第5話 討ち入り、そして成立
時は流れ、元禄十五年・十二月十四日。この日、ついに赤穂浪士達は吉良邸に討ち入りをし、見事、主君の仇敵であった吉良上野介を打ち取ったのであった。
この時、討ち入りに参加した人数四十七士。すぐに幕府にとらえられ、その身柄は有名な四大名家へとお預けにとなった。
この四十七士の処分について、佐吉は赤穂浪士の主君である浅野内匠頭と同様に、即決にて切腹の御申しつけがくだるのだと思っていたのだが、どうにもそれがおかしなことになってきた。
今はもう、年が明けて一月十四日。
一か月の時間が経ったというのに、一向に四十七士についての処分が下される気配がないのだ。
先の討ち入りの時は、江戸の町中、あっぱれ赤穂浪士と、どんちゃん騒ぎが起こったものだが、ひょっとすると、もうひと騒ぎ起こせるかもしれねえなと、佐吉は遊び人の独特の嗅覚でそれを嗅ぎとった。
そんな佐吉が向かったのは、江戸界隈では名の知れた儒学者の元。
部屋に通された佐吉は前置きもなく、儒学者の先生に己が抱いている疑問をぶつけてみた。
「先生。四十七士の処分って、どうしてこうも長引いているんでしょうかねぇ?」
初老の儒学者は、長いひげを右手でもてあそびながら、
「そうじゃのう――――」
と一呼吸おいてから細々と語る。
「まず考えられるは、綱吉様が儒教を深く学んでおられるところに理由があるのではなかろうかのう」
「どういうこって?」
「ふむ。此度の赤穂浪士の討ち入りの件。これは儒教という面から見れば、じつに称賛に値する行為であるからのう。長きに仕えた主君の汚名を晴らし、主君に対する忠義のみにて己の身を顧みぬ献身的行為。まさに、儒教の教えを体現せしは、まこと見事な赤穂の四十七士。そして、その忠義と仁義は、武士が守るべき御誓文の中にもしっかりと明記されておるのもまた事実」
「じゃあ、将軍様からすりゃあ、赤穂浪士達を褒めてやりたいところなわけで?」
然り。と儒学者は快活に笑い、話を続ける。
「じゃが、ワシとしては仇討ちという点では疑問がある。そもそも仇討ちとは、親を殺された子、子を殺された親が果たしてこその仇討ちなり。此度の場合は、主君と家来。儒学者の端くれであるワシとしては、軽々に仇討ちであるとは認めるわけにもいかぬ。それは、綱吉様も同じ心情ではなかろうかのう」
「つまり、将軍様はどうしたものかと迷っておられるわけで?」
「第一、考えてもみよ。綱吉様は、生類憐みの令という、人々に優しさと慈しみを説いた法律をお定めになった。じゃが、此度の討ち入りの血なまぐさいことよ。それに討ち入りとは申しても、見ようによっては、赤穂浪士がおこなったのは武士道に反する夜襲の騙し討ち。これを幕府が称賛してしまっては、幕府が、ひいては綱吉様が江戸の町中での狼藉を容認したとみなすこともできるわけじゃて。それでは、生類憐みの令という法律すら、綱吉様は自らでもって否定してしまうことになる。さてもさても、此度の問題のお裁きの難しきことよ。考えても答えの出ぬ、禅問答のようなものよ」
ほっほっほっ、と気持ちの良い声で笑う儒学者の言葉を聞いて、佐吉の頭の中にある考えが浮かんできた。
へえ、こいつぁ、あの胸糞悪い法律を作りやがった将軍様と幕府のクソッタレに、一矢報いる絶好の好機かもしれねえな。
佐吉、すっくと立ちあがり儒学者に向かって深々と頭を下げる。
「ありがとよ、先生。大いに参考になりやしたぜ」
そういうと、佐吉はさながら限界まで引き絞った矢が放たれたかのように儒学者の家から飛び出ると、その足ですぐさま芝居小屋へと飛び込んだ。
