4
冬の夜の海岸は世界の端のように寂寞としていた。夏の賑わいの影はまるで見えず、世界が死んだような暗闇が果てなく続いている。
夕暮れ時を浪費して、僕らは今を待っていた。
ひと気はない。仮に誰かが居たとしても、この暗闇の中では遠目からでは僕らのことなど見えやしないだろう。それに、砂浜まで来れば潮騒の音と言うのは存外大きいもので、銃声くらいならきっと有耶無耶にしてくれる。夜の海という場所は、人を撃つにはうってつけの場所だった。
「相手に向けて銃を撃つ。一発ごとに交代して、最大に二発ずつ。そういうことでいいんだよな?」
確認のためにそう尋ねると、雅灯は「うん」と短く、しかし強く頷いた。
「恨みっこはなし。撃った方は相手の死体を海に流す。それで、全部終わり」
雅灯は懐からリボルバーを取り出す。あとは、始めようとすればいつでも始められる。
「ロシアンルーレットって言うんだっけ、こういうの」
「あれは自分のこめかみに当てて撃つからちょっと違うかもね。まだ名称のついてない行為だよ、これは」
そう言い換えられるとなんだかロマンチックな気がしなくもないけれど、どうやっても血と死の匂いは拭えない。人殺しはどこまでいってもただの人殺しにすぎないのだ。ロマンチックなわけがなかった。
「でも、わざわざお互いに撃たずに真っ当なロシアンルーレットをやっても良かったんじゃないか?」
「それじゃあただの自殺じゃん。ただの自殺なんて、寂しいでしょ」
「それもそうかもしれない」
寂しい。稚拙なようで、案外大事な動機なのかもしれない。
そも、今回の発端にしろ雅灯の中では撃つ人間が決まっていたのだから、僕に声をかける必要なんてなかった。ただ一人で秋乃さんの家に向かい、そして秋乃さんを撃ち殺せば目的は達成された。それでも彼女が僕を頼ったのは、やはり共犯者が欲しかったからなんだろう。
姉は出て行き、両親は過度な期待をかけ続ける。家族を頼ることが出来なかった雅灯は強くなった。けれど、強さは脆さの裏返しでもある。あるいは、寂しいなんていう理由で命のやり取りをするのは馬鹿げているのかもしれないけれど、少なくとも僕は馬鹿にすることは出来なかった。寄り添うことをしなかった僕に、出来る筈もなかった。
別に、生きていることが尊いことだなんて思っているわけでもない。ただ、生きる意味も分からずに死んだように生きているくらいなら、七年会ってなかった幼馴染のために死ぬ方が、恰好がつく人生な気がする。
「なあ、弾倉が五つってことはさ、二人とも死に損なう可能性もあるわけだろ。それってどれくらいかな」
「大体四パーセントくらい」
「計算してたのかよ」
「夜が来るまで長かったから」
四パーセント。生き残る確率としては高いのか、低いのか、基準が分からないのでよく分からなかった。未だ、実感が湧いていないというのが正しいのかもしれない。
風が吹いた。雅灯の髪がたなびいたのが分かった。夜闇のせいで亜麻色の髪は黒く染まり、七年前遠くから見た雅灯を思い出す。
「始めよっか」
「ああ」
それ以上の言葉はいらなかった。雅灯はリボルバーを僕の方に静かに向ける。
銃口が淡々と僕の頭部を狙う。銃に関しては素人である僕らでも、トリガーを引けば銃弾が放たれるということと頭部に撃ち込めば人間は死ぬということくらいは知っていた。
眉間の辺りがむず痒くなる。目を瞑りたくなるけれど、じっと銃を構える雅灯のことを見る。真剣な表情をしているということはなんとなく分かるものの、細かい表情までは分からない。何を考えているのかなんていうことも、当然分からない。
カチリ、という音が波と風の音を縫ってやけに響いて聞こえた。暫くは何の音なのか分からなかったが、雅灯がリボルバーを下ろしたのを見てあれがトリガーを引いた音なのかと知る。
「はい、真尋の番」
なんてことないような態度で雅灯はリボルバーを僕に向けて差し出す。考えて、結局なんて言って受け取れば良いのかは分からず、無言のまま差し出されたそれを受け取る。
最初に持った時と変わらない、軽くて冷たいという感想が湧く。
今から僕はこれで雅灯を撃つのだ。そう思うと握る掌が痛くなるような気がした。殺されるよりも、殺す方が僕にとっては恐ろしかった。
「もし撃ったらコートは焼き捨てなね。硝煙がついてるだろうから」
これから撃たれる人間が撃つ人間に対してご丁寧に忠告をする。笑いそうになるほど滑稽にも、泣きたくなるほど不気味にもとれる、奇妙な光景だった。結局僕は笑いも泣きもせずに「気に入ってるコートなんだけどな」とおどけて逃げる。
「悪いけどそれくらいは諦めてね」
「撃たなきゃいいだけの話だよ」
「さあ、どうだろ。確率は、私が撃った時よりは上がってるはずだけどね」
