床屋の耳かき
都内某所。
空もすっかり暗くなった時間帯に男は歩いていた。ロングTシャツの上に革ジャンを羽織った若い男だ。どこかで見た映画俳優のようにもみあげから顎にかけて髭がつながっていて、かけた縁の太い眼鏡も洒落たものだった。
男の名前は田村という。今彼が向かっているのは行きつけの床屋だ。
住宅街にある角地の床屋。手動のガラス戸を押して入ると、散髪用の椅子と鏡が三組置いている。いつものように短い挨拶を交わした田村は、いつものように一番端の椅子に座った。
髪は先日切ったばかりなので今日は髭を整えてもらうだけだ。身だしなみにはこだわりのある男なので自分でもそれなりに出来るのだが、やはりプロの腕には敵わない。田村は何か行事ごとがあるたびにこの床屋を訪れていた。
リクライニングの椅子に背中を任せ、田村が脱力しているといつものように髭剃りが始まる。初老の店主の剃刀さばきは軽やかで、手首が翻るたびにスルリスルリと髭を剃り落としていく。
ほやほやと湯気の立った蒸しタオルが顔から上げられたとき、下から現れたのは余計な髭と脂を落とされたつるりとした頬と、それを縁取るようくっきりと
鏡に映った自分の姿を一瞥し田村は満足そうに息を吐く。そうして、二言、三言と店主とやり取りをした後、ゆっくりと目を閉じた。
そのすぐ後に田村の瞼を覆ったのは温められたタオルだ。ほかほかとしたタオルに目の周りの筋肉が緩んでいくの感じていた。
脱力する。
リクライニングに自分が背中が馴染んでいくのを感じながら、田村は次の刺激を待った。
絹すれと足音が聞こえる。店主が回り込んだのは彼の右側だ。カチャリと何か器具のようなものを取り出す音がすると、それはゆっくりと田村の右耳に近づいてきた。
もちろん田村はその正体を知っている。
耳かきだ。
材質は竹で、濃い茶色をしている。
ここに来た一番の目的はもちろん髭の手入れなのだが、田村はこの耳掃除も密やかな楽しみのひとつとしていた。
店主が耳掃除を始める旨を伝えると、田村は深く息を吐きさらなる脱力に努める。
店主は両目をタオルで覆った田村の右肩の上に二つ折りにしたティッシュペーパーを置くと、僅かに首を
耳かきの先端が最初に触れたのは
タオルの下で目を閉じた田村は、耳元で聞こえるカリカリという音を楽しんでいた。
耳の外側に薄く溜まって層になった垢が少しずつ取り除かれていく。もちろんその様子見えはしないのだが、耳元のカリカリという音が垢が剥がれていく様子を田村に教えてくれていた。
店主の操る濃い茶色をした耳かきは幾度も田村の耳介の上を小刻みに行き来する。耳の中と違い、刺激に強い耳の外周だけあって力加減は強い。
それが古くなった皮膚を削り、耳の溝に詰まった老廃物を掘り起こす。掘り起こされた老廃物は二つ折りにしたティッシュの上にこすりつけられ、空っぽになった耳かきの匙は再び田村の耳へと向かう。
不要な物をはぎ取られた耳はじんわりと赤くなり熱を帯びたとき、田村は肺腑の奥から熱い息を吐いた。
そうして耳掃除は次の段階へと移行する。
先ほどまで耳の外側を掻いていた耳かきは静かに孔の中へと進んでいく。とはいっても、最初から孔内へ侵入するわけではない。最初に触れたのは縁の部分だ。
指の先でもまだ触れることが出来る部分。そこにそっと耳かきの先端が当てられる。先ほどまでと違い、その部分は外皮ではあるが敏感な部分だ。力加減は自ずと柔らかなタッチに変化していき、先ほどまでの掘り起こすような動きから
田村はこの音の変化が好きだった。力強く刺激していた耳かきの動きが一転して繊細なものへと変わる。特に馴染の店主は田村の好みを熟知してくれていて、この部分を入念にやってくれる。
まだ指で触れられる、外からのぞき込まなくとも視界に触れられる部分。その孔の縁を引っかけるようにして耳かきの匙が当たる。それが堪らなく心地よい。
サリサリと耳かきは穴の縁を
特に正面から見て後方の部分。そこには浅い窪みがあり、入口近くでありながら指では触れられない部分がある。そこに耳かきが触れた。
カリッ……と切っ先が引っ掛かる音が聞こえた。
耳垢が塊になって貼りついていたのだ。
店主はそれを耳かきの匙で少しずつ引きはがしていく。
ぺリ、ぺリッ、と耳垢の塊がその端の方から剥がれていく。そうして幾度目かの刺激の後、ひときわ大きな音がベリリッ……と鳴り強烈な解放感が田村を襲う。
垢の塊が引き剥がされたのだ。
店主はそれをゆるゆるとした手つきで耳の外へ運び出すと、田村の右肩の上に置いたティッシュペーパーの上に置く。目元をタオルで覆われているので地震では見えないが、大物が引きあがられたことだろう。
そんな行為が何度か繰り返された後、耳介には砕かれた耳垢の破片が塵のように散っている。
耳孔の中の大物を粗方撮り終えた店主は、軽い指使いで耳かきを操り耳介に積もったそれを匙の部分で掃き出していく。
ささ……っと、手際よく塵となった耳垢が匙に
弱い力。
だがほぐれた耳にはこれで十分だった。
耳の穴の中の垢を舐めるようにこそぎ取った後の脱力した肉体には、これくらいの刺激が心地よい。
シリシリ、シリ……と鋭い匙の先端が柔らかに撫で上げる。
そうして店主は、くるりと耳かきの上下を逆に持ち替えて仕上げへと入っていく。
構えた耳かきの先端についているのはフワフワとした羽の毛玉――梵天だ。
店主は両目の覆われたままの田村の耳たぶに指を添えると、狙いすましたように梵天を穴の中へと没入させていった。
毛先でゆっくりと擽るような真似はしない。
ずぶり……と、白い毛玉は田村の耳の穴の中へと消えていく。耳道の中ではゾワゾワと無数の毛先が躍っていた。
店主が手首を軽く動かせば、ザザ、ザザッ……擦過音が響き、指に捻りが加えられると、ゾボボゥ……っとうねるような攪拌音が轟く。もちろん耳の中だけの出来事故に周囲や店主にすらその音は聞こえない。田村だけに聞こえる
体内を妖しくまさぐられる感覚に田村の肌が粟立っていく。
耳壁に残った耳垢の残骸や、耳毛の先についた粉状の耳垢が拭き取られ、ずふぅ……と、嫋やかな手際で梵天が耳の孔から抜き取られたとき、田村の総身がぶるりと震えた。
店主はタオルで田村の右耳を拭うと、耳たぶにタオルをかけた状態で耳孔を塞ぎトントンと軽く叩くようにして刺激する。すると再び田村の孔内で
リラックスした身体は椅子の上でぐにゃりと崩れ起き上がることさえも困難だ。
そんな田村の目元からタオルを外すと、店主は新しいものに取り換えたまま田村の左手に立った。
<了>
耳かき小説 ー短編集- バスチアン @Bastian
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