後編 旅の終わり、そして始まり:魔法使いの園

 暗く、クラゲが空を舞う湿原を歩き続け、靴を塗らす水が無くなる頃には、地面は乱張りの石畳が整列された赤煉瓦の石畳に変わっていた。赤煉瓦は夏の強い日差しに照らされた様にほのかな熱を発して、二人の靴をすぐさま乾かす。

 赤煉瓦の道は長く、周りの景色がまるで回転木馬に乗っているようにころころと変わる。深い夜、夕暮れ、青空、朝焼け、そうして何度か景色が変わった後、空がクリーム色の空に変わり、赤煉瓦の道の向こうに、黒い小屋が現れた。

 道のわきにあるその小屋は黒く光沢のある重厚感のある外装でリュカにピアノを思い起こさせた。

 正面にある窓口には誰も居らず、そこから覗ける小屋の中は深い影に覆われていて真っ黒な闇しか見えない。パトは不思議そうに窓口に近づいた。

「入場券を拝見」

 すると、窓口の闇の中から低く響く声がそう言った。驚いて飛び上がる二人の前に、窓口の深い影の奥から真っ黒な影そのものの様な手が音もなく伸びてくる。

 驚いて飛び上がったまま固まる二人に、闇の中の声はもう一度言う。

「入場券を拝見」

「あ、チケット…」

 リュカは慌ててポケットの中から影の手に茜色のチケットを差し出す。影の手に受け取られたチケットは暗闇の中に浮いている様だった。

「入場券を確認。良い一日を」

 暗闇の中に浮いた二枚の入場券に銀色に輝く鋏がガチンと大きな音を立てて切れ込みを入れる。

 切れ込みが入った衝撃で二人の頭上に飛び上がったチケットから金色のインクが浮かび上がり、鱗粉のように二人に降りかかる。それはカーテンの様に二人を包んで目を覆う。

 そして、二人が目を開けた時には今まで見えなかったものが見えていた。

 狭い孤児院から、恐ろしい蛍灯の森を抜け、山あり谷ありの旅を経て、遂に二人は辿り着く。

「───着いた!」

「魔法使いのの園!」

 金色のカーテンを抜けて歓迎の文字の踊るアーチの向こう、デタラメに積み上げられたプレゼント箱のような建造物、噴水の水は重力を無視して縦横無尽に園の中を流れ、その水流には沢山の小舟が駆け抜ける。

 クリーム色の空を舞う七色の花吹雪と紫色の雲の隙間を縫うように空に敷かれた赤い石畳には風船でできた動物たちが跳ねまわる。

 その先の広場ではとんがり帽子を被った魔女を模して剪定された常緑樹が客人を招く。

「ようこそ、魔法使いの園へ!」

「ぼうや、流れ星の箒はいかが! 魔法使いのように飛んでいけるよ!」

「狼男のマスク! 被れば本物みたいに吠えたり耳を動かせる!」

「もうすぐ噴水レースが開始! どの小舟が一番早くこの園を一周できるかな!?」

「喉で渦巻く渦潮ジュース! 一度は体験してみなきゃ人生損だよ!」

 残光を残しながら頭上を飛び交う箒、宙を行く水流と小舟、広場には客人を招く喧騒とその店先に並ぶ見たことのない食べ物や道具が並んでいた。空を行く石畳から首を出せば、見たこともない動物の形をしたトピアリーが生き生きと動き回る庭園を見下ろせる。

 ここはかつて魔法使いたちが自分たちのために作った歓楽の庭、そして客人を招くための遊楽の園。魔法使いたちの自慢の庭園。魔法使いの園。

「すごいすごいすごい!」

 両腕をばたつかせて目を輝かせながら歓声を上げるパトの横で、リュカも同じ気持ちをそのまま表に出せずに「すごい…」と言葉を零してそのまま口をぽかんと開けていることしかできなかった。

 煌びやかな魔法使いの庭園と見たこともない魔法が二人を高揚させる。

 リュカは一つの屋台の前に立つと、その周りを紙吹雪のように舞う薄紅色の蕾がポップコーンのようにポンポン音を立てて花が開いた。

「ハネハネポップコーン一つください!」

「あいよ!」

 期間限定桜フレーバーと看板の掲げられたポップコーン屋台の店主は、派手な色の紙カップに跳ね続けるポップコーンを溢れんばかりに注いでリュカに手渡した。リュカはそのままカップをパトの前に差し出す。

「わあ! いいの? いいの?」

「早く食べなきゃ食べきる前にポップコーンがカップから跳ねて逃げるぞ!」

 今もカップから飛び跳ね続けて逃げ出そうとするポップコーンを二人は同時に口へと運ぶ。

 甘じょっぱい味と香しい桜の香り、ふわふわのポップコーンが口の中を跳ねまわる食感。香りだけを残して口の中ですぐに溶ける。

「おいしい!」

「なにこれ!」

 旅の疲れも吹き飛ぶ美味しさに、好奇心で高揚した気持ちに押されるがまま二人は赤い石畳を駆ける。

 四季折々のトピアリーが一堂に会し、シャボン玉の落下傘はゆっくりと空を降り、塔のように聳える噴水とそこから宙を流れる水流。その水上を駆け抜ける小舟のレースのチケットが空を舞う。

「次、次あっちね! あの塔の天辺! リュカ、早く!」

 パトは、右手に蜘蛛糸の綿菓子、左手に渦潮のジュース、腰にクラゲの風船を結んで、更にレースで当てたゴーグルを首からぶら下げながらリュカの前を跳ね回る。対してリュカは息も絶え絶えに膝に手をついて立ち止まっていた。

