桃のタルトに罪はない

坂本真下

第1話

「だからさ、おれは言ったろ」

 突き抜ける晴天。じりじりとアスファルトすら焦がす日差し。

 外を吹く風はきっと快適とは言えない、セミの声が聞こえていれば完璧な夏の昼間だったろうその日、一人暮らしをする分には十分な広さを持つワンルームに落ちていたのはセミではなく兄貴が鼻をすすりながら半泣きになっている声と、エアコンが冷気を吐き出す音、それとおれの呆れた声だった。

「この女はやめとけって」

「で、でも。優しかった……」

「誰だって下心ありゃ優しいさ。でも兄貴と気が合いそうな女じゃなかったよ」

 二人で麦茶の置かれたテーブルを挟んで、起きてしまった事柄にどう対処すべきかを話し合っている。……のだが。この兄貴、ずびずびと鼻を鳴らすばかりで、悲観に暮れてばかりいる。だがおれから言わせてもらえばいつものことだ。

 随分と他人につけ込まれるのが上手いこの兄貴は、弟の贔屓目で見ても随分と容姿が整っている。合コンに行けば十人中八人が大正解物件だと判断して隣に座りたがるような、そんな男。だか中身はとんでもないブラコンで、彼女として連れてくる人間も普通とは少々かけ離れている。

 やれ東で道に迷っていたところを助けてやった女と付き合ったかと思えば壺を売り付けられそうになったり、西でハンカチを拾ってやった女に告白されたかと思えば樹海に連れ込まれかけたり。その度に困った声で「かず、どうしよう?」とおれに電話をかけてくるからたまったもんじゃない。

 どうしようもこうしようもあるかっての。逃げろよ。なんでおれに言うんだよ。その度におれは迎えにいって、今回みたいに尻拭いをする羽目になる。普通兄貴が弟の尻を拭うもんじゃないの? おれが尻を拭ってもらった記憶なんて一回もなくて……いや一回だけあった。まだ小学生だった頃、夏休みの絵日記が終わっていなくて兄貴に書いてもらったことがあった。でも兄貴はおれより断然絵が上手くて、おれが書いた日と兄貴が書いた日の絵が違い過ぎて、結局先生にはバレたんだっけ。

「確かに、将来犬飼いたいって相談したら、猫派だから猫にしてって言われたけど」

「それいつ?」

「付き合って三日目……」

「将来設計と意見の相違が早すぎないか」

「でもっそのときは間をとってハリネズミにしようねって決まったんだ!」

「犬と猫の間をとってもハリネズミにならんだろ」

「かず、ハリネズミ好きじゃん」

「好きだけど……。え!? 兄貴と女の間をとったらおれになったの!?」

 なったらしい。決まったあと、女の機嫌が悪くなって少しばかり大変だったと兄貴は薄く笑った。そりゃ、猫がいいって主張が通らなかった挙句に、自分に全く関係がない人間の主張が採用されたのだ。気分が悪くなっても仕方がない。というかおれも割り込んで主張したんじゃないのだから、とばっちりをくらったなぁ、程度にしか感想も抱けないのだが。

「兄貴さぁ、おれのこと好きだよね」

「そりゃ弟だし。好きだよ」

 いつもこうだ。兄貴はおれにかなり甘く、おれを優先する節がある。ブラコンの自覚があるのかは、おれの知る由ではない。

 人生でそれなりの窮地に含まれる出来事だろう、樹海に連れ込まれて「どうしよう」と電話をかけてきたときだって、後ろで喚く女に「ちょっと待って。弟と電話してるから」と言っちまう兄貴は、今回の女にしたっておれの知らんところでおれを優先するような発言なり行動なりをして、我慢の限界に達した女と揉めに揉めたのだと簡単に想像できる。

