少年二人は旅に出る

SATO

前編 旅の始まり


 荷物の隙間から零れ落ちた茜色のチケット。

 山の様に積まれた荷物の隙間から木の葉のように床に舞い落ちたそれを拾い上げると、物置小屋の外から大人の怒号が響いてくる。

「パト! また脱走しようとして!」

「おれは旅に出たいんだよー!!」

 俺は物置小屋の入り口から、大人に引きずられていく真っ白な髪の少年を見ていた。茜色のチケットを手にして。


 孤児院の大人に襟首を掴まれた少年、パトは白い髪を振り乱して大人に抵抗する。だが、10歳にも満たないだろう幼く小さな体は大人の腕力には勝てずに引きずられながら孤児院に連れ戻される。

 その姿を見て周囲の子供たちは笑う。

「あなたたち、ちゃんとパトを見張っていなさいっていったでしょう!」

 パトを引きずって肩で息をしながら、大人は笑う子供たちの内、数人の少女を叱りつける。

「どうせ脱走なんて成功した試しがないんだからいいじゃないですかー」

 パトの監視を任されていた姦しい少女達は叱られても、皆一様に悪びれもせず、むしろ不満げに叱りつけた大人を睨み返す。

「だって先生、パトったらホラばっかり吹くんだもん」

「竜の峰にいたとか」

「竜と一緒にいたとか」

「こんな野生児の面倒見切れないわ」

 姦しく、少女たちは大人に言い連ねる。それにパトは顔を上げて青い目で睨む。

「嘘じゃないよ! 俺は竜の峰から来て…っ!」

 少女たちも、その他の遠巻きに様子を見ていた子供たちも笑う。先生と呼ばれた大人は頭を抱えた。

「先生ー、こんな可笑しな子の相手なんて私達していられませんー!」

「小さな子の世話がさせたいんだったらリュカにでも頼んだらいいじゃない」

「そうそう、妹の世話も焼いてるんだから、今更もう一人増えたところで変わらないわ」

「私パン屋のおじさんとこの犬見に行きたーい」

 少女たちはまたパトが馬鹿にしたように笑う。

「俺のことを呼びましたか」

 少女たちの話に呼ばれて、パトとそう年の変わらない黒い髪の少年が現れた。

「リュカ、荷物の整理は終わったの?」

「まだ終わっていません」

 直截に答えるリュカに疲れ果てた様子の先生はため息をついて、面倒そうにリュカに言う。

「じゃあ、これからはパトと一緒にやるように。くれぐれも目を離さないで」

「はい」

「パトも、もうこれ以上面倒をかけないで」

 先生は吐き捨てるようにそう言うと、パトの襟を投げ捨てるように離して、少女たちの言う通りにリュカと呼ばれる少年にパトを任せた。

「俺はリュカ、こっちはフューシャだ。よろしくな」

 リュカは自分と自分の足の後ろからひょっこり顔を出す3歳程の桃色の髪の幼女を紹介して、その腕をパトに差し出した。

 パトはその包帯まみれの腕を不思議そうに見つめた。見つめられるだけの腕を少し困ったように眉を下げて引っ込めて、リュカはフューシャに振り返る。

「フューシャは外で待っててくれ」

「またぁ?」

「いいこだから」

 リュカはフューシャを物置小屋の外で待たせて、パトと共に物置小屋に入る。

 狭い物置小屋には、壊れたオルガンや使われなくなった家具、孤児院に連れてこられた子供たちに置き去りにされてきた荷物たち。それが埃と蜘蛛の巣に塗れて積みあがっていた。