「ちょっと待ってくれ、ちょっと休憩…」

 未知が溢れた魔法使いの園の風景に目が回るようだった。高揚に押されるまま走っていた足がそろそろ休もうと棒になる。ついでにさっき飲んだ渦潮ジュースの喉でぐるぐる回る感覚が合わなくて吐いたのも息切れの原因だ。

 そんな疲労困憊のリュカの耳にファンファーレがの音が届いた。

 何事かと、音の発生源の頭上を二人は見上げる。そこには、リュカ達の体の大きさ程もある百合の花のラッパがくるくる回りながらファンファーレを響かせ、どこからともなく声が聞こえだす。

『まもなく、夜の帳が落ちます。どうか、皆々様、空のパーティをお楽しみくださいますよう──』

 そう案内する声が静まると共にクリーム色の空が、頭上に大きなシーツを被せられたかのように藍色の空へと変わる。

 これから何かが起こるらしい。

 パトは目を星の様に輝かせながらリュカを振り返る。

「リュカ、空のパーティだって!!」

 パトは何が起こるのかと辺りを見回すと、昇り階段の向こうに沢山の人影が進んでいくのが見えた。

「アッチ! アッチ行こう!」

 パトはその人影を指さすとすぐさま駆け出してしまった。

「ま、待てパト!」

 瞬時に走り出すパトに慌ててリュカもついて行くが、息も絶え絶えなリュカにはとても追いつけない速度でパトは階段を駆け上がり人ごみに飛び込んでしまう。

「どこだパト! パト!」

 人ごみにもみくちゃにされる中で、リュカは必死に叫ぶ。人々の頭上にパトが腰につけていたクラゲの風船が飛んでいく。10歳の小さな子供の背丈では、大人の中に埋もれてあの真っ白な髪を見つけることも、逆にこちらの姿を見つけてもらうことも難しい。

 人ごみに圧し潰されそうで焦るリュカの腕を急に何か強い力が引っ張った。

「うわぁ!?」

 人ごみを掻き分けて、強靭なフックのようなもので人ごみの中から引っ張り出される。強靭なフックのようなものは何かと思えばそれは大人の腕。リュカは人ごみの中から助け出されたのだと気づく。

「あ、ありがとうございま──」

 礼を言いかけて見上げた顔に言葉が詰まった。

「リュカ・ダグラスくんだね」

 見知った帽子の男がリュカの腕を掴んでいた。

「どうしてここに…」

 人ごみの中から連れ出され、困惑した顔で思わず言葉を漏らすリュカに男は安堵したような顔をした後、強い力でリュカの腕を掴んでいることに気づいて弾かれたように掴んでいたその腕を離す。

「すみません。慌ててしまって、腕は大丈夫ですか?」

 男は帽子をとり屈み込むと、気遣わしげにリュカのことを上から下まで目をやった。

「包帯もボロボロだ。一度医者に怪我の様子も見て貰った方がいい。一緒に帰りましょう、リュカさん」

 そう言って手を差し出す男が理解できず、リュカは放された腕を庇うように抱えてじりじりと後ずさる。

 そんなリュカに男は眉を下げて問う。

「リュカさん。どうしていなくなってしまったんですか?」

 男の真っすぐな視線にリュカの目は泳ぐ。男は続ける。

「フューシャさんも心配していましたよ」

「フューシャが? ……どうして」

 リュカは男の言葉に更に困惑した。その様子に男は至極当然だとばかりに言った。

「当然でしょう。だって、貴方は彼女の兄なのだから」

 その言葉に、目の前が真っ暗になる。

 周囲の全てが遠くなり、あの日の熱が追ってくるようだった。



 それは年に一度のカーニバルの日に起こった。

 このカーニバルの目玉は盛大な花火と沢山の灯籠が街を彩る美しい街なみ、この景色を一目見るために遠方から沢山の観光客が来る。

 さらに、この年のカーニバルの魅力はそれだけじゃない。この町出身の世界的に有名な歌手が舞台で夫と共に特別コンサートを開く。それがこの年の一番の目玉だったのだ。

 有名な歌手とその夫が舞台に立つこの年の祭りは、その息子である俺にとっても特別なものだった。

 俺は舞台袖から二人のコンサートを見ることもできたが、観客側から二人のことを見たかった。

 それは故郷に錦を飾る二人を正面から目に焼き付けるためでもあり、いつか両親と共にあの舞台で演奏するという密やかな夢をよりはっきりと直視するためでもあった。

 この日のために貯めた財布を手に、玄関の扉に手をかける。

「リュカ、待って」

 数ヶ月ぶりに家に帰ってきていた母が家の奥から顔をのぞかせる。

「今日、シナバーくんと出かけるって言ってたじゃない」

 一人でカーニバルへ出かけようとする息子を見る母の目から少しばつが悪くて顔を背ける。

「……喧嘩した」

 大したことではない。今では理由も思い出せない程の些細な喧嘩だった。話はそれで終わりと玄関扉のノブを捻る息子に母は待ったをかける。

「これ、持って行って行きなさい。前に公演をした時頂いたの。シナバーくんも誘っていらっしゃい」

 差し出された茜色のチケットを見やり、俺はあからさまにむくれてボソボソと言葉を溢した。

「そんなもの無くても仲直りくらいできるよ……友達なんだから」

「あら」

 最後にぼそりといった言葉にニヤニヤと笑う母にいたたまれなくなって背を向けて玄関のドアノブを今度こそ捻る。

「じゃあ仲直りをしたら誘ってらっしゃい。魔法使いの園っていう、素敵な場所なのよ」

 母はそう言って、ノブを握った方とは逆の手にチケットを握らせる。

「…わかった。いってきます」

「いってらっしゃい」

 母に持たされた茜色のチケットを胸に、浮足立った足は常よりも力強く地を蹴って視界の端に景色を置いて行った。

 心臓が強く跳ねあがり続けているのは何も自分の持つ全力で走り続けているからだけではなかった。

 大通りには観光客で溢れ、町中の人が一年に一度の祭りを盛り上げるために出払うこの日、俺は日暮れまでに祭りの準備を果たそうと忙しげに動き回る大人達や、賑わう観光客を掻き分けて進む。

