優しい人

Anne

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 優しい人というのは、誰のことも傷つけない人ではない。だって、ときに優しさは人を傷つける。優しいことは素晴らしことではない、断じて。それでも、なんの得もなくても、ただ優しくありたいと願い優しくある状態のことを「優しさ」と呼ぶのだと僕は思う。そしてそれはとても、とても尊いことだと思う。


          ☆


「ねーこの動画見た?やばくない?」

「俺まじでガチャ爆死してさー」

「やっべ替えのTシャツ忘れたしぬ」

「あたしスタバの桃のやつ飲みたいんだけど、え行く? 一緒行こ!」

 放課後のようにざわめく教室は、薄いカーテンを透かして差し込む強い直射日光が冷房の効果を半分くらい無に返して、爆発しそうに明るい。ひとり所在なさげに教壇に立つ男子生徒の、俯いた頭部もきらきらと茶色い。そっかこいつ、水泳部だったっけ。

「委員長、どうすんの?」

 僕が低い声で話しかけると、委員長こと大高恒世はびくりと身体を震わせて、顔をあげた。気の弱そうな八の字眉毛も、髪の毛と同じように色素が抜けて茶色くなっている。口元は無駄ににっこり微笑んでいるけど、黒い瞳は揺れて、なんというか小動物みたいな顔。

「ど、どうしよう……」

 気の毒なやつ。良くも悪くも自分本位な人間の多いこのクラスで、いの1番に学級委員を押し付けられてしまった男。ロングホームルームの議題は文化祭の出し物と担当者決め。貴重な高2の夏休みを潰して働く役職なんて誰も立候補したくないから、みんな会議に協力する気すらない。

 あ、また俯いた。7月の日差しの眩しさと教室のざわめきはなぜだか強度を持って永遠みたいな感じがして、じっと耐え忍ぶ恒世のこわばった肩も明るい髪もこちらからは見えない苦しみの表情も、このまま固定されてしまうのかと思ったらさすがにやりきれなくなってきた。

「おい!文化祭の出し物、とっとと決めよーぜ」

「お、誠二、委員長代理か?」

 恒世の横に立ってデカい声を出した僕に、仲のいい圭吾が野次を飛ばしてきて、教室中の視線が一気にこちらを向く。クラスでの立ち位置もそれなり、剣道部主将で比較的体格のいい僕が動けば、無視はされないだろうという算段は込みの動きだ。今がチャンス。

「できる限り準備したくないなら売店でいいだろ? 仕入れて当日売るだけだし」

 恒世が慌てて黒板に、売店、と書く。控えめな小さい字。頑張って手を伸ばして上の方に書いているけど、誰も黒板なんか見ちゃいないのに。

「料理作りたくないから飲み物がいいー!」

「あ、俺氷だったら親父の店からいっぱい貰えるけど」

 カリカリとチョークが忙しげに文字を刻む音を無視して、僕は勝手に話を進める。

「じゃ、それでー。もう責任者はめんどくせえ、僕がやるんで他の役職適当に手伝いよろしく」

「え〜じゃあ私やろっかな」

「仕方ねーけどやってやるよ! 親友!」

「圭吾うるせ」

 笑い声が教室に響いて、一件落着って感じ? 振り返ったら、チョークを握りしめたままの恒世が僕を見つめて、まだ泣きそうな瞳をしていた。じっとりと水分量の多い真っ黒な瞳。それ、苦手なんだよなあ。

「よかったな、恒世も手伝えよ」

 笑いかけると、少しびっくりしたような顔になってからやっと静かに微笑んだ。

「……ありがとう」

 小さな声は喧騒に奪われながらも、ぎりぎり僕の耳に届いてくれた。


 結局、文化祭実行委員には僕、食品衛生なんちゃらの責任者には学級委員と兼任できるらしく恒世が就任して、夏休みなのに説明会だのなんだのに駆り出されることになった。

 午前中からの会議を終えて、がらんとした校舎にはペタペタとふたりぶんの足音が響く。上の階から聞こえてくる吹奏楽部のまだ曲になってはいない音たちがBGM。

「ごめんね……誠二くん、僕のせいで」

「別に、自分から言ったことだし」

 まあ、彼女にフラれて夏休みの予定吹っ飛んで暇だったし? とまで伝えてあげる義理もないけれど。僕の行動は優しさとかじゃなくて、あくまで利己的にやったこと。

 なんなら内申書に書いてもらって推薦入試のネタにしようとか、そういうことを恒世も少しは考えてるんだろうか。どうせ、考えていないんだろう。考えていたらこんなに申し訳なさそうにはしないはず。

「だって部長なんでしょ、部活とか」

「いーのいーの。ちな今日は休み」

 正直なところうちの剣道部は強豪でもなんでもなく、公式試合は夏休み前にあっさり負けて終わり。夏休みの体育館は他の強い部活優先になるし、空調設備の整っていない古めかしい道場で、夏に長時間稽古なんて出来ない。ていうかできればしたくない。

