中編 旅の途中:蛍灯の森


 蛍灯ほたるびの森。そこは、真昼にも関わらず真夜中のように暗い森、枝から零れる雨垂れのように無数の実が木々の間で光り揺れる場所。

 その実に灯る光は蛍火のように暗い森を幽翠に照らしだす。

「ガラスの灯りみたいだ」

 そんな森の中で、風も無く頭上で揺れる実に目を奪われながらパトはそう零す。真っ黒な葉の無い枯れ木に実る果実の見た目は吊り下げ式のランプによく似ていた。

 ガラスの様に透明な外皮の奥に見える液体が、蛍の光のように輝き揺らめいていた。指先で突けば、外皮からはコツコツとガラスを突いたような音がする。淡く輝く果実からはランプのような暖かさは感じられず、代わりに夜のガラス窓のような冷たさを感じさせた。

 リュカはポケットから地図と方位磁石を取り出して現在地を確認する。方位磁石の指針は方位を定めることなく回転し続けていた。

 蛍灯の森と地図に名打たれたこの森は、脱出方法を知らなければ永遠に出ることの叶わない危険な森だ。

 だが、森を抜けなければ目的地の魔法使いの園には辿り着けない。

 リュカの持つ地図は魔法の地図だ。持ち主の現在地から魔法使いの園への道を示す。そして、魔法使いの園への道筋は特別で、一見遠回りに見える道や、危険な場所を通らなければ魔法使いの園へは辿り着けない。

 それは危険と解っている場所に飛び込まねばならないということ。

「なんか変な板がいっぱいある」

 パトは髪から雫を零しながら地面に落ちていた看板を拾い上げた。川へ飛び込む前に放り投げられたパトのリュックは、巨大な魚を詰められてビチビチと跳ねている。

 パトは文字が読めないのか、上下逆さまの注意看板を見返している。

「『危険』、『立ち入り禁止』、『入るな』…どれも同じようなことが書いてあるな」

 森の周辺には注意を促す看板が大量にあった。不安はある。怯えもある。それでも行かねばならない。

「ここからは本当に危険な場所だ。覚悟はできてるか?」

「そんなの旅に出た時からできてるよ」

 パトはあっけらかんという。

「なら、行こう」

 通行止めのロープを跨いで、影のように黒い木々、それに雨垂れのように灯る無数の果実の下を通る。

「きれいだねぇ」

 不気味でじめじめとした暗い蛍灯の森の中を地図を手に先導するリュカの後ろで、パトは呑気な調子で感嘆の声をあげる。

「赤い星を目指して進めば森の外に出られる。けど、正確な時間はわからないがそもそも森の外はまだ昼ぐらいだった筈だ。星なんて見えるわけない」

 リュカは一人でぶつぶつと喋りながら頭上の木々の隙間に目を凝らす。見渡す限りの黒い木々と幽翠の灯の隙間に目印の赤い星は見えない。

 リュカは眉間に皺を作って空を見上げ、溜息をついた。パトはそれを不思議そうに見る。

「ねぇ、リュカ」

「なんだ?」

「リュカはどうして旅に出ようと思ったの?」

「えっ?」

 突然の疑問にリュカはパトを振り返る。

「せっかく旅に出たんだからもっと色々見ようよ。ほら、この木の実なんて光ってるんだよ! 不思議!」

 枝に実った実を引きちぎるとパトはリュカの目の前にずいっと差し出す。そんなのは森に入った時からわかっている。

 けれど、パトの言葉で改めて頭上を見上げる。昼にも関わらず薄暗い森の中、格子を作るように枝を伸ばす黒い木々、そこに灯る蛍火色の木の実には、火で灯された明りにある温かさの代わりに夜の冷たさを伝える。

 不気味で、恐ろし気で、怯えを誘うような森の景色に、不思議とただただ目を奪われた。

 頭がくらくらしそうな幽翠の眩い灯を前に、パトは得意げだ。

「ねぇねぇ、綺麗でしょ? ──イッキシ!!」

 パトは豪快にくしゃみをする。

「……走り通しだったし、少し休憩を挟もうか……せっかくの綺麗な景色だしな」

「わかった! ここちょっと寒いよね! 火をつけよう!!」

「寒いのはお前が川に落ちたからだぞ」

 二人で薪を集め、パトは器用に火をつけた。

「火起こしならまかせて!」

 川に飛び込んだ時捕まえた魚を火の回りに立てながら、パトは意気揚々と胸を張る。その姿がフューシャが一人で服を着れたと自慢げに胸を張る姿を想起させてリュカは笑う。

 薄暗く幽翠の灯りにぼんやりと照らされていた森に真っ赤で暖かな灯が点る。

「リュカ、もっと火の近く寄らないの? 寒くない?」

 パトはリュカに振り返って尋ねる。開けた場所の中心で起こした焚火から10歩は離れた場所にリュカは座り込んでいた。そんなに離れていては焚火の熱なんて伝わらないだろう。