 あいつがどこにいるかはわかっている。

 なぜなら、俺のこの密やかな夢はその友人にしか話していないからだ。

「あっ…」

 ばったりと、シナバーと出くわした。場所は舞台の前。俺が思った通りの場所だった。

 目を合わせて二人揃って気まずく黙り込む。先に口火を切ったのはシナバーだった。

「お前、来たのかよ」

「当たり前だろ。母さんと父さんのコンサートなんだから」

「……」

 周囲は楽し気な喧騒の中なのに、二人の周りだけ痛いほどの沈黙が続く。

 俺は意を決して口を開いた。

「……あのさ、この間は俺が」

 悪かったよ。と言葉を言い切る前にシナバーはそれを遮って、背後を指差した。

「それより、早く祭りを見て回ろうぜ」

 シナバーは自分のポケットに手を突っ込んだ。

「……これ、母ちゃんがくれた屋台の引換券」

 口をとがらせて、シナバーは引換券を俺の前に差し出す。

 俺は思わずそれを見て噴き出し、自分も母に持たされた茜色のチケットをシナバーの眼前に差し出した。シナバーもそれを見てにやっと笑った。

「チケット被りとかあるかよ!」

「あははは!」

「どっちの母ちゃんもモノ渡しとけば仲直りできるとでも思ってんのかね!」

「そんなのなくてもできるのにな」

「ああ! あ、コンサート始まる前に準備中の櫓見に行こうぜ! ほら、ポスターも貼ってある」

「おじさんとおばさんは?」

「祭りの手伝いで先に行ってる。櫓んとこにも行ってるかも」

 祭りに向かおうと石畳の細い小道を走り抜けて、街の中心へ至る。沢山の灯篭がまだ明るい町を彩る準備を始め、昨日までは何もなかった筈の広場に今では所狭しと屋台が並んでいる。

「お前は今日の舞台で一緒に演奏しないのか?」

「オレのピアノの腕じゃまだまだ母さん達と演奏なんてできないよ。でも、いつかな」

 広場の中心には巨大な提灯と高い櫓が聳え立つ。張られたポスターには見知った顔が描かれている。

 少しの照れ臭さと誇らしさの混じった眼差しでポスターを眺める横で、シナバーはまだ準備中の屋台で貰った揚げ芋を食べ始めていた。

 冷たい風の吹き始めた秋の夕暮れは早い。花火の試し打ちの音がまばらに聞こえる中、二人で祭りの準備が進む街中を走り回り続けていれば、日はどんどん傾いていった。

 青空が朱色に変わった頃、人々は空を見上げて感嘆の声を上げた。

 それはまだ赤が強く残る空を駆ける、流星のような花火を見たからだった。

「あれ? 花火が始まるのはもっと後の時間じゃ…」

 刹那、激しい炸裂音。続く爆発音と悲鳴が響き渡った。

 花火の暴発だった。

 四方八方、流れ星のように沢山の火が走る。藍色に染まる筈だった空が夕暮れをより赤く、染め上げて行く。

 いっそ美しささえ感じられるそれは、周囲から上がる爆音と悲鳴によって恐ろしいものだと認識を塗り替えられる。

 ふいに、袖を引かれた。

 茫然と空を見上げていた視線を袖を引いた相手の方へ向けると、大きく目を見開き、蝋のように白くなった顔で呟いた。

「家に、妹が…」

 花火が向かった方向を見た二人はきっと同じ顔をしていただろう。

 俺達は弾かれたように、何かに追い立てられるように駆けだした。大通りに向かう大人達の群れを小さな体で逆行して人気のない小道を走り抜ける。

 肺を刺す冷たい空気に息を切らせても、常よりも早く自分の足は地面を蹴り上げた。それは、先ほどまでの祭りの前の街中を走る高揚した気持ちではなく、頬を撫でる煙や、衣服を焦がす火花が巻き起こす、言葉にしたくはない恐怖が自分の足を何よりも早く走らせようとしていたのだ。

 曲がりくねった小道を走り抜け、視界が開ける。

 轟音を上げて燃え盛る家屋。

 絶望的な光景に足が止まる俺とは反対に、シナバーは躊躇いもなく家屋の中に飛び込んだ。慌てて俺はそれを追う。家屋の中は燃え盛る炎があり、炎に触れてもいないのに、家屋の中は足元から焼かれているような熱気に溢れていた。

 そんな中で鳴り響く泣き声に、二人は階段を駆け上がり部屋の扉を蹴り壊す勢いで扉を開いた。

 部屋の隅に座り込んでぐずぐずと泣く子ども。フューシャを見て二人揃って安心の一息をつく。こちらの姿を見るとフューシャは泣き塗れた顔のまま兄に抱き着いた。

「おにいちゃあああん」

「もう大丈夫だからな」

 濁音に塗れた声に、安心させようと抱きしめて言葉を繰り返す。だが、炎はそんな俺達を待ってはくれない。

 家のどこかが焼き崩れたらしく、家は揺れ轟音を響かせる。

「はやく行こう、シナバー!」

 三人で階下の玄関に向かう。まだ、階段を降りるのも覚束ない妹を抱き上げて、煙が渦巻く階段を降りる。

 燃え盛る家から飛び出して、二人は共に駆けだす。

 と、同時に背後で爆発が起きた。

 何もわからなかった。

 後ろから何かに吹き飛ばされてぐるぐると視界は回転し、自分の目に何が写っているのかも分からないまま景色が目まぐるしく切り替わり、体中を強かに打ち付けてから、やっと自分が爆風に吹き飛ばされて石畳を転がったのだと気が付いた。

 まだ何が起こったかわかりきらずに周囲を見渡せば、家を形作っていた木材が吹き飛び、転がり出して燃え盛っていた。

 家の中で何かが引火して爆発を起こしたのか?

