ギロチンカーブの鎮魂歌

目々

!:その他の危険

 ホーンが三度、獣の叫びのように響く。湿った闇に爪を立てながら残響は消え、夏の煮立った夜は再び不穏な静けさを取り戻す。


 淀む闇には微かな虫の声と吹き抜ける風の音、それにそぐわぬ駆動音だけが低く響く。夜に覆われたアスファルトを、道路照明灯が時折点滅しながら照らしている。その光の届く縁に目印のように佇む道路標識にはぽつぽつと錆が浮いている。


 薄汚れたガードレールは昏い空を背にしていつかと変わらずそこにあった。


 唸るバイクのエンジンを切り、降ろした右足がアスファルトを踏みつける。少しだけ逡巡するように周囲を見回してから、藤村は煙草を一本取り出す。


「うるさいことしてんじゃないよ小僧」


 低くしわがれた声が耳元で囁く。

 一陣の迅風が藤村の顔面を叩き、たまらず目を瞑る。風はすぐに止み、


「今何時だと思ってんだい。こんな山の峠だってねえ、夜は静かにするもんだ」


 山中には似つかわしくないほどにぴしりと着付けられた和服は淡藤色。夜闇に滲む影のような色合いだ。服装とは裏腹にざんばらの白髪は腰まで伸び、ざらざらと風に靡く。皺深い顔の中で眇められた眼は穴のように昏い。

 血の気のない顔の中でぽつりと赤い唇には火の点く前の煙草が咥えられていた。

 藤村は動じる様子もなく、その先にライターを差し出す。老女は慣れた様子で火を受けて、そのまま白く細い煙を吐いた。


「山の峠に夜いるようなババアに正論吐かれたくねえな。でも煙草毟るのはどうなんだ、それもよ」

「迷惑料だよ。夜に峠に来るような若造が何か言えた義理かね。走りに来たならさっさとやんな……死体埋めるなら他所よそ行きな、ここはそういうのには向いてないんだ」


 何しに来たんだいと至極常識的な問いを異様な老女から投げ掛けられて、藤村は笑い交じりに答える。


「走りに来たって言ったら信じるか」

「嘘つきは首をかっ切るよ」


 ひらりと袂を揺らして持ち上げられた右腕は枯れ枝のようだった──その指先は照明灯の微かな明かりを弾いて刃物のように光っている。

 藤村は数度首を振ってから顔全体をくしゃりと歪めた。


「悪かった……元気そうだな、マッハババア。相変わらず手も足も速い」

「久しぶりにツラ見せたと思ったらロクなことをしない。も一度聞くよ、何しに来たんだい、こんな山の中に」


 老女──マッハババアは藤村を睨めあげる。穴ぼこじみて昏い目から何かが這い出すような気がして、藤村は目を伏せて答えた。


「……十年目の命日だからさ、顔見せに来たんだよ。あいつに」


 藤村はバイクの後部座席に不格好に括りつけられたボックスを開く。取り出されたひどくささやかな花束を見て、マッハババアは痩せ細った指で自分の喉を撫でた。


「最初から正直に言いな──そうかい、まだ十年しか経ってないのか」

「人間からすりゃもう十年だよ。十年経てば何もかも変わる」


 あんたは変わらないようで何よりだという藤村が言えば、マッハババアは小さく鼻を鳴らした。


 マッハババア。端的に言ってしまえば『高速で路上を走行する怪異』だ。全国各地で目撃されるは老女の姿をしていて、高速道路に出没し、車やバイクに追いつき、抜き去っていくと語られる。

 藤村の目の前にいる老女──マッハババアもその通りの怪異だ。ただ彼女が縄張りとしているのは高速道路ではなく、この寂れた峠道ワインディングロードだった。


「人が来なくなったような気はしてたけど……そう、十年も経ってたんだねえ。追いつける相手がいないのはいつものことだったから、小うるさい連中がいなくなってるのには気づかなかったよ」

