赤い砂の道を

南沼

赤い砂の道を

 ネブラスカの冬は厳しいけれど、雪が溶け春になり、野うさぎが地面から顔を出して辺りを跳ねまわる時期が来ると、程なくしてジェシーがこの町にやってくる。だからぼくは、毎年この時期を心から楽しみにしていた。

「ハロー、ジェシー」

「ハイ、フランシス」

 誰にも言ったことは無いけども、ジェシーはぼくがいっとう憧れる大人だ。パパより、それに、じいちゃんより。だから春を迎えてから初めて彼の顔を見る時は飛び付きたくなってしまうのだけど、でもぼくももう12歳で、もうジュニアハイの生徒だからそんな子供じみた振る舞いは許されないのだった。だからぼくは「ああ来てたんだね、どうも」みたいな澄まし顔でジェシーと今年初めての挨拶を交わした。

「また背が伸びたな、もうすぐ抜かされちまいそうだ」なんてジェシーは言うがそんなのは真っ赤な嘘で、あと5万年ぐらいしなきゃ同じ目線の高さにはなれそうにない。それでも子供扱いはまっぴらごめんなので「まあ、来年にはそうなんじゃない?」と彼の顔を見上げながら言った。

「そうだな、そうなりゃもう立派な大人だ」

「今だってそうだよ」

 ジェシーは、唇の端を上げて笑った。サングラスの端から覗く目尻に皺が寄る。

「ああ、違いない」

 これがジェシーのクールなところだ。それに町の皆はぼくのことをフランクだとか坊やキッドだとか呼ぶけれど、ジェシーだけはずっと前から本名であるフランシスと呼んでくれる。

「この町にはいつ?」

「ついさっきさ」へとへとだよ、とジェシー。

「わお」

 道理で、レザーのジャケットが細かい砂まみれなわけだ。

「そんなに汚れてるかい?」

 ぼくの視線に気付いてジェシーは慌てたように自分の服装をただす。

「見ようによっては」

「マーサに嫌われちまうかな?」

「うーん、まあ大丈夫じゃない?」

 きっとマーサは、そんな事気にしない.。

「よし、じゃあ昼飯がてら顔を出すか」

 フランシスもどうだと誘ってくれるジェシーに、ぼくは「まあ、それも悪くないかもね」という顔で頷いた。

「決まりだ、行こう」

 ジェシーがぼくの背を押すように叩いた。

 ぼくらは並んで92号線を渡る。この州道沿いに、マーサの勤めるダイナーがあるのだ。

 渡りながら、東西に伸びる州道の先を見る。赤い砂地を両脇に従えたアスファルトはどこまでも真っすぐに続いて地平線の辺りで一点に収束しているはずなのだけれど、春の乾燥した空気が砂煙を起こすのか、遥か遠くの方は煙っていて定かではない。良く晴れた日で空はどこまでも深く青く、眩しいほどに白い雲がいくつか空にたなびいているばかりだった。

 あの道のうんと先、西の方から毎年やって来ては、夏までのほんのわずかな期間をこの町で過ごすジェシー。彼が駆るのは、ハーレー・ダビットソン社が40年も前に開発を終えたスポーツスタだ。道の向こうに止まっている、ターコイズブルーのタンクを積んでフレームを思い切りチョップした、あのモーターサイクル。

 きっと近くで見れば彼以上に砂埃まみれなのだろうそれは、ぼくの2番目の憧れだった。


 マーサがウェイトレスとして働いているのはこの辺りで一番人気のダイナー、『バーニーズピット』だ。乾いた音を出すドアベルを鳴らしながら店内に入ると、昼過ぎという時間帯のせいか客はまばらだったけど、いつ来ても途切れることなく無限に作り続けているコーヒーの少し焼けたような香ばしい匂いが、店内いっぱいに漂っていた。レモンイエローの壁紙に、メニューやポスターや油絵の額縁が所狭しと飾られている。行き場を失ったコカ・コーラ社のブリキ看板が隅の方に立て掛けられているのも、いつも通りだった。

 適当に開いてる席に腰かけると、マーサがお盆にコップを載せてやってきた。

「あら、いらっしゃい」

 とうもろこし色の長い髪を左肩の前で纏めて、房が胸の上に載っている。彼女はめちゃくちゃにおっぱいが大きいうえにブラジャーを着ける習慣がないものだから、ぱつんと張った薄手の白いシャツの向こうにピンク色の突起がほとんど透けて見える。歩くたびにおっぱいと突起が物理法則に厳密に従って上下に揺れる様から目を離すことは、とても難しい。ぼくも、それから恐らくジェシーも、その動きに同期して目玉を上下に動かしていた。

