∂ 地獄-jigoku-

柊 佳祐(紡 tsumugi)

▼叙〜終日:5−0「芋虫と嫌悪」


 白露


 PM5:32


 ……ミンミンジワジワワーンワーンミンミンジワジワワーンワーンミンミンジワジワワーンワーン……


 盛りが付いた煩わしい音だった。頭にまとわりついて離れない。


「きみは踏み潰した芋虫に罪悪感を覚えるの?」


 ……ああ、いつまで続くのだろう……


「……」


 優は、もううんざりもしなかった。


「あるのは嫌悪感でしょ?」「命は尊いんじゃなかったの?」「踏み潰したことにも気づかない……そんなことすらあるんじゃないの?」


 祥一は、右から左、左から右、上から下、斜め左から斜め右と、背後のあらゆる方向から問い掛けてくる。


 何度か振り向いてみもしたが、姿はなかった。それでもその声は至近距離から聞こえる。


 ……ああ、いつまで続くのだろう……


「……」

 優は無視をして、目の前のキャンバスに集中しようとした。


「ははは! そんなことを言ってたら生きていけない?」 持っていた筆を油絵の具にベシャっと、突っ込んだ。油と絵の具が少し飛沫になった。「ははは! そしてこう言われるとなんだか罪悪感もある気がしてくる?」


 ……ミンミンジワジワワーンワーンミンミンジワジワワーンワーンミンミンジワジワワーンワーン……


「……」

 筆は不思議なことに狂ったように速度で動き、かつ狂気的な精度で描いていく。


 蝉の声も、祥一のこの無駄な問いかけも、全ては優がこの油絵を完成させるための補助機能である気さえする。


「そうだね! 命には優劣があって、大小もあって、定義も曖昧で、尊さも卑しさも本当はないのかも」


「……」


「なら、そんな薄っぺらい小理屈で表層を塗りたくってないでさ」


「……」


「また每日ヤッてりゃいいじゃない、ねえ?」


「うん、私もそれがいいと思う」


 不意に紗加が現れて、背後から優を抱きしめてくる。


 「……」


 ……ああ、あつい、きもちわるい……


 汗の湿気、熱気、それでも陰茎は反応する。


 優は、紗加とセックスを始めた。拒むより従った方が楽だから


 ……ああ、いつまで続くのだろう……


 行為が終われば、ドロドロの意識のまま眠るだけ、そんなことはわかってる。


「ああ……っ」と、紗加が甲高い声を上げる。


 それが優の思考をまた奪う。


 ……ああ、殺してしまいたい……


(……おまえがいなければ……おまえさえいなければ……)


 優の憎悪が高まる程に、快楽も絶頂へと勢いよく昇っていく。


「なぜ?」 祥一が背後で眼を見開いた気がした。


(なぜ? なにが?)


 しかし、そう、その問いを優は理解してしまった。


 部屋の隅に立てかけられた全身鏡に 自分と紗加の姿が見えたから


(……これが人間のすることなんだろうか?)


 ――祥一、お前はこれを俺になぜ? って聞くのか。


 優は可笑しくなった。


 そう、おまえは生きていた時から よく俺の思考を先回りして問うてきた。


 (……おまえこそ、そこまでわかっていて 俺が何を思ってるのか わからないのか?)


 もうなにが本当か、わからないんだ。


 優は、何かに縋り付きたかった。


「なるほどね、つまり そのなんかよくわからないものに従って、なんだかよくわからないものを果たして、なんだかよくわからないままに奪ったり、踏み躙ったり、見捨てたり、間接的には殺したりもするってことか」


 ……そうなのか……まあそうだ。生きるってそういうことだ。


「……自分が直接 責めを負うわけじゃないし、罪悪感も皆で分かち合えば、うやむやにできるし、だから皆に許容されていさえすれば、一生楽しくやっていけそうだもんね」


 ――そうすることは悪いことなんだろうか?


 優はもう一度 自分と紗加の姿……そしてその行為を見た。


「……」


 吐き気がした。


 ……こんなことを、これからもずっとやっていくのか?


「優、好き」 紗加が優の顔を両手で包み込んだ。頬がひんやりとした。


「……うん、俺も好きだよ」


 ――どうして冷たいんだ?


 その瞬間、果てた。


 その六畳一間の部屋は不潔で雑然としていた。 使用済みのティッシュ、プラスチックの容器、食べこぼし、テキスト、下着や服が乱雑に散らばり、その上 油絵の具が壁のあちこちに飛び散り、固まり、描きかけのキャンバス、テレピン、ペロルなど 発揮性の油が入った瓶が転がっている。


 優は、うなだれた。


 ……こんなことを、これからもずっとやっていくのか……?


 もう一度、自問した。


 ――俺が人間で、もしこれからも生きていくのなら……


 優は心底死んだ方がマシな気がした。


「そう、そして僕はもう死んでいる」


 祥一が、耳元で囁いてくる。


 ――羨ましいな。(おまえの気持ちも 今なら少し分かる気がするよ)


 ここは『地獄』。


 確かに、こいつは 初めにそう言った。



 ……ミンミンジワジワワーンワーンミンミンジワジワワーンワーンミンミンジワジワワーンワーン……




 ▼亊始:1−1「たゆたいのうた、蝉の声」



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