後編

車から出て、後ろの方に見に行くと、1人の女性が倒れているのを発見した。

女性は白いロングコートに、長袖のロングブラウスのスカートを着ていて、靴は履いておらず、素足の状態だった。


覚「おい…大丈夫か?」


覚が何度か身体を揺さぶってみたが、女性は微動だにもしなかった。

覚は再び車に乗りドアを閉めた。


日和「どうだった?何だったの?」

覚「女の人が倒れていた。それが血を流している事が見当たらなくて、ぐったりして意識がない」

日和「どうする?警察呼んだ方が…」

覚「いや、放っておこう」

日和「どっちにしても私達見つかるよ。今、携帯でかける…あぁ圏外だ。どうしよう…」

覚「取り敢えず、ここから親父の家が近い筈だから、まず家に行こう」


2人は倒れている女性をそのままにして、覚は動揺しながら車を出して走り去った。

細い山道を抜けていくと、農道に出て、信号機のある通りを真っ直ぐ走って行った。


やがて俊樹の家に着き、先程の女性の話をすると、日和を家で留守番している様にと告げて、警察に連絡を取り、覚と俊樹は2人で再び現場まで車で行った。

日和はストーブの前にしゃがんで火の灯る明かりを見つめながら、2人の帰りを待っていた。


2時間程してから、うとうとと首が上下に揺れながら睡魔に襲われている時、玄関の鍵を開ける音がしたので、日和は目覚めて急いで駆け寄った。


日和「お帰り。どうだった?」

覚「居間に戻って椅子に掛けていろ」

日和「…敏樹おじさん、さっきの女の人誰だったの?」

敏樹「今行ってきたばかりだが、俺らの知る人間じゃないし、地元の人でもないらしいんだ。詳しい身元は今、捜査中らしい。どうやらあの山道に彷徨っているうちに行き先が分からなくなって、その後凍死したようだ。」

覚「死後から24時間は経ってたみたいだ。いきなりの事だから、俺達も何も出来ないしさ」

日和「なんで、あの女の人…あそこに居たんだろう…」

敏樹「兎に角、お前達は古民家に戻りなさい。警察からは何かあったら俺の家に来る様に伝えた」

覚「親父…一応俺らにも連絡してくれ」

敏樹「あぁ。いいから早く帰れ」


日和と覚は古民家に車で戻り、日和はストーブの元栓を開いて、スイッチを点けた。日和の携帯の充電がほとんど無くなってきているのに気づいて、充電プラグをコンセントに繋いだ。天井の壁にかかっている時計の針が辺りを包む様に響かせて鳴っていた。


