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 秋乃あきのさんと最後に会ったのは、十五年以上前になると思う。少なくとも、僕らが中学生になるよりも前に、彼女は家を出て行った。後から聞けば、隣町の彼氏の家に転がり込んだだけの話らしいが、残された者からすればそんなことは関係ない。ただ、いなくなったという事実が残るだけだ。


 長女への期待は失望と怒りという負の力を加えられて次女であった雅灯へとのしかかった。僕が見てもそんなことがありありと分かるほどだったのだ、家族だけの空間でどのようなことをされていたのか、言われていたのか。


 雅灯には、それが撃ち殺すに値するほどのものかは分からないにせよ、秋乃さんを恨む十分な動機がある。


     *****


 僕らは昼前に国道沿いのファミレスで朝食を兼ねた昼食を摂った。世間ではこれをブランチと言うんだったか。曖昧な知識は使わないままで眠らせておく。


 既に食事の形跡は下げられ、僕らはドリンクバーの飲み物を携えることで居座り続けている状態。僕はアイスコーヒー、雅灯はジンジャーエールを飲みながら向かい合い、ぼうっとしている。高校生の頃はファミレスに二人でいる男女を見ては世のカップルの多さに辟易としたものだが、世の中には恋人関係じゃない男女二人組もいるということをその立場になって実感する。そんなこと、至極当たり前の事実なんだけれど、多感な思春期には全てを恋愛と結びつけてしまう癖のようなものがあるのだ。


 秋乃さんのことを聞くつもりにはなれなかった。どうせ聞いたところで、同情しか出来ないのなら何も聞かない方がずっとマシだ。同情なんていうのは大抵、相手を思いやってやる行為ではなく、同情をしている自分に酔っているだけなのだから。


 からん、と雅灯はジンジャーエール中に入った氷をストローで揺らす。ファミレスの中は暖房が効きすぎているのか少し暑く、冷たい飲み物がむしろ丁度良かった。


 チェスターコートを脱いだ雅灯はグレーのセーターを着ている。亜麻色の髪の隙間からピアスが見えて、つけていることに今更気が付く。


 雅灯の眼に僕はどう映っているのだろうか。僕から見た雅灯のように、高校の時から変わって見えるのか、あるいはまるで変わらずに見えるのか。それを聞く勇気はないままで、僕はからん、とアイスコーヒーの氷を揺らした。


「秋乃さんは今どこに住んでるんだ?」


「隣町のまま。ほら、あっちの方、ここよりちょっとだけ開発が進んでるでしょ。そこら辺にある、住宅街の中なんだってさ」


「連絡ついてるんだ?」


「ちょっと前になんか来たらしいよ。私は話してないから知らないけど、お母さんとお父さんは定期的に連絡を取り合ってるっぽい」


「へえ」


 それは、多少のわだかまりがあれども両親からすれば喜ばしいことなんだろう。ただ、帳尻を合わせるように期待を押し付けられ続けた妹からすれば、今更としか言いようがない。


「都合の良い偶然だよね、まさか拳銃を見つけることになるとは思わなかった。運命なんて大袈裟な言葉は陳腐になるから使いたくないけどさ、そういうものをちょっとだけ感じたもん」


 雅灯はそう笑って、ジンジャーエールを飲んだ。冬の森のような寂しさを携えていた。


 グラスのジンジャーエールが三分の一ほどになったところで「そろそろ行こうか」と雅灯は席を立った。僕もそれに倣い席を立つ。


 それぞれ食べた分を丁度払い、ファミレスを出る。暑いほどの暖房から冬の外気への落差はコートを着ても耐えがたく、末端から流し込まれるように身体に寒さが広がっていく。


 国道を挟んだ向こうには海があり、潮風の匂いが鼻をついた。何かを思い出すように、雅灯は海の方へ目線をやり、それから国道沿いの道を歩き始める。僕はそれについて行くようなかたちで一歩退く位置を歩き始めた。