 そう自分の心の奥でどこか冷静に振舞おうとする自分が推測を並べる中で、自分より家から離れた位置に倒れたフューシャが見えて、慌てて名前を呼んで駆け寄った。小さな体は俺よりも爆風で遠くに飛ばされたのだ。

 更にシナバーの姿がないことに気付き、あたりを見回して叫ぶ。

「シナバー! どこだ。 どこにいる!?」

 また何かが破裂するような音を立てて家屋だったものが炎を上げてめきめき音を立てて崩れていく。

 その中に、いた。燃え盛り崩れた家の柱に今、押し潰された友が。

 訳もわからず声をあげて必死に親友に伸し掛かる木材をどけようとした。他に何も考えていなかった。木材に宿った火が両腕を撫でてていることも気づいていなかった。

 倒れ伏したままのフューシャにも意識が向かなかった。人を呼べばいいのに、大人だったらなんとかできるかもしれないのに。子どもなんかじゃ、こんな大きな木材をどけることなんてできる筈がなかった。初めから大人と一緒に家に向かえば良かったのに、そんな判断もできずに間違いを重ねていた。

 煙の臭いに自分の血肉の焦げる臭いが混じり出す。シャツの袖が黒く焦げ落ち、皮膚が焙られ溶けていく。シナバーの朱色の髪が別の赤に巻き込まれ黒く染まっていく。

「シナバー…!!」

 幾度も幾度も名前を呼んだ。そんな俺の思いなど無視して、家だったものがまた爆ぜた。

 暗転。

 爆風にまた吹き飛ばされ頭を強かにぶつけて、やっと体を起こした時、視界に入ったのは全てを巻き込んで燃え盛る街の姿だった。

 家だったものは黒く焼け落ちて、原型を無くし、街の景色は全てが燃えていた。夜空になる筈だったものは赤く、炎の流れ星が流れ続け、親友シナバーだったものは黒く焼け落ちた何か達に混じって、もうどれだかわからなかった。

 轟音に混じったどこかの誰かの泣き声を聴きながら、俺はボロボロと崩れていく街並みに何もできずに、シナバーの妹、フューシャと共に座り込んでいた。


 気づけば、石畳の上に座り込んでいた筈が、焦げ臭い沢山の子供たちと共に馬車に揺られていた。傍にはフューシャが居て、シナバーはいない。

 後から聞いた話では、両親は舞台で崩れる櫓に巻き込まれて死んだらしい。

 シナバーとフューシャの両親は、元々母親がフューシャと共に留守番をしていたらしいが、櫓の設置を行う夫への差し入れにフューシャが寝ている合間に出かけて、そのまま櫓の炎に逃げ場を無くし二人とも巻き込まれた。

 俺の両親も、フューシャの両親も死んだ。シナバーも。

 俺達は見知らぬ場所で暮らすことになった。そこは身寄りのない子供が住む孤児院だった。

 俺はどこか実感もわかず泣くこともできずにいたが、フューシャは父と母と兄を恋しがってよく泣いた。その度に俺はフューシャを慰めた。

「リュカおにいちゃん……おかあさんたちは?」

「今は会えないところにいるんだ。会えるまで待っていよう」

そんな慰めになるのかよくわからないような問答を何度もするうちに、いつの間にか、フューシャは俺をこう呼ぶようになった。

「おにいちゃん!」



 リュカの目の前が真っ暗になると同時に目の前の男が地面に尻から座り込んだ。

「えっ」

「リュカ!」

 力強い声の主がギョッとするリュカの手をとる。パトが力任せに目の前の男を突き飛ばしたのだ。そのままパトは男に背を向ける。

「行こう!!」

 常にないパトの強い声に引かれて二人は走り出した。


 孤児院に来てから、著名な母の子であるリュカを引き取りたいという人間は沢山いた。リュカにはよくわからないがあわよくば遺産、もしくは名声を得たかったのかもしれない。逆にフューシャには誰も迎えが来なかった。

 リュカがいなくなれば、家族のいないフューシャはあの孤児院に独りきりになる。

 そんなことはできなかった。夜泣きの声に満ちる暗くて高い天井。あの場所に小さなフューシャを置いては行けなかった。

 だから、俺は大人達を謀った。

 俺を引き取りたいと言う人間たちにフューシャも一緒なら。という条件をつけた。兄妹であるという嘘をついて。

 だが、子供を二人引き取ることに多くの人間は頷かなかった。これは当然だった。幼いリュカにだって子供を二人育てることがどれだけ難しいことか予想がつく。それが養子ならなおさらだろう。時折、リュカの出した条件に軽々しく頷く人間もいたが、とても信頼には値しない人間ばかりだった。

 そんな中であの男が現れた。

 リュカが条件を伝えると男は妻に確認を取ると一度引き返した後、もう一度リュカの前に現れて二人とも引き取ると答えた。

 男の顔は母に連れられていったコンサートで見覚えがあったし、僅かに話した程度だったが幼いリュカに対しても誠実に接するその態度にこの男なら信頼できるかもしれないとリュカに思わせた。