この撃つ順番だと、僕が撃つ確率と雅灯が撃つ確率、どちらの方が高いんだろうか。勿論、数学をサボっていた僕にそんなこと分かるはずもなく、嫌だなあ、と呟いて銃を構えた。
トリガーに指の腹を触れさせる。冷たい銃の中でもその部品は痛いほどに冷たい気がした。感覚を確かめるように指をつけたり離したりする。勿論、誤って撃ってしまわないように優しく、ゆっくりと。
雅灯は何も言わずに待っている。あとは僕が撃つだけだった。
今更戻れないことなんて分かりきってるんだけど、じゃあもし戻れたら今を回避できていたのかとか、もし間違いがあったとしたら何が間違いだったとか。
そんなことを考えながら。
僕は指に力を込めた。
カチッ、という音が鳴る。その音は、さっきも聞いた音だった。
「セーフ」と呟く。ひとまず、安堵の息を吐く。
「ほら、お次どうぞ」と雅灯にリボルバーを渡すところでようやく自分の手が小さく震えていることに気が付いた。闇に紛れて気づかれることはないんだろうけれど、それでも震えていることを悟られるのが嫌で、舌を噛み、もう片方の手でさりげなく支え、なんとか震えを抑えながら雅灯に銃を返す。
再びリボルバーは雅灯の手元に戻り、僕らは一歩二歩と距離をとっていく。ごう、と僕らの間を裂くように風が吹いて、西部劇のガンマンみたいだとひとり笑った。タンブルウィードはないし、銃が一丁足りないけれど。
銃が向けられる。二回目にして、ようやく、ああ、これで僕は死ぬのかもしれないというじんわりとした恐怖のようなものが心の端で巣食い始めた。命乞いなんて惨めなことをするつもりはないけれど、遺言が曖昧なのは嫌だなあと思いつつ「なあ」と声をかけてみる。
「なに?」
聞き返されて、特に言うようなことがないことに気がついた。でも、「なあ」が遺言なんていうのは遺言がないよりもよっぽど酷いので、何か雅灯に伝えることはないかと考える。
「中学生くらいの頃さ、多分雅灯のこと好きだったよ」
なんとなく口を出たのはそんな言葉だった。
ふと、もしかしたら、これを言うために僕は今まで雅灯に付き合ってきたのかもしれないと、本気で思う。告白もせずに形骸化するように失われていった恋を終わらせるために、僕はここに来たのかもしれない。こんな考えも、単なるノスタルジーに過ぎないのだろうが。
雅灯は笑って「まあ、分かってたよ」と言った。
「マジか」
「案外分かるものなのですよ、そういうのは」
雅灯の返事に恥ずかしさを覚えるにはあまりにも昔の出来事のように思えて、むしろ失った過去に対する虚しさのようなものを感じる。死に際だからか、いやに過去を惜しく思えて仕方がない。
「遮って悪かったよ。好きに撃ってくれ」
「いえいえ、謝られるほどのことはされていませんよ」
思いのほか面白かったのか、さっきとは異なりささやかに笑いながら雅灯は銃を構える。まあ、もし死ぬとしたら、最後に見るのはこういう顔の方が良い。
腹の底を吐き気の伴う冷気が這った。波の音がやけに鮮やかに聞こえ、闇に沈む風景の輪郭がはっきりと見える。肌を撫でる風がざらついている気がして、口のなかでしょっぱい味がする。死に抗うためか、身体中の感覚が鋭くなっていた。
肩を透かすような、金属の音が聞こえる。どれだけ待ったつもりでも、いざ終わるとトリガーを引くだけのそれは呆気なく終わる。
渇いた笑いが漏れた。雅灯も同じような笑いを零す。
「結果はどうであれ、最後だね」
「そうみたいだな」
リボルバーを受け取る。相変わらず軽いままだけれども、ずっと握っているうちに僕らの体温が移ったんだろう、少しだけグリップが温かくなっていた。
ふー、と長く息を吐く。雅灯はあっさりと撃っていたけれど僕にはそう簡単に撃つ勇気はない。それは、さっきよりも確率がぐんと上がったからかもしれないし、二回目だからこそ実感が湧いてとうとう恐怖が顔を出したのかもしれない。あるいは、単なる僕の臆病さによるものかもしれない。ただ、食いしばっていないとガチガチと歯が震えそうなほどの恐れが忽然と身体中を蝕んだ。
殺す側の筈なのに、走馬灯のようなものが頭をよぎる。繰り返しのような退屈な日常、思い出とすら言えないようなくだらない日々。両親、同僚、死んだ友人に別れた恋人。それから、いつかの雅灯。
狙いを定める。
何もかもがスローモーションに見える。内臓をぐちゃぐちゃにかき回されたような吐き気がする。脳味噌の奥がかあっと熱くなる。
指先の皮膚にトリガーが触れる。そこから身体中に熱が広がる。息を吸うのが苦しくなる。
雅灯は笑っていた。昔と変わらない、雅灯だった。
ガチッという音が夜を切り裂いて、静かな砂浜に響いた。
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