 隣町までは歩いて一時間半ほどかかる。電車を使えば一駅でつくけれど、雅灯にその気はないらしく、ただ何も言わずに歩く。


 潮騒とこがらし、それから時折通る車のタイヤの音だけが僕らの間に存在した。


 名状のし難い感情を臓物のように携えながら歩く。人ひとりを容易く殺せる道具を持っているはずの背中は触れれば崩れてしまいそうに脆く見える。


 気の利いた言葉なんて出てくるわけがない。それは、七年を言い訳にするまでもなく、単に僕という人間の不出来さゆえのことだった。


 だからこそ、僕は雅灯について行くのかもしれない。言葉では何も出来ないからこそ、せめて傍にいる。それは、誰にでも出来る、代替可能な役割なんだろうけれど、それでもあの時頼られたのは僕だから。


 冬の国道沿いは淡々としていて、退屈なくらいに空漠としているのに、やけにその道は短く感じる。いつの間にか海と国道の間には防風林が挟まり、道路沿いには飲食店も増えてきた。開発の進んだ、隣町に近づく。


「なあ、これが終わったらどうするんだ」


「さあ、人を殺したら逃げるんじゃないの」


「自首って可能性はないのか」


「殺人は逃避行もセットだよ」


 笑いそうになるくらいに酷い会話だった。でも冗談ではなかった。


「まあ、なら、行くところまで行こうか」


 そう言うと、雅灯は振り返り、目を丸くしてこちらを見た。


「別に、そこまでは付き合わなくてもいいのに」


「共犯者なんだろ。煉獄までは付き合うよ。地獄の方は勘弁して欲しいけどさ」


 あるいは、地獄に堕ちるのは自分だけかもしれないと思った。それは、雅灯に地獄に堕ちて欲しくないという願望に近いものなのかもしれないけれど。


 雅灯は少しの間押し黙ったまま歩き続け、二百メートルは進んだところで「ありがとう」と言った。僕らの間にはそれだけで十分だった。べたついた好意の存在しない関係というのは、心地よいものだ。


 隣町に入りさえすれば、住宅街に着くのはそう時間のかかるものではなかった。そして、迷宮のように入り組んだ道々を雅灯は迷いなく進んでいく。その迷いのなさは明確に彼女の意志の強さを表していた。


 雅灯が立ち止まったその家は、潔癖と言っていいほどに白い、新築の家だった。玄関先に掲げられた表札は雅灯の名字とは異なっていて秋乃さんは結婚をしたことが窺える。


 雅灯がちらと僕を見る。僕は、物言わずにただ見つめ返す。


 それから、彼女は躊躇もなく、自分の家の呼び鈴を押すようにその家の呼び鈴を押した。


 無機質なチャイムの音が聞こえ、二十秒ほどしてから『はーい』という間延びした声が聞こえた。秋乃さんの声だった。


「雅灯だけど」


 必要なもの以外を削ぎ落したような短い言葉に、チャイムの先の音が静まる。


『……ちょっと待ってて、今出るから』


 プツリと通話の音声が途切れる。


 しかし、十秒と待たずしてドアがガチャリと開き、秋乃さんが現れた。


 突然の来客を想定していなかったのか、秋乃さんは橙色のルーズな部屋着を着ていた。ただ、その姿は昔の彼女のイメージとそうズレることのないもので、僕は雅灯と再会した時よりもずっと自然にその姿を受け入れる。


 秋乃さんは雅灯を見て、それから僕の方を見る。


「雅灯、久しぶり。それから、そっちは真尋くん?」


「ええ、そう」


 温かな秋乃さんの声とは異なり、雅灯の声は淡泊だった。しかし、雅灯の声は元から素っ気なく聞こえるようなところがあるので、それが不機嫌という証左にはなり得ない。


 雅灯は今何を想っているのだろうか。


「何年振りだっけ」


「十五年だよ。私が小学校四年生の時に出ていって、それきり」


「……そっか、十五年か」


 秋乃さんは噛み締めるように呟き、それからさっと頭を下げた。


「ごめんなさい」


 流れるような、実直な謝罪に僕は驚く。軽佻浮薄とした秋乃さんのイメージからはかけ離れた行動だったのだ。


 秋乃さんは尚も頭を下げながら言葉を続ける。


「私が出て行って、一番迷惑をかけたのは雅灯なんだと思う。今更謝るのは都合の良いことだと思うし、私から行かずに雅灯が来た時に謝るってことも取ってつけたようで気持ち悪いかもしれないけど、でも謝らせてほしい」


