第5話 孵化はまだ、しかし

 嘘ついてごめん。付け加えると、朝陽は呆然として口を開く。


「どうしてそんな辛い状況を、何年も耐えられるんだ……?」


 その言葉にハッとする。朝陽も散々苦汁を飲んできたのだ。たしかに俺のほうが期間は長いのかもしれないが、苦しみに上も下もない。

 たまたま、朝陽は早く抜け出せただけだ。もしかしたら朝陽が俺のように、報われないまま日々を過ごしていたのかもしれない。


「自分で言うのも何だけど、好きだからだよ。小説を書かなきゃ生きていけないんだ。誰にも評価されなくても、辛くても」


 言語化して、やっと理解できた。

 好きなのだ、どうしようもなく。1日小説を書かなかったら落ち着かないし、日常のふとした瞬間に『これは小説に使えそうだ』と思う。


 一気に物語を書き切った爽快感も、長期間じっくり書いた物語を完結させた満足感も、言葉選びを迷っているときの幸福感も、すっぽり当てはまる表現を見つけたときの万能感も、一文字を刻む歓喜も。小説を書くという営みすべてを、俺は幸せに感じていた。


 ありったけの名声も報酬も得ていないのにそう思えるのは、消えない愛があるからに違いない。


 ──何だ、才能ならここにあるじゃないか。


 たまたま朝陽よりも活躍が遅かったからなんだ。結果が出るまで続ければ必ず成功するし、そもそも続けていかなければ俺は生きていくことができないのだから、報われるそのときまで生きていればいいのだ。


 心が熱い。書きたい。


 みるみる元気を取り戻してゆく俺に、朝陽は安心したように微笑んだ。


「そうか、幸せそうで何よりだ。下読みの代わりならいつでも承るから、そのときは声かけてくれよな」

「ありがとう、朝陽と友達になれてよかった」


 100円のワインで乾杯する。大学2年に戻ったときのように、俺たちは笑い合った。


「受賞してから疎遠になりやがってー」

「ごめん、嫉妬でどうかしてたわ」


 おかしく茶化す朝陽に、ホッと胸を撫で下ろす。想像よりかは根にもたれていないようだ。


「まあ、俺がお前の立場でもああなってただろうし、あんまり気にしてないよ。それよりも小説の話しようぜ。カクヨムの『希求』は文也なんだよな?」


 俺が頼んだ生ハムを食べながら、朝陽が言う。俺の小説の話をするみたいだし、とやかく言わないでおこう。割り勘にすれば済む話だ。


「ああ。……どうだった?」


 おずおずと尋ねると、朝陽はにっこりと笑った。


「すげぇよかったよ。全作お前の苦悩が滲み出てるって感じ」

「えっ……」


 そこまで自分の感情を主題にした覚えはないのだが、朝陽は「とぼけんなって」と吹き出した。


「すべての作品に共通してることがそれだよ。最後は全部救われて終わるから、とりあえずお前が救われたいと思ってることはわかった。どことなく文也特有のものがあったし、『文也なはずだけど、商業作家が別名使ってカクヨムに短編載せるか?』って疑問を持ってさ。友人かもしれないって結論出して終わったんだけど、やっぱり文也だったか」


 さすが俺、と誇らしげに頷く朝陽に、俺は尋ねた。


「そんなにわかるものなのか?」

「わかるというか、メインテーマがそれっぽかったし。あと文也、たまに詩的な表現使うからそれでわかった」

「詩的……」


 カクヨムの批評自主企画に参加した際、欠点として書かれたこともあるものだ。改善したはずだが、まだ残っていたのか。


「落ち込むことはないよ。最初のほうの作品を見るとクドいところもあったけど、最近はかなり改善されてる。幻想的に心情や風景を描写できてるし、個性として武器になるレベルだと思うよ」

「そ、そうか? そう言ってもらえると嬉しいが……。本当に、全作読んだのか? 俺と会ってから3日しか経ってないし、俺っていう確証もないのに?」


 友人とはいえ、小説家の朝陽に褒めてもらえると嬉しい。思い返せば、デビュー前から小説の感想は忖度を一切抜きにして言うやつだった。信用できることこの上ない。


「短編が主だったから、あんまり時間はかからなかったな。移動時間に読んでたら全部読破してた。最初はどれかひとつだけ読もうと思ってたけど、読みやすい文章だったし、心情描写が綺麗だったから」

「心情、描写……?」


 それは、俺が作品を書く上でもっとも気をつけている部分だった。ピンポイントに褒め言葉を投げかけられた喜びに打ちひしがれていると、朝陽が焦ったように口を開く。


「な、なんか悪いこと言ったか? 移動時間に読破できたのは斜め読みしてたわけじゃなくて、自然にするする次の文章を追えてたからで」

「いや、悪いことなんてないよ。むしろ嬉しすぎてフリーズしてた」


 あたふたする朝陽がおかしくて、何だか笑えてくる。朝陽に会うまではこの世の終わりみたいな気持ちだったのに、変な話だ。


「それならよかった。……そういえば、忘れてた」


 ふっと表情を緩めると、朝陽は何やら鞄を漁り出し、取ったものを机の上に置く。


「これ、俺の新刊。この前ドラマ化するって言ってたやつ、まだ家に残ってたから持ってきたんだ。よかったら、読んでほしい。文也がこれを読んでどう思うか知りたいから」


 真っ直ぐな視線に、首肯する。俺も朝陽が書いた小説がどんなものなのか気になり出していた。本人からもらえるのであれば好都合である。


「俺さ、けっこう文也に支えられてたんだ。大学一年生のとき、本当は大学を辞めて別のところを受け直そうか考えてた。高校生のときも落選続きだったけど、学べば何とかなると思ってたんだよ」