覚「日和…コーヒー飲むか?」

日和「うん。」


覚がコーヒーを淹れて、マグカップを日和に渡すと、彼女はある事を思い出した。


日和「今、話す事じゃないけど…どうして3年前の高校2年の時に、覚は私に襲う様にかかってきたの?」

覚「俺は、あの時…お前に何て言えばいいのか、何をしてあげればいいのか分からなくて、今考えても気が気じゃなかったな。」

日和「お母さんと何かあったの?」

覚「あいつさ、あの頃日和とは別に養子に迎えたい子が居て、引き取るかどうするか言い合いになっていたんだ。」

日和「新しく家族を増やしたかったって事?」

覚「そう。ただ日和も次の年が受験だから、やっぱり止めようって和解したんだよ」

日和「知らなかった…お母さん何にも私に言わなかったよ」

覚「あいついつも突発的に決めるところがあるだろう?それが未だに俺も分からないところでさ」

日和「確かにそういう所、昔からある」

覚「前の父さんは優しかったか?」

日和「うん。時間があったら良くあちこち連れてってくれたよ。」

覚「今も父さん好きか?」

日和「うん、好き。何でいなくなったんだろうって。たまに考える時がある。夢に出てくることもあって。目が覚めると泣いてる事もあるし…凄く大好きだったんだなぁって」

覚「そうか」

日和「覚はお母さん以外の人と結婚したいとか考えたことはある?」

覚「ほとんど無いかな。自分の事で精一杯だし」

日和「私も…結婚とかパートナーってよく分からないや。」

覚「あいつは?颯多はどうなんだ?」

日和「彼氏であることには変わりはないよ。でもいつまで続くのか分からないな」

覚「一緒に居るからには、簡単には別れない方がいいぞ」

日和「彼にも私達の事は話さないから、大丈夫だよ」

覚「そうだ、向こうの部屋に囲炉裏がある。見に行くか?」

日和「そうなの?うん、見たい」


居間から廊下を渡って裏口に近い所の別の居間へ行くと、天井の高い広間に出て、今の中央に錆びた囲炉裏が飾ってあった。


日和「まだ、使えるのかな?」

覚「どうだろ…あまり触らない方が良いみたいだな。」

日和「覚?」

覚「日和。また抱きしめてもいいか?」

日和「いいよ。いちいち断らなくてもしてきても良いよ」


そう言うと覚は日和をそっと抱きしめた。


覚「お前はいつも温かいな。優しい匂いもする。」

日和「覚…変わったね。こっちに来てから急に優しくなって自分も戸惑うよ」

覚「変わった?そうか?」

日和「昔と今の覚は違う。私は今の貴方が好き。まるで別人みたいに微笑んでくれるんだもん」

覚「そうか。」

日和「覚。顔、見せて」


日和は覚の頬を両手で包み込み、暫く彼の瞳を見ていた。


日和「こういう風にじっくり見た事無かったけど、目…綺麗で優しい目をしている。翡翠っていうのかな、綺麗な茶色い目をしているんだね」

覚「お前は、その大きな瞳が何かを見据える様に印象に残るな。お前も優しい顔をしているんだな」


2人は顔をお互いに近づけてキスをした。日和は少しだけ背の高い覚の背中に右腕を廻して暫く動かなかった。


その後再び居間へ戻り窓の下の壁に寄り添うように背を持たれて、日和は覚の方に頭を傾けて乗せていた。

二人は手を繋いで、ストーブの燃え上がる火を眺めていた。

やがて二人はもう一度唇を交わして、覚が上になる様に日和を押し倒して、何度もキスをしていた。

覚が日和のスカートの中に手を入れて下半身を弄り始めていた。


日和「覚、好きだよね、そこ触るの」

覚「お前も。俺が触ると直ぐに感じているし」

日和「そうだよ、凄く感じる。覚の事、凄く感じているよ」


覚は日和の下半身の衣類と下着を脱がせて、上体を起き上がらせた。覚も下半身のズボンを脱ぎ、自分の手で性器を出してきた。


日和「覚…遠くへ連れていって。」

覚「日和?」

日和「一瞬でいいから二人でこのまま何処かへ行ってしまいたい…あぁっ…」


覚が日和の濡れた陰部に性器を入れると、日和は声を殺す様に首を天井に向けて、お互いの身体に身を委ねる様に何度も腰を揺らしていた。覚は日和のその仕草を見ながら自身も全身で彼女の温もりを感じていた。


日和「覚…イキそうだよ。もっと強く揺らして…!」


日和はこの時初めて絶頂に達した。

あれだけ覚の事を憎んでいたのにこの様な関係に陥るまで、途轍とてつもなく想像なんかしていなかった。覚の温かさにこの時ばかりは気付くことができて、彼女もまた彼の肩に強く抱きしめながら、情愛の傷みを実感していた。


翌日の午前6時。日和は目を覚ますと覚の姿が居ないのに気づいて、すぐさま身体を起こした。部屋のあちこちを名前を呼んでも返事がしなかったので、日和は軽く動悸が走っていた。すると、玄関の引き戸を開ける音がしたので、駆け寄ると、覚が買い物袋を下げていた。