 埃は窓から刺す光でキラキラと輝き、パトの鼻孔を擽ってくしゃみを連発させる。

「この布で鼻と口を覆った方がいい」

 古びた布をパトに渡すと、リュカは身振りで頭の後ろで布の端と端を結んで顔の半分を覆うように伝える。しかし、リュカの顔は覆われていない。

「リュカは?」

「俺はうまく結べないから」

 リュカの両腕にはぐるぐると包帯が巻かれている。その包帯は袖で隠れた肘の上まで続いていて、怪我の範囲の広さを一目でわからせる。

 ぎこちなくしか曲がらない腕の関節、あまり力の入らない手を使って荷物整理をする。

 先生がリュカに任せた物置小屋の整理は、とても両腕に包帯を巻いた10歳の少年に任せる仕事ではなかった。

 埃まみれの物置小屋で口を布で覆うこともできない。

 激しく舞う埃は人体に有害だと確信させるし、リュカは肩口に顔を下半分押し付けて咳き込みながら埃が舞う部屋の中で荷物を運ぶが、力の入りきらない両腕は重い荷物を何度も取り落とす。そして、そんなリュカの上に荷物の山は時々土砂崩れのように崩れてくる。

 リュカの上に積もった荷物をどけながら、パトは眉を吊り上げて唇を尖らせた。

「これってイヤガラセだよね」

「まあ…そうだな」

 リュカは埃まみれの床から起き上がりながら曖昧な顔をして頷いた。

「でも、仕方ないよ。いつも面倒をかけているから」

「リュカも? おれと同じ?」

 パトはいつも先生に面倒をかけるなと怒られていた。そんなパトの目にリュカがパトと同じような存在だとは思えなかった。

「毎朝毎晩包帯を巻いてもらったりして、他の子たちより面倒かけてるから」

「…それって、おれとはなんか違うと思う」

 パトはリュカの言葉に眉根を寄せる。それはパトが周囲にかけている面倒とは違う。うまく言葉にはできなかったが、何か間違っている気がしてパトは胸にもやもやすをため込んだ。

「できないやつにできないこと押し付けるのって、イジワルだ」

「それはそうだけど…あ、でもここの掃除を任されたおかげで固くなってた関節が少しは動くようにもなってるんだ。全部が全部悪いことばかりではないな」

 怪我の功名とでも言うように、リュカは包帯に巻かれた肘関節を曲げて見せる。

「そんなことより、パト。ここに来るまでの話を聞かせてくれないか?」

 パトは目を真ん丸に見開いた。

「おれの話信じるの?」

 先ほどまで笑い物にされていた話を。リュカは首を横に振る。

「信じるも何も、よく知らないからパトの話が嘘か本当かなんてわからない。だから、聞かせてくれないか?」

 リュカの表情には先ほどの子供たちのような嘲笑も、大人の面倒そうな疲れた顔もない。パトは迷いながらもリュカに語った。

 断崖絶壁の山肌に雲海を越えて聳え立つその山は、前人未到の地。空気も薄く、人はもちろんのこと、あらゆる動植物の侵入を拒むような場所だった。

 そんな山の頂上、ここからずっと離れた場所にある山の天辺、草木も生えない雲よりも高い峰には竜の巣がある。

 それが竜の峰。白雲の竜以外の侵入を拒む領域。パトの故郷だった。

「……なんでそんなところにパトはいたんだ?」

「おれ、そこに住んでた竜が運んできた巣材に紛れてたらしいんだよね。赤ちゃんだったから覚えてないけど」 前人未到の地。だが、そこに竜の不手際で人間の赤ん坊が訪れた。それがパトだった。

 峰に住む竜たちは、己の不手際でどこからか連れ去ってきてしまった人間の赤子に驚き、責任を感じた。

 だからこそ、竜は大事に人間の赤子を育てた。

 寒さに震えれば翼で守り、水も氷る山頂をパトのために温めた。竜達が食べもしない魚や果実をパトのために山頂へ運んだ。言葉や生きる術を教え、その背に乗せて世界を見せた。

 竜に守られ育てられ、パトは何不自由なく育った。

「竜はね、高いところばかりを飛ぶんだ。それじゃ下の景色がすっごく小さく見えるんだ。本当は大きくて、上からだと小さすぎて見えてない凄いものがあるかもしれないのに……だから旅に出たんだ」

