夕立刻む視線

長月瓦礫

夕立刻む視線

その男は信号の前に立っていた。

数十メートル先の横断歩道で、手ぶらで立っている。

灰色のスーツで20代くらいだろうか、男がじいっと突っ立っている。


突然の夕立で傘を持っていなかったのだろう。

全身がぐっしょりと濡れているのが遠くからでもよく分かった。


男は傘をさしている私をにらんでいる。

傘を持っている人を殺したくて仕方がないとでも言わんばかりに、私を恨めしそうな表情でにらみつけている。


長いこと雨に打たれていたからか、両目から大量の涙を流しているように見えた。

いや、本当に泣いていたのかもしれない。


怒りでゆがんだ表情、涙を流している。


雨音に紛れて、何かが聞こえる。

男はずっと何かを呟いている。


私は殺意という言葉を身でもって理解した。

あの男は私を殺そうとしている。


雨の中、傘もささずに、スーツの大人が手ぶらで立っている。

滝のように流れ落ちる雨粒を頭から受けて、両目から涙を流している。

泣きながら私をずっとにらんでいる。


近くにある鉄塔は何も言わない。

男の背中越しに見える横断歩道の信号機も、赤と青に何度も切り替わっている。

機械だから当たり前だ。


あの男はただ、殺意を私にぶつけている。

雨が降り続く。雲は分厚く、あたりはほのかに暗い。車一台、通らない。

それでも、信号は仕事を続けている。


ここにいるのは、私とあの男だけだ。


あの男が夕立を呼び、他の世界と遮断したかのように思われた。

そして、雨の中に迷い込んだ獲物を狙っているのだ。私を静かに狙っている。

獣のような鋭い視線が私に集中している。


鉄塔や信号機、マンションなど、眼中にない。

ここにいる私だけを見つめている。


──これ、近づいちゃいけないやつだ。


あの人はいわゆる異常者であり、関わっちゃいけないタイプの人だ。

こんな雨なのに傘もささずに立っているなんて、どう考えてもおかしい。

顔を伝う雨粒は涙、途絶えることのない呟きは誰かを呪っている。


ここから先へ進んではいけない。

この道を通ってはいけない。

私の勘がそう囁いている。


それと同時に悟ってしまった。

あの男がこの場を支配し続けている限り、私は逃げられない。殺されるしかない。


雨は降り続く。鉄塔は立ち尽くしている。

道路を走る車はなく、信号機はいつもと変わらず光っている。


ここを通らないと私は家に帰れない。

理不尽極まりない無意味な校則のせいで、他の道を知らないのである。

今更、引き返すこともできない。

自宅まであと数百メートルだ。


私は改めて男を見た。

私を睨み、涙を流しながら、何かを呟いている。

言語にできない何かだ。


──この人がいなければ、家に帰れるのに。


この男さえいなければ、私は家に帰れる。

そうだ、こんな異常者はこの世から消えるべきなんだ。

誰かを呪うような奴なんて、消えてしまえばいいんだ。


そう思った瞬間、私はおもむろに傘を閉じた。

そして、両手でカバンを持ち、片足を軸にして体を回す。


教科書やら何やら入っているから、重量はそれなりにある。これを毎日持って通う私の身にもなってほしい。

こんな雨の日は、特に荷物が増えて鬱陶しい。


だから、こんなところで突っ立っているな。

お前、邪魔なんだよ。


カバンをタイミングよく手から離し、放り投げた。

カバンは宙を飛ぶ。雨空に歪んだ放物線を描いて、男の頭の上に落ちた。

鈍い音がして、何も言わずに倒れた。


視線はようやく途切れた。

悪は去った。これで平和が訪れる。

ようやく、家に帰ることができる。


私はゆっくりと呼吸を繰り返しながら、カバンを拾いあげた。

教科書が何冊も入っていてとても重い。

男は起き上がる様子はない。


私は何も言わずに逃げるようにその場を去った。

私が横断歩道を渡ったことで、信号機は役目をようやく果たした。

雨は今も降り続いている。

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夕立刻む視線 長月瓦礫 @debrisbottle00

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