日和「何処に行っていたの?」

覚「買い物だ。朝飯の分、買ってきた」


日和は彼の身体に抱きついて居なくなった事に驚いたと言い、涙目で覚の顔を見上げていた。日和は衣類に着替えて、朝食を取った。


覚「今日、糸魚川まで行くぞ。」

日和「ここからだと少し遠いよね?どうしてそこまで行くの?」

覚「お前に見せたい所がある。」

日和「何処?」

覚「内緒」

日和「何?」

覚「いいからついて来い」


2人が家から出て、一般道から高速道路に乗り移り、車を走らせる事約2時間程、目的地の糸魚川市まで到着した。

市内の県道を通過していくと、やがて海沿いの景色が見えてきたので、日和は車の窓を開けて、しばらく海を見ていた。


覚が目的地に着いたと告げると、2人が車から降りて、そこには広く続く日本海が見えていた。


日和「ここは?」

覚「親不知おやしらずって言う場所だ」

日和「親不知?」

覚「平頼盛って分かるか?」

日和「日本史に出てくる人物だよね?」

覚「そいつが落武者…落人になってから、京都から新潟に移り住む際に、ここの難所を通った時に、自分の子どもが誤って落ちて亡くしたって言う言い伝えがある場所だ」

日和「凄い、絶壁だよね。一歩間違えたら即死だね…」

覚「日和。西日が落ちていくぞ」


目の前の夕陽が静かに沈んでいくのが2人の瞳に写り、ゆっくりと時間が過ぎていく感覚に浸っていた。覚は日和の手を握りしめて、彼女の顔を暫く見ていた。


覚「お前と一緒に見に来たかった所なんだ。良かった、夕陽が見れて…」

日和「うん。綺麗だね」


次第に海風も強く吹いてきて、頬を突き刺しながら潮風が通り過ぎていった。

車に戻り、海岸沿いから県道へと再び入り、夕食を糸魚川市内の定食屋で取った後、雪混じりの雨が降ってきたので、長野まで一気に車を走らせた。


帰宅後、覚がお風呂を沸かし浴室に行っている間、日和は愛美と電話をしていた。


愛美「そうだったの。長野のお義父さんの所へ。卓上にメモ紙がおいてあったから、何事かと慌てちゃったわよ。」

日和「お母さんも無事に法事が終わって良かったね」

愛美「日和…貴方に聞きたい事があるんだけど。覚の事、本当の父親だって受け入れる事はできる?」

日和「お母さん…私、お父さんが好き」

愛美「じゃあお父さんとして見てくれるって言葉だよね?」

日和「違う。男としてだよ」

愛美「それ、どう言う意味?貴方、何言い出しているの?」

日和「父親としてなんて、最初から見てなんかいないよ。お母さんの知らない所で、私達…身体の関係を持っていきているの」

愛美「日和、冗談を言うのは止めて。覚と何があったの?」

日和「今言ったこと、嘘じゃないから。私、あの人が自分の男だと思って一緒にいるの。…この先もずっとそうしていたい」

愛美「止めて。兎に角、覚に替わってくれない?」

日和「嫌だ!あの人は私のものなんだっ!」


日和はすぐさま携帯の電源を切り、身震いをしながら目線を下に向けて、その場にしゃがみ込んだ。


覚「日和?今、大声が聞こえたけど、どうした?」

日和「何でもないよ。ストレス発散に大きい声出しただけ。…お風呂沸いたの?」

覚「あぁ、先に入っていいぞ」

日和「行ってくるね。」


日和はバッグごと持ち上げて、浴室へ向かった。浴室の中は自宅よりもやや広くなっていて、浴槽を開けると湯気が一気に上がっていきら壁つたいの水滴が音を立てて流れていった。


全身を洗い終えて、浴槽に浸かると疲れが程よく身体からほぐれていくのを感じていた。


浴室から上がった後、廊下の窓を見てみると、先程まで降っていた雨が上がっていた。居間に戻ると、覚が窓の下に寄りかかりながらタバコを吹かしていた。


日和「お風呂気持ち良かったよ。覚も次、入ったら?」

覚「あぁ。入る」


覚が浴室に入っている間、日和は携帯の電源を入れた。未読のメールが何通か届いていた。


颯多からもメールが届いていたので読んでみると、長野から戻ったら早く会いたいという文面だった。日和は微笑みながら、彼に返信をしていた。すると着信音が鳴ったのでよく見てみると、非通知着信だったので取り敢えず出てみた。