 きっと竜に守られてあの峰で生きて行けば一生を食べ物に困らず、安心して過ごせた。あの場所はきっとパトにとってどこよりも安全な場所だっただろう。

 それを全て投げ打ってたった独りで旅に出た。

 竜の峰を飛び出してから、雄大な川のように大地を割く巨大な蛇の体を起こさないようにどきどきしながらよじ登った。中空を漂うクラゲを追って跳んだ。変な形の石が沢山積み上げられた滝を見て、旅の途中で見つけた氷の花を食べた。

「花びらがパリパリサクサクしててね、花の真ん中にあるツララみたいのが凄く甘くて美味しいんだ。蜜の塊みたいなの!」

 話していく内に旅で感じた楽しさ、昂揚が蘇り、パトは揚々とリュカにこれまでの旅を語った。

 世界は凄かった。綺麗なところも怖いところも沢山あった。おれはもっと沢山世界を見たくなった。遠くからも近くからも世界が見たくて堪らなくなった。

「…なのに途中で大人に捕まっちゃって、ここに連れてこられちゃった」

 肩を落とすパトにリュカは少し困ったように眉を下げる。

「…パトにとっては運がなかったな。パトを連れてきた人達は多分、善意での行動だったと思うんだけど」

 パトは、襤褸を纏ったような格好で徘徊しているところをこの孤児院に連れてこられた。

 そして、連れてこられたパトは、竜の峰から来たなどと信じ難いことを吹聴し、旅に出たいと叫ぶ度に子供たちからは嘲笑と、大人たちからは溜息をつかれ、孤児院の人々から”可笑しな子”という扱いで距離を置かれていった。

 笑われること、話すことを嘘だと信じてもらえない事はパトを嫌な気持ちにさせた。だが、それよりもこの孤児院の中から出られないことが何よりもパトはイヤだった。

「ここは何もしなくても食べ物くれる。それは嬉しい。けど! おれは旅をするために独りでも竜の峰を出たんだ。ご飯が食べられなくなったっておれは旅に出たいんだ!」

「おにいちゃん!」

 パトの魂の叫びを遮るように、幼さ故の独特の高い声が声が割って入ってきた。

 物置小屋の扉の前に焦げたぬいぐるみを抱えたフューシャが立っている。その後ろの景色は夕焼け色に染まっている。

フューシャは地団駄を踏んでいる。独りで物置小屋の外にほっぽり出され続けたのが限界に来たようだ。

「どうした、フューシャ」

「もうご飯だって。おにいちゃんとパト呼んできてって」

「ああ、話しこんじゃったな。行こうパト。このままじゃ折角の食事も貰えなくなる」

「早くしないとなくなっちゃう! パトもはやく!」

 ぬいぐるみを抱えて食堂へ走り出したフューシャを追って、パトは口元から首に落ちていた布をとり、リュカは両腕を振って包帯についた埃を払いながら話を切り上げた。

 孤児院に戻ると、食事の前に埃を落とせと二人で湯浴みをさせられた。盥に大鍋で沸かしたお湯を足しながら体を洗う。

 リュカはフューシャに手伝ってもらって両腕にぐるぐる巻きの包帯を解くのに時間を取られていたので、お先にパトはさっさと盥でお湯を浴びる。お湯は気持ちいいけれど退屈だ。さっさと盥から上がってパトが動物みたいに体を振って水を払うと、不意打ちで隣から水を掛けられたリュカとフューシャは悲鳴を上げた。

「ちゃんと体を拭け! 風邪をひくだろう!」

 リュカはそうパトを叱って、火傷跡の残った両腕でパトの頭をタオルで拭いた。それが力の入らない両腕で頭を挟んでぐるんぐるん回すような動きだったものだから、パトはたまらず目を回して叫んだ。

