君にもらった命を、私はきっと生きるから。

初見 皐

君にもらった命を、私はきっと生きるから。

 ——物語病。そんな言葉を聞いたことはあるだろうか。

 幸せな思い出や運命的な出会い。あるいは悲劇的な非日常。

 人生を彩る〝物語〟を積み重ねるほどに、患者の人生は終わりへと近づく。

 日記のたとえが解りやすいだろうか。その日、何か劇的な出来事があったとする。例えば音信不通の幼馴染おさななじみと久しぶりに再会しただとか、恋人ができたとか、そういうこと。すると、日記の持ち主はその日のことを事細かにつづろうとするだろう。

 ——しかし、日記のページ数には限りがある。大抵の人間はそこで新たな日記帳を見繕みつくろい、青年期、壮年期、老年期と成長していくものだ。

 しかし次の日記帳を見つけ出すことができなかった人間は、本来日記に記すべき膨大な文字を抱えかねて——いずれ死に至る。

 症例の少なさ故に治療法は存在せず、日記に記すまでもない『いつも通りの一日』を積み重ねることだけが患者の生きる手立てとなる。灰色の人生か、死か。あまりにも残酷な二択を迫るその病は、ある不可思議な現象によって世に知れる。

 ——曰く、患者の亡骸は、必ず一冊の物語を抱えて発見されるという。



 *



「——私の物語は、どんなお話なんだろうね」

 そう呟いた少女の名前は、逢坂おうさか瑞希みずき。末期の物語病患者にして、たった今病院から抜け出してきた逃亡犯ばかやろう。その言葉に、時雨しぐれ海斗かいとは食ってかかる。

「縁起でもないこと言うなよ。もっと大人しくしていれば、お前は死んだりしないはずだろ?〝物語〟なんて都市伝説みたいな——」

「——ストップ」

 焦りのようなものを孕んだ海斗の言葉を、瑞希は遮った。海斗だってわかってはいる。今更こんなことを言っても意味がないと。瑞希が次に言う言葉だって手に取るようにわかるのだ。つまり——

「海斗だってわかってるでしょ? 私は文字数に怯えながら死んだように生きるつもりなんてないよ。そうするくらいなら——」

 ——私は私らしく生きて、私らしくこの命を終わらせる、と。


 *


 病院を抜け出してきた瑞希を家に連れ帰るわけにもいかないので、ネットカフェを探す。スマホも持たず、身一つも同然の逃避行。その非日常感に気持ちは自然と高揚する。海斗より半歩前を歩いていた瑞希は、清々しい笑顔を浮かべて言う。

「明日からは忙しくなるよ」

 夜の冷たい空気に肌を撫でられて、声を抑えながら彼女は続ける。

「覚悟しておくといい。私が死ぬまでに君としたいことは、星の数ほどあるからね。全部、付き合ってもらうよ」

 満月を背にした彼女が、あまりにも輝いて見えたから。——彼女に灰色の人生は似合わない。そう、思った。

「……わかったよ、瑞希。——君が死ぬまで」

 そのささやかな意趣返しと共に突き出した海斗の拳に、コツンと自分の拳を突き合わせて。

「——私が死ぬまで」

 ……こうも素直に繰り返されては、何も言えなかった。


 *


 それからの六日間は飛ぶように過ぎていった。

 遊園地で一日中遊んで、その夜はカラオケで歌って、ふざけて子守唄なんて流しながら寝落ちした。動物園に入ったのは、小学校の遠足以来だろうか。早朝の道路を歩いてみたり、深夜にジャンクフードパーティーをしたり。そして一日の終わりに、決まって明日の話をする。


 あまりにも普通で、どこにでもあるような、精一杯の『遊び』。

 まるで普通の高校生みたいだった。


 まるで平凡な——



 *


  

 ——早朝。あるいは深夜とも言える時間。海斗は公衆電話のボックスに入って、手に慣れた番号を押す。コール音は一回で途切れて、電話口から言葉を探す気配がする。ここ一週間というもの、二度目のコール音を聞いた覚えがない。この人は一体いつ眠っているのだろうか。——いや、実際ほとんど眠っていないのだろう。