 だから、リュカはフューシャと男への手紙だけを残してパトと共に旅に出た。

「リュカ、大丈夫!?」

 フューシャに家族を与えてやりたかった。俺は絶対に傍にはいられないから。いてはならないから。

 家族ができればもう俺は必要なくなる。もう、フューシャは泣かないですむ筈だった。

 どうしてフューシャが俺を心配するのか理解できなかった。

 俺はフューシャの兄ではない。家族じゃない。なのに、どうして心配するのか。

 頭が混乱する。あの轟音の中の泣き声が耳の中に反響するようだった。やめて欲しい。その泣き声が苦手なんだ。

 自分の両腕が気持ち悪い。肌のないでろでろの腕がまた、あの炎に焙られているみたいに、熱い、溶けている。気持ちが悪い。熱い。

 両腕がじくじくと痛みだした。それが本当の痛みなのか、過去の記憶が再現されているのかわからない。

 あの日が追いかけて来ている様だった。

 パトの足は風のように速く、パトは男に会ってからどこか様子のおかしいリュカを走りながら振り返る。

「ごめん…ごめん……」

 繋がれていない方の手で俯いた顔を覆った。謝罪の言葉を繰り返すも、まともに喋りたいのに途中から体が震えて上手く言葉を続けられない。

「まだ逃げられるよ!」

 リュカを安心させるようにパトが叫ぶ。

「でも……」

 追いつかれてしまった。連れ戻されてしまう。

「連れ戻されるなら、またあそこから旅に出ればいい!」

 リュカの泣き言をかき消すように諦めないとパトが強く叫ぶ。

 二人は走る。誰も追い付けない安全な場所まで走る。安全な場所を思い浮かべて走って、坂を上って、ネジのようにぐるぐると螺旋を描く塔を上る。

 そうして塔の天辺まで辿り着いた。

「あっ」

 パトの足が止まる。

「そうだった」

 俺、飛べないんだった。と零し、パトは俯いてしまった。

 辿り着いた塔の天辺は何もなかった。ただ平面の床が水鏡のように偽りの夜空を映し、波紋と共にそこに立つ子供二人に逃げ道は無かった。

 飛べない動物から逃げる時は高いところに逃げる。それが竜と共に暮らしていたパトの常識だった。それが仇となった。高い場所に逃げ場は無い。

 リュカとパトが登ってきた階段の向こうからはバタバタと人の足音が聞こえてくる。

 肩を落として蹲るパトの隣で、リュカはぽつりと零す。

「終わりだな」

 茫然と眼前の景色にリュカがそう零すと、パトは弾かれたように顔を上げる。

「終わりじゃない!!」

 パトは真っすぐにリュカに向き合った。

「こんなことでおれは諦めたりしない!」

「でも…」

「リュカ!」

 尚、言葉を言い連ねようとするリュカをパトは遮る。

「リュカはどうして旅に出たの? 旅に出たいって思ったんでしょ? リュカが今、何に落ち込んじゃったのかおれにはわからないけど! リュカが諦めそうになったり、苦しくて動けない時はおれがなんとかする! おれは、リュカの両腕の分も頑張るって約束した!!」

