一人で見てください
尾八原ジュージ
早瀬さん
その日の夕方、早瀬さんはまた桃を持ってきた。桃はすっかり熟しきって、お尻の方をつつくとぐにゃっと凹んだ。
早瀬さんは「いつもすみません」と言い、私は「いいえ」と言ってお互い頭を下げた。飾り気のないひっつめ髪が揺れると、彼女からは美術室のような匂いがした。
早瀬さんは私の隣人である。この小さくて古いアパートに住んでいるのは、彼女と私と大家のおじいさんだけだ。
私は近所のスーパーで働いており、早瀬さんはそこの常連さんでもある。もやしと春雨をよく買っていく。
「まだ絵は完成しませんか」
尋ねると、早瀬さんは「まだ……」と控えめに答える。
早瀬さんはここのところ桃を描いているらしい。とても熱心だけど、作品はなかなか出来上がらない。少なくとも私が知る限り、彼女は作品を完成させたことがない。
早瀬さんは完璧主義が過ぎる。ひとつの絵に延々と時間をかけ、試行錯誤する。だから完成するまでに桃は変色し、美しさを失ってしまう。そうなると彼女はスーパーで新しい桃を買い、また一から新たな絵を描き始める。そして古くなった桃を私に届ける。ちなみに桃の前は苺で、その前はキャベツだった。早瀬さんが古くなった食品を食べずに捨ててしまうので、私から「ぜひください」と頼んだのだ。私は胃腸がとにかく丈夫で、食べ物にあたったためしがない。そして食べ物を捨てるのが苦手だ。
「早瀬さんの絵、ちゃんと見てみたいなぁ」
桃を受け取ってそう言うと、早瀬さんは首をすくめた。
「すみません、描けたらお見せしますので」
「前にちらっと見かけた蜜柑、じゅうぶん素晴らしかったと思うんですが」
私の言葉に、早瀬さんは首を振った。「いいえ、まだまだです」
早瀬さんは美術室みたいな匂いがする。だから彼女と会うと、私はその昔美術室に出入りしていた高校時代を思い出す。
いつだったか、お腹を空かして倒れそうだった早瀬さんを、自分の部屋に連れ帰ったことがある。私の部屋はしばし美術室の匂いになり、早瀬さんは作り置きの豚汁をおかわりしながら何度も「すみません」と言った。
「私、実は高校のとき美術部入ってたんですよ。二ヶ月だけ」
早瀬さんとの接点を作るつもりで、私はそうやって話しかけた。
「ずいぶん短いですね」
「そう、部がなくなっちゃって」ここからは笑い話だ。「学祭のとき、学校が発行した食券を使うルールだったんですが、その食券を偽造した部員がいたんですよ。それも複数犯で、手分けして紙に色付けしたり、ハンコ作ったり」
「あら」
「笑っちゃうような理由でしょ。まぁ、食券自体はなかなかよくできてましたけどね。おまけに、活動記録に出任せ書いたりとかの偽装工作までやって」
早瀬さんは箸をことりと置いて「なんか、いいですね」と言った。
「そうですか?」
「いや、よくはないけど……わたし、今まで作品を完成させられたことがなくて。ほんとに人に見せられる作品なのかって考えちゃうともう、駄目なんです。それで美大も落ちてしまって、今も満足いく絵が描けなくてずっとうじうじしてて。学生時代に美術部に入ってたこともあるけど、やっぱり一枚も描けなくて……グループ製作が一番だめでした。わたしが担当のとこで詰まってしまうから。だからその、ちょっといいなと思ってしまいました。偽食券の話」
その日、私は早瀬さんに約束をさせた。絵が完成したら私に見せるように。一度も作品を完成させたことのない絵描きの絵を、一度でいいから見てみたかった。彼女が生活のほとんどを捧げてきた芸術の行き着く先を、この目に留めてみたかった。
その日も早瀬さんは桃を持ってきた。柔らかくなった桃を差し出しながら「故郷に帰ることになりました」とやにわに言った。
「父が体調を崩して、人手が必要になって……もう絵を描いてる場合ではなくなってしまったんです」
早瀬さんは蚊の鳴くような声で「すみません」と言った。私に引き留めるだけの義理はなかった。
早瀬さんは三日後に引っ越した。その日、私がアパートに帰ると彼女の部屋はすでに空き部屋で、私の部屋のドアに平べったい包みが立てかけてあった。開くと小さなキャンバスが出てきた。
私の横顔が、ぞっとするほど克明に描かれていた。
添えられていた手紙には「記憶を頼りに描きました。一人で見てください。今までありがとう」とあった。それっきり。
なにせ早瀬さんの住所も連絡先も知らないから、本当にそれっきりになってしまった。感想を述べるすべもない。彼女がまだどこかで細々と絵を描いているのかどうか、私にはそれすらもわからない。
一人で見てください 尾八原ジュージ @zi-yon
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