「眠っていないのは君も同じだろう?君からの電話がまともな時間だったためしがない」

「心読むのやめてくださいよ……。 それで、そっちはどうです?瑞希の、治療法は」

 賢しげな話し方をするその女性は、神医であり、なおかつ物語病研究の第一人者。——瑞希の母親にあたる人物だった。

「研究の進捗は前と変わらず。違法・脱法・非常識をいくら重ねたところで、この短期間では糸口さえ掴めなかった。——やっぱり〝第一人者〟なんてものは不便だね。せっかく苦労して他人の研究を覗いたところで、どの研究も遅れてる。真新しい情報は見つからなかったよ」

 第一人者、などと言っても、普通はそこまで明確な情報格差が起こるものではないと思うのだが。広範な研究内容を誇る彼女の天才性は研究者の少ない物語病の界隈にあって特異なものだった。

  そんな彼女でも、この病気は治せない。

「……それでも、先生はやっぱりすごいですよ。瑞希のために、そこまで行動を起こせるんですから。本当に……羨ましい」

 ——俺は、瑞希に引っ張ってもらってばかりだから。

 小さくこぼした言葉は、電話の向こうに届いてしまっただろうか。一旦話は途切れて、逡巡を振り払うようなため息が続く。

「君は……わかっているだろう? 君はもう限界だよ。体も精神も、すでにズタボロのはずだ。を、まさか忘れたわけでもあるまい」

  神医である彼女の、常連。不治の病を抱えているのは、何も瑞希だけじゃない。彼の余命が残り十年を切っていることを、瑞希は知らなかった。


「海斗君。君は瑞希が死んだら、その事実に耐えられるのかい?」

 そうして先生は、立て続けに問いかける。わかりきった事実をただ確認するために、順序立てて。だから海斗も、ゆっくりと丁寧に言葉を返す。そうして海斗と先生——病人と医者の対話は続く。

「ええ、先生。。こちとら十年間、瑞希よりも俺が先に死ぬんだって思ってたんですから。今更立場が逆転したところで、それを受け入れろって言われてもまず無理です」

  現に、彼女の言った通り海斗の精神は既に摩耗し切っていた。それでも、海斗はいっそ病的なほどに平常を演じ続けている。

「……それでも君は、瑞希を死なせるのか」

「ええ。——彼女がそれを望むのなら」

 電話の向こうで、先生が息を呑んだ気配がして。数秒のちに、絞り出すような言葉が続いた。

「……それなら、君は生きろ。瑞希よりもずっと長く、何十年でも生きてみせろ。大切な私の一人娘の命を背負うからには、早々にくたばったら絶対に許さない」

「はい。命に代えても」

 噛み合わないその会話は、彼らの中でのみ意味を持った。



 *


  

 何かのイベントだろうか。訪れた浜辺には沢山の屋台が立ち並んでいた。タープの日陰に長テーブルを見つけて、海斗たちはその端に腰を下ろす。遅めの昼食を済ませて、瑞希が追加の食べ物を仕入れてきた頃。

「——そもそも、瑞希は怖いとは思わないのか?」

 ふと、抱えていたわだかまりが口をつく。目の前の激辛ホットドックに夢中になっていた瑞希は、一瞬チラッと顔を上げて言う。

「へ? 怖い? え、これそんなに辛いかな」

 ……話しかけるタイミングを後悔し始める海斗だった。

「いや、瑞希は死にたくないとか思わないのかな、って……」

 冷静になって語気が弱まる海斗をよそに、瑞希はホットドックを目線の高さまで掲げる。いや唐辛子目に入る目に入る。

「なになに? 昨日までガンギマって常時深夜テンションだった海斗氏が何やらおセンチな様子だね」

「昨日までの俺、ガンギマリだったのかよ……」

 若干落ち込む海斗をよそに、瑞希は激辛ホットドックを一口かじる。宇宙人を見る目になった海斗を愉快そうに見遣りながら、片手でホットドックを弄ぶ。

「物語病って、精神からの病気らしいっていうでしょ? だから病気のことなんか忘れちゃうくらいの、最っ高のわがままをしてやろうと思ってね。そうしたら、物語病なんて案外ケロッと直っちゃうかも」