「今の若い子、そもそもバイクに乗りたがんないしな。暗い山道で速い遅いでぎゃあぎゃあやるより、楽しいことが沢山あるからな、今はさ」


 曲がりくねった峠道を、己の技術と機体の性能だけを頼りに走り抜ける。あの頃ここに集まっていた連中は皆それだけに執着していた。ただ速く、誰よりも早く夜を走り抜ける。それ以外に価値も目的も何も見い出せなくなった病んだ獣のようなやつらが、ほんの僅かな夜のひとときを貪るように走っていた。

 だがこの峠にはバケモノがいた。テクニックもチューニングも知ったことかと、人間のなりをした二本の脚ですべての走りを軽々と抜き去っていく怪異──マッハババアが。

 、と藤村は思う。だからこそ、あいつらは熱狂したのだ。バケモノだろうが何だろうが、己の信仰する速さスピードにおける絶対的な強者。目の前に存在するそれをいつか打ち負かすことを夢想して、何もない人生を燃料にして生きる理由を見つけたと思い込みたかった。


「あたしとしてはどうだって良かったがね……そもそも走る人間どもあんたらのが本分だ、どうあがいたって勝負は見えてるだろうに」

「そんなことはどうでも良かったんだよ。自分より速いなら、どうにかして追い抜かないと気が収まらない。そういう連中だったんだよ、みんなさ」


 藤村の言葉にマッハババアは細い首を傾げた。


「随分他人事じゃないか」

「当たり前だろ。俺は諦めが良かったからな」


 結局は中途半端なのだと、藤村は胸の内で自嘲する。他の連中のようにひたすらに走ることだけに執着もできず、かといって一人だけで長い夜と日常に耐えられるほどに頑強でもなかった。

 マッハババアに追いつくなどという大それた妄執ゆめは抱けなかった。何者かになろうという欲望は、に踏み躙られていた。


 藤村はもう一度胸元から煙草を取り出し、今度こそ咥えて火を点ける。どういう仕掛けかしらないが、マッハババアの煙草は一向に短くなる気配はなく、その癖夜闇に細い煙をたなびかせている。

 口の端に煙草を咥えたまま、マッハババアが言った。


「あの子はちょっと良かったね。覚えてるよ、赤いバッタみたいな単車であたしに並んで、カーブを曲がった……」


 あんたの友達だったんだろうというマッハババアの言葉に俯くように頷いて、藤村はガードレールに凭せ掛けた花束を見つめる。


「命日なんだよ。十年かかったけどな、ここに来るのに」


 ガードレールはただそこにある。あの夜の惨劇の痕跡は何一つなく、ただ峠道の夜に相応しく土と砂に汚れているだけだ。


「地元の若い連中にさ、ちょっとだけ有名なんだよ、ここ」

「名所にでもなってるのかい」

「事故ったやつの首を掻っ切る、ギロチンカーブだってよ。ひっでえ名前だよな、本当に……」


 ほんの少し、躊躇のような間のあとに藤村は長々と煙を吐き出した。


 この峠名物の連続するカーブ、その中でも最難関と歌われた魔のカーブに境界線の如くに設置されたガードレール。

 十年前、そのガードレールを曲がり損ねて死んだ男がいた。地元最速に最も近づいた男。憧憬、嫉妬、敬慕、すべてがあいつに捧げられた──あいつは、島郷はそういう男だった。


 友人だった。小さい頃からずっと友達だと、そう思って付き合い続けていたのに、何一つとして対等にはなれなかった。

 藤村が何かを始めると、島郷も後を追うように楽しげに手を出す。そうして、いつだって。勉強も、人望も、遊びでさえもそうだった。

 誘い合って免許を取って乗り始めたバイクでさえ例外ではなかった。それまでの全てと同じように、藤村どころか誰よりも、島郷は速かった。


 だからこの峠で走ることになった。

 顔見知りの顔色の悪い先輩が、伝書鳩のように誘いを持ってきた。島郷は挑戦者として、俺はいつもと同じようにおまけとして呼ばれただけだった。


 マッハババアと島郷が走る地元最速が決まるとスピード狂どもが沸いた夜、島郷がエンジンに火を入れた瞬間に予感がしたとでも言えば結構な物語なのだろう。けれども俺はその他大勢の馬鹿な観客ギャラリーの熱に気圧されながらぼんやりとその背中を見つめていただけで、不穏の予兆にも悲劇の気配にも何一つ気づかなかった。


