苦いキスには甘い残り香

藤咲 沙久

バニラ


 ──起きたか。おはよーさん、咲斗さくと

 なぜか今も耳に残る、低い声。


 独特なバニラ香る煙が吐き出されるのを、あの日のオレはぼんやりと眺めていた。その光景を妙に覚えている。ベッドに投げ出した四肢はピクリとも動かせず、身体が疲労と余韻に満ちた明け方。他に何も考えられなかったからかもしれない。

(しょうもないこと思い出してんなよ……)

 悪態代わりにフィルターを浅く噛む。アイツに男と煙草を教えられたのは、もう何年か前の話だ。大学の先輩後輩より少しだけ近しい“何か”になった、きっかけ。

 付き合ってたような、そうじゃなかったような。大事にされてたような、そうじゃなかったような。曖昧で不確かなまま、何の前触れもなく突き放されたのが少し前のこと。雪晴きよはるはそんな男だった。

「……前から気になってたんだけどさ。それ、なんなの」

 たしかオレは働かない頭のまま、乾ききった喉でそんな風に問いかけた。案外記憶は鮮明で、映像のように浮かんだ雪晴が笑う。長い襟足がそれにあわせて揺れる。そしてこう答えるんだ。

「どーう見ても煙草だろうよ」

「そゆこと言ってんじゃねぇから。煙いのに微妙に甘くて……変だし、好きじゃない。そもそも煙草苦手」

「はっはぁ、咲斗はお子様だねえ」

 ついさっき子供じゃなくされたんだよ、とは言えず軽く睨む。もちろん雪晴には効くわけもない。アイツはいつだって余裕の笑顔だ。別れを告げてくる時だって、そのスタンスは変わらなかったのだから。

(というか、アレは大人というより“女”に……いや、それはいい)

 つい過去の自分に突っ込みを入れそうになる。誤魔化すように首を左右に振ると、雪晴よりも長くなった髪が、背中で静かに揺れた気がした。

 ポケットから携帯灰皿を取り出して、ふとこの会話には続きがあったなと考えた。なぜ吸いかけを灰皿に置くのかと聞いたのだ。雪晴の「缶コーヒーを一息に飲まないのと同じ」という回答は、自分も吸うようになってようやく理解できるものだった。

「ちゃんと消さないとダメなんじゃねぇの?」

「いい、いい。また吸う」

 相変わらず動けないままのオレを、ニヤニヤしながら覗き込んでくる雪晴。嫌な予感はきっちり当たった。バニラの煙を含んだキスはただただ苦い。肺までおかすな、そんな反論も飲み込まされる。激しく咳き込んだ痛みが今では懐かしく、慣れとは恐ろしいものだと感じた。

 思えば、あれが雪晴から唇にされた初めてのキスだったのではないか。だから煙草の味に驚いたんだ。

(ひでぇな。なんであんな奴に惚れたんだよ)

 自嘲しながら口の中で煙を転がす。甘いのは香りだけだ。雪晴と同じ。心を寄せるほど苦さが増し、そのくせ人を惹き付ける男。煙と一緒に現れては記憶を優しくなぞってくる、低い声と強い瞳。雪晴……キヨ、先輩。蘇る言葉は続く。

「なあ咲斗。嫌いじゃないなら、そのうち好きになるぜ。なんなら吸ってみりゃあいい」

「っけほ……好きに、なんか、なるかよ……」

「なる。だってなあ、お前にとっての俺みたいなもんだろ?」

 ああ、本当にそうだった。最初は好きになんかならないと思ってた。軽薄で腹の読めないチェシャ猫みたいな雪晴。なのにオレは惚れて、別れても引きずって、愛煙家にもなっている。全部見透かしたような表情だったのが少し、ムカつく。

 甘い煙が周りを漂う。そういえば、あの時アイツが灰皿に置いた煙草は結局、吸われもせずに灰を延ばしていた。

(……まるで)

 雪晴の消し忘れた煙草が今もくゆっているかのよう。オレはそれに囚われている。喫煙を、同じ銘柄キャスターを止められないでいる。

「いつまでそこにいんだよ、キヨ先輩……」

 早く、どっかいっちまえ。オレを置いてったみたいに消えてくれ。そう願うくせに、オレはゆっくりとバニラ香る煙を吐き出すしかなかった。

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苦いキスには甘い残り香 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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