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「銃弾は一発だけ」


 雅灯はそう言ってシリンダーに入っている銃弾を見せてくれた。装填する箇所は五つがあるが、四つはただ黒い虚があるのみで、雅灯の言う通り銃弾は一発だけしか入っていなかった。


「どっちが撃つんだ?」


「撃ちたい?」


「何を撃つかにもよるだろ」


「それもそっか」


 再び、雅灯はリボルバーを懐に仕舞い、「よし」と白い息を吐く。


「じゃあ、夜が明ける前に誰を撃ちに行くか考えよっか。私が一人、真尋も一人挙げるかたちで、最後はくじ引きかなんかで決めるって感じでどう?」


「異論ナシ」


「うん、じゃあ少しのシンキングタイムを設けましょう」


 シンキングタイムという名がつけられた冬の夜の沈黙は僕には少し冷たすぎた。せめて缶コーヒーでもあれば良かったが、待ち合わせに気を取られて買って来る余裕はなかったし、今から買うというのは近くに自動販売機などもないので不可だ。


 取り敢えず僕は、七年振りに会った知人に対するひとつの最適解的話題を投げてみることにする。


「雅灯はさ、会ってない間になんかあったか?」


「今シンキングタイム中なんだけど」


「少しの雑談はいいだろ。結局、近況の報告は曖昧なままなんだから、それくらいは話そうぜ」


 純粋な興味というものもあるけれど、少なからず互いの理解はしておかないといけない気がした。


 幼馴染という関係上、語らずとも分かることはある。けれど、それが全てなわけがない。信頼なんていう言葉を都合よく使って、察して貰えると勝手に甘えて、語ることを避けるのは愚かなことだと、僕は思う。


「……別に、本当にさっき言った通り。昔通り実家に住んでて、高校出て、大学行って、そこら辺のちっちゃい会社でなんとなーく働いてるって感じ。幸いなことに、もしくは不幸なことに、倦怠を伴うくらいには、平和な日々だよ」


 素っ気ない語り口であったものの、嘘を吐いているわけでも何かを隠してるわけでもないんだろう。ただ、今までの自分が好きじゃない、そういう喋り方だった。誰だって、好きじゃないものは好んで語りたくない。


「真尋の方は?」


「先に言えば良かったと思うくらいには、僕も誇れるようなことは起きてないよ。高校出て、上京して、大学行って、就職して。場所が違うだけだ」


「場所が違うって『だけ』で括っていいことじゃないと思うけど」


「さあ、どうだろう」


 行って何もない分、僕の方が惨めなのか。


 行きもしなかった雅灯の方が惨めなのか。


 どちらであれ、それぞれが抱えている自己嫌悪は拭えないだけなので、それ以上触れることはやめることにする。


 自分がその立場になってつくづく実感するが、大人という立場は子供が思っているほど楽しいものじゃない。今になって思えば、子供の頃の自分は大人の自分に何を期待していたんだろうとさえ思ってしまう。結局のところ、子供だろうが大人だろうが、自分は自分なのに。


 ふと、昔見た映画のワンシーンを思い出す。女の子が殺し屋の男に『大人になっても人生は辛い?』と問うシーン。


 見た当時は、女の子に移入をしながら映画を見ていたが、今見ればきっと殺し屋の方に移入することになるだろう。なにせ、僕だって聞かれれば殺し屋と同じように『辛い』と答えるんだろうから。


「そろそろ決まった?」


 雅灯の声で、意識が思考から現実に引き揚げられる。当然のように、決まっているはずがない。


 別に僕は撃ちたい人がいるわけではない。嫌いな人間がいないなんていう綺麗な理由ではない。どれほど嫌いな人間に対してもそいつを殺したらもう捕まっても良いと思えるほど、強い感情を抱けていないだけだった。


