遺書

六畳庵

八月一日 @先生の家

 遠く、蝉が鳴いているのを聞きながら、私はそれを手に取った。

 先ほどまで浴びていた強い日差しはここまで届かない。小さなアパートの薄暗い玄関、その温く湿った空気が体に纏わりつく。けれど、汗ばんだ首元を拭うことも、靴を脱ぐことさえせずに立ったまま、私はそれを茫然と眺めた。


 遺書        阿部 光


 達筆と呼ぶには無理のある、跳ねるような癖の強い字。間違いなく私が編集を担当している作家、阿部光のものだった。

 ──深呼吸。

 とっさに連想する言葉は、自殺。次作の打ち合わせのために訪ねたら本人は出てこず、玄関の床にこんなものが置かれていたのだ、そう考えるのが妥当だろう。 

 ──深呼吸。

 しかしなぜ? 

 阿部は死ぬような人間ではない、少なくとも私は彼の周りに〈死〉を仄めかす何かを見たことがない。とても親しかったというわけではないから、知らなかっただけかもしれないが、本当に、本当に理由が思い当たらなかった。

 阿部の現実と虚構を織り交ぜたような作風にはファンも多い。これでは次作は企画倒れになって、この前出した『昨秋道歌』が遺作となる。惜しい、彼の死は。

 ──深呼吸。

 手元、次いで薄暗い廊下に目をやり、問いかける。

 阿部先生、いったいどういうつもりですか。

 静寂。背後、ドア越しに蝉の声が聞こえるだけだ。奥の部屋──執筆部屋にも幾度となく入ったことがあるのに、初めて来た人の家のような、むず痒い心地悪さを覚える。

 知らない領域。勝手に動いてはならない。

 その感覚がかえって私を冷静にして、考える余裕ができた。

 阿部に家族はいない。三十代前半の独身男性はまあ珍しくない。そして私が今日ここに来ることを、彼は知っていた。その上でこれを置いたのだ。それはつまり、私に読め、ということなのだろう。

 壁に指を這わせ玄関の照明をつける。段差に腰掛けてもよかったのだが、廊下に背を向けるのが躊躇われた。廊下は空間だ。いわゆるオカルト、などというものは信じていないが、状況の不気味さが勝った。それで私は、持っていた鞄を床に置いて、土間に立ったままその封を切ったのだ。


 遺書        阿部 光


 やはり死のうと思います。

 やはり、というのは、僕が死のうと思い立ってからずっと考えた末に、やはりそうしようと決断したからです。誰にも言わずに逝くので、皆さんにとっては急なことだと思います。驚かせてすみません。特に、この手紙と僕の亡骸を恐らく最初に見つけてくれるだろう編集者の八木くんには、本当にすまないと思っています。

 こんな気温だから、死んだ後は早く誰かに見つけてもらう必要があると思いました。しかし数少ない友人達は、僕の死体を発見するには親しすぎます。まだ先の長い彼らの心に、僕の痴態が黒くこびりつくのは嫌でした。八木くんなら、前職のこともあって死体には慣れていると思ったし、やはり僕は書いた文章をまず自分の編集者に見せたい。ええ、全てわがままです。後生なので許してください。詫びというにはやや自己満足的ですが、冷蔵庫に八木くんの好きな燻製肉の詰め合わせをおいています。三大和牛のセットなので美味しいと思います。良ければ貰ってください。

 本当は何も残さずに死にたかったのですが、僕の死について詮索されその理由を好き勝手に推察されるくらいなら、僕が死に至った経緯を記しておこうと思いました。小説家として、面白くない話を書くのは気が引けますが、しばしお付き合いください。

 初めて本を出したのはもう二十五年も前ですか。僕はまだ高校生でした。仲のいい小説好きの先輩に惚れていて、気を引きたかったんでしょうね、趣味で書いていた小説が完成すると原稿を渡しました。

先輩はその日のうちに全て読んでくれました。そして当時僕がしていたサイト投稿だけでは勿体ないと言って、それをある新人賞に応募してしまいました。勝手に、です。僕は事後報告でそれを聞きました。驚きましたが、嫌だとは思いませんでした。独断でそういうことをしてしまう行動力と大胆さが、好きでした。その小説が『花落つる所』です。清谷社小説新人賞で銀賞をいただき、色んな人に助けてもらいながらなんとかデビュー作になりました。

 それからさらに数冊出して、漫画家の四弾さんとタイアップもして、あの頃はまだ純粋に創作活動を楽しめていたように思います。

 段々と、心に欲がちらつき始めました。それは『月の朝』が本屋大賞の二位にランクインしたとき、明確な輪郭を得て僕に話しかけてきました。

授賞式、目の前で大賞の盾を受け取る受賞者を見て、もしあそこに立っているのが自分だったら? という。他愛もない妄想です。作家は妄想が得意ですから。しかしそれは、心に焼き付いて消えませんでした。一番になってみたい。邪念を抱えたまま、僕は書き続けました。

 小説は繊細です。邪念は必ず文章に混入します。そうして出来た僕の小説達は、不純物でした。面白いと評価されたものもありましたが、それら全てに、密かな我欲が滲み出ていました。それに気づいた人がいるかどうかわかりませんが、それらが大賞をとることはありませんでした。やがて僕は世間に、「永遠の二位」だと言われ始めました。

