清家准教授と私 ep3

黒っぽい猫

第1話 死刑制度は必要か

「先生は日本の死刑制度についてどう思われますか?」



質疑応答の時間に秀才のナカハラが立ち上がって清家准教授に質問した。



「君はどう思う? ナカハラ君」


「僕は殺人罪については死刑制度が必要だと思います。他人の命を奪った者に対する刑罰として自分の命をもって償うのは当然のことでしょう?もちろん殺人罪に問われた者すべてが自分の命をもって償うべきとは思いませんが、自分勝手な怨恨や関係のない市民を殺害した者に対して罪を償わせる方法としては死刑が相当と考えます」


「君が言ってるのは応報刑として死刑制度が必要だということか?」


「そうです。外国とは考え方が違うかもしれませんが、日本人の国民感情として殺人罪に対しては死刑制度を抜きに考えられないと思います。遺族感情として自分の家族の命を奪った者が刑務所でのうのうと生き続けることに対して精神的苦痛をともなうと思います。命に対しては命をもって償うべき。それが日本人の倫理観であるなら、司法もそうあるべきと思います」


「なるほどな。『目には目を歯に歯を』というわけか?」


「はい。命に対しては命をもって償うのが相当かと」



清家先生はそこで腕組みをしてしばらく間を取った。



「ところで君は『目には目を歯に歯を』の意味は知っているな?」


「もちろんです。同害復讐法です。バビロニアの」


「この刑罰が定められた経緯と理由は知っているか?」


「経緯と理由ですか…」



ナカハラはそこで言葉を詰まらせた。



「なぜこういう法が定められたと思う?」


「それは…それが一番わかりやすくて合理的だからです。抑止力にもなりますし」


「では、傷害罪でもこの法理を適用すべきと君は思うか?」


「…というと?」


「ナイフで腹を刺した場合は、同様に同じ大きさのナイフで被告人の腹を刺す。それが一番わかりやすくて合理的な刑罰と言えるか?」


「それは違うと思います」


「どうして?殺人罪に同害復讐の法理を適用して傷害罪に適用しない理由は?」


「傷は治るからです。命を奪った場合は元に戻せませんから」


「傷跡や後遺症が残る場合もあるだろう?被害者は当然痛い思いもする。それについてはどうする?」


「賠償金の支払いで対応できると思います」


「それは民事訴訟の法理だろう?俺は刑事罰についての法理を尋ねているんだが?傷害罪で被害者が失明した場合は被告人の目を潰して失明させるのがわかりやすくて合理的な刑罰と言えるか?」


「現代ではそのような野蛮な刑罰は容認されません」


「殺人犯に対する死刑執行が野蛮な刑罰ではないという根拠は?」



ナカハラは何か言おうとして唇を噛んで沈黙した。



「もうギブアップか?では私の意見を言おう。『目には目を歯に歯を』の法理が相当とされたのは、目を潰されたり歯を折られたりした場合、当時の社会ではそれ以上の私的報復がなされていたからだ。つまり片目を潰された者が報復として相手の両眼を潰したり、さらには殺してしまうというようにな。それでは報復の連鎖に陥ってしまい、ひいては集団対集団の死闘に発展してしまう。暴力団の抗争のような事態を防ぐために、片目を潰された場合の報復は相手の片目を潰すだけにせよ。歯を折られた場合は相手の歯を折るだけでやめておけ。そういう意味なのだ。わかるか?」



ナカハラは黙って聞いているだけで反論する気配はない。



「君は『復讐するは我にあり』という言葉を知っているか?」


「たしか、映画のタイトルで見たことがあります」


「これは旧約聖書にある言葉だ。日本語では主語が欠落していてわかりにくいが、この言葉は神の言葉だ。『復讐するは我にあり。我にこれに報いん』と続く。つまり罪を犯した者には被害者に代わって神が復讐するから人は人に対して復讐してはならん。それがこの言葉の意味だ。これは神が人間に私的制裁を禁止する趣旨なのだ。古代の人々は人間同士の復讐の連鎖を防ぐために神の言葉を借りて復讐を禁止した。私的制裁の禁止が近代刑法の大原則なのは知ってるな?」



ナカハラは黙って聞いている。



「さっき君は死刑制度が殺人罪の抑止力になると言ったが、すべての殺人事件に当てはまると思うか?面倒なことに世の中には死刑になりたくて無差別殺人を犯すヤツも存在する。大半の場合は抑止力として働くかもしれんが、そうでない場合もある」



ナカハラが何か言いかけて口を開いたが、また口を閉じた。



「死刑になりたくて殺人を犯すのは例外的事案か?そうかもしれんが、死刑制度が殺人罪の抑止力にならないばかりか動機になる場合もあるのは事実だろう。今の日本で世論調査をすると過半数が死刑制度の存続に賛成という結果が出る。なぜだと思う?これは俺の推測だが、日本人は死刑制度を言わば『官製仇討ち』と考えているからだと思う。もし許されるなら自分の手で殺人犯の命を奪って敵討ちをしたい。しかしそれが許されないのなら、せめて国家権力が被害者遺族に代わって敵討ちをしてほしい。どうだ?ナカハラ君もそう思っているんじゃないか?」



ナカハラは黙ったままだが、うなずいているようにも見えた。



「俺は、死刑制度は仇討ちと同様、前近代的な制度だと思っている。日本は民主主義国だから国民の過半数が死刑制度の存続を望むなら、国連や外国からなんと批判されようとも存続させていいとは思う。しかし俺自身の意見としては、死刑制度は撤廃すべきと考えている。もちろん君が死刑制度の存続に賛成であってもいい。仇討ちは日本の文化だとも言えるからな。法制度も政治制度もそれぞれの国の歴史や文化と密接にかかわっている。死刑制度が仇討ち文化に裏打ちされているとしても俺はそれを野蛮だとは思わん。文化に優劣はないからな。日本人が文化として仇討ちの存続を望むなら今後も死刑制度は続くだろう。ナカハラ君、これで君の質問への答えになったかな?」



「はい。貴重な意見をありがとうございました」



ナカハラは気が抜けたように着席した。



「他に誰か死刑制度について意見がある者はいるか?」



清家先生は広い講義室を見渡したが誰も手を挙げようとしなかった。






私は日本の死刑制度について清家先生が言った『官製仇討ち』という言葉の意味を考えていた。イスラム圏での死刑制度には宗教的意味があるかもしれないが、日本の死刑制度は仇討ち文化に裏打ちされているというのはもっともな意見に思えた。私も含めて日本人の多くは政府や裁判所を前近代的な意味での『お上』と考えているフシがある。政府を形作っているのは私たち日本国民自身なのに。政府と国民を対立させて考えるのは間違っている。政府は国民の民主的総意に基づいているのだから。



国を被告とした裁判で、原告はしばしば『真実が知りたい』と主張するが、そもそも真実なんて誰にもわからない。裁判官は神ではないし、政府はお上ではない。原告は裁判で自分に都合の悪い事実認定がなされると「政府と裁判所が裏で繋がっていて口裏を合わせている」などと言う。国民とはかくもいいかげんなものなのだ。国家に賠償を求めるということは原告が自分以外の国民全員に対して賠償を求めるのと同じということに国民は気づいているだろうか。



清家先生はこんなことも言っていた。「民主主義における自由とは、国民の総意に基づいて合理的な限度内において国民個々人の我儘が許容されるということだ」と。私は妙に納得して講義室を後にしたのだった。







おわり。


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