中には、佐吉の知り合いの役者が、一人で憂鬱そうにキセルをふかしている姿があった。これまた好機とばかりに佐吉はその役者のそばへと駆け寄った。
「おう。景気はどうでえ?」
声をかけられた役者、忌々しそうに口から紫煙をこぼしながら、
「さきっつぁん。あんたの目ぇは節穴かい? 景気がよけりゃあ、色男がこんなところで一人キセルをふかしてるかってんだ」
「まあ、そう言われりゃあそうだな。で、天下の色男さんを擁する芝居小屋がどうして景気がわりぃんだい?」
役者、キセルを口からはずし、キセルを火鉢に何度もこんこんとたたきつけながら、
「本がな、よろしくねえんだよ。役者陣は粒ぞろいなんだが、いかんせん、本がダメだ」
「へぇ? だがよ、本がつまらなくても、色男と良い女がそろってりゃあ、なんとかなるもんじゃねえのかい?」
「そいつぁトーシロの考えさね。どんだけ美男・美女を集めたとしても、本が面白くなけりゃあ、芝居ってもんは成り立たねえ。ほら、よく言うだろ。美男・美女も三日見れば見飽きるってやつさ」
「たしかに、そうかもしれねえな。そこでだ、ちょいと良い話があるんだが――どうだ、のってみねえかい?」
ずずずいっと身を乗り出す佐吉に向かって、役者はキセルの先を向け、
「良い話なんかより、面白え本さ。今の俺にゃあ、それしか興味がねえよ」
「おっと、こいつあ俺の言い方がわるかったな。俺の言う良い話ってのは、おめえさんが喉から手が出るほど欲しがっている本のことさ」
「ほんとかい? 信じられねえな」
へっ、と嘲笑の色濃い表情を浮かべる役者に、佐吉はしたり顔で語りかける。
「ほんともほんとさ。おめえさん、先の赤穂浪士の討ち入りのことは知ってるよな?」
「当たり前だろ。あんな久しぶりにスカッとするような話を知らねえなんざ、そんなやつぁ江戸っ子じゃねえよ」
「そうともさ。あの討ち入りは誰もが知ってて、それでいて誰もがスカッとした大事件だ。そいつを利用しねえ手はねえんじゃねえのかい?」
「どういう意味だい?」
乗り気でなかった役者も、今はもうすでに佐吉の術中にはまり、役者の方が佐吉に向かってずずずいっと身を乗り出し始めた。こうなってしまえばもう佐吉の口八丁の独壇場。
「だから、よ。あの討ち入りのことを芝居にしちまえばいいんじゃねえかい。そうすりゃあ、江戸っ子たちゃあ、おめえさんとこの芝居で討ち入りのことを思い出し、何度も何度もスカッするって寸法よ。おめえさんとこはおめえさんとこで、江戸っ子達が総出で押し寄せ、懐はうるおう、役者連中は顔が知れるといいことづくめじゃねえかい」
「なるほど、そいつぁいい! そうと決まりゃあ、すぐにでもあの討ち入りのことを本にしちまわねえとなあ」
「よし、じゃあ俺があの討ち入りの内幕に詳しい野郎を連れてきてやるから、すぐに本にして、手早く稽古をはじめてくれや」
「言われるまでもねえ。まあ、見てな。後世の歴史に残る、最高の本を書いてやらぁ!!」
そうしてこの役者、ものの三日で大作を書き上げた。
その大作は『忠臣蔵』と名付けられ、歌舞伎芝居の花形となり、興行を打ち始めたその日から、江戸の町中に大旋風を巻き起こすほどの、連日連夜の大好評。そのおかげで今や四十七士は、江戸の町人の間では現人神と遜色たがわぬくらいに崇められるまでになっていた。
そうなってくると、江戸の町人達の間で四十七士の処分を寛大にすべしとの声が高々と上がり始めてきた。
そう、佐吉はこれを狙っていたのである。
四十七士の処分に迷う幕府に――ひいては将軍様に、世論の声という圧力をかけてやるのが、佐吉の考え付いた意地の悪い企みなのであった。
佐吉のこの企みは見事に成功し、四十七士を称賛する声が続々と幕府に寄せられ始めた。
