トリガー

しがない

1

『今からこっち来れる?』


 それが雅灯みやびから来た、七年ぶりの連絡だった。


 こっち、というのは恐らく雅灯が今も住む、僕の地元でもある場所のことであり、そこに行くこと自体は問題がないのだけれど、今というのがあまりにも唐突過ぎる。


 仕事が終わり、帰宅して、ご飯を食べて、風呂に入って。現在時刻は二十二時手前。着く頃には日付が変わっているだろう。そうなると実家に押しかけるというのも気が引けるし、まさか雅灯の家に泊まるというわけにもいかない。


 適当な理由でもつけて断るか、あるいは無視をするか。そうするのがまず順当ではあると思いつつ、しかし僕は半ば無意識的に『分かった』と返信をしていた。


 寝間着から着替えながら、我ながらどうしてこんな酔狂なことをしているんだろうと自問する。明日は仕事だってある。まず今行けば明日の会社には間に合わないだろう。ただ、七年越しの返信が嘘なんていうのは嫌で、欠勤の言い訳を考えながら僕は行くことに決める。


 ショルダーバッグに財布とスマホと読みかけの本を放り込み、モッズコートに袖を通し、若干へたれたスニーカーを履いて部屋を出た。しん、とした冬の夜の空気がしっとりと溶け込むように身体を冷やす。


 地元に向かうには一本ローカル線を使わなくてはならなくて、当然ながらそのような電車は都市部のものより終電が早い。僕は小走りとは言えない程度に早足で駅に向かって歩き出す。


 雅灯と僕とのことを説明するなら、幼馴染というそれだけで事足りる。それ以上でも以下でもない、ただそれだけの関係。


 とはいえ、フィクションで描かれるほど現実の幼馴染という関係は親密なものでもない。少なくとも、僕たちの場合はそうだった。


 高校生にもなれば性別の違いもあっていつまでも一緒にいるわけでもなく、七年前にした最後の連絡も翌日の学校が午前授業かどうかという事務的もの。


 仲が悪いというわけではない。ただ、雅灯も僕も、必要以上に互いを求めなかっただけだ。それは淡泊な関係に聞こえるかもしれないけれど、途切れることなく続いていたという意味ではある種の不思議な信頼のうえで成り立っていたのだろうと、今になれば思う。


 あるいは、過去形ではなく、今も成り立っているのだろうか。必要以上に求められる時が来たからこそ、僕は向かっているのだろうか。答えは出ないままで、ひと気の少なくなってきた駅に入り、丁度駅に滑り込んできた電車に乗る。


 上京をするとき、僕は雅灯にそれを言っただろうか。ふと、そんなことを思った。少なくとも、見送りに来られた記憶がないことは確かだけれど、仮に言っていたとしても雅灯は来ないだろうからそれは証拠になり得ない。


 もし言っていなかったとしたら、彼女は忽然といなくなった僕のことをどう思っただろうか。秋が来たことにふと気づくように、ただ時の流れのひとつとして受け入れたのか、あるいは裏切られたと傷ついたのか。前者であるかは分からないけれど、まず間違いなく後者ではないだろうな、と自分の考えを小さく笑う。


 雅灯は何事にもあっさりとしているところがあった。良く言えば視野が広くて、悪く言えば厭世的。現実をどこか俯瞰的に見ている彼女の性格や話し方は僕にとっては心地よかった。と、思う。思い出は往々にして美化されるもので、それすら正しかったのか僕には分からない。


 乗換の駅まではまだ五つある。僕はひとまず雅灯のことを忘れるために鞄から文庫本を取り出し、開く。ジャンルはミステリで、丁度二つ目の死体が発見されたところだった。


     *****


 案の定、到着したのは日付を少し跨いだくらいの時間だった。生憎、暗く、眠るように静かな風景には故郷に対するノスタルジーを抱くことは出来ず、数年ぶりの無人駅を特に感慨もなく出る。


『着いたけど』と送ると、数秒と待たずして既読がつく。今までの雅灯では考えられない速さだ。七年で変わったのか、あるいはそれほど切羽詰まっている状況なのか。仮の答えすら出す前に『公園で待ってる』という簡素な文章が送られてきた。


 公園。この周辺には二、三あるけれど、公園とだけ言ったということはまず僕らの家の一番近くにあった公園だろうとは思う。これで違ったら恰好がつかないとは思いつつも、確認をとるのも億劫で僕は『了解』とだけ返信をして点在する街灯だけが照らす夜の道を歩き始める。