「夏に防具つけるのとか想像してみ?」

「たしかに……」

 おい、笑うな。暑い、臭い、つらいの三重苦とはいえ、明日も明後日も部活あるんだから。とりあえず恒世の罪悪感は少し薄まったみたいだからヨシとする。

「そっちこそ水泳部なんて夏がメインだろうに」

「ううん、僕なんていてもいなくても大丈夫だから。筋肉ないし、ちっちゃいし……」

 俯くその頭のキラキラと光る痛んだ髪の毛が、一生懸命練習してる証じゃないのかよ、と思って少しムカつく。

「優しすぎると、損するぞ」

 強い口調が出て自分でも驚いて立ち止まる。恒世も少し遅れて立ち止まり、びっくりしたようにこちらを見やる。一呼吸おいて、笑顔をつくる。

「ありがとう、でもこれでみんなの役に立てるならいいかなって」

 だからって人前に立つのも苦手なくせに委員長なんかなってあんな顔して。今だって嘘の笑顔をつくって。

「ばーか、自分のこともうちょっと大事にしろ」

 恒世の黒い瞳がぱちぱちと瞬いて、丸くなる。キザなことを言ったなという自覚があとから湧いてきて、僕は急に恥ずかしくなる。逃げるように早足で昇降口に向かうと恒世は気を遣ったのか「僕、部活行くから」とかなんとか言ってついてこなかった。

 暇つぶしに一緒に昼でも食べようと思ってたのに、なにやってんだ。

 外に出るとアホみたいに晴れ渡った青空。校庭から聞こえる運動部の掛け声とセミの鳴き声が絶妙に混ざり合って夏休みの音がしている。半袖のカッターシャツから出ている部分の肌がジリジリと焼けていく感覚。

「あーヒマだなー」

 小さくつぶやいても広すぎる空に飲み込まれるだけ。スマホを開いて誰かに連絡でもするかと思ったら、日差しが眩しすぎて全然画面が見えなくてやめた。

 何気なくプールのある方向を振り返って、恒世が泳いでいる姿を想像して、冷たい水の感覚とか、どんな顔してんだろうなとか思ったら、あー泳ぎたい。昼飯食べたら市民プールでも行ってひと泳ぎするかと、僕は少しニヤリとして歩き出す。


 部活に実行委員に、ちょっとだけ勉強とか、あとは地元の奴らと遊んだり無料公開の漫画を読んだりしていたら夏休みなんて一瞬。新学期と思ったらすぐに定期テストがやってきて、そしたらもう文化祭だ。

「誠二ぃ、メニュー表清書するけどこれで合ってる?」

「誠二くん、女子で作ってるエプロンの経費、ちょっとだけ予算超えちゃってて……」

「おい誠二! 部活の女装カフェがあるからこのシフトは無理って言ったろ!」

 クラスメイトのあらゆる質問やら要求やらを捌いているだけで時間が経って、自分のやらなきゃいけないことが後回しになる。そこにいつも恒世がぬるっと現れて、手を貸してくれるのが本当にありがたかった。

 ありがたい、のだけど。

「恒世くん、集金の告知お願いできる?」

「恒世〜今日の作業行けなくなっちゃって、ごめんだけどフォローしといて」

「恒世、ついでにこの書類提出よろしく」

 へこへこしてなんでも引き受けてしまうから、図に乗ったクラスメイトたちの恒世への要求はちょっと目に余るものがあり、僕はまたトゲトゲした気持ちになっていた。でもそれを本人に伝えたところで、「みんながそれで助かるなら」とお決まりの台詞だ。

 日暮れの早くなった9月の夕方。もう夕日は空を焼き切って、濃紺の夜が顔を出している最終下校時刻。教室には食品衛生なんちゃら管理の名簿を必死に全員分清書している恒世と、ひとりだけ残して帰るのもなんだか悪くて装飾物を適当に仕上げながら残っている僕、ふたり。

「……恒世」

 小さな声で名前を呼んでみても、机に齧りついている茶色い頭は、そのまま。

「なあ、恒世」

「え? あ、ごめん」

 何か言った? と僕を見上げる八の字眉毛。ああ、髪を切ったのか。おかげで余計にお人好し顔だ。

「それ、終わんの?」

「うん、もうちょっとだから」

 覗き込めば確かに8割方埋まったリストが見える。少し神経質そうな小さな文字が、終わりに向けてだんだん雑になっていくのがわかって、恒世も人間なんだなとなぜだか安心する。

「手伝ってくれる……わけじゃないよね」

 こういうことを言うようになったのも、前よりは僕に気を遣わなくなった証拠だろう。変に愛想笑いされるより気軽な言い合いができるなら、そっちの方がそりゃ嬉しいに決まっている。

「こういうのは1人で集中してやった方が早いんだよ」

「そうかな」

「それか適当に回してクラスの奴らに書かせればいいのに」

「みんな忙しそうだし、LINEのほうがいいかなったから」

「いつも優しすぎるんだって」

 早く終わらせな、と黒板の装飾物に向き直る。話を振ったのは自分だけど、喋ってたら終わるものも終わらない。恒世は人に話しかけるのも話を切り上げるのも苦手だ。それくらいのことはわかってきたからこちらから切り上げてやる。

「誠二くんだって十分……」

「ん?」

 なにか聞こえた気がして振り向いても、また必死に文字を刻みつける姿が見えるだけだった。文化祭まであと、1週間。


「なんだかんだあったけど、大成功ー!」

 圭吾がでかい声を出して、大して仕事もしてない奴らがお疲れ様ーと言い合いながら紙コップを交わす。やれやれ、マジで1番疲れたのは誰だと思ってる?