さあこうなると、綱吉も綱吉の部下も軽々に結論を出すことはできなくなってきた。
綱吉の心情としては、儒教の教えの体現者である四十七士を助けてやりたい。だが、そうしてしまうと、自らの発令した『生類憐みの令』を自ら否定したことになり、ひいてはそれは幕府の法律の軽視となり、今後、幕府が発令する法律になんの重みや効力もなくなってくる可能性が非常に高い。
かといって、このまま四十七士を法律の下に斬首などしてしまえば、江戸の町人という世論を完全に敵に回してしまうこと請け合いだ。いくら将軍様や幕府といえど、世論を敵に回してしまえば、安寧な統治は難しくなり、ヘタをするとこの時の不満が後々に幕府に牙をむかないとも限らないのだ。
江戸の町が四十七士で連日連夜の大騒ぎをしている中、江戸城でも四十七士について連日連夜の大騒ぎをしているといった有様であった。
まさに四十七士旋風、ここに極まれりといったところである。町に吹けば喝采があがり、城に吹けばため息があがるという、江戸幕府始まって以来の大旋風。
小田原評定とはよく言ったものだが、この時起こった、元禄江戸城四十七士評定も相当なものだったとうかがい知れる。
それを証明するかのように、一月が終わるころになっても、四十七士についての処分はまだ決定されることはなかった。
これに気をよくした佐吉は、さらに町人達を煽って、四十七士助命嘆願書なるものを作り上げ、それを江戸の各奉行所に届け出るなどして、さらに世論による幕府に対しての圧力を強めていった。
だがここは佐吉が見誤ったか、世論の声がますます大きくなっていくことで、綱吉の四十七士の処分についての決断を早めてしまう結果になってしまった。
民の言動に一々忖度をするような将軍など、愚の骨頂、後世までの笑いものよ、と綱吉は考え、四十七士はただちに切腹を申し付けられるしだいと相成ったのである。
この時、二月四日。
吉良邸の討ち入りより、およそ二か月後の御沙汰であった。
だが、ここで注目すべきところは、四十七士があくまでも『切腹』という、武士の作法にのっとっての処分がくだされているところであろう。
綱吉が思う通り、四十七士を法を犯した罪人として処分するのなら、四十七士は『切腹』ではなく『斬首』という刑罰によって裁かれていなければならないのだ。
しかるにこの事実は、綱吉が江戸の町人達の声にある意味では屈したように受け止めることもできるのである。
綱吉からの切腹の申しつけを承った四十七士の頭領・大石内蔵助は切腹に際し、からからと快活に大声で笑いながらこう言ったという。
「さてもさても、実に恐ろしきは御上の贋光などよりも、民草が集いて発せられる愉快痛快なる願光なり。この大石内蔵助、最期に際し、江戸っ子の心意気の深さ、まことにもって痛感せし。それはおそらく、浄土におられる主君、浅野様、ひいては摩利支天様も御照覧あらせられようぞ」
この大石内蔵助の言葉を風聞によって耳にした佐吉は、愉快でたまらないといった風に笑い転げたという。
さてさて、この時に成立した歌舞伎芝居『忠臣蔵』は、何度も何度も修正を加えられ昇華されていき、寛永元年(一七四八年)八月、大阪竹本座にて『仮名手本忠臣蔵』という名にて世に語り継がれし不朽の名作と相成ったのだが、この名作が成立するに至った小粋な江戸っ子の遊び人の名は語り継がれることはなかったという。
忠臣蔵~町人の心意気~ 日乃本 出(ひのもと いずる) @kitakusuo
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