「雅灯は決まったのか?」


「まあ、大体ね」


 雅灯は昔から、何にせよ決断をするのが早かったことを思い出す。


 それほど憎んでいる相手がいるのか、案外適当に決めたのか。判断に困る、あっさりとした言い方だった。


「んー、どうしようか。思いついてないってのが正直なところなんだよ」


「今恨んでるような人じゃなくても良いんだよ。折角こっち来てるんだから、何年かぶりの復讐だってドラマチックで良いと思うしさ」


 ドラマチックを理由に殺されるなんて堪らないなと思う反面、それはそれで馬鹿らしくて面白いなとも思う。人格と倫理観を疑われて然るべき考えなんだろうけど、拳銃があるという優越感からか、深夜の瘴気に中てられたのか、思考は自分でもよく分からない方向に暴走を始める。


「よし、分かったよ。決めた」


「後になって変えるのはナシだからね」


「分かってるよ、もう変えない」


 そうは言ったが変えられるほど人の名前が思いつかないというのが本当のところのようでもあるような気がする。


「それで、どうやって決めるんだ?」


「んー、どうしよっか。取り敢えずじゃんけんにでもする?」


 殺す人間を決めるにしてはあまりにも軽く、あまりにも滑稽な決め方な気もしたが、だからと言って代案があるわけでもないのでそれで決めることにする。


「勝ちの選んだ方を撃つってことでいいのか?」


「うん、そういうことかな。恨みっこなし、一本勝負」


 ぐっ、と雅灯は右手で拳を作る。僕も応じて拳を構える。


 じゃんけんなんていつぶりにするだろうか。記憶にある限りだと中学生の頃、誰も立候補しない保健委員を押し付け合った時が最後だったような気がする。ああいう時、なんだかんだと回避出来ていたからこそ、僕の人生の幸運は徐々に削られ今のさまなのだろうか。


 ただ、少なくとも、このじゃんけんに勝つのには幸運も偶然も要らなかった。陳腐なトリックだが、僕は雅灯のじゃんけんの癖を知っている。


「じゃんけんぽん」の掛け声とともに出された手は雅灯がグー、僕がパー。昔から雅灯は、こういう時は決まって力んでグーを出す。相変わらず、その癖は治っていないみたいだった。


 勝ちを譲れば良かったなあ、と思ったのは決着がついた後だった。どうせ、適当に決めた対象だったんだ、向こうからしても迷惑だろうし、ここはわざと負けるべきだったのかもしれない。


「ん。じゃあ真尋の選んだ人間ね」


 雅灯は特に落胆するわけでもなく、頷く。切り替えが早いというよりは、単に物事に対する執着がないような、小ざっぱりというよりは虚しいというような、そういう相槌。


「それで? 真尋は誰を撃ち殺したいの?」


 雅灯はじっと、僕の内側を覗き込むようにこちらを見る。親に物の名前を聞く子供のような、素朴な声色に、僕は目線を地面に落とす。なんとなくの人選のしょうもなさとみっともなさがどうしようもなく恥ずかしくなったのだ。


 しかし、もう変えないと言った手前変えるわけにはいかない。


「松宮先生」


 自棄になって放るように、僕はそう呟いた。


「松宮、って、確かあの古典の先生?」


「ああ、そうだよ。その松宮先生だよ」


 咄嗟に思いついた憎むべき人間は高校の頃の古典の教師だった。何も、体罰とか大層なことをされたわけではない。どの学校にも一人や二人はいる、厳しくうるさい教師だったというだけだ。まず少なくとも、殺されるような人間じゃない。


 ただ、僕も雅灯も、何かが確実に麻痺していた。狂っていた。


「オーケー。じゃあ、学校が開いたら行ってみよっか。あの人、いつも朝早くから居たしさ」


 異論は挟まれることなく、松宮先生の殺害が決まる。


 雅灯はリボルバーを取り出し、僕の方に差し向ける。


「じゃあ、よろしく」


 呆気ない渡し方に、僕は躊躇いも感慨も覚える暇なくそれを受け取った。銃という武器の罪は、人を殺すことが楽になったことよりも、使用者に人を殺した実感を湧かせなくすることにあるのだろう。手に持ったこれは、人を殺すには軽すぎる。


