影からの訴え

紀 聡似

影からの訴え


 巫女が、その男の霊魂を察知したのは偶然のことであった。


 いささか不穏を感じた巫女ではあったが、当該、今の自分がこの土地に居るという行き掛かり上、警戒をしながらも、その霊魂と対話を開始したまでである。



 私の名ですか?


 う~ん、私はどんな名前でしたか、もう何十年も昔のことですから、全くもって思い出せません。


 あぁ・・・。


 そうですねぇ・・・、影が良い。


 影で結構です。


 えぇ、影で結構でございます。




 当時のことでございますか?


 それは未だに鮮明に記憶してございます。忘れようにも忘れられない記憶でございますからね。


 あの日の、そうです、あの日の朝は、もうご存知の通りかと思われますが、とても天気が良くて、暑い暑い朝でございました。


 私は午前5時ころには起床しておりましたが、その晩は寝たり起きたりで・・・。昨晩は寝苦しい暑い夜でございましたし、なんせ夜半にかけて空襲警報も発令されておりましたから。


 それに蝉が朝っぱらから、ヤンヤヤンヤと鳴き声を闘わせておりますので、眠ってなんか居られないのですよ。




 えぇ、妻の方が、普段から私よりも先に起きておりましたので、私が洗面を終える時分には、もう飯の支度は整っておりました。


 妻は大変、気立ての良い、若いのに良く出来た娘でございました。


 はい?妻の名ですか?


 う~ん。もはや妻の名ですら、思い出せなくなっている自分が悲しく思えます。


 そうです、祝言は一年ばかり前のことでした。


 はい、子は、妻の腹の中におりました。男の子か、女の子か、ついに分かりませんでしたが、今となっては、どちらにしても、無事に生まれて来てもらいたかったと、切に思って仕方がありません。




 私は、この市中から少し東に行った町外れにある、小さな時計屋を営んでおりました。それは父から受け継いだ家業で・・・、と言っても私もまだ三十路を前にしたあたりでしたから、まだまだ勉強不足で、試行錯誤しながら、必死になって働いていたつもりです。




 え?当時の町並みでございますか?


 それは活気のある町でございましたよ。たとえ戦時中でありましたが、それでも皆、明るく張り切って生きておりました。


 私の住んでいた長屋は、商店街が間近でしたからね。


 仕事場への道すがらの商店街、八百屋の・・・誰でしたか、名前は忘れてしまいましたが、その対面で魚屋の・・・、これもどなたでしたか名前は定かではありませんが、そのご両人が朝っぱらから口喧嘩していたのを見かけたと思ったら、帰りのころには、ふたりして団扇をパタパタさせて、夕涼みをしながら、店前の長椅子に腰掛けて将棋を差しておりましたっけ。




 こんな話を聞かされて、どれだけの方が懐かしく感じてくださるでしょうか。


 あぁ・・・、そうでしょうかねぇ。


 たとえ当時を知らない方々でありましても、きっと懐かしいと思ってくださるでしょうか。


 古今東西、皆さんの心底に残っている幼少期の黄昏時と、なんら変わっちゃいないと、そう願いたいものです。




 私は妻がこしらえた弁当を持って、工房へ向かっておりました。靴紐がほどけてしまったので、ちょいと近くの建物の・・・、そうです、確か石造りの頑丈な建物でございました。ちょうど日陰になって涼しくなっていた、そこの出入り口にあった階段の、真ん中の二段目に腰をかけて、靴の紐を結び直していた時だったと思います。




 はて・・・。


 警戒警報も、朝食の時に解除されたとラジオで申しておりましたのに、どうやら飛行機のエンジン音が、遠くで唸っている様子でありました。しかしそれが米国の爆撃機のエンジン音などと、この最中は思ってもおりませんでした。


 先も申しましたが、当時は空襲警報どころか、警戒警報も出ていなかったものですから、朝の町中の多くの人々は、至って平常通りだったと思われます。

 私は近眼でありましたから、眼鏡を外して汗を拭っていたときでした。




 一瞬です。


 一瞬、地面の全体が、いえ、私の目の前が全部真っ白になりました。


 その閃光で、私の目がやられてしまったのでしょうか。視界が紫色に・・・。




 いえ、今更ながらよく思い返してみますと、紫色の稲光のようなものが、四方八方に、縦横無尽にギラギラとほとばしっていたように思えます。


 私は地面に押し込まれるような、とんでもない圧力が私の身体にのしかかったところで、私の記憶は一旦途絶えてしまいました。




 次の記憶が始まりましたのは、私が影になってしまってからです。それは、爆撃から半日と経っていなかったと想像されます。


 影となって、影から影へ。時には暗闇に紛れ込んで、ひっそりと、ジメジメとした、陰鬱とした影の世界の住民になりました。


 影というのは実体がございません。写し絵と言っても良いのでしょうが、写しうる実体が消滅しておりますから、存在としては、有るのだか無いのだか。ですから記憶というのも、だいぶぼんやりとしてしまうのです。




 はい?・・・あぁ、妻のことでしょうか?もちろん、影になって直ぐに、私は妻が心配になって、影伝いに我が家へ向かいました。


 今、向かいましたと申しましたが、これもまたお分かりでしょう。俄然、数時間前まであった世界が、私が・・・、私たちが当たり前に生活を営んでいた世界が、もう完全に消滅してしまっておりましたから、正直、よく妻の居る我が家へ辿り着けたものだと、未だに私自身も感心してしまうものですよ。帰巣本能、とでも申せばよろしいでしょうか。




 妻の無事でございますか?