 その言葉に、リュカは目をゆるゆると見開く。

 瞬間、星が弾けた。

 それは花火だった。

 真っ黒な夜空を重力を知らない流星が笛のような音をさせながら上り、一瞬消えて、爆ぜる。散り散りに輝く火花が大輪の花を咲かせる。

 魔法使いの星花火の下、打ち上がったその瞬間からリュカの世界は時が止まったように凍り付いた。

 その視界に、パトの空を見上げる顔が映る。

「ねぇ、リュカ。空、綺麗だね」

 パトは空の光をその青い瞳に写して、きらきらと輝かせていた。光に照らされた顔は紅潮し、頬が緩んで大きく開いた口は笑っている。

 今、追い詰められている最中だというのに、パトはそんなこととは関係なく楽し気に笑っていた。

 そんな風に笑うパトを羨ましく思った。思っていた。

 あの泣き声だらけの場所で諦めないで、逆境も何も関係無く進もうとするその姿に羨望を抱いたからだった。

 俺もそんな風になりたかったんだ。そんな風に笑いたかったんだ。

 あの日の何もできない自分のままでいたくはなかった。あの日とは違う自分になりたかった。今とは違う場所に進みたかった。

 だから旅に出たはずだった。

 旅に出てから、俺はまだ何も変わっていない。

 変わりたい。今、変えたい。

 一度俯いて、ぐっと息を呑んでパトに倣って空を見上げる。ちょうどよく、空で星がはじけた。

「…っああ。俺も、そう思う」

 胸にこみあげる何かを押し殺して空ににほとばしる火花を見上げ、あの日からずっと喉で閊えていた声を吐き出す。

 温度なんてわからないドロドロの手を強く握られて、熱いのではなく、暖かかった。

「……頼りにしてるって、俺は言ったな」

「うん」

「パト」

 パトの手を力強く握り返す。

「俺達は旅に出たんだ。行けるところまで行こう。どこまでも」

「うん!」

 強く頷いたパトは、リュカの背の向こうに流れる幾つもの花火がを見た。白い流星のように空へと打ち上がり、花の様に散って落ちていく。

 その中の一筋が、パトの目にとまった。

「リュカさん!」

 男は遂にリュカ達の元へ辿り着いて叫ぶ。

「リュカ、行こう!」

 二人は男を尻目に、水面の上を端まで駆けていく。

 そして、その高い塔の上から飛び降りた。

 二人が飛んだ瞬間、背後であの男の声が聞こえた。

 落ちる。花火に満ちた夜空の中に落ちていく。夜空の中から赤い石畳に落ちていく。景色が過ぎていく。

 ぎゅっと強く閉じた瞼の裏に、これまでの景色が過ぎ去っていく。

 魔法使いの園の中を走り回った記憶、母の横顔、夜の森の外から見た星空、暖かな背中、見上げた父の顔、故郷、シナバー、そして泣いている女の子。

 目を見開いた。

「フューシャ」

「フェーン───!」

 落下の中、パトは叫んだ。

 瞬間、目が覚めるような白が黒い空を引き裂いた。

 引き裂かれた夜空に青空が広がっていく。水面を走る船の跡のように青空が偽りの夜を引き裂いていく。聞こえる筈の無い懐かしい咆哮が確かにパトの耳に届いていた。

 夜を引き裂いて青空を伴った流星の如き一条が二人を攫う。

 その一条は鳥によく似た両翼と、青い角を持った白い竜だった。

「お前、何落ちているんだよ!」

 青空を牽引する竜、フェーンは二人を背に乗せて第一声にそう叫んだ。

「フェーンこそ! なんでここに!?」

 その叫びにパトは慣れた様子でリュカを引っ張り上げながら竜の背をよじ登り問い返す。

「お前こそ翼もないのになんで空なんて飛んでるんだ!」

「だって! だってフェーンがいたから!!」

 白い大きな翼を羽ばたかせ、地面すれすれを滑空し、そのまま上昇する。

「このまま行こう!」

 パトが叫んだ。

「おれたちならどこへだって行ける!」

 星の様に目を輝かせて前を見上げるパトとは逆に、リュカはなんとかフェーンの背中にしがみ付きながらも、先程のフェーンの顔と、落下の間際に見た男の顔を思い出し、翼の隙間から地上を見下ろす。

 沢山の人たちがこちらを見上げて何か叫んでいる。一様に驚き、不安気で、竜の背にいるのが子供だとわかって叫ぶ人達。その中にはあの男の姿もあった。男が必死にリュカ達を追いかけて走っている。

 リュカは思考を巡らせて、ふたりに言った。

「……降りよう、パト、フェーン」

「どうして?」

「みんな、心配してる」

 降りよう、とリュカはもう一度繰り返す。フェーンは一度翼を羽ばたかせるとゆっくりと旋回して地上へと降りて行った。

 きっと、今の俺が行けるのはここまでなのだ。




 そのまま俺達は地上へ降りて大人達に保護された。

 高所からの飛び降り、長期間の行方不明の怪我の確認を兼ねて近くの宿に押し込まれた。

 魔法使いの園のお祭り騒ぎはお開きになって、破かれた夜の帳はあの塔へと吸い込まれて、傘が閉じる様に魔法使いの園はその姿を消してしまった。

 今の俺の腕には真新しい汚れを知らない包帯が巻かれている。

コンコン、と控えめなノックの音が響く。「どうぞ」と応えれば、開く扉の先にいたのは見慣れた黒い帽子に白髪の混じった黒髪。垂れ下がった瞼に皺の刻まれた顔。魔法使いの園まで追ってきた、俺の養父になるはずだった男だ。

「体調はいかがですか?」

 男はベッドの傍に佇んだ。ベッドの傍の窓際の椅子を勧めて、深く頭を下げる。

「おかげさまで体は問題ありません。……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 頭を下げるリュカに、その人は白髪が混じった眉を下げて苦笑した。

「頭を上げてください。貴方はお手紙の中でも謝ってばかりでしたね」

 男は胸ポケットから手紙を取り出した。

「お手紙、読ませて頂きました。無理を言って申し訳ない、自分はいなくなるからその分までフューシャさんを大切に育てて欲しいと」

「貴方は始め俺だけを連れていくと言っていました。それに、俺は妹も一緒じゃないと養子にはなれないと無理を言いました……子供を二人引き取るということが容易いことでは無いことくらい俺にだってわかっていたのに」

