シャーペン 🖊️
上月くるを
シャーペン 🖊️
少し色褪せた赤い日除けの桟から、自分の口が吐いた糸にぶら下がって降りて来た蜘蛛は、にわかに激しくなった強風になぶられ、右に左に大きな振幅でゆれている。
人間にたとえれば数十メートルの空中を行ったり来たりの距離感に思えるが、それでも蜘蛛は慌てない、長い八本の脚を器用につかって、少しずつ着実に降りてゆく。
ぽつぽつと大粒の雨が付着し始めた喫茶店の窓の下に蜘蛛のすがたが消えたとき、ほっと肩の力が抜けたのは、とくに蜘蛛に愛着があったからというわけではない。
おそらくは身よりのない(笑)一匹の節足動物が、これからやって来る暴風雨から逃げおおせたことがうれしいのは、ちょっと絞れば滴が出そうな現在の心境ゆえか。
🕷️
蜘蛛の安全を見届けたあと、バッグから歳時記と文庫本を取り出した。一時間ほどの滞在時間に俳句を詠み、小説のつづきを読むのが毎朝のルーティンになっている。
句を書く紙を広げたとき、黒と赤の三色ペンにセットされているシャープペンシルを初めて使ってみる気になったのは、これまたどういう心境のなりゆきだったのか。
シャーペンなんてちゃっちい(笑)筆記具は高校以来ご無沙汰だったが、ザラザラした書き心地を指がちゃあんと記憶しているのには驚いた。侮れないな、五感って。
🌀
この指をつかって生きて来た歳月、長いというべきか短いというべきか、公私ともに何事か成し遂げたとも、いや、なにもかも中途半端だったよともいえそうな光陰。
自分の拙い半生もさることながら、大事にされた思い出を持たない心の残酷な軌跡もシャーペンのように消すことができ、そこに小さな幸せを上書きできたなら……。
窓ガラスを植栽の梢がこすり、アスファルトに大きな水たまりができ始めている。
あの蜘蛛は無事に物蔭に身をひそめただろうか、帰る家を持つ身がうしろめたい。
シャーペン 🖊️ 上月くるを @kurutan
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