 言って、瑞希は手に持った激辛ホットドックを海斗の顔に近づけ——

「待ってなになにこれ生地まで赤いんですけどあれ、あれ目がヒリヒリするちょっと…ちょっと瑞希さん…瑞希さーん……?」

 海斗は死んだ。


 *


 サンダルを手に持って、足先を波に濡らしながら浜辺を歩く。細長く続く砂浜の、端近くまで歩いただろうか。

「ここまで来ると、人混みも減ってきたね」

 そうだね。ホットドックも無くなったね。よかった。海の水、美味しそうだね。飲んでいい?


 いつまでも口に残り続ける唐辛子と格闘して、海斗は虚ろな瞳で海水を見つめていて。——だから彼は気づけなかった。

 突然、強い力で背後から押し倒される。気がつけば、先ほどまで見下ろしていた水面が眼前に迫っていて。背後から抱きつくように拘束され、腕の一本も動かせずに。海斗はただ棒のように倒されるほかなかった。

「——っ!!」

 顔面から塩水に着水する。押し寄せる波に三半規管は蹂躙され、海の暴威が海斗の体内にまで侵入する。目も、鼻も、耳までが、全てが痛くて。上も下もわからず、絶えぬ荒波に揉まれ続ける。

 なぜ。どうして。誰が。瑞希は。考える暇もなく、何度も海水を飲み込んでしまう。このままでは、死——

「お兄ちゃん、大げさ」

「お前かぁぁっ!!」

 一週間ぶりの妹に初撃殺されかける海斗だった。……この妹がっ!(最大限の罵倒)

「なしていきなり飛びかかるかなぁ⁉︎ バイオレンスなの⁉︎ 初撃必殺なの⁉︎」

 息も絶え絶えに食いかかる海斗に、彼女は満面の笑みで応える。

「1%の悪意と、100%の悪戯心っ☆」

 ここ海だが!? 市民プールじゃないが!? 声に出さず反駁する。……というか、さっき飲み込んだ海水が逆流しかけて声が出せない。さもありなん。


 それよりも気になることがあった。

「どうしてここが——」

 ——どうして、この場所がわかったのか。そう問おうとして、海斗は口を閉じる。何か、大切なことを見落としている気がする。一体なにが引っかかったのか、自分でもわからなかった。


 会話が途切れるのを見計らってか、それまで黙っていた瑞希が海斗妹に声をかける。

夏織かおりちゃん、久しぶりじゃない? 大きくなったねー」

「ふふん! わたしはもう大人ですとも!」

「かわいーっ! ほっぺ柔らか〜」

「むふふー…… ってもうそんな歳じゃないですって!」

 猫可愛がりされる妹氏だった。



 海水に濡れた海斗の服が乾きかけて、肌がべとついてきた頃。夏織はふと海浜を見渡すそぶりを見せて言う。

「警察に見られても面倒だし、わたしはそろそろお暇しますかね」

 ——『警察に見られると面倒』。どうしてだろう。その理由が、海斗にはわからなくて。彼の思考はまた空白を生んだ。


 つい先ほどまで夏織と戯れていた瑞希は、夏織の言葉を不思議に思うでもなく、名残惜しそうにうなずく。

「うん…じゃあ、さよならかな。私が死んだ後、海斗をよろしく頼むよ」

「……ええ、任されました。ただ言っておきますけど、わたしは反対ですからね。そんな死に急ぐようなこと」

「うん、わかってる。私が死ぬ前にビビって帰ってきたら笑ってね」

 笑ってそんなことを言う瑞希に嘆息して、夏織は言う。

「その代わり、死んだら全部の不満をぶちまけさせてもらいますから」


「お兄ちゃんも、じゃあね」

「……あ、うん、また」

 海斗が上の空な返事を返す頃には、彼女はもう背中を向けていた。三歩踏み出してからふと立ち止まって、首だけで振り返る。

「——どうしてここが分かったのか、だっけ?」

 海斗が言いかけた言葉を、彼女は目ざとく拾っていて、

「捜索願、出てないはずないでしょ?」

 ——じりじりと。追い詰められた海斗の精神が悲鳴を上げていた。



 *



  