 お返しにリュカと追加でフューシャの湯上りを扉の前で待ち伏せて頭を無理やり拭ってやると、くすぐったいとリュカは声を上げて笑ったものだから、パトもいつの間にか笑っていた。

 その後、当たり前のようにリュカとパトとフューシャの三人で食事をとった。

 パトはこの孤児院にきてから、いつも他の子供達と離れて食事をとっていた。それはパトの食べ方が獣の様で汚いから他の子供たちから距離を取られ、その食べ方を離れた子供達から嘲笑と冷たい視線を送られるのがパトのいつも食事風景だった。

 それが今日は慌てて食事をする汚れたパトにリュカが向かいでよく嚙んでゆっくり食べるようにと諭し、パトが綺麗に食べられずとも嘲笑の視線を送らなかった。

 それもそうだ。だってパトの目の前でパトと同じくらいやんちゃに食事をしているフューシャがいる。

「フューシャ、食べ物で遊ぶんじゃない!」

 フューシャはパンを千切るばかりで食べないし、スープも首を横に振るばかりで口を塞いで食べようとしない。もう眠そうですらある。

 リュカは必死にフューシャに食べさせようとしているが、リュカ自身もフューシャに食事をちゃんとさせるのに必死で自分の食事にも手を付けていない。

 フューシャは眠そうに、自分の分のパンをパトに差し出した。

「くれるの?」

「んー…」

 限界の様にフューシャは隣のリュカの膝に寝転んだ。リュカは諦めたように自分の分の冷めたスープに手を付ける。

「ごめん。俺は食べるのが遅いからパトは先に休んでていいぞ」

 リュカはそういった。パトの食事はフューシャに貰ったパンしか残っていない。それもパトなら一口で食べられる。食堂には湯浴みで食事の時間がずれた三人しかいない。

 言われた通りにリュカの食事は遅かった。リュカの両腕では綺麗に食事なんて難しい。なのに、リュカは綺麗に食べようとして何度も匙から器にスープを零す。膝のフューシャを起こさないよう気を使いながら。

「リュカもさっきのおれみたいに食べたら?」

「でも…」

「おれは何にも言わないよ。ここにはおれ達しかいないし」

「……」

 しばし逡巡した後、「…今日だけだ」と呟いてリュカはスープの器を両手で持って飲み干した。顎を伝うスープを肩で拭って、そのまま平皿に乗ったソーセージをちょっと躊躇ってから掴んで食べて、他の野菜を平皿から手で流し込んで食べた。

 口の端についたソースを包帯で拭って、リュカは少し恥ずかしそうだ。

「………ごめん、ありがとう」

 なぜかリュカは謝ってお礼を言った。

 こんな食事はここに来て初めてだった。パンを食べ忘れたのだって今日が初めてだ。

 この日は、パトがここに来てから初めての楽しい一日だった。この一日を思い返すと、パトはなんだかこれまでに感じたことのないむず痒い心地にさせた。

 けれど、夜になるとパトはいつも陰鬱な気分になる。

 それはこの声のせい。


 ひっくひっく。ぐすんぐすん。おかあさん、おとうさん。

 孤児院の消灯は早い。油を無駄遣いしないためだ。子供たちは先生たちに急かされて固いベッドに寝転がる。

 子供たちの寝室は、部屋は広く天井は高く作られていて、薄暗くて埃っぽい。昼間の喧騒とは違う静かな騒々しさが広い部屋の中に響く。

 みんな寝入っているのに眠りながら喋っている。そのどれもが湿っていて、パトは頭の天辺までごわごわの毛布をを被って、両手で耳をふさいだ。それでも音は聞こえてくる。眠る前はあんなに明るい声ではしゃいでいた子も、夢の中では暗い声で泣いている。

「パト、眠れないのか?」

 そんなうんざりする夜の中、隣のベッドから聞こえた密やかな声に頭の天辺まで覆っていた布団をめくる。隣のベッドからパトに合わせて寝る場所を移されたリュカが顔を出している。