日和「もしもし?」

女性「…」

日和「あの、どちら様ですか?」

女性「…帰って。」

日和「え?」

女性「東京へ…帰って」


その電話は直ぐに切れて、日和は1人で誰だろうと考え込んでいた。


一方、覚が浴室から上がり脱衣所で衣服を着た後、ドライヤーが無いことに気づいて、一度居間に戻り、日和から借りて、再び脱衣所の鏡に向かい髪を乾かしていた。

タオルを首にかけて、ドライヤーのコードをまとめていた時、浴室の中の窓の外から何か引っかかった音が聞こえてきたので、浴室の扉を開けてみたが、何も音はしなかった。


再び脱衣所から出ようとした時、また音が聞こえたので、壁の姿鏡を見ると、見知らぬ女性が写っていたので、振り返ったが辺りには誰も居なかった。様子が気になり居間の日和の元へいったが、何も起こらなかった。


日和「覚?どうしたの?」

覚「いや、何でもない。」

日和「さっき覚の携帯にお母さんから着信が来ていたよ。」

覚「そうか。今、かけ直す」


覚は囲炉裏のある居間へ行き、照明を点灯し、愛美に電話をかけた。


愛美「覚、何処か出かけていたの?」

覚「いや、風呂に入っていた。何かあったか?」

愛美「こっちも法事から帰ってきたばかりなの。あのね、日和に電話をしたんだけど、繋がらないのよ」

覚「もしかしたら充電しているんじゃないか?」

愛美「それなら良いけど…あの子また変な事言い出してきたの」

覚「どうした?」

愛美「貴方をお父さんとしてじゃなく、1人の男性として見ているって」

覚「…あいつの言った事は当たっている。俺もあいつを女性として…」

愛美「2人とも…何を考えているの?私には全く理解できないわ」

覚「明日、東京に帰るから、その後3人で話そう」

愛美「今…貴方達、お義父さんと一緒なの?」

覚「前に親父がやっていた古民家の旅館に日和と2人で居る」

愛美「…あの子に手を出したり変な事しないで、無事に帰ってきてね」

覚「…分かった」


覚は愛美が言い放った会話に対して日和への本音を伝えるべきか、複雑な心意で渦を巻いていた。


日和「お母さん、何か言っていた?」

覚「明日帰る際に気をつけて帰ってきてくれって。どうした?」

日和「そっか。それなら何でもないよ」


その時だった。突然照明が消えて部屋の中が真っ暗になった。覚は玄関の天井の隅にあるブレーカを引き上げたが、明かりは点かなかった。


日和「どうして停電が?」

覚「分からない。ブレーカーを上げたんだが、反応しないんだ」

日和「すぐ戻るかな?」

覚「だと、いいけどな。懐中電灯を探してみる」

日和「あった?」

覚「ああ、襖のところに置いてあった」

日和「ロウソクってあるかな?」

覚「ちょっと見てくる。ここで待っていろ」


覚は玄関の隣の奥の間に行き、扉を開けると工具などの備蓄品が棚に置いていった。

懐中電灯で照らしていくと、太めの長いロウソクが数本と、ロウソク立てがあったので中から取り出して、居間へ戻った。台所のガスコンロに火を点けて、ロウソクを傾けてロウの先に火をつけた。