 ——Tシャツの袖口に手をかける。


 全てから、目を逸らしていた。片や大病院から抜け出した重病人。片やいずれ死に至る難病患者。捜索が行われることは当然予期していた、予期していた、はずなのだ。なのに。、思い出せない。それを予期した最初の日の、記憶がなかった。


 ——余計に時間をかけて、両袖から腕を引き抜いていく。シャワーを浴びて海水を落とせば、また元通り。瑞希の前で笑わなければ。


 この葬送の旅は、いつ始まったのだろう。昨日か、一昨日か。一週間前だろうか。もっと何年も前から、自分はこの日々を重ねてきたのではないかと錯覚しそうになる。


 ——目の前の鏡を睨め付ける。鏡に映った男の顔は、疲れ切っていた。


 旅に出る前の記憶はある。瑞希から急な呼び出しがあったことまでははっきりと記憶しているのに、それから今日の日まで、一体何日が過ぎたのか。虫食いだらけの記憶は答えを寄越さない。


 ——Tシャツの裾をまくり上げて、一息に脱ぎ去る。鏡に映る身体には、余さずのたくったような文字が刻まれていた。禍々しいまでのそれは、人の手によって刻まれたものではない。


 『逃避行』——『遊園地』——『——が死ぬまで』

 ——そしてまさに今、じわじわと浮かび上がってきた『公衆電話』の文字。乱雑に刻まれたキーワードを、一つ一つ丁寧に拾い上げていく。


 



 *



 季節外れの長袖に袖を通して、脱衣所の扉に手をかける。

「あたっ」

 やけに重い手応えがして、寝ぼけたような声とともにドアが押し返される。

「……瑞希?」

「うに……海斗、どうかした……?」

 どうかした、はこっちの台詞であって。どうかしてんじゃないですかちょっと。状況が割と意味不明。うに食べるの?

「いや、瑞希こそなんでそこで寝てんの……」

「ちょっと海斗と話をしようと思ってね……」

「待ってるうちに寝てしまった、と」

「大正解、すごーい」

 寝起きテンションの瑞希さんがそこに居た。

「とりあえず脱衣所出るからそこどいてほしいんだけど」

「うゃ、このままで話させて」

 このままで話すらしい。あ、うん。監禁か……


 ゆっくりと瑞希の脳が目を覚ますのに合わせて、海斗も真面目に頭を動かし始める。そもそも、マイペースな瑞希が海斗の湯上がりを待っていたとは尋常ではない、それをわざわざ扉に寄りかかって、顔を合わせずに話をしたいのだという。