「……なんだ、分かってるんだ、都合が良くて気持ち悪いって」


 剥き出しの嫌悪。ここまではっきりとした雅灯の拒絶を見るのは初めてで、言われたのは僕ではないはずなのに、腹の底がゾッと冷える。


「なら分かってるでしょ、私が許すはずないって。結局、貴女は自分で自分を許すために謝罪をしているだけで、今までなんとなく蟠っていた私へのしこりのようなものを、新しい生活に向けて切り捨てるために謝っているだけでしょ。ああ、これすらも罰とかなんとか言って受け入れるつもりなんだろうね。罰っていうのは与えられることで許される、罪人のためのものでしかないのに。昔に変わらず今も自分勝手で、羨ましいな、皮肉じゃなくて本当に」


 冷酷とも言える刺すような言葉に、秋乃さんは何も言わない。あるいは、言えないのかもしれない。


「まあ、いいんじゃないの。私がなんて言おうが、お父さんとお母さんは、口では言わないだけでなんだかんだ喜んでるみたいだしさ。良かったね、幸せに暮らせて親孝行もできて」


 秋乃さんが憐れに思えてくるような詰りかただった。憐れというよりは、惨めと言った方が正しいのかもしれないけれど。


「もういいよ、それ。顔下げられても別に嬉しくないから、さっさと顔上げて」


 秋乃さんは何かを言う訳でもなく雅灯の言葉に従うままに顔を上げた。真面目な、切実な顔をしていて、僕は狡いと思ってしまう。秋乃さんは誠実に、持ちうる全てを持って謝っているんだろう。でも、それでもどうしてそんな被害者のような顔をしているんだろうと考えてしまう。じゃあ、どういう顔をするのが正解なんだろうという話でもあるのだけれど。


 雅灯が少しだけ身体を揺らした。コートの前を少し開け、手をそちらの方へ動かす。


 手のひらに冷たい鉄の感触が甦った。それは、リボルバーの感触というよりは死の感触と言った方がより正確なものであるような気がした。


 走馬灯のように、世界がスローモーションに見えた。雅灯はコートに手を入れる。秋乃さんは何かを言おうと唇を小さく開いている。


 雅灯の手がそれを掴み、秋乃さんに向けるように取り出され――


 微かに聞こえた泣き声が、世界を通常の速度に戻した。秋乃さんは弾かれるように振り返って家の中を覗き、雅灯は動きを止める。


「……子供いるんだ」


「あ、ああ、うん。そうなの。丁度半年くらい前に」


 雅灯は生きることを放棄したように動きを止める。あるいは、それは一瞬の出来事であったのかもしれないけれど、僕は死んでしまったのではないかというくらいに長い時間のように感じた。


「いいよ、行ってきなよ、子供のところ。私の話なんて大したものじゃないんだからさ」


 秋乃さんは迷ったように視線を彷徨わせた後で「ごめん、すぐに戻る」と言って家の中に戻って行く。その背中に風穴が空くようなことはない。


「今のうちに帰ろ」


 雅灯はそう言って返事も待たずに歩き始める。僕は秋乃さんの家を振り返り、それから雅灯のことを追いかけた。


「別に、善人ってわけじゃないよ。ただ、あそこで殺したら私の気分が悪いっていう、それだけの話」


 独白のように雅灯は呟く。僕は「そうか」とだけ返したけれど、多分聞こえてはいなかったんだろうと思う。


 行きと同じように、国道沿いの道を歩く。やけに潮騒が五月蠅い気がした。風が強くなったのかもしれない。


「行くところまで、一緒に来てくれるって言ったよね」


 その声は、潮風に吹かれて消えてしまいそうなほど脆かった。僕は「ああ」と短く答える。


「じゃあ、海に行こう。そこで、全部終わりにしよう」


 雅灯は振り返って僕に笑った。寂しさを集めて作った花束のような、果敢なくも美しい表情だった。

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