「もう、分かった。分かったよ。起こっちまったことは覆しようがない。で? 今回はなんで殺したの」

 そんで、揉めた結果。このおれが大好きな兄貴は、どうやって彼女を殺しちまったのか。

「いや、あのな。兄ちゃんだって殺したくて殺したわけじゃないんだ」

「いつもそうじゃん」

「そうだった」

 エアコンでガンガンに冷えた真夏の、兄貴が住んでるワンルーム。

 そこにおれが呼び出されて、困ったように笑いながら死体をどうしようかと相談されるのは、いつもの事なのだ。


 兄貴の話はこうだ。

「昨日だって普通に過ごしてたんだ。本当だぜ? 別に何か変わったこととかもなくて、彼女が作ってくれたご飯は美味しかったし、食後には駅に新しくできたケーキ屋で買って来たタルトだって食ったんだ。今までの彼女と違って、料理に妙な味がして後々ヘンな薬が入ってたってことがあったわけでもないし、釣りに行けば毒がある魚ばっか釣れてそれを食わそうとしてくるわけでもないし、寝てる間にニワトリの血をかけられて妙な儀式みたいなことをされたわけでもない。うん。使用済みの歯ブラシを集められた、なんてこともなかった。ただ、昨日はな、その……兄ちゃんがな。よかれと思って買って来たタルトがなんかダメだったみたいなんだ。ケーキ屋で買ったタルトなんだから、味がおかしかったとかじゃない。普通に美味しかったよ。かずも好きだろ、桃のタルト。食べ終わって、片付けて、テレビ見ながら色々話をしてさ。そしたら急に怒り出して。あんたっていっつもそう! 良いのは顔だけ! 枕の下に写真だって入れたし月の光で育てたハーブで料理もしたし、橋の下で祈祷師ですって名乗って来た人に五千円も払ったのに弟ばっか! って。……あれ? もしかしていつもと同じ感じだった?」

「そうだな」

「おォ……」

「おぉ、じゃねぇんだわ。どうせタルト食ってる時も弟が可愛いだとか、今度弟と旅行に行くだとか言ったんだろ」

「言った」

「我慢の限界だったんじゃねぇの。ここまで来れば申し訳なさすら感じるわ。ごめんなおれが可愛くて」

 物言わぬ死体に謝るが、相手はおれを許す言葉を吐くための呼吸をもう持っていないので、おれの謝罪もただフローリングに落ちるだけの無意味なものだ。あと、兄貴とは違い自分の顔は平々凡々だと自覚している。兄貴は可愛いと言うが、ほら。お兄ちゃんフィルターとか通しておれを見てんじゃねぇの。

 しかし、きっかけがいつもと変わり映えしなさ過ぎてむしろ面白くなってくる。

 兄貴の話を聞いてれば、今回もそうやって何かにつけてはおれの話題を出してしまっていて、とうとう女の琴線がプッツンしてしまい台所に向かったので、まずいぞ経験からするとこれから包丁を持ってくる、と悟ってドッタンバッタン抵抗しているうちに醤油の瓶でボコ! と殴ってしまったらしいと分かった。

 醤油の瓶は割れなかった? と聞いたら割れなかったと元気な返事が返って来る。そりゃ何より。醤油濡れの死体の後片付けは、流石におれだって勘弁願いたい。

 適当なペットボトルに瓶に残っていた醤油を移して、これはおれの家で使うことに決めた。兄貴だって近々部屋を引き払ってひとまずはおれの部屋に居候するだろうし、調味料なら使う場面ならいくらでもある。

 二人分の料理を作るのであれば、醤油の消費だって倍になるだろう。魚の煮付けとか、肉じゃがとか作ろうかな。

 凶器となってしまった醤油の空瓶の行き先はリサイクル。次は人を殺さないようなものに生まれ変わることを願って。

 ガン、と空っぽになった瓶をひとまずはシンクに置いておく。さて。凶器の後始末も決まったことだし、あとはこのテーブルの横に転がっている元彼女、現在の肉塊ちゃんもどうにかせねばなるまい。

 おれはううんと首を捻りつつ考えた。実行犯は兄貴だが、犯行の切っ掛けの一端をおれが担ってしまっているのも事実。それに後始末をするのも、何も初めてじゃあない。この作業だって数回目で慣れたものなのだ。本当に最悪なことに。

「兄貴ぃ。スーツケース持ってきて」

「えっ。あれ来月一緒に旅行行くとき使おうって買ったじゃん」

「つべこべ言わない。他に入るもんないっしょ」

 でも、だとか本当に? だとかしぶる兄貴の背を押して、新調したばかりのスーツケースを取りに行かせる。その間におれは目の前の死体を見る。血は出ていないようでよかった。血液があるかないかってだけで、後始末の楽さがだいぶ変わってくる。