「慣れてないと眠れないよな。こっち来るか?」

 掛け布団を捲って招くリュカに頷いて、床板を大きく軋ませながら隣のベッドに滑り込む。

 捲られた毛布の中にふわふわとした桃色の毛玉が見える。

「んぅ。お兄ちゃん…」

 フューシャだった。リュカのベッドにはフューシャが先にもぐりこんでいた。ぐっすりと眠っていて毛布を捲られて入ってきた冷たい空気に一度ぐずるように身を捩じっただけで目覚めることはなかった。

「寒くないか?」

 リュカがパトの背中を覆えるように毛布をずらす。

 パトとそう年の変わらないリュカと、その間に寝転がる小さなフューシャ。三人が並ぶとさすがに子供用のベッドは窮屈になった。

「ねぇ、リュカ。昼間はみんな楽しそうだったのに、どうして夜になるとみんな泣いてるんだろ」

 ベッドが敷き詰められた部屋は真っ暗で、そんな部屋の中に響く沢山の泣き濡れた声。

 昼間はパトを嘲笑っていた子供も夜はベッドの中で泣いている。

「夜は色々考えてしまう時間だから。不安に襲われてしまうんだよ。みんな、他の時間は平気そうにしてても、これまでとは違う慣れない生活をしてるんだから」

「みんなずっとここにいたんじゃないの?」

「いいや、違う。ここにいる子供達の多くは、見知らぬ土地に連れてこられて、慣れない生活を強いられている…だから、押し隠している不安が夜になると溢れてしまうんだろう。フューシャだってそうだ。今は寝てるけど、いつも一人では眠れないんだ」

 寝ている子を起こさないように密めた声でリュカは語る。

 リュカの声は波のない湖のように静かだった。リュカはみんなが不安になるというが、その中にリュカが入っているとはパトには思えなかった。それに、二人の間でフューシャはすやすやと寝ている。不安とは無縁そうに健やかに寝ているようにパトには見える。

「……特に、ここの子供の多くは火事でここに来ることになった子が多いから。その時の怖い経験を思い出してしまうのかも」

「リュカも? リュカも不安になるの?」

「…ああ。俺の腕も火事でこうなったから」

 パトに尋ねられて、静かに語るリュカの顔が一瞬だけ苦しそうに顰められる。それを見るパトの目を振り払うように、リュカは話題を変えた。

「それより、パトはまだ旅に出るつもりなのか?」

「当たり前じゃないか」

 孤児院に連れてこられてからもパトは何度も何度も旅に出ようとした。なのに、パトはいつも子供たちに見つかって、大人達に捕まった。

 パトはその度に孤児院の大人たちに無駄なことはやめろと叱られて、パトは頭が足りないのだと子供たちに笑われた。きっとその通りなのだとパトも思う。

 ここに連れてこられたのだって、旅の途中で人里近くを通りかかった時、轍が物珍しくて、そこにできた水たまりでパトが遊んでいるところを近隣住民に孤児として捕らえられた。

 それでもずっと旅に出たいと叫んできた。

「おれ諦めないよ。笑われても叱られても呆れられても、おれは旅に出る。絶対の絶対に出るんだ」

 パトは強い目でそう宣言した。

「……いつになるかはわからないけど。おれ、本当にいつも簡単に捕まっちゃうから」

 意気込んだ様子からふにゃりと空気が抜けたように笑うパト。

 パトのその様子に、リュカは少し黙ると、枕の下に手を入れてそれを取り出した。

「……なあに、それ」

「…地図だよ」

 リュカは少し逡巡してから答えた。枕の下から引っ張り出された紙切れ。折りたたまれたその地図を開いて見せる。地図の間には茜色の上質とわかる紙切れが二枚挟み込まれていた。地図を見せられて首を傾げるパトにリュカは教える。