「だから貴方はいなくなった?」

「はい」

「確かに私は元々貴方一人を養子にと孤児院を訪れました。貴方がいなくなった後、私達が理由をつけてフューシャさんを孤児院に返すとは思いませんでしたか?」

 リュカは眉を寄せる。言葉に詰まりながらも喋る。

「貴方は信頼に値する人物だと思っていましたし、貴方は親類の子供を養子にと孤児院にやってきていた。なら、俺じゃなくフューシャだけで良い筈だと思ったので……」

「フューシャさんが我々の親類でないとしても?」

 男の言葉にリュカは警戒するように目を細める。

「……いつから」

「貴方がいなくなってすぐですね。私の確認不足でした。貴方のご両親に貴方以外のお子さんはいらっしゃらない」

「…重ね重ね、申し訳ありません。貴方達を騙しました」

 もう一度、頭を下げようとするリュカを手を上げて止めて、男は言葉を続ける。

「私は今、それを責めに来たのではありません。私は覚悟を持ってここにきているということを伝えに来たのです」

「覚悟…?」

 男の言葉に困惑してリュカは俯いた顔を上げる。男は真っすぐにリュカを見つめていた。

「貴方達兄妹を引き取ると決めた時から心は変わっていないということです。フューシャさんと私の妻が待っています。一緒に家に帰りましょう。リュカさん」

 男はリュカにそう言った。リュカは困惑して目を瞬かせる。

「……俺とフューシャは兄妹ではありません」

「けれど、フューシャさんはずっと兄である貴方が帰って来るのを待っています」

 男の声は凛と部屋に響いた。

「──それは…それはシナバーだ。シナバーの帰りを待っているんです。フューシャは小さいから、今は俺と本当の兄のシナバーのことがごっちゃになっているだけだ」

 リュカの隠し切れない動揺に震える声に、男は続ける。

「貴方はずっとフューシャさんの兄でした」

「違う」

 リュカは強い口調で断言する。しかし、男の言葉は揺るがない。

「では、なぜフューシャさんは貴方がいないと夜ごと涙を流すのですか」

 男の言葉に呆然と見開かれた目をそのままに、リュカは力なく俯く。

「これ以上、シナバーの居場所を奪いたくない……」

 消え入るような声だった。

 汚れを知らない白い包帯に濃い染みがぽたぽたと出来ていく。

 『お兄ちゃん』と呼ばれるのが嫌だった。

 そう呼ばれていたのはシナバーだ。彼女の本当の兄だけだ。

 かつて『リュカお兄ちゃん』と呼んでいたフューシャが、俺を『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。

 亡くしてできた隙間を埋めるように、フューシャは俺をそう呼び続けた。そう呼ばれることが息ができなくなるくらい苦しかったのにそれを止めることもできなかった。

 やめて欲しい。それはあいつの居場所なんだ。忘れ去らないで欲しい。いなかったことになんてしないでくれ。俺にあいつの居場所を奪わせないでくれ。お前の兄を助けられなかった俺なんかをそんな親しみを込めて呼ばないでくれ。

「貴方はフューシャさんをどう思っているのですか?」

「どうって……?」

「貴方からの手紙は謝罪と、フューシャさんのこれからを案じる言葉ばかりでした。どうしてですか?」

 男の質問に、理由は幾らでも思い浮かぶ気がしたが、言葉にできる様なものは何も浮かばなかった。

 ただ、男の背後の窓に映る青空を見て、そういえば塔から落ちた時、脳裏にフューシャが過ったことをふと思い出すと、すとんと答えが胸の内に落ちてきた。

「心配……だったから」

 それだけだった。

「……空から落ちた時、フューシャのことを思い出しました」

 惑うように揺れるリュカの瞳。

「落ちて、色んな景色が脳裏に過った時、フューシャのことが思い浮かんで……フューシャには、貴方達がいる。だから…俺がいなくても大丈夫なのに……」

 消えそうな言葉で、最後にぽつりとつぶやいた。

「今、フューシャはどうしてるだろうって……」

「貴方がフューシャさんをそう想うように、フューシャさんも貴方をそう想い、ずっとあなたの帰りを待っている。私は貴方の手紙を読んで貴方が本当にフューシャさんの兄なのだとわかりました。貴方達はお互いを想い合う家族であり、私と妻も、そうなりたいと思っています」

 男は目を細めて、リュカの包帯の腕に男の手を重ねた。

「一緒に、家に帰りましょう」

 男の真摯な目には必死さが見えた。高い空から見下ろした時に見えた顔と同じものだ。

「心配かけて、ごめんなさい……」

 リュカはやっと、そう言えた。

 子供さえできればもう俺なんて要らないと思っていた。

 実の兄でもないのに、フューシャが悲しむなんて思っていなかった。

「ごめんなさい…ごめんなさい……」

 男はリュカが泣き止むまでずっと優しく背中を擦り続けた。それはもっとリュカが幼い時分に父がしてくれたのと同じだった。

 涙はなかなか止まることはなかった。

「……これ以上に、無理を、我儘を言ってもいいですか」

 赤く腫れぼったくなった目のままに鼻声でリュカは言う。男は無言で言葉の先を促した。

「俺の夢は、両親と一緒に演奏会に出ることでした。でも、その夢はもう叶わない。だからこそ友達の、パトの願いが叶って欲しい。危ないのも、大変なのも全部わかってて覚悟を決めてパトは旅に出た。きっとフェーンもそうだ……俺は、家に帰ります。その代わり、ふたりをまた旅立出せてくれませんか。パトとしたまた旅に出るという約束を守らせてくれませんか」

 リュカの懸命な願いに、男は困ったように眉を下げる。

「大人として、その我儘を叶えてあげることはできません」

 男はそう言って席を立つ。

「……だから、旅立つというならまた自分の力で飛び立つしかないでしょうね。貴方達がそうしたように」

 男は付け加えるようにそう言って部屋の扉を閉じた。

 部屋にはリュカだけ。窓の外には日向ぼっこをするパトとフェーンの姿が見えた。


 かつてと同じく、雲一つない晴天の下で日向ぼっこをする。寝転んで丸くなるフェーンにパトが背を預けて。

「……ねぇ、なんでここに来たの?」

 答えの聞けなかった問いをパトはもう一度尋ねる。

「旅になんて出ないって言ってたじゃないか」

 拗ねたように尋ねるパトの言葉にフェーンは重苦しそうに首を捩じって口を開いた。

「オレが旅立つといえばパトは絶対に旅に出る。でも、旅に出なければお前はあの場所に留まるかもしれないと思ってた。……お前が出て行った時も、人間は弱いからすぐに尻尾巻いて戻ってくると思ってた。でも、お前は戻って来なかった。だから……見に来た」