 ——気持ちの準備は、しておいた方がいいだろうか。

 ドアに背中を預けて、ゆっくりと床に座る。瑞希の声が近くなって、風呂上がりのぼやけた頭を刺激した。

「ねえ、覚えてる?」


「私の物語病を、初めて君に知らせた時のこと」

 ゆっくりと、話し始める。

「君は物語病について、必死で調べてくれたよね。何かできることがあるはずだ、って」

 愉快そうに言う。

「ガキかって思ったよ。医者でさえ…親でさえ諦めて、思い出を作らないように生きろって言うのに、ただの子供になにができるんだって」

「でも……うん。嬉しかった。私のためにこんなに必死になってくれる人がいるんだって。私はそれで満足だった」

「もういいんだよ。私はこの人生に満足してる」


「——だから、君が重荷に感じる必要はないんだよ」


 ——透き通ったその声には、言葉を挟むのも躊躇われて。

 ——ただ、唇を噛み締める。



「初日の夜、ネカフェが思ったより狭くて——」

 ——思い出せない。

「君がジェットコースター苦手だって言うから——」

 ——覚えていない。

「君って意外と歌上手いよね。こんなことならもっと——」

 ——ここ数年、瑞希の前で歌った記憶はなかった。

「チンパンジーとボディランゲージで——」

 ——自分の話だとは思えなかった。

「水族館で食べる話ばっかり——」

 ——知らない。

「君が夕日に向かって本当に走り出した時はどうしようかと——」

 ——身体に刻まれた〝物語〟には、記録されていたけれど。

「——」

「時雨 海斗 は ようじょ を 手懐けた!」

「何を言ってらっしゃる?」

「いや、今日の」

「人の妹を幼女とか言う⁉︎」

 瑞希が中学生を幼女扱いするのは百年早いと思うけれども。

「——なんだ、ちゃんと聞いてるじゃん」

 いつしか口を開かなくなっていた海斗への、それが瑞希なりの気遣いなのだとは分かっていた。

 ——いつだって、思い出を語るのは全てが終わった後なのだから。


 ゆっくりと。時間をかけて、丸まっていた背を伸ばす。再び寄りかかった扉は、静かにその重みを受け止めた。

「この七日間が私の〝物語〟として残せるのなら、悪くないなって思うんだ」

 虚空に投げかけるように、透明にその言葉は紡がれる。

 次は海斗の話す番だと投げかけられた沈黙に、幾許かの沈黙を返して。ようやく、口を開く。


 *


 ——物語病。

 その病が、海斗は大嫌いだった。憎悪していると言ってもいい。

 幼馴染の命を——今や自分の命さえ奪おうとする

 病気だ。それだけでも嫌う理由は十分だった。

 自ら記憶喪失と共に発症して、その思いはさらに強まった。人間の一生を〝物語〟などとうそぶいてたった一冊の本に押し込む。その過程で、患者の記憶まで奪ってしまう。

 そうしたら、その人の元には何が残るというのだろう。大切な思い出を奪われて、空っぽの魂を抱えて死にゆくのだろうか。そんな結末は、あまりに残酷だ。

 ——人間の魂をただの紙切れに貶めるその病が、どうしようもなく嫌いだった。


 *


 瑞希の考えと対極をなすその思いを、彼女は相槌を打って聞いていた。海斗自身が物語病を発症したことは伏せたまま話を終わらせて、小さく息をつく。少し話をしただけで、頭が重くなるような疲れを感じる。

 昼の外出中にはこんな倦怠感は感じなかったのに——と考えかけて、背筋の冷たくなるような違和感に目を見開く。

「記憶……が」

 ——思い出せない、などというレベルではない。記憶が、思い出が、なかったことになっていく。

「——嘘…だろ……っ」

 昼に食べさせられたホットドッグも、その辛さも、忘れたことさえ忘れていく。失うまいと口の中で呟き続けた言葉も、いつしか解けて消える。

「——っ、はぁ……っ」


「——この一週間、楽しかった?」

 海斗の異変に気づかず話し続ける瑞希の声が、やけにくぐもって聞こえて。それでも、取り繕うは海斗に平静を装わせる。

「……それは……楽し、かった」

 逸る呼吸を抑え込んで、手のひらからこぼれる記憶を見限って。身を切るように平静を装った海斗の心を、見透かしたように瑞希は言う。

「——でも、辛かったんだよね」

 ——これ以上は聞きたくない。呼吸は否応なしに早まって。


「海斗。——君はこの旅を、降りてもいいんだよ」


 ——刹那。呼吸が止まったような錯覚に陥る。

 次の瞬間には、背後の扉を押し開けていて。床に倒れた瑞希を置いて、海斗は逃げ出した。



 *


  