 僕はそれをじっくりと眺め、触り、いつでも使えるように構造を把握してから鞄に仕舞った。自分の鞄の中にリボルバーがある。奇妙な感覚だった。


 まだ当然のように空は暗い。学校が開くまでは随分と時間がある。


「……少し歩いて時間でも潰そうか」


「そうだね」


 そうして僕らは朽ちかけたベンチから立ち上がった。


     *****


 結論から言ってしまえば、結局松宮先生を殺すことはなかった。


 ただ、それは甦った良心の呵責でもなければしくじって銃弾を外したということでもない。退職をして学校には既にいなかったという、それだけの理由だった。


「でも、考えてみれば当然っちゃ当然のことだったよね。詳しい年齢なんて知らなかったけど、見た感じ結構歳もいってそうだったしさ。そりゃ七年も経てば定年退職してたよ」


「……いや、本当にお恥ずかしい限りで」


 僕らは、屋上へと続く踊り場の階段に腰かけている。松宮先生はいないながらも、卒業生と知った教師が校内を周ることを提案してくれたのだ。そして、時間を有り余らせている僕らは特にそれに逆らうこともなく校内を周り、漂着するようにここに辿り着いた。


 しかし、それは身体に染みついた二人の習慣なんていうようなエモーショナルでノスタルジックなものではない。ただ、上の階へ、人のいないところへと歩いていたら辿り着いたというだけの話。高校生の時点で既に僕らの関係は希薄になりつつあったのでこうしてひと気のないところに二人で集まるなんていうことはまるでなかった。


 存在しなかった青春の再演。ただし、懐にはリボルバー。


 青い春はとうの昔に終わった冬の踊り場は肌を刺すように冷ややかだった。冬来たりなば春遠からじ。されど、目前の冬はあまりにも冷たい。そもそもの話、春に希望を求めること自体、正しいのか分からないんだけどさ。


「でも、そんなに松宮先生のこと嫌いだったの?」


「まあ、普通に嫌いだったよ。多分、みんなと同じくらい」


「へえ、そんなに松宮先生って嫌われてたんだ」


 ぼんやりとした、どこか実感のない言い方。


 確かに、雅灯は教師がどうだとか、そういうことに興味がなさそうだった。好きとか嫌い以前に、興味がない。プラスでもマイナスでもない純然たるゼロ。雅灯からしてみれば、厳しかろうが、授業が退屈だろうが、他の先生となんら変わりのない『先生』に過ぎなかったんだろう。


 雅灯はどういう高校生だったんだろうか。もっと、話してみれば良かったのかもしれない。そう思うのは今になってこその話であって、この後悔に意味なんていうものはないんだろうけれど。


 折角高校にいても、思い出らしい思い出が浮かぶことがない。それは、僕と雅灯の間の思い出というのも勿論だが、そもそも高校生活において感傷に浸れるほどの出来事がなかったということでもあった。部活にも入らず、特別親しい友人もいなければ、当然のことではあるのだけれど。


 埃っぽい踊り場に響く沈黙は長く浸っていたいようなものでもなくて、僕はコートをかさり、と鳴らして立ち上がる。


「じゃあ、僕の方はいなかったし、雅灯の方に行くか」


「……うん、そうだね。そうしようか」


 ゆっくりとした動きで、雅灯も立ち上がる。僕は鞄からリボルバーを取り出し、雅灯の方に差し出す。彼女はそれを無機質な眼でじっと見て、手に取り、チェスターコートの内側に仕舞った。


「それで、雅灯が撃ちたい相手って誰なんだよ」


 僕のように、なんとなくで決めた相手なのか、あるいは、本気で撃ち殺したいと思っている相手なのか。


 実際に僕が松宮先生と会っていたら、恥ずかしいことだけれどなんだかんだ有耶無耶にして撃つことはなかっただろう。結局、僕は今もそのリボルバーを自分の世界とは異なるモノだと思っている。


 けれど、もし雅灯が本気でその相手を恨んでいて、撃ち殺すのであれば。僕は共犯者を全う出来るだろうか。


 雅灯はそんな僕の考えなど知らず、ただ淡々とした口調で呟くように相手を言った。


「お姉ちゃん」


 そうして、雅灯は僕のことを待たずに階段を下り始める。


 僕は少ししてから、雅灯が歩いたことで埃の舞った階段を追って下る。

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