 海に近いこの地域は、夏になると夜であってもまばらに人が出歩く。しかし冬ともなれば花火をしている観光客も暴走族も居らず、ひたすらに深々とした空間が広がっていた。夏が嫌いで、冬が好きという僕の季節嗜好はこういう地域柄の影響なのかもしれない。


 沈黙と寒さに急かされるように歩く速さが上がったからか、目的の公園の入り口まではそう時間はかからずに着く。街灯は中心にある一本だけで当然のように公園中を照らせているわけではなく、呑まれそうな闇に囲まれた、不気味な空間に見えて仕方がなかった。


 一歩踏み込み、間違い探しでもするようにじっと公園を覗く。もしいないならあまり深く入りたくはないのだけれど、目が慣れたとしても変わらず黒い暗闇の中で人を探すにはその状態ではなかなかに難しい。


 諦めるように公園の中に入って行く。土と、草の上を歩く。都会に慣れた僕にとってはひどく久しぶりの感触だった。


 進むにつれて徐々に見えてきた朧げな公園の輪郭は、僕らが遊んでいた頃から順調に廃れていることが分かった。草が野放図に生え、一部の遊具は破損したのか使わせないためにロープのようなもので封鎖をされている。今更どうにかするとも思えない以上、このままこの公園は死んでいくんだろう。そう思うと、若干の寂しさのようなものを感じた。


「おーい」


 時間もあって控えめな声量ながらも、確かに誰かを呼ぶ声が水面に波紋を作るように静寂を揺らした。声の方へ眼を凝らす。


 街灯の光の届かない公園の端の方、殆ど夜に溶けるような闇の中で誰かが、こちらに向かって手を振っている。未だ影しか見えないものの、こんな時間にこんな場所で人を待っているような人間がそう何人もいるとは思えない。走るのは癪なのであくまでも歩くの範疇を出ない程度に足を早めて僕はそちらに向かう。


「久しぶり、真尋まひろ


「……ああ、久しぶり、雅灯」


 七年会っていないような感じのしない、時間の感覚が狂いそうになる軽い挨拶を交わす。


 うっすらとした光がぼんやりと見せる髪色はいつだかの黒とは異なる亜麻色に染められていて、まずそこに目が惹かれる。


「髪、染めたんだ」


「挨拶の次に言うのがそれ?」


「僕からすればそれくらい意外だったんだよ」


 なんとなく、髪の毛を染めるないタイプだと思っていた。けれど、七年もあれば人はどうとでも変わるし、そもそも七年前ですら僕は雅灯のことを理解していたとはまるで言えない。意外とは言ったものの、結局僕の知らない一面があったというだけの話なんだろう。


 雅灯は夜に紛れるような黒いチェスターコートを着ている。その姿は当然のことながら、最後に見た制服の頃よりもずっと大人びていた。


「悪いね、急に来てもらって」


「ああ、これで明日の仕事には行けそうにないね」


「その言い方だと体良くサボりの口実に使われたみたいな気がするんだけど」


「あるいは、そうなのかもしれない」


 案外、自覚がなかっただけでそれが正解なのかもしれないと思った。


「ま、何にせよ来てくれただけで私は十分なんだけどさ」


 座ろうよ、と言って彼女は近くにあったベンチを指さした。僕が来るまではそこに座っていたのだろう。


 彼女が座って、僕も座る。木製のベンチは腐り、今にも崩れそうではあったが幸い僕らが座っても危うさを携えながら依然としたままだった。


 いくら木製と言えど、夜のベンチは冷たい。座ったところから流し込まれたように冷たさが身体中を伝い、内臓にまで染み渡ったような錯覚に陥る。ただ、僕はこの冬特有の感覚が嫌いではなかった。


「最近どう?」


 雅灯が開口一番に聞いたのは本題ではなく軽い挨拶だった。それは、七年振りの知人に対する話題としてはこれ以上ないほどに適しているものなんだろうけれど、この時間にわざわざ呼び出した人に振る話題としては些か冗長であるような気がする。


 しかし、もう明日は会社に行かないと決めた以上急かす必要も僕にはなかった。


「まあまあだよ」


「それは曖昧すぎでしょ」


「でもまあまあとしか言えないんだよ。それくらい、良いことも悪いこともないんだ」


 忙しさに殺されるような日々に、感想を抱くような暇はない。労働や不景気への嫌厭も最早形骸化をして久しく、悪意にすら昇華されない。


 嫌うとか疎むとか、そういう感情を保持するにはエネルギーがいる。生きるだけで精いっぱいな僕には、そんな余裕なんてありはしなかった。


「そっちはどうなんだよ」


「私は相変わらずだよ。ぼうっとしながらここで生きてるって感じ。本当に何ひとつ――、うん。なにひとつ変わっていないかな」


 そう言って虚空を見る彼女の眼はその言葉の通り、昔と変わっていない、どこか厭世的で諦観的なものだった。髪を染めても、僕の知らない部分があったとしても、人は変わらない。当然のことだけど、僕はようやくそれを知った。