 おかしいよな、と自虐的に笑う。俺もそんな理由で進学を決めたっけ。

 朝陽は顔を歪めて、悔しそうに続きを口にする。


「……だけど、全然ダメで。応募数からして絶対受賞するだろうっていう短編小説賞にも落ちてさ。芸大の文芸学科なんて文章の道くらいしかないのに、俺は上位1割にも選ばれないのかよって自暴自棄になってたんだ」


 そんな挫折も『何度目?』ってくらい味わったよな。共感しつつ、頷いて話を促す。


「そんなとき、文也が言ってくれたんだ。『お前の小説は面白いぞ』って。『お前が頑張ってくれてるから、俺も頑張れるんだ』『お前の小説をもっと読みたい。だから落選くらいで辞めないでくれ』って、泣きながら。覚えてるか?」


 言った記憶もあるが、あまりはっきりとは覚えていなかった。というか朝陽が応募した賞は大抵俺も応募していたから、二人して感情的になっていたのだろう。それがたまたまいい方向に作用したのか。


「まあ、覚えているといえばいるけど……。そんな恩人なら、顔見てわかれよ。レジで声かけたとき、違う人に妙な絡みしちゃったかと思っただろ」

「それはごめん。だけど、そんな憔悴した顔してたら誰だってわかんねぇだろ。芸大時代は生き生きしてたのによ」


 グイとワインを飲む朝陽の言葉に、心臓を掴まれたような感覚を抱く。小説を書くことはやめていないのに、どうして憔悴し切っていたんだ。


「そんな驚くなよ。小説家になれないコンプレックスとか、小説だけに打ち込めない自分への失望とかじゃないのか? 最初俺に商業作家みたいな雰囲気出したのも、その辺が影響してると思うけど」

「……たしかに、そうだな。うん、その通りだよ。情けないよな」


 朝陽の言葉は、すとんと腑に落ちた。俺は芸大時代から、いや小説を書き始めた中学生時代から、俺は小説家になれないことや受賞できないことにコンプレックスを抱いていた。およそ10年以上の感情だ、表情に出てもおかしくない。


「情けないことはないだろ」


 はは、と乾いた笑みを零す俺に、朝陽は言い放つ。心に直接飛び込んでくるかのような、クリアな声色。


「何しても報われないフリーターにしか書けない文章があるだろ。俺はけっこう、そういう文章好きだぜ」


 望んだ方向ではないかもしれないけれど、俺の文章を好きだと言ってくれて嬉しかった。


「そうか、ありがとう。……まあ、もうじきフリーターじゃなくなるかもしれないけど」

「そうなのか。もしかして、正社員登用とかか?」

「当たり。……だけど、迷ってるんだ。正社員になったら給料は上がるんだろうけど、拘束時間は長くなるし、きっと残業も増える。そのせいで小説を書けなくなるのが怖いんだ」


 目を伏せる俺に、朝陽は明るく「なんだ、そんなので迷うなよ」と言う。朝陽は俺に運ばれてきたミラノ風ドリアを差し出しながら、優しい声色で続けた。


「どっちもやれるだろ、お前なら。大学生とバイト、それに小説を全力で並行してただろ? 正社員をやってみるのもいい経験だと思うぞ。かく言う俺も一度は正社員として勤務したことがあるし」

「そうだったのか?」


 てっきり卒業後は小説家一本でやっていっているのかと思っていた。デビュー作もかなり売れていたはずなのだ、俺なら就活なんてしていなかっただろう。


「ああ。たまたま出版社に拾ってもらったんだ。……そこは終電帰宅が当たり前で小説なんてほとんど書けない状況だったし、小説のほうもかなり軌道に乗ってたからやめたんだけどな」


 苦笑しつつ、でも、と微笑む。


「いい経験になったよ。正社員として勤務した経験がなかったら、デビュー作以来鳴かず飛ばずだった可能性もあるくらい。自分でもびっくりするくらい文章に深みが増したんだ」


 しみじみと言う朝陽に、俺は頷いた。


「それなら、やってみようかな。ありがとう」

「これくらい礼にも及ばねぇよ。ほら、食べようぜ」


 じぃん、と心が温かくなる。不思議だ。これだけ差をつけられてしまったというのに、朝陽と話しているとなぜだかもっと頑張れそうな気分になる。


 それはきっと、大学1年の時に抱いた感覚と同じものなのだろう。戻った友情に新しい杯で乾杯し、俺たちは数年分の雑談を始めた。

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