 それは残念ながら、と申しましょうか、そちら様のご想像通りでございましょう。


 あの若く、美しく、観世音菩薩のようでした私の妻でございますが、残り火の燻る瓦礫に埋もれて、素っ裸で丸坊主になって、全身が真っ黒く炭化した姿で転がっておりました。


 これはもう、誰とか彼とか見分けも付きませんでしたが、私には、これが妻だとはっきり確信できておりました。


 口を大きく開けて、苦悶と恐怖に満ちた表情でございましたが、これが間違いなく、私が毎日毎日愛した妻に違いないことくらい、たとえ誰かに否定されたとて、私の愛情というのは、そんな不義理なものでは、決してございませんでしたので。




 妻の遺体ですか?


 こればかりは感謝しかございません。


 ウジウジとその場におりました私、影でございますが、炭になった妻の遺体を、どこかの若き御仁が手厚く弔ってやって下さいました。


 もちろん、当時が当時でございますから、道ばたで荼毘にふして頂けるだけで幸運でありましたから、このご恩を忘れることは永久にございません。




 しかし、未だにこう思ってしまうのです。


 妻は、こんな姿で死ぬために、生まれて来たのでしょうか。


 あんな残酷な最期を遂げるために、十数年間を生きて来たのでしょうか。


 誰が何のために、あんな残酷なことをしたのでしょうか。


 我々は、何かいけないことをしたのでしょうか。


 それだけは・・・、この心持ちだけは・・・、どうにもやり切れないのですよ。




 あなたには分かりますか?


 私からすれば・・・、私たちからすれば、人間に生をもたらすあの恵みの太陽でさえ、いつ、いまに墜ちてくるのではないかと、恐怖に拍車を掛ける存在であることを。


 えぇあれは、あの日の出来事は、こんな連想を、どれだけ時が経とうとも、止めることなどできない出来事なのです。




 それに、人の命を、まとめた数で勘定をしないで頂きたい。


 まとめた数で勘定をされてしまいますと、ひとつひとつの、あの町中に散りばめられていた命は、一体、何だったのでしょうか。


 あの皆で営んでいた生活とは、一体何だったのでしょうか。


 例えば、そうです、桜の樹でございます。

 毎年、桜は綺麗な花を咲かせましょう。しかし、ひとたびその花びらが散ってしまうと、一月もすれば皆、これが何の樹なのか、どこが桜の樹なのか忘れてしまう。

 そうしてまた、春を迎えるわけです。あぁ、これは桜の樹だったのか、綺麗だなぁと思い出すのです。


 それでは・・・、そんなことは、どうしても私は・・・甚だ納得がいかないのですよ。




 はい?・・・私が、でございますか?


 いえいえ、私は記念館にある「人影の石」の影ではございません。


 私なんぞ、あの日は誰に発見されるようなところに在らず、一瞬で蒸発しておりましたから。


 あの記念館、行って下さいましたか?それは、ありがとうございます。


 あなたのようにお若い方に、どうしても知っておいて頂きたいことが、あそこにはございますから・・・。


 ありがとうございます。ありがとうございます。




 ここまで話すと、影は自ら対話を切り上げてしまったので、巫女は意識を帰した。


 そして、ふと辺りに目を配ると、さっきまでと何も変わらない小さな公園内の風景があった。


 体質が体質なだけにあまり気が進まなかったが、修学旅行でやって来た広島市中にある、小さな公園の風景である。




 ベンチに腰をかけて、乾いた喉をアイスミルクティーで潤していたが、一緒に居た同級生ふたりは、いつの間にか噴水あたりではしゃいでいる。


花怜かれん、また誰かと交信していたでしょ~!」と、噴水前からクラスメートのひとりが声をかけた。


「あ、ごめん!私もそっち行く!」


 彼女が立ち上がり、ほとんど氷が溶けてしまっているミルクティーの容器をベンチの上に置いた。すると、ベンチの後ろの柵の向こうにある、林の草むらの奥が気になり出した。




 ベンチの背もたれに両手をついて、背伸びをするように草むらの奥の方に首を伸ばした。

 うっそうとする林の中なので、よくは確認できなかったが、緩い南風が手伝って草むらをなびかせると、苔むした石塊いしくれの山があった。


 巫女は直感した。あれが、あの影が残された石であることを。


 人知れず、未だに市中に遺されている、あの日、あの瞬間に、尊いひとつの命が焼きつけられた、無惨な痕跡を。




「花怜~?ほんとに大丈夫~?」


「あ、うん!大丈夫!」




 私たちが暮らしている全ての場所に、悠久の昔から、土地の記憶と言われるものが必ず存在する。


 土地の記憶の痕跡、と言ってもよい。


 そこには明らかに、先人が生きてきた証も同時に存在する。


 私たちは、いま目に見えている町並みに意識を奪われ勝ちだが、地肌が見え隠れしている土地には、未だに土地の記憶の痕跡が有るのだということを、決して忘れてはならない。


 もちろん、いまはアスファルトや大きな建物に蓋をされてしまって、影と時間に埋もれてしまった場所も含めての話だけど。




 と、こんな内容を、彼女はこの日(8月6日)の日記に書き記している。


 幼少より霊能力が備わった巫女、御神川みかがわ花怜かれんの高校時代、16歳の夏の出来事だった。





 おわり




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