「ああ…俺のことは気にしないで、パトはしっかり温まってくれ。川に飛び込んだんだから」

 まだ心なしかしっとりしているパトの髪を見上げて言うとパトは少し考えるように神妙な顔をした。

 そして、焚火に向かい合うように座ったパトは、背を向けたまま離れて後ろに座るリュカに振り返り、激しく手招きをする。

「リュカ、リュカ! こっち来てここ座って!!」

 自分の真後ろの地面を叩きながらパトはリュカを呼ぶ、当のリュカが訳が分からず眉を寄せ訝しんで動かないでいると「はーやくー!」と堪えきれずに急して叫ぶパトに、リュカは仕方なくパトが叩いた地面まで渋りながらじりじりと近づく。

 すると、パトはリュカの両肩を掴んでそのまま来た道を振り返るように後ろを向かせ、焚火に向かい合うパトと背中合わせになるよう座らせた。

「なんだ?」

「俺があったまれば俺の背中越しリュカもあったまるでしょ?」

 良い考えだ!と得意満面のパトに背中合わせにされながら、リュカは虚を突かれる。確かに、視界に火は見えず、じんわりと背中越しに暖かさが伝わってくる。

「…ああ、そうだな。おかげで暖かい……パトは俺が気づかないことに気づいてくれるな」

「そうでしょ! 魚も焼けたよ!」

 背中越しに手渡された魚をリュカは一口齧る。口内から鼻に抜ける焼けた皮の香ばしさと、砂利の歯触り、得も言われぬ苦味とえぐみが口いっぱいに広がった。

「内臓取り忘れたな…」

「いっぱい食べれてうれしいよね!」

 パトは気にする様子もなく内臓も骨も気にせず丸ごとパクパクと食べていく。その逞しさになんだか可笑しくなって笑いながら川の匂いの残る焼き魚を食べた。

 火を起こして、魚を食べて、それでもまだ星は見えなかった。

 すると徐々に頭が重くなってくる。背中越しに伝わる熱に誘われて、夜通し走り続けた疲労と徹夜でお預けにした睡眠が体を襲う。

「…少し眠ろう。休める時に休んでおかなきゃ」

 眠気を意識した途端、声がまどろみ始める。リュカは眠気で回りにくい舌でなんとか言葉を紡ぐ。

「火の始末をしなきゃ…あとは、交代で休憩して……」

「おれ、眠くないから火、見とくよ! リュカは寝てて!」

「ありがとう。じゃあ、俺はお先に…」

 眠る、と言い切る前に横になったリュカは寝息を立て始める。あまりに早い寝入りに、パトはちょっと驚いた。パトが思う以上にリュカは初めての旅立ちに疲れていたらしい。パトは焚火に薪をくべるのをやめて、火を見ながらリュカと背中合わせに横になる。

 空をちらりと見上げても星はまだ現れない。

 パトはなんだかちっとも眠くない。

 静寂の森の中で火の中で弾ける薪の音だけが聞こえる。

 孤児院は夜もうるさくて、今は本当の夜ではないけれど、こんなに静かな夜みたいなのは久しぶりだった。

 大きな箱の様な建物の中にぎゅうぎゅう詰めにされた子供たち。夜中には寝息や寝言、それと苦しそうな泣き声が響き渡っていた。

 今はもうあの騒がしい夜はない。孤児院で嫌になってしまっていた湿った声も聞こえない。

 ここはとても静かで、木々が揺れるさざめきも、潜む動物の息吹も感じさせない。それはとても心地良い事のはずなのに、この森の夜は寂しくて冷たくて、パトは急に心細くなる。