 まあでも、と、賑やかな教室を見回せば悪い気分じゃない。エプロンしたままのやつ、制服のズボンを膝までたくし上げてる男子、浴衣の女子、なぜか女装してるやつ……。バラエティに富んだクラスメイトの唯一のおそろいは“笑顔”ってとこが、なかなか粋だ。

「後夜祭、体育館だよー!」

「行こうぜ行こうぜぃ」

「誠二、行かないの?」

 圭吾に問われて、恒世も、と思ったらなぜか見当たらない。

「ごめん、先行ってて」

「りょー」

 キョロキョロと廊下まで探し回っても全然いない。どっかで倒れてたりしないか心配になってきて、粘っていたら教室は空っぽ。みんな実行委員を置きざりにして後夜祭を楽しみやがって……。

「誠二くん!」

「わ!」

 びっくりした。探していたはずの張本人が突然背後に立っていたから。右手には紙コップを持って、制服の上にエプロンをつけたまま。ああ、調理室の方にいたのか。通りで。

「あのね、あまった売り物、飲んじゃっていいって言われてるから」

 はい、と渡されてとりあえず一気にごくり。なんだこれ、変な味。

「お前、これ酒か?」

 疲れた身体になにかが染み渡り、ぐらりと頭の重心が持っていかれる感覚。日焼けで火照った肌が内側からも熱くなる。顔があつい。

「えっ! えと……あの……ごめ……」

 持ってきたコップを眺めてあわあわする恒世の肩を叩いて、僕は笑う。

「一口しか飲んでねぇし、大丈夫だいじょうぶ……ははは」

「誠二くん?!」

 どすんと音がしたと思ったら自分が座り込んだ音だった。視界がチカチカして、上から覗き込む恒世の顔は逆光でよく見えない。頭はクラクラするけどなんだか気分は良くて、それで。

「ねえ」

 頰に手が触れる。恒世の冷たい手だ。どうしてこんなに冷たいのだろう。

「僕、誠二くんのことが」

「こうせい、水かおちゃ……」

 持ってきてくれないか、と言いたいのに口がうまく回らない。頬に触れたままの手がぶるぶる震えている。寒いのか? だいじょうぶか、恒世。

「好きになっちゃった」

「え?」

恒世の顔が、ちかい。なにを言ってるのかよくわからない。

「誠二くんのことが好き」

 真っ暗に視界が奪われたと思ったら唇に感触があって、そうか恒世が光を全部遮ったから暗くなったのかとわかってからキスされたんだともわかる。

「恒世、なかないで」

 顔は見えないけど、大粒の涙の粒が僕の頬に落ちてくる。生暖かいそれで、顔中が濡れていく。

「誠二くんのせいだよ、僕なんかに優しく、するから……」

 心底悲しそうな恒世の声に悲しくなる。ごめんな、ごめん。ぼくのせいだ。僕には何ができる? 恒世に、何をしてやれる?

「ねえ、僕と付き合ってよ」


          ☆


「ごめん、僕、繭香に告られて付き合うことになって」

 繭香、というのはああ、誠二くんがいるからって文化祭の係に立候補してた女の子。

「だからちょっと、ごめん」

 男は無理とかお前みたいなのは無理とかじゃなくて、そういう答え方するところも優しくてズルくて嫌いで好きだ。じゃあもし2人が別れたら……って、期待していいの? ダメなの? ねえ、どっち。

 例のロングホームルームで困っていた僕の前に颯爽と現れた誠二くんはあまりにも理想の王子様で、最後に名前を呼ばれたとき、すっかり恋に落ちてしまった。2人で歩いた廊下も、ドキドキしてたまらなかった。名前を呼ぶのだって緊張して、でも「恒世」って呼ばれるのがずっと心地よかった。誠二くんのおかげでクラスのみんなも恒世って呼んでくれるようになったけど、誠二くんの「恒世」だけがやっぱり特別だった。

 特別だったけど、やっぱりそうだよね。そんなにうまくはいかないよね。

 だけど誠二くんは優しいから、もしかしたら、こんな僕のことも許してくれちゃうんでしょ?

「誠二くん」

 僕はしゃがんで、床にへたりこんでいる誠二くんと目線を合わせる。目の前に見える漆黒の髪の毛が蛍光灯をうつして天使の輪。僕より10cmも大きな誠二くんの、その大きな背中に、肩幅に。きっと僕よりあつい体温に、いつか触れたいと思っていた。

「一回だけでいいから、抱きしめて」

「……わかった」

 優しい人なんて、好きになっちゃだめなのに。わかってたのに。

 僕は飛び出しそうな心臓ごと誠二くんに包まれる。あーあ、こんなの一生忘れられるわけないやとすべてを諦めて、そのまま目を閉じた。

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優しい人 Anne @sakuanbow

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