「これは魔法使いの園への行道を記した地図なんだ」

 リュカはベッドの正面にある窓のカーテンを少し開けて、地図の上に星明りを落とすと、その上に指先を滑らせる。

 リュカは潜めた声で語る。

「そこには不思議なものが沢山。空を流れる川、光り輝く大地、歌う花に満ちた園」

 ごわごわした毛布を二人で頭の天辺まで被って、星明りに照らされた地図をリュカの指がなぞる。魔法の地図はなぞる指先に道を開けるようにインクが捌けていく。

「魔法使いたちの園」

 地図に刻まれたインクがぺりぺりと音を立てて剥がれ、飛び出す絵本のように立体的な地図を描く。

 川は空を滑り、空にはいつまでも星が流れる魔法使いたちの町。リュカは枕の下から取り出した紙切れ──地図の上に指先を滑らせながら語る。

 リュカ静かな声で語る。その声を聞けば聞くほどパトの目は星のように輝きを増していった。

「凄く素敵な場所なんだって」

 パトにはリュカの言葉の意味が何一つわからなかった。地図に記された文字も読めなかったし、地図の絵の意味も魔法使いがなんなのかも何もわからなかった。なぜ、リュカがその地図をパトに見せたのかもわからなかった。けれど、次にリュカが口にする言葉をパトは息も忘れて待っていた。

 リュカは口を開いた。

「一緒に行かないか?」

 リュカはパトを見つめた。見つめたその目は、きらきらと星のように輝いていた。

「うん!」


 そうと決まればリュカの行動は早かった。食事に出るパンを服に隠す。物置小屋に捨て置かれた鞄を集め、中に旅に必要になりそうな道具を詰めて物置小屋に積みあがった古びた机や椅子の下を掻い潜り、その奥に集めた荷物を隠した。

「もうすぐフューシャに迎えが来る。その日の前の晩が一番追手から逃げやすいと思うんだ」

 好機はフューシャの迎えが来る前日の夜。

 いつもパトが逃げ出さないように目を光らせている大人たちも、フューシャの迎えを出迎えるためにパトを注視し続けることはできなくなるだろう。

 好機はこの日、この夜。それが俺達の旅立ちの日。

「迎えって?」

「新しい家族だよ。その新しい家族と一緒にフューシャはここから出て行く。ここを出て新しい家族とどこかで暮らすんだ」

「リュカは一緒じゃなくていいの?」

「俺は一緒にはいられないんだ」

 素っ気無くリュカは答えて、集めた荷物を鞄の中に詰めていく。

 リュカは動き辛い両腕でも背負える肩掛け鞄、パトは大容量のリュックを選んだ。

 荷物の中身は、固いパン、皮でできた水筒、殆ど溶けた蝋燭とヒビの入ったランプ、替えの服一式、穴の空いた毛布、錆びた羅針盤、替えの包帯、蓋が開け辛い軟膏、塩、など他にも詰められるだけ詰めた。