 ふう、と雅灯が白い息を吐いた。ああ、生きているんだな、なんて間の抜けたことを考えた。


「真尋ってさ、今恋人とかいるの?」


 なんの前触れもなくされたその質問に、妙な沈黙が場を満たす。七年前ですらも、僕らの間でそういう、色恋の話はしなかった。七年経った今なら尚更だ。


「……どういう質問? それ」


「どういうって、そのままの意味だけど」


「その質問をしようとした意図を聞いてるんだよ」


「今、幸せなのかなーって思ってさ。恋人なんていれば、多分幸せでしょ。分からないけどさ」


 恋人が居て不幸せな人間も、恋人が居なくて幸せな人間も、当然両方いるとは思うけれど、しかし幸福かどうかを確かめる質問としては『あなたは今幸せですか』なんていう直球なものよりも胡散臭くなくていいのかもしれない。


「いないよ、生憎」


「そっか」


 独り言ちるように呟くと、雅灯はチェスターコートの内側に手を入れた。ポケットを探っているのだろう、がさりという音が闇に響き、消える。


「これ、拾ったんだ」


 そう言って取り出したのは、回転式の拳銃だった。俗にいう、リボルバー。


 あまりの呆気なさに、玩具じゃないかと疑うが、雅灯はそういうつまらない冗談を言うタイプではない。つまり、このリボルバーは紛れもない本物で、これこそが今日呼ばれた本題ということなんだろう。


「どこで?」


「拾った、っていう言い方は少し正しくないかもしれないかも。そこの、桜の樹の下。レイが死んで、埋めようと思ったんだ」


 雅灯は僕らの座っているベンチから少し離れた桜の樹を指さす。


 レイというのは確か、雅灯が飼っていたカナリアの名前だった。もう、互いの家に行くようなこともない時期に飼い始めていたから、僕が知っているのは名前だけで実際に見たことはない。


「それで、丁度いい大きさの石があったから墓標代わりに使おうと思って、そこを掘ったら箱があって、その中に」


 箱に入れられていたということはまず不法投棄ではないだろう。誰が、何のためにかは分からないながらも、意図的に、再び使うために一時的に隠していたということは察することが出来る。


「戻しておいた方が良いだろ、そんなもん。銃刀法に違反してるし、何より持ち主にバレたら不味い」


「でも、戻すなんて勿体なくない?」


 雅灯はリボルバーを握りながら笑って言う。


 ぞわり、とした何かが背中を這い、身体の芯に触れる。それは艶やかな表情に対する興奮か、場違いな笑顔に対する恐怖かは分からなかった。


「勿体ない、ってなんだよ」


「言葉通りの意味だよ。どうせ拾い物なんだから、人生に一回くらいは使ってみるのだっていいでしょ」


 一回くらい。


 正直に言うと、その提案はひどく魅力的なものに見えた。具体的に誰を撃ちたいとか何をしたいなんてことは思いつかないながらも、たった一丁の拳銃は、たった一発の銃弾は、停滞している日常を吹っ飛ばすには十分すぎる威力を持っていた。


 起きて、働いて、寝てを習慣のように考えもなしに過ごす日常を壊す、抗いがたい、魔的な魅力に中てられつつ、しかし僕の中には蟠っている疑問があった。


「どうして、僕を誘ったんだ?」


 死体の処理でも手伝わされるのだろうか。そうでもしないと、法に触れる事実を共有するデメリットに釣り合わない気がする。


 しかし、雅灯はあっけらかんとした調子で、放るように答えを告げた。


「共犯者が欲しかったんだ。それだけだよ」


 そうして優しい動作でリボルバーを再び内ポケットに仕舞うと、改めて雅灯は僕の方を見た。亜麻色の髪がふわりと揺れた。


「一緒に来る?」


 問いかけというよりも懇願に聞こえたのは、気のせいだろうか。いずれにしても、雅灯から誘われるということ自体初めてなはずで、僕に選択肢があるはずもなかった。


「分かった、行くよ」


 そう言うと雅灯は少し、顔を綻ばせた。ふと、こんな子に恋をしたこともあったと思い出した。

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