 ぬるい夕風をかき分けて、不恰好に脚を動かす。

 ——もう、限界だった。

 抱いた覚悟も、決心も、その理由も。全てが記憶とともに消え去った。いや、そんなものははなから無かったから、今こうして記憶を失ってしまったのかもしれない。

 元来病を抱えていた海斗にとって、胸の内に抱えた記憶だけが自らの価値だった。他より短い人生を、自分はたくさんの記憶を——思い出を胸に終えるのだと信じて疑わなかった。

 たった七日間の記憶を失って、それだけで自分というものがわからなくなった。思い出は作った側から消えていって、消える記憶はだんだんと速度を増している。いつかは今に追いついて、たった一秒の記憶も保持できなくなってしまうのではないか。そうなった自分に、海斗は一欠片の価値も感じることはできないから。

 消えゆく記憶に追い立てられ、行くあてもなく夕日に背を向けて。


「時雨 海斗 は ようじょ を 手懐けた!」

 その言葉が手のひらに浮かんでいて。

 ——逃げるほか、なかった。 



 *



 海斗の跡を追って、瑞希はドアに手をかける。鍵もかけずに転がり出て、見失いかけた影に必死で追い縋る。

『この旅を降りてもいい』とは言った。——でも違う。違った。海斗の受け取ったような意味では、絶対になかった。

 物語病に対する捉え方は、海斗と瑞希ではまるで逆だった。大切な人の心の中に自分が残ってさえいればいい。そんな瑞希の考えは、自らの記憶の中に大切な思い出を抱えていたかった海斗を苦しませていたのだろう。

 瑞希はそのわがままで、彼に自らの命を背負わせてしまった。あまつさえ責任の取り方まで、間違えてしまって。

「だからこそ私は——」

 自らの思いを押し隠すためのではなくて。

「本当に、わがままになろう」

 瑞希たち幼馴染は、結局似たもの同士なのだ。全てを押し殺して、正直な感情よりも別の何かを優先してしまう。嘘を演じて、自分さえも騙してしまう。それが彼女たちの、致命的な病だった。


 ——だからいい加減、本音でぶつかり合う時だ。


 *


 夕陽が地平に沈みかけて、空は美しい紅に染まった。丸太でできた登山道のような階段を登り切って、膝に手をつく。息を整えて顔を上げれば、街を一望する景色が目の前に広がった。それでも、瑞希が見つめるのはただ一点。丘の上に佇む、一人の少年だった。


「——海斗」

 返事がなくても、構わず言葉を続ける。

「私ね。満足してたんだ。——この人生に。死ぬことも、覚悟はできてた」

「でも、本当は違うんだよ。できないことは全部諦めて、望みを全部なかったことにして、それで『満足』だって言い張ってた。最後にちょっと頑張って君との無念をちょちょっと晴らして、その勢いで死んでやろうって思ってた」

 言う側から、涙が溢れてきて。ああ、格好つかないなと思う。

「でもさ……こうやって七日間を君と過ごして、やっぱり我慢できなくなっちゃった」

 将来の夢なんて、なかったけれど。それでも、将来を夢見ていたのだ。

「私、欲張りだからさ……足りない、こんなんじゃ全然足りないんだよ」

 海斗との思い出だって、足りない。たった一週間、旅行をしただけ。それなりに乙女として、踏みたい順序と、その先で辿り着きたい未来があった。

 海斗の前では、いつだって余裕な顔ばかり見せてきたけれど。

「だから——」

 本当はまだ、生き足りないから。

「だから、私は生きることにしたよ」

 こんなに強く願っているのだ。叶わない道理がどこにある。意地でも生きてやる。青春を棒に振ったって構わない。

 治療法が見つかるまで、生き汚く生きると決めた。

 それまで、海斗に待っていてほしいから。わがままに、言いたいことを言うことにする。

「私には、君が必要なんだ。だって——」

 ——その時だった。ふと、こちらに背を向けていた少年の頭がふらりとこちらを向いて。だって、なんなのか。続く言葉は、喉に詰まった。

 ふらり、ふらりとかしいだ少年の瞳は、瑞希を捉えていなかった。


「ぇ——」


 ——時雨海斗は、ついに全ての記憶を失った。



 *



  