 大賞の小説を読みます。素晴らしいものです。そのあと自分の小説を読み返します。どこか心が入っていないように感じます。

「二位ってことは、伸びしろがあるってことだよ」ある著名な作家さんに、そう言われました。「一位をとっちまったら、その先には進めないからな」それで、ああ僕の小説は不完全なのだ、と思えました。若かった僕は、書きました。書いて、書いて、書いて、私の邪念は執念に形を変えて、気づけば三十路を越していて。

 半年ほど前ですね、『四つの船』が港川文芸大賞を受賞したのは。ネットニュースの見出しが、「阿部光、遂にシルバー脱却」とかそんなので染まったのは、面白かったです。数撃てば当たる、ということでしょうか。文章に滲み出た欲が、僕の小説の持ち味として定着したのでしょうか。なんにせよ僕は、念願だった一位になることが出来ました。思ったことは一つです。


 なぁんだ、何も変わらないじゃないか。


 拍子抜けしました。余りにもあっさりとしていました。必死の思いで登って来た階段がある一点でぷつりと途切れている、僕はそこに立ち尽くしました。僕を侵食していた執念はいとも簡単に掻き消えました、生への執着と連れだって、達成感だけを押し付けて。

 あの言葉が頭の中にとぐろを巻いていました。

「一位の先には進めない」

 僕は多分、一位をとってはいけない人間でした。

そこが僕の終着点でした。ゴールでした。延長戦はありませんでした。ちょうどそのとき書いていた『昨秋道歌』はなんとか完成したけれど、それが全てでした。

 もう書けないと思いました。

 作家は書けなくなったらお終いです。

 小説では、一人一人の登場人物に死に時というものがあって、僕も、いくつもの人生を終わらせてきました。それと同じように、阿部光はここで死ぬべきだと思いました。正直、これまでに思いついたどんな展開よりも、わくわくしました。

 半年かけて死ぬ準備をしつつ、本当にいいのかと何度も考えたけれど、もう僕は自分を終わらせることにこれまでにない魅力を感じていました。それが新しい執念だと言ってもいいかもしれません。だから、おかしな話ですが、決して僕は絶望して、悲観の中で死ぬのではないのです。夢は叶えるものです。僕は今、幸せです。

 馬鹿みたいに長くなりました。これとは別に、葬式の手配とか少ない貯金の行方とかの指示書を僕の枕元に置いておきます。申し訳ないけれど八木くん、後は頼みます。

                             令和四年八月一日


 ──深呼吸。唾を飲み込み、もう一度、深呼吸。

 ゆっくりと五感を取り戻す。足が痺れていた。

 理解できない。一ミリも、全く。手紙を畳んで封筒に入れる。そこにある阿部光の文字を眺めた。

 蒸れて足の裏がじわりと湿っている感覚。その気持ち悪さも無視して廊下を突き進む。確信があった。先生は、奥の部屋にいる。


 ドアをできるだけ静かに開ける。どうしてだろう、息を殺す必要などないのに。何度も招かれた狭い和室は寒いほどに冷房が効いていた。私の目線は僅かに開いた押し入れへと注がれる。その中に先生がいるのだと思った。元々彼はそこを寝床にしているからだ。

 まばたき、浅い呼吸。襖を引き開ける。

 阿部光はそこにいた。

 とても幸せそうに眠っていた。

 思わずぼそり、言葉が漏れる。

「起きてください、阿部先生」

 そして私は、その額めがけて手刀を振り下ろした。

「ぃてっ! 死者になんてことするんだ!」

「ご存じないですか、死者は喋らないんですよ」

 先生はのそりと起き上がった。

「どうだい、それ」

 ひょいと手を伸ばしてリモコンで冷房を弱め、私が手に持った『遺書』を示す。

「季節外れのエイプリルフールかと思いました。……どういうつもりですか」

「今書いてる小説に、自殺した知人の遺体を見つけるシーンがあるんだけど、リアルな反応を参考にしたくて」

「そのためにわざわざ手書きでこれを?」

「今年も猛暑だからね、真面目に生きてたらぶっ倒れる。でも気づいちゃったかぁ。どこで?」

「普通に読んでて気づきますよ。一位とったから死ぬとか訳わかんないですよ。よく考えたら記名が阿部光ペンネームだし」

「あー、阿形蘭月本名にするべきだったか。ふむ、少し改稿して明日アパートの管理人さんにもやってみるよ」

「やめてくださいどうするんですか警察呼ばれたら」

 ただでさえこの人の小説は、現実と虚構の境界が曖昧なのだから。

「さてじゃあ次の打ち合わせをしようか。飲み物とってくるよ」

 悪びれもせずふらりと台所へ向かう先生。その背中がいやに寂し気に見えて、悪寒が走る。


 自分は何か、見落としてないだろうか。


 この遺書はどこまでがフィクションなのか? ここに書かれた先生の思いは、実は本心ではないのか? 

 まさか。

 笑い飛ばしたいこの疑念を、私は拭えない。

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