 そうなると、イヤな思い出が脳裏をよぎる。

 けれど、冷たい森の中で暖かさが背中にある。こそばゆくなるような、背中の温かさに冷たいものが内側から温められて体の重みが軽くなる心地。

「──ぅ──」

 それがふと、真後ろから聞こえた声に驚いてパトは振り返った。

 湿った声、孤児院で沢山聞いた泣き声やうめき声。それが聞こえない夜の森で苦しげな声を聞く。

 パトの後ろでリュカが眉を寄せ、脂汗をかいて苦し気に呻いていた。

 パトは迷いつつも、リュカの腕を掴んで揺さぶった。

「リュカ! ねぇ、起きて!」

 パトの呼び声にリュカの固く瞑っていた両目が弾かれたように勢いよく開く。

 寝起きで混乱しながらもあたりを見回して、背中を向けて寝たはずなのにパトの顔が目の前にあることでパトが起こしてくれたのだとやっとリュカは悟り、深く息を吐く。

 じっとりと服に滲んだ汗が気持ち悪い。呼吸は乱れて早鐘を打つ心臓がまだうるさい。

「うなされてたよ。だいじょうぶ?」

 戸惑いながら不安げに眉を下げたパトの顔に、深く呼吸をして返事をする。

「ありがとう。起こしてくれて。パト、眠くないか? …まだ星は見えないな。ごめん、俺ばっか休んでて。交代しよう」

「おれは眠くないから平気だよ」

 やっと呼吸が落ち着いてきたリュカに背中で体当たりして、また背中合わせに寝転がってパトは笑う。横目でリュカを見ると、リュカは腕を包帯の上から摩っている。

「火傷の夢?」

「あぁ…」

「痛かった? 怖かった?」

「痛かったし、怖かったよ」

 苦笑するリュカにパトは息を吐く。

「…孤児院でリュカが言ってた通りだね。こんな夜みたいな時はヤなことを思い出すんだ」

 うんざりしたように言うパトにリュカは思わず笑う。

「ヤなことばかりじゃないさ」

「でも、痛かったし、怖かったんでしょ?」

「そうだけど、それだけじゃないからな。それに、どんなに怖くて痛くても今のことじゃないし」

 うなされて、痛くて怖いという癖に語るリュカの声は懐かしむように穏やかだった。

「もう記憶の中でしか会わないからな」

「…それってフューシャのこと?」

「……そうだな」

 パトは唸る。

「おれはそんな風に思えないよ~。リュカは凄いなぁ」

「パトも何か思い出してたのか?」

「うん。竜の峰の事思い出してた。旅立つ時すっごい喧嘩したんだよ。それ思い出してた。ヤな思い出だよ」

「そうなのか?」

「そうだよ! 良いこともあったのになー。もうあの場所の事思い出すとヤな事ばっかり思い出しちゃう。思い出したくないよ。もう」

 背中越しに会話しながらバタバタとパトは身振り手振りで気持ちを表現して暴れる。よっぽどイヤだったらしい。

「そんな事言うなよ」

「でも、凄く酷い事言われたんだよ! 空も飛べない癖にとか、地上に降りてもすぐに死ぬとか!おれが一生懸命考えて決めたのにあいつボロクソに言ってきたんだ!! もう、すごい大喧嘩だったんだから!」

「……どうしその相手はそんなことを言ってきたんだ?」

「そんなの知らない。あいつが勝手に怒ってたんだ。顔も思い出したくない」

 思い出して怒りが再燃したかと思えば急にパトは黙り込む。

「…喧嘩がしたかったわけじゃないのに」

そう零したパトに、二人の間に静寂が訪れる。ちらりと後ろを見れば、縮こまったパトは置き去りにされた独りぼっちの子供のようだった。

「喧嘩したのは友達か?」

「………そんな感じだったかも」

 不意に背中越しに感じていたリュカの体温が離れた。

 火は弱まっているけれど、体は焚き火に照らされているはずなのに、背中の温度が過ぎ去ると妙に寒々しくなる。そんなパトの背中に迷い無い声がかけられる。

「なら、大丈夫だ」

 迷いのない言葉が、背中越しに伝わる熱のように響く。思わず体を捩じって振り返ると、背中合わせになっていた筈のリュカと真っすぐに向かい合った。

 リュカの濃い赤い目が真っすぐにパトを見ている。あまりに真っすぐで迷いのない言葉と目にパトの方がうろたえる。

「何が大丈夫なの? 本当に酷い喧嘩したんだよ?」

「友達なんだろ」

パトはそう言っていた。

「友達なら、何度だって仲直りできる」

 また会った時、イヤな思い出も違うものに変わるかもしれない。

「早く友達と仲直りできるといいな」

「……うん」

 最後に、優しく付け加えられた言葉に、パトはこみ上げる何かを抑えて頷いた。リュカの言葉が胸の内側に溶けて広がるようだった。

 パトから背を向けてリュカは立ち上がる。

「もう赤い星が見えてる。行けるか? パト」

「……うん!」

 立ち上がるパト。

 リュカは赤い星を見上げている。

 顔を拭ってパトはリュカを振り返ると、二匹の蛍が見えた。


 沢山の蛍火色の灯りが照らす森の中、リュカの背の向こう。その中に二つ、風もなく大きく揺れ動く幽翠の灯りがある。随分と低い位置で、まるで二匹の蛍が並んでゆっくりと飛ぶように揺れる灯り。