「パト、重くないか?」

「大丈夫!」

 パトは大人も嫌がりそうな程重くなったリュックを背負って軽やかに跳ねる。

 また旅に出る喜びと昂揚でパトの体は地図を見せた時からずっと浮き上がったようで、重い荷物にパトの両肩よりも物置小屋の床板がギシギシと悲鳴を上げる。

 パトの荷物が重いのは、リュカの分も幾らか負担しているからだ。リュカの腕と体力では持てる荷物には限りがある。

 リュカは渋い顔でパトに言う。

「誘っておいてあれだが……本当に俺と一緒でいいのか? 俺はこんな腕だから、必ず足を引っ張る。荷物だって殆どパトが持つことになって……」

「それも大丈夫!!」

 パトはまだまだ跳ねながら胸を張る。

「俺がリュカの両腕の分まで頑張るから!」

 パトの声に虚を突かれたリュカは、息が抜けるように笑った。

「わかった。頼りにしてる」


 寝息と時計の音だけが聞こえる時間。夜泣きの声すら聞こえなくなった部屋で寝入るフューシャの頭を撫でる。

「おにいちゃん…」

 すると、フューシャは穏やかな顔で寝言を零す。それに引っ張られそうな気持ちをぐっと堪えて、粗末な毛布をしっかりと肩が隠れるようにかけて、寝台の横に手紙を置く。

 準備はできた。

「……元気でな。フューシャ」

 床板を軋ませないように、ゆっくりと孤児院の廊下を抜ける。大人たちが晩酌する部屋の前を息を殺して速やかに駆け抜けて、孤児院の重い玄関扉を開けた。

 二人は夜闇の中を走った。まだ冬の名残が強い夜を走り出す。息は白くて、肺は痛い。けれど足は軽く、早かった。頬を赤くして、真っ白な息を吐き出して走った。

 濃い藍色の夜空の下で、蛇腹道を冷たい空気に胸を刺されるような痛みの中走った。

 痛みも夜空の星を見れば気にならなかった。

 白い息を吐きながら走った夜は、産まれて初めて見るのではないかと思う程別物のように美しかった。

「どこまで走るの?」後ろからパトが尋ねる。

「大人たちが追いつけないところまで!」リュカは答えた。

 星のよく見える夜に小さな人影が走る。まだ寒い夜に息は白く、鼻と頬を赤くして。

 肺が冷たい空気に刺されるの構わず、夜空の下を二人は走り続けた。

 夜空に太陽の光が差し込んできた頃、川の手前で、ようやく二人は走るのをやめた。

「リュカ! ここまでくれば、おとなは来れないの?」

「す、少なくとも、時間、時間は稼げる、筈……」

 激しく息切れして膝に手をついたリュカは、震える手でポケットから地図を取り出した。視線は地図のインクは現在位置に小さな渦を作っている。それを確認して、リュカは来た道を振り返る。

「……本当に旅に出たんだな…」

 冬が明けてもまだ息が白くなる季節。昂揚が体を暖かくする。けれど、それが急速に萎む。なぜか、急に、不安になる。心細いような、寂しいような。

「フューシャ…」

「ぃいやったああー!!」

 リュカが不安に落ち込みかけた時、その隣でパトが両拳を振り上げて飛び跳ねた。

「すごいすごいすごい! すごいよ!」

 パトは飛び跳ねまわりながら興奮して感嘆の声を上げるものだから、思わず孤児院の方角に向けていた視線を向けるリュカ。パトは昂揚で紅色した頬に満面の笑みを浮かべて叫ぶ。

「いままで一度もうまくいかなかったのに! いっっっつも見つかってたのに! リュカってすごい!」

リュカは息と共に肩の力が抜ける。

「それはいつもお前が何も考えずに飛び出していたからだ。ちょっと考えればお前一人でだっていつでも外に出れていた」

 見つからないように真夜中に孤児院を出ること、軋む床板を踏まないこと、扉を大きな音で開けないこと、孤児院の外にある獣よけの罠にかからないこと。これに気をつけるだけで旅には驚くほどあっさりと出れた。きっとそのうちパトも一人で旅に出れていたことだろう。

「そんなことないよ。おれ一人じゃ絶対無理だった!あっという間に抜け出せた! リュカがいたから! すごいよ!」

 リュカは手放しに褒められて居心地悪くて赤い頬を包帯でこする。

「ここからまた、旅に出るんだ!」

 目を輝かせてパトは施設とは逆方向、夜が去り始め、朝焼けに輝く川の果てを見やる。

 旅の始まりだ。


「見て! 見たことない魚がいるよ! デカい! デカい!」

「おい…そんなに身を乗り出すな…落ちるから、危ない! 危ないから!!」

 リュカの叫びと大きな水しぶきを上げて、パトとリュカの旅は始まった。

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