 白いベッドに寝かされた海斗を見つめていた。慌ただしく動いていた医者や看護師が静かになって、やがて退室しても。まばたきすらも忘れて、海斗を見ていた。

 やがて彼女の唇は震え、途切れ途切れの言葉を紡ぎ出す。

「私……私ね。治ってた。…治ってたんだよ。物語病なんて、とっくに」

 海斗が倒れてから、一晩が経過していた。救急搬送された近所の病院から、瑞希がもともと入院していた大病院へ移送されて数時間。その間に、瑞希自身の物語病は完治が確認されていた。

「ほら…言ったでしょ……? 物語病は精神からの病気だって」

 海斗との逃避行があまりにも楽しくて、次の日記を欲しがってしまった。見失ったはずの人生の欲しがり方を、また知ってしまった。

「君はもう、疲れ切っていたのに」


 数分後、瑞希はゆらりと立ち上がる。しばらくの間海斗の顔を見つめて。未練を断ち切るように、視線を逸らした。

「さようなら」

 口の中でつぶやいて、病室のドアに手をかける。


「——どこに行くつもりですか」

 後ろ手にドアを閉めて視線を上げると、廊下の先には夏織が立ち塞がっていた。

「……夏織ちゃん」

 兄である海斗の危篤を聞きつけて、大急ぎで駆けつけたのだろう。肩で息をしている彼女に、瑞希は道を開けた。

「海斗の側に、居てあげて」

 夏織のためにドアを開けようとした瑞希を、彼女は制止する。

「どこに行くつもりなのか、って訊いているんですけど」

 静かな言葉とは裏腹に、その小さな拳は肌が白くなるほどの力で握りしめられている。

「まさか、死ぬつもりだなんて言いませんよね」

 震える瞳に怒りを宿して。その感情には、応えなくてはならないと思ったから。

「……私にはもう、生きる意味なんて——」

 海斗を苦しめて、彼を死なせた。そんな瑞希には、生きる価値も、資格もない。だから——

「——はぁ?」

 濡れた瞳に、似合わない赫怒を宿して。時雨夏織は逢坂瑞希を糾弾する。

「死んで責任を取ったつもりになるのが、あなただけだってわからないんですか! そんなことをして、お兄ちゃんが満足するとでも——」

「——君に海斗の何がわかる!」

 気がつけばそんなことを叫んでいて。

「——お兄ちゃんは!」

 堪らず叫び返した夏織の目には涙が溜まっていて、自分の言葉に愕然とする。悲しんでいるのが自分だけだとでも思っていたのだろうか。

「お兄ちゃんは、あなたのことが好きだった。そのくらいは、わたしにだってわかりましたよ」

 ——わたしには、たしかにあの人の考えていることなんてほとんどわからなかったですけど、と。

「好きな人の命を救って、あの人は人生を終えようとしているんです。あなたは、お兄ちゃんの生きた証なんです」

 ——生きた証。そんなふうに言われてしまっては、死ねなくなってしまう。

 大切な人を悲しませたくない。死なせたくない。そんなことは、当たり前だったから。

 

「——瑞希さん。あなたにとって大切な人は、誰なんですか?」

 ——生きることにしたと、彼に言った言葉を嘘にはしたくなかったから。

「——私は、海斗のことが大切だよ」

 ——筋違いの告白をする。


 *


 ——最後に一度、海斗が目を覚ます……なんてことは無くて。

 海斗の肌を覆い尽くした文字が、淡く光を帯びる。それはやがて肌から浮かび上がって、神々しく渦を巻く。本の形を成したそれは、瑞希の手元に収まった。

 物語は、瑞希や夏織だけが知っている。

 だからこれは、物語ではない。——海斗が瑞希に宛てた、手紙だった。

 中空を漂う文字が、すべてその本に収まった時。海斗の胸元——心臓の辺りから、新たに短い文章が飛び出した。

 最後のページに収まったその言葉を、愛おしげに瑞希が撫でて。


 ——枕元の心拍計が、アラームを鳴らした。 

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