「……おれの事、心配してたの?」

 ぼそぼそと答えたフェーンの顔を目を見開いて見つめると、フェーンは顔を逸らしてしまう。

「おれのこと、心配して旅に出なかったんだ……フェーンだって、旅に出たかった癖に!」

 呆然と呟いた言葉は、そのまま激しく責め立てるようだった。

 そんなパトに、フェーンは呆れたような、安心したような様子で呟く。

「要らない心配だったな」

 そう言って自嘲するように笑うものだから、パトは顔を歪めて強く言う。

「……そうだよ。フェーンが思う程おれは簡単には死なないよ」

「ああ」

「だから…だからっ……フェーンも旅に出ればいいんだよ…! おれの為に、したいこと我慢したりなんてしなくて良かったんだ! 一緒に、旅に出てれば……」

 小さくなっていく声に、フェーンは目を伏せた。

「そうだな。お前と一緒の旅は楽しいんだろうな」

「そうだよ。おれと、フェーンと、リュカが一緒なら絶対に絶対にもっともっと楽しい……」

そう話す二人の元に、一人分の足音が近づいた。

「パト、フェーン」

「リュカ!」

 ふたりに呼びかけて近づくリュカにフェーンは長い首を上げる。リュカはその顔を見上げて微笑んだ。

「あの時はバタバタしてて、碌に挨拶もできなかった。改めて、初めまして。俺はリュカ。あなたの話はパトからよく聞いてる」

「フェーンだ。オレもあんたの話はパトから聞いた。こいつの相手は苦労しただろ」

「おれメチャクチャ頼りになってたし!!」

「自分でいうのは説得力ないぞ」

「なんだとー!」

 フェーンのチャチャに声を荒げてパトはフェーンの背に乗り上げる。

「いや本当に頼りになったよ。フェーンにも助けられた。ふたり共ありがとう」

 ふたりのやり取りにリュカは笑いながら仲裁する。感謝を口にしながら噛み締めるようにリュカはもう一度言う。

「本当に……パト、ありがとう」

「なに?」

「俺一人だったらきっとこんな風に景色を見られなかった」

 いろんなものを見た。ランプの垂れ下がった薄暗い森、魔法使いたちの絢爛な庭園。

 恐ろしい炎を綺麗だと認められる。美味しくない川魚を楽しく食べれる。怖い目にあっても、また旅に出たいと思う。一緒なら綺麗だと思える。

「お前に会えて良かった。ありがとう。パト」

「うへへぇ…」

「フェーンも」

「どうも」

 照れたようにパトは笑った。

「また旅に出るんだな」

「そりゃそうだよ!」

 パトはフェーンの背から滑り降りる。

「リュカも早く準備して! 今度は前よりもっと上手く旅に出よう!」

 跳ね回るように明るく弾む声のパトは、まだ見ぬ旅に夢中で僅かに苦しげに目を細めたリュカに気が付かなかった。

「俺たちならきっともっと遠くまで行けるよ。世界の果て、ううん。世界の向こうまで! そうだ、今度はフューシャもも一緒に連れて行こう! きっと楽しいよ」

「…うん。そうだな。きっとそうだ。」

 リュカは頷く。4人の旅はきっと楽しいものになる。そんな光景がありありと想像できた。

 だが、それは想像だった。

「俺は一緒に行けない」

 はたり、とパトの動きがとまる。リュカはもう一度噛んで含めるように言う。

「俺は一緒には行けない。俺はここまでだ」

「……どうして?」

 呆然とリュカを見るパトにリュカは毅然と返す。

「フューシャの傍にいたいんだ。空から落ちた時、フューシャのことが思い浮かんだ。フューシャのことが心配なんだ。だから、もう旅は続けられない」

「……そっか…」

「ごめん」

 深く深く頭を下げる。

「……謝らないで。リュカがいっぱい考えて決めたことなんでしょ」

 物分かり良くパトは頷いた。もしかしたらリュカがこう言いに来るかもしれないと思っていたのだろう。パトは笑っていたけれど、その顔はやっぱり無理をしていて、口角は歪んで、眉は曲がっていた。その顔をこれ以上見せていられなくて、パトは顔を俯けた。

「あのさ、俺はさ、リュカと一緒に旅ができて楽しかったんだ。リュカは…」

 下を向いてしまい、服のすそをいじる。

「俺だって楽しかったさ」

 その言葉に、グッと喉元に力を込める。

「リュカはフューシャが心配だから行かないんでしょ。俺は心配なんて要らないよ! 元気で、いっぱい、旅をするんだから!!」

 そう胸を張るパト。空元気にも見えるが、確かな決意がある。眩いものを見るようにリュカは目を細めて頷く。

「それで、いつかリュカの心配が無くなったら、また一緒に、今度はフューシャも一緒に……」

 言葉に詰まるパトにリュカは手を差し出す。

「? なに?」

 思った通りパトには意味が通じなくて笑う。

「握手だ。また会おう」

 意味をまだ理解できない様子で首を傾げながらおそるおそる手を握ったパトだったが、握り返されてじんわり伝わる手の温度に、二人で手を繋いで走った時の心強さが胸中に暖かく広がって、ゆっくりと、顔をほころんだ。

「離れていても、お前たちのことを考えてるよ。どこを旅してるんだろう。何を見てるんだろうって。また会うときに教えてくれ。どんな旅だったか」

「また会えるの?」

「フェーンとだってまた会えただろう?」

 リュカは当然のようにそう言うから、それにパトは呆気にとられた後に笑いだす。それは泣き笑いのようでいて晴れやかな笑顔だった。

「行ってこい。お前たちの旅なら、きっと楽しいものになる」

 天気は快晴。そよぐ風が心地よくて、日の光は暖かい。

 竜の力強い羽ばたきで風が吹く。

「また会おう。パト、フェーン」

「またね!」

 春の空はどこまでも青く澄み渡っていて、雲一つない青い空に、まっすぐに白い影が飛び立っていく。

 いい旅立ちだ。


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