に面会を許可した。少年の前に、祖母、父親、母親と、病室に一人ひとり吸い込まれていく。何を思い、何を話し、何と別れたのか、少年には分からなかった。けれど、一人入っていくたびに、胸に突き刺さるその痛みで、家族がどんな気持ちなのかだけは感じることができた。今までだったらこの痛みに耐えられず、うずくまるしかなかったのに、この時ばかりは気丈に振舞うことができた。それは、「今だけは、弱さを見せてはいけない」という何処から沸いたかもわからない感情のおかげだった。

 堪え切れず涙をこぼしながら病室を後にした母を見送って、遂に少年の番が来た。重い重い扉を開くと、先ほどまで病に伏せていた祖父が、穏やかな表情でこちらを見ていた。

 「すまんな、こんな場所に来てもらって。さぞ痛かったろうに」

祖父の一言目は、少年を慮るような優しい声色で少年の力を心配する言葉だった。その言葉を聞いた途端、プツンと張りつめていた糸が切れたように涙が零れた。誰も信じてくれなかった少年の能力を、ずっと信じていてくれたのが彼の祖父だった。

 「俺さ、この能力で皆を悩みとか苦しみから救いたいんだ。‥‥でも、失敗ばっかだし、痛くて痛くて‥‥‥挫けそうになるんだ――」

自分の方が死の間際だというのに、祖父の口からは少年を労る言葉で溢れていたそのせいで、少年は思わず弱音を零してしまう。そんな、止まらぬ涙でくしゃくしゃになる少年の頬を、ビシャビシャになりながら優しく撫でる。

 「大丈夫。お前は人の痛みが分かる優しい子だ。絶対にできる。――儂は手術受けようと思う。最後までこの病気と戦うよ。だから――――」

 


 あれから、どれくらいの時がたっただろうか。手術中の文字が赤くともされて、いつまでも消えてくれない。心配、不安、悲しみ。それらが痛みとなって少年を包み、ロクに寝ることすらできていなかった。「ブツン」と、赤い手術中の光が消えた音がした。医者の一言に皆が神経を研ぎ澄ましていた。

 「手術は成功しました」

緊張で強張っていた身体から力が抜けていく。良かった、と漏れそうになる声は、次に放たれる医者の言葉によって、無残にも引き裂かれた。

 「しかし、安心はできません。これから回復するかどうかは、お爺さんの体力次第です」

まるで回し車で走ることをやめた時の様に、心をぐちゃぐちゃにかき回された気分にさせられた。また、気の抜けない時間が始まる。そう誰もの心に暗幕が下ろされた、そんな矢先だった。

 「バイタル異常!心肺機能著しく低下!」

待合室にそんな声が轟いた。周りが焦り、動揺と、僅かばかり芽生えた希望が枯れていく中、少年は一人悟っていた。「ああ、祖父はもう助からないんだ」と。

 この世で悩みの無い人間などいない。そしてそれは、痛みという形で少年に届く。けれど、死んだ人間には痛みを抱く心が無い。だから、少年には分かった。祖父は亡くなったのだと。少年の中から一つの激痛がプツリと途絶えた。その痛みが、最後まで祖父は戦っていたんだということを教えてくれていた。

 


 「ご臨終です」と担当の医師から祖父の死が言い渡された。皆、涙をこぼしながらその言葉を聞いていたが、先にそのことを知っていた少年は別のことに気を割かれていた。さっきまで、あれほど少年の身体を蝕んでいた「痛み」が、今では清々しいほどに無くなっていたのだ。きっと、祖父に関する様々な思いが「祖父の死」をもって解放されたからだろう。この経験は、少年の心に一つの仮定を生むことになる。それは、「死は終わりであると同時に、解放でもあるんじゃないのか」という仮定だった。今までは、生きていれば痛みがあるのは当たり前だと思っていた。しかし、生きているから、痛みなんかが生まれてしまうんじゃないか、そんな考えが生まれる。もちろんそんな馬鹿げた話を真に受けるはずはない。けれど、痛みからの解放という、少年にしか分からない、ある種の快感が、この馬鹿馬鹿しい仮定の根を絶やしてはくれなかった。

 


そんな、心の隅に芽生えた雑草を、少年は乱雑に毟り取った――。


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心障の果実 をぱりお @wopalio

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