 何だろうと目を凝らして、それが二匹ではなく、一対の灯りだと気づいた瞬間、全身の毛が逆立つ。

「パト、どうかしたか?」

 リュカはまだ気づいていない。ただ、立ち上がったパトを振り返る。

 青ざめた顔で応えないパトに心配そうに尋ねるリュカは、パトが凝視する先を見やる。

 振り子のようにゆっくりと揺らめきながら近づく灯り。

 それは飢えた獣の二つの目だ。

 黒く細い幹の間に、だらだらとよだれを流し続ける痩躯の獣がそこにいた。

 今にも倒れ伏しそうな骨と皮だけのような体、その体に不釣り合いなほど大きな一対の目が夜闇の中の猛獣ように爛々と輝いている。

 馬によく似た体に白黒縞模様を浮かべたその獣はこちらをじっと見つめている。

 焚火を焚いたのは温まるためと、獣除けを兼ねてのものだった。なのに、目の前の獣は今にも力尽きそうな体を揺らしながら近づいてくる。

「リュカ!!」

 振り返ったリュカの眼前に剥き出しの牙が迫る。

 瞬時にパトは燃え尽きかけた焚火の薪を獣へと蹴り上げる。

 けれど、痩躯の獣は炭や火の粉に怯む様子もなく突っ込んでくる。正気を失っている獣は火さえ気にも留めない。

 それでもなんとか軌道がズレて、リュカのすぐ傍で獣の牙が空振りする。

「走って!」

 獲物を捕り逃した飢えた獣の唸り声が森に響く。一頭が現れたことを皮切りに木々がざわめき始めている。

 幽翠の灯りが明滅する。沢山のランプの灯にあの爛々と獲物を狙う目が紛れていたのだ。

 ここは飢えた獣を囲う巨大な檻の森。蛍の灯は暗闇で光を反射した獣の瞳孔だった。

 沢山の灯がお前を食うぞと見つめている。

 今度はパトを狙って。

「パト!」

 パトの背に牙を立てようとする獣の前に、咄嗟に両腕を差し出す。分厚く巻かれた包帯の上から獣の牙が深々と刺さる。

「逃げろ!」

 リュカが叫んだ。腕を喰いつかれたまま、パトに振り向いて。

 パトは言われるままにリュカに背を向けて走り出す。

 こんな沢山の獣の群れに囲まれて人間の子供にできることなんて、逃げ出すことだけだ。

 きっとリュカは死んじゃう。

 あんなに沢山の獣と、両腕の壊れた小さなリュカじゃすぐに死んじゃうよ。

 おれは足が速いから、沢山怪我をするだろうけど、きっとこの森を出られる。

 そうしたら、また独りで旅に出るんだ。

 一緒に行かないかって、魔法使いの園に行こうって言ったのはリュカなのに。

 また、置いてきぼりだ。

「お前なんてすぐ死ぬさ!」

 足が急に止まる。

 一人で走り出した足が、また脳裏を過ったイヤな記憶に引っ張られて止まった。

 本当にイヤな記憶だった。

 竜の峰に居た頃、いつもおれを背に乗せて飛んでいた竜がいた。気づいた時には一緒にいて、いつも一緒に同じ景色を見ていた。一緒にいるのが当たり前だった。

 だから、旅に出るのも一緒だと思っていた。

 首を横に振られた時、天地がひっくり返ったみたいに驚いた。

 いろいろなことを話したと思う。いつの間にか会話ではなく、二人でしていたのは喧嘩になっていた。今まで何度も喧嘩をしたけれど、あんなに激しい喧嘩をしたのは産まれて初めてだった。

「うるさいな! どうしてそんなこというんだよ!!」

 呪いのような言葉を吐くその姿に腹の底が怒りで冷え切った。とても怒っていた筈なのに、目頭は酷く熱くて、泣くみたいに叫んでいた。

 結局最後は、顔も見ないで背を向けた。

 おれだっていっぱい考えたんだ。一生懸命考えて出した答えなんだ。

 そう決めて、旅に出た。後悔なんて欠片もしてない。苦しいこと大変なこともあったけど俺は旅に出たことを間違いだなんて思ってない。

 でも。

「一緒に行かないか?」

 おれは本当は一人で行きたかったわけじゃない。ああいわれた時あんなに嬉しかったのは。

「本当に行っちゃうのかよ!」

 また置いていくのか。

 共に旅する相手を。


 爪先が反転する。


 両腕に食いついた獣の顎が左右に振られ、牙を留めていた包帯が引き千切られる。未熟な子供の体は簡単によろめいて、そんなリュカにまた牙が向かってくる。

 その瞬間、聞いたこともない獣の咆哮が森に響いた。

 空気も、木々も、空さえも揺らしそうなその咆哮が森に響き渡る。

 空気も震えるそれに、目の前の飢えた獣は一瞬怯む。

 怯んだ獣はその突撃を誤り、リュカではなく傍の幹に激突する。体当たりで揺らされた木々から落ちる無数の灯り。それに狂乱する周囲の獣達。鳥たちも上下左右を失ったように飛び回り、獣たちはでたらめに吼え回る。 場は騒然となっている。