「ハロー?」んんっ、と咳払いしながらマーサはコップを置いてくれる。

「ああ、久しぶり、相変わらず綺麗だね」とジェシー。

「ありがと。フランクも久しぶり」

「ハロー、元気にしてた?」

「ええ、もちろん。おふたりとも、注文は?」

「そうだなあ……」

 ジェシーは壁のメニューに目をやって、「グレイビー・ビスケットとオムレツ。あとコーヒーを」と言った。

「はいはい、いつものやつね。フランクは?」

「ぼくもコーヒーで」

「何だ、食わないのか? 奢るぜ」

「あんまりお腹が空いてなくて」

 本当の事だった。育ち盛りのはずなんだけど、ぼくは同学年の男子たちに比べて明らかに食が細い。身体も弱くて、学校も休みがちだった。

「はあい、ちょっと待っててね」とマーサがスカートを翻してキッチンに入っていって料理を待つまでの間、そして料理が来てからも、ぼくらは去年別れてから今までの事を報告しあった。と言ってもぼくの話すことは殆どない。ジェシーが去ってからずっとこの田舎町で暮らして、ただ少し背が伸びただけ。通う学校は変わったけど、でもそれだけだ。いろどりで言えば、ジェシーの旅の話とは比べるべくもなかった。

 ジェシーは根無し草で、髭も髪も伸び放題のならず者みたいな恰好をしているけれど、話し方は穏やかで知的そのものだった。それに話も上手で、聞き飽きるということがない。保安官にヒッピーと間違われた話や、野生のロバを餌付けした話に、ぼくは夢中になった。

「また工場で働くの?」

「まあ、そうかな」

 クリームとセージの香るグレイビーソースに浸かったビスケットを大きく切り取って頬張りながらジェシーは言う。

 ジェシーは、行く先々で短期の仕事をして小金を貯めてはまた旅に出るサイクルを繰り返していて、この辺鄙な町に毎年留まるのもそれが理由だ。コートという気の良いおじさんが経営する車の修理工場が、ジェシーのひいきだった。

「お前の爺さんのバイク、また見に行こうか?」

 ありゃ良いもんだからな、とジェシーはまるで自分の宝物を自慢するような顔になる。

 じいちゃんのモーターサイクルをジェシーが丁寧に整備してくれるのは、毎年の事だ。もう誰も乗らなくなった、ショベルヘッド・ローライダー。シートこそ何度もボロボロになって交換しているけどその他の殆どが純正品のそれは、ジェシーの愛機と同じかそれ以上の骨董品だと言うのに、彼の手を経るとついさっきファクトリーから出荷されたかのようなな状態に戻るのだ。その度にじいちゃんとぼくは大喜びで、でもパパとママは見た目ほどには嬉しそうじゃない。

「あー、うん」

「どうした?」

「じいちゃん、冬の間に死んじゃったから」

 肺炎を拗らせてからは、あっという間だった。

「そうか。すまなかった」

「ううん」

「残念だったな」

「うん。でももう歳だったし」

 少しばかり、気まずい沈黙が流れた。

 それを破ったのは、ドッドッドッというお腹に響く重低音だった。窓の外を見なくても分かる、C・B・ジムのトライクの排気音だ。この町ではいっとう長いフロントフォークの先にある前輪にはブレーキなんか付いてないのに、いかにも重そうな3輪の車体を器用に操ってダイナーの前に駐車した。重そうなのは車体だけじゃなくて、乗っている彼自身もそうだ。ジェシーよりもたっぷり頭一つ分は背が高いし、二の腕はそこら辺に転がってる丸太ぐらいあって、腹周りなんかはウイスキー樽さながらだ。でーん、という感じでダイナーのドアを開け、ぼくらを見つけると「よーう!」というどら声を掛けて近づいてきた。道向こうのスポーツスタを見て、ジェシーがここに居ることは知っていたのだろう。

「ジェシーがここいらに来たってことは、もう春かあ?」

 レザーベストの前を割って飛び出す太鼓腹をさすっては叩く。髭はもう5千年ぐらい伸ばしっぱなしにしているようにしか見えないけれど、本人曰くきちんと手入れはしているらしい。

「また太ったんじゃないか?」とジェシー。

 ジムはがっはっはと笑いながらジェシーの肩を叩いた。傍から見るとそれは熊がじゃれつく姿のようで、ぼくがされたらきっと身体中の骨がばきばきに折れてしまうに違いない。

「よう、フランク坊やも」

「ハロー」

 ジムはやっぱり熊みたいな肉厚の大きな拳を差し出し、僕はそれにまるでサイズ違いの拳を遠慮がちにこつんと当てる。

「で、今年はしばらくこの町にいるのか?」

「いつも通りさ」

「おまえ、もうここに住んじまえよ」

 ジェシーは肩を竦めるだけで、ジムもそれ以上は言わなかった。

 この町、いやこの州、もしかしてこの国中のバイカーたちが目に見えないけれど強い連帯感をお互いに感じていることは、僕から見てもよく分かる。ジェシーみたいな根無し草にも時折この町を通りがかるよそ者のバイカーにも、ジムや元気だったころのじいちゃんはとても親切にする。