 最初の頃は大変だったなぁ、とじんわり哀愁に浸っていれば、ゴロゴロとスーツケースを引いてくる音が聞こえてくる。あ、コラ。フローリングの上は出来るだけ持ち上げろっていつも注意してんのに。傷が付いたらどうするんだ。


 兄貴が持ってきたスーツケースを広げて、よっこらしょと死体を中に置く。まだ僅かに死後硬直が残っている上に、人間の体には骨がある。ピッタリと収めるのは中々難しい。

「兄貴。そっちの腕こっちにやって」

「でもそっちには曲がらなくないか?」

「関節外すなり骨折るなりすればいい。女の細腕くらいポキっといっちまえ」

「でも痛そうじゃないか……?」

「死んでるから痛いとかないんだわ。あと殺しておいて、痛そう……。とかしおしおと言う神経も分からん。ほれ、一思いにやっちまえっての」

「応援してくれ」

「なんでぇ? ええ、いいけどさぁ。フレーフレー兄貴。折っちゃえ折っちゃえ兄貴」

「フンッ!」

「粉砕だよウケる」

 ああでもないこうでもない、脚はこっちがいいんじゃ、背骨が邪魔だなぁだなんて、兄貴とおれは試行錯誤しながらパズルのピースを埋めるがごとく死体を曲げていく。ここに罪悪感はない。そんなもんあったらおれたちはとっくに警察に自首していて、兄貴は殺人、おれは死体損壊だとか遺棄だとかで塀の中で自由のない身になっている。

 死体と格闘すること数十分。よし、こんなもんだろ、と彼女は納得できる段階にまでこじんまりと姿を変えてそこにあった。パタン。スーツケースを閉じて、鍵を閉める。これで準備は整った。

 臭い物に蓋をする、という言葉がある。母さんの口癖でもあった。あの人はよく「悪いコトをしてもね、隠してバレなきゃなかったことになるのよ」と言っていた。おれも兄貴も、あの人の血を濃く継いでしまったのだと思う。そう思いたいだけなんじゃ? そうかもしれない。

 だが今は、おれたちの母さんの話はどうでもいい。それはいつだって出来る。あの人は今日も、平和なリビングでお茶を飲みながら、テレビに対して相槌でも打っているのだろうさ。

「よし。行くよ。この前は海だったから、今度は山にしようぜ」

「うぅ、旅行の為に買ったのに……」

「まだ言ってんのかよ。また買いに行けばいいだろ」

 ここで起こってしまった事件にも蓋をする。季節は夏だ、死体はすぐに臭くなる。蓋から漏れ出ないように、深く、深く穴を掘ろう。慣れたもので車のトランクにはスコップが常備してあるので、今更穴掘り道具に困ることなどない。

 一足先にスーツケースを引いて玄関を出たおれは兄貴を振り返って、ちゃんと鍵をしろよ、不審者に入られたら怖いだろと促す。

 外に出た瞬間、快晴に蒸された空気がじっとりとまとわりついてくる。あぁ、すでにエアコンが恋しい。

 シリンダーが回る軽い音を背に歩き出す。おれの手に引かれてガラガラと付いてくるスーツケースの中身が死体だなんて、誰が気付くのか。人は非日常を求めるクセして、傍にあったらあったで存在に気付きやしないんだから。

 早くも滲んできた汗が不快で、思わず眉間にシワが寄る。これが終わったら兄貴にアイス買ってもらおうと心に決めた。味はバニラの、ご褒美にふさわしい高いやつ。

 セミすらも茹だっていたのか、ようやっと元気のない鳴き声が聞こえ始めた。

「次はお前が良いって言う子を恋人にする。本当に!」

「そんなやついるかなぁ」

 兄貴がおれを好きなように、おれだって兄貴を好きな自覚がある。

 きっと次もまた口にするのだ。兄貴がおれと遊ぶ時間が減るのが嫌で、その女はやめとけなんて可愛げのないことを。

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桃のタルトに罪はない 坂本真下 @skmtmst

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