「リュカ!」

 リュカが声に驚いて振り返る間もなく、鉤爪のような手が襟首を掴み、そのまま獣と逆方向に投げられる。

 リュカはそのまま訳もわからず森の中を転げ回り、回った視界の端赤い星が見えた。

「あっちに走って!」

 リュカは訳も分からぬままに黒い根を飛び越え、落ちる実を避けながら赤い星を追って走る。

 恐ろしい形相の獣の唸り声が遠ざかる。木々のざわめきが途切れる。

 途端に開けた湿原に転がり落ちる。

「うわぁ!?」

 ごろごろと坂を転げ落ちきった先に見えた星いっぱいの藍色の夜空、青々とした湿原。その隣へ滑り込んできたパト。

 森を抜けたのだ。

 振り返ると、黒々とした幹がまるで檻のような木々。その隙間から見える爛々と輝く蛍色の瞳。

 森を飛び出した獲物を檻の様な木々の切れ間から追う牙が、蹄が、嘴が幹の隙間から恨めしそうに開かれていた。

 獰猛な獣の唸り声が、どこか悲し気に聞こえるのはただのリュカの思い込みだろうか。

「…そうか、星が見えない動物はあの森から出られないんだ…」

 星を追って生きる動物なんて人間位だものな。

 蛍灯の森。幽翠の灯りを宿す実が照らすこの森はその灯で獣を騙し、その内へ招く。

 そこにあるのは黒い枯れ木と食べれもしない幽翠の果実だけ。茂った葉も虫も果実もなく、幽翠の灯と黒々とした木々に惑わされて、獣たちは飢えに苦しみながら森の中で迷い続ける。

 そんなこの森に人が入り込むと飢えて狂暴になった獣に襲われて死んでしまう。だから、人の立ち入りは制限されている。

 見上げて夜空は綺麗だった。

「あいつらはこれが二度と見れないんだな…」

 そう考えると、少し憐れに思える。

 人心地着いて、長く長く息を吐いて胸をなでおろす。脇に佇むパトを顧みる。

「ありがとう。助けられてばかりだな。さっきの吼え声パトだろ? 本物の竜かと思ってびっくりしたぞ」

「あんなのただの真似っこだよ。リュカこそ助けてくれたでしょ。ほら、腕」

 言われて両腕を見れば包帯がぼろぼろに引きちぎられていた。ギリギリで皮膚までは届いていなかったようだが、何重にも巻かれていた包帯からケロイドに覆われた皮膚が露出していた。

「あぁ、包帯で歯は止まってたから怪我はしてないよ」

「どうして助けてくれたの?」

「そんなの。当たり前だろ」

「当たり前じゃない」

 パトは強く断言する。

「当たり前のことなんて何にもないよ」

「…じゃぁ、パトはどうして助けてくれたんだ?」

「おれは…リュカの両腕の分まで頑張るって言ったもの」

「なら、俺は俺の両腕の分まで頑張ってくれたパトの助けになりたかったんだよ。きっとそうするのが正しいと思ったんだ」

「正しい…?」

「間違いじゃないってこと。ほら、パトも俺も怪我無く森の外に出れただろ?」

「……じゃぁ、おれも間違いじゃないってことをするよ」

 そう言うとパトは大きく息を吸い込み、天へと吼えた。遠く遠く響く咆哮が夜空の果てへ届くように。

 それは到底人の声には思えない狼の遠吠えよりも遠く遠くに響く竜のもの。

 どうしてあいつは旅立たなかった?

 その理由をおれは少しも知らない。おれがいっぱい一生懸命考えて旅立つことを決めたように、あいつだってそうだったのかもしれない。

「喧嘩した奴ね、フェーンって言うんだ」

 また話したい。

 声が空を駆ける。

 もし、また出会えたのなら仲直りをしたいと。

「行こう」

 声が遠くの空まで響いて、その残響さえ空に溶けた頃、晴れやかな顔でパトとリュカはまた進む。

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