 ネブラスカ州が他の州に倣ってガソリン駆動のモーターサイクルの販売を禁止したのはもう10年も前の大昔だ。「電動モーターサイクルなんかモーターサイクルじゃない」なんて仲間内で怨嗟の声を上げて良い気になっていたのも束の間、あれよあれよという間に二輪車そのものの販売も禁止されて、かつてこの国でモーターサイクルの代名詞でもあったハーレー・ダビッドソン社やインディアン社はいまや電気自動車業界に何とかして食い込もうと社運を賭けて躍起になっている。

 バイカーは、特にジェシーやジムのように、自分の人生ごとをモーターサイクルを軸としたある種のスタイルにはめ込むような人種は、もう絶滅寸前だった。

『彼らが仲間を大事にするのは、つまり自身が所属しながらも衰退していくコミュニティを少しでも長く存続させようという手前勝手な態度に過ぎない』

 それは、パパや学校の先生やニュース番組のキャスターが蔑みのような口調と共に漏らす口癖のようなものだった。

「じゃあな、またうちの店に来いよ」

「ああ、今夜にでも行くよ」

 じゃあな坊や、と言ってジムは去っていった。ほんのコーヒー一杯分だけの時間、本当にただ挨拶に寄っただけのようだった。

「あんなおっきな図体して、いくらでも食べてったらいいのに」とマーサは呆れ顔だ。

「いいなあ」

 そう零したぼくの台詞を、ジェシーは耳聡く聞きつけた。

「何がいいんだ?」

「いや、ジェシーやジムみたいなバイカーがさ」

 ジェシーはコーヒーを啜りながら、片眉を上げる。

「いつでもなれるさ。今すぐにでも」

「でもバイクが無いよ」

「爺さんのがあるだろう」

「免許がない、お金も」

「貯めればいい、貯まる頃には免許も取れる」

「まだ子供だよ」

「大人になったんじゃないのか?」

 ぼくはすっかり困ってしまった。

「ねえ、意地悪を言ってる?」

 ジェシーは、ふっと笑った。

「ごめんよ、そんなつもりはなかった。ただ俺達みたいなバイカーになんて、なろうと思えばすぐになれるって言いたかっただけさ」

「なれるかな、ぼくにも」

 けんけんっ、と物心ついた頃からぼくを悩ませる咳を、ぼくは心底煩わしく思う。

「なれるさ。バイクがあるなら、どうしてそれに乗らないんだ?」

 ふむん。ぼくは言い返す言葉もなくなって、冷めたコーヒーに口を付けた。


 その次の年も、そのまた次の年も春を迎える頃にジェシーはやってきた。マーサが結婚して辞めたというニュースには、心底残念そうにしていたものだ。

 でも、その次の年は来なかった。次の年も、そのまた次も、ずっと。

 風の噂で、死んだと聞いた。コカインをきめたまま走り出して、対向車線の車列に突っ込んだとも聞いたけど、真相は定かじゃない。「無法者の最後なんてそんなもんだ」なんていうパパの言葉にぼくは激しく逆上して、生まれて初めての大喧嘩をした。ママはおろおろして泣いていた。


 あれからもう、10年以上が経つ。ぼくは高校を卒業して地元の工場に勤めたけれども、ちょっとした貯金が出来た途端に辞め、じいちゃんのショベルに跨って故郷を飛び出した。以来、ジェシーと同じような根無し草の生活を続けている。もちろんパパは激怒したしそのお蔭でぼくは半分勘当されたような形なので、あれから家には帰っていない。でもママとは、SNSを通じてたまにやりとりしている。

 今になって感じる事だけども、パパの言い分は、きっと正しい。ジェシーやジム、それにぼくのような人間はそうである限りきっと社会には溶け込めないし、多分長生きも出来ない。パパが言うように、社会人生を全うすることもできないのだろう。パパやママには申し訳ないけれど、ぼくはぼくの中にこんな風に確立されてしまった自分自身のあり方を変える事は出来そうにない。

 ジェシーとは5万年分離れていたはずの背丈も、もう随分前に追い越した。髭の方まで真似するつもりは無かったけれど、こんな生活を続けていれば無理もないだろう。

 ネブラスカの故郷のような赤い砂の道の真ん中で、ぼくは物思いにふけるのを止め、工具を仕舞う。故郷を飛び出してからずっと一緒に旅をしている相棒も、まめに整備をしてやらないとすぐにへそを曲げるようになってしまった。

 見上げた先にあるのは、あの時ジェシーと一緒に見たような、僅かばかりの雲がたなびく青い青い空で、地平線の辺りは煙って地面と境界を曖昧にしている。ぼくは今から、そっちの方角に向かう。急ぐ旅ではないし、何か当てがある訳でもない。ただ、自分がいきたいと思う方向にフロントフォークを向けるだけだ。

 でもまあ、行った先に昔のぼくみたいな二の足を踏むやつがいるようなら、そいつに掛ける言葉の準備くらいはある。


 ハロ―、見知らぬ友だち。

 どうしてそれに乗らないんだい?

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赤い砂の道を 南沼 @Numa_ebi

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