 友人だったはずなのに。


 葬式で遺影になった島郷を見たとき、と真っ先に思った自身に対してとてつもない吐き気を覚えた。

 生者は死者を置き去りにする。ただ生き続けるだけで、その距離はどこまでも遠く隔たっていく。島郷は十年前のあの日で立ち止まり、藤村は彼のいない年月を歩き続けた。

 行けども生けども島郷はいない。傍らにも、その先にも、どこにもいないのだ。十年間、分かり切ったことを何度も思い返していた。

 それでも藤村の背には彼の視線だけがまとわりついて離れずにいるのだ。


「あの瞬間、ほんの一瞬だったけどね。あの子、


 藤原が目を見開く。マッハババアはどろりと黒い眼を向けて、そのまま続ける。


「その時点で人間業じゃない……そのままくたばらなきゃ、本当にあの子が最速になれたのかもしれないよ」


 そう言って老女は盛大に紫煙を吹き上げ、口の端を僅かに吊り上げた。


 島郷の事故から、急速にこの峠で走る連中は減っていった。無惨な死が衝撃だったのはその通りだが、実際の原因はそれではないと藤原は確信している。

 あの夜、島郷の走りを見ていた連中は知ってしまった──怪異すら追い抜いたあの走りを超えることなど誰にも出来はしないと、そう理解してしまった。

 どいつもこいつもそれが致命傷だと分からない程、馬鹿ではなかったというだけのことだろう。


 生温い風が吹きつける。いつの間にか短くなっていた煙草を携帯灰皿に放り込んで、藤村は天を仰いで溜息をつく。


 見上げた曇天を裂くように、叫びのような始動音が響いた。


 溢れる動力を堪えきれずにエンジンが上げる唸り。夜闇に低く響く振動音に、微かに悲鳴じみた高音が混ざる。


 藤原はゆっくり、音の方へと振り返る。

 照明灯の光の際、夜の裂け目に突き立てられた道路標識に寄り添うように、それは


 燻る悲鳴を上げるバイクに跨る影には明らかに頭部が欠けている。

 影のように真っ黒な姿だというのに、藤村には


「相変わらずいい音鳴らしてるじゃないか。豪勢だねえ、お出迎えにさ」


 老婆はじろりと藤村の方を見る。

 藤村は黙って、首を振った。


「帰るよ。明日の朝も早いんだ……午前で仕上げないといけない書類があってさ」


 藤村には生活がある。ただの平凡な一市民として、平均的な月給と規則正しい時間割の中で何の変哲もない日常をやり過ごすのだ。そうやって十年間を生きてきた。この先も、この夜さえも明けてしまえば、同じことが続いていく。それが藤村のような凡人が獲得し、維持してきた人生だ。

 老婆は瞬きをしない穴ぼこの目を藤村に向けたまま、


「そうかい」


 忽然と、そんなものは最初からいなかったかのように老婆の姿が掻き消える。落ちた煙草の吸殻の先端はじりじりと赤く光ったまま、すぐに路面に呑まれるように消えた。


 藤村は背を向け、停めたままのバイクに縋るように手を掛ける。あの夜に永遠に隔たってしまったものは、どうしようもないほどそのままの姿だ。ガードレールの向こうの深淵に呑まれた首は、現世こちらには二度と還らない。あの懐かしい笑顔は最早遺影のものしか思い出せない。それは藤村がどうしようもなく生者であるからこその証明でもあり、だからこそ十年も目を逸らし続けた理由でもある。


 連れて行ってくれと、今更縋れる立場でもない。


 ここにはもう来ない。もう思い出さない──震える手で、ハンドルを握る。

 瞬間すべての音が途絶え、不吉なほどに静かな夜が甦る。ハンドルを掴んだ手は凍りついたように動かない。


 背を向けた闇の彼方から、ホーンが三度。死にゆく獣の声音で鳴り響く。

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