ロウソク台に立てて、床の上に置いた。


日和「こうして焚くと、綺麗だね」

覚「日和、ストーブもまだ暫く点かない。寒くないか?」

日和「ちょっと寒い…」

覚「こっちに来い」

日和「うん」


日和は覚の肩の下に寄りかかり、顔を埋める様に彼の胸にピタリと付けた。


覚「なぁ、お前。どうして逃げないんだ?」

日和「前より、怖く無くなったから」

覚「不思議だよな。俺ら、あんなにひがみ合う様にいたのに、こんな風に寄り添っているなんて…」

日和「ずっと、いつか変わっていって欲しいって願っていたよ」

覚「俺でいいのか?」

日和「良いよ。ねぇ…今日も一緒に寝ても良い?」

覚「良いよ。」


覚が襖の押し入れから布団を出そうとした時、日和が1つだけで良いと告げてきたが、俊樹が来たら不信に思われるからと2人分の布団を出した。

覚が電気のブレーカーを上げに行くとようやく明かりが付いた。日和はロウソクの火を消して食卓のテーブルの上に置いた。


覚「寝ようか」

日和「じゃあ入るね」


再び照明を消して、日和は嬉しそうに覚の布団の中に入ってきた。


日和「今日もしたい」

覚「流石に3日3晩は…」

日和「怖いの?」

覚「…怖くはない。ただ愛美の事が…」


日和は覚の口元に手を当てた。


日和「それ以上言わないで。私、東京に帰るの嫌だ」

覚「何があっても帰ろう。逃げる様な真似はしなくない」

日和「覚…」

覚「誰も守ってくれないんだ。いくら逃げようとしても、必ず誰かが見ている。日和、一緒に帰るんだ。」


日和は覚の顔を見つめて、彼の右腕にしがみつき、跡形がつく様に強く手を握りしめていた。


日和「私、どうすれば良いの?誰にも言えなくて、ずっと1人で耐えてきたんだよ。それなのに、あんたは口上手く誤魔化して生きていく訳?」

覚「俺もお前の背負ってる傷跡を消してやりたい。でも、お前がどれだけ傷つきながら、俺の傍に居るのか…辛くて消えて居なくなりたいぐらいだ」

日和「ずっと…独りで寂しかったんだよね?だから、私に寄りかかりたいって思っていたんでしょ?」


日和は覚の頭を撫でて、彼の表情を泣きながら見つめていた。覚は彼女の頬に手を添えて涙を拭いていた。


覚「無責任かもしれないけど、俺はお前を抱いてやる事しか出来ない男だ。」

日和「覚はもっと変われるよ。悲観的にならないで。私も非情かもしれないけど、あんたを…覚を守りたい」


日和は布団から抜けて、立ち上がった後、着ていた衣服を全て脱いだ。覚に背を向けたまま、日和は両腕で自身の身体を抱え込み、片腕を口で噛み始めた。覚はその姿を見て、慌てて起き上がり、彼女の身体に背後から抱きついた。


覚「日和、止めろ。腕を口から離せ。…日和っ!」


日和の両腕を掴みかかり、興奮する彼女をなだめる様に、身体を正面に向かせて、再び彼女の二の腕を掴んで抱きしめた。


覚「日和…俺は今はこれしか出来ない。それでも良いなら…お前を抱いてやる」


日和は声を殺しながら、大きく口を開けて、声にならない叫びを吐き出していた。

覚も上半身の衣服を脱ぎ、再び彼女を抱き寄せて、布団の上にしゃがみ込ませながら座った。


息が上がる日和の額に覚が唇を添えると、彼女は細めていた目を開き、彼の顔を見つめた。

遣る瀬無い思いに浸りながら、2人はお互いの唇を重ね合わせた。


舌を入り交えながら、覚は日和を自身の下半身の上に彼女の両脚を絡ませる様に持ち上げて、暫くの間唇を交わしていた。

日和の乳房を指で回しながら摩り、覚は首元から胸や脇腹へと口元で噛みながら舐めていった。


日和を仰向けに布団の上に寝かせて、両胸を鷲掴みながら、彼女の表情を伺っていた。次第に気持ちが昂る日和を見て、覚も身体の奥底から熱を帯びる様に興奮してきた。


下半身の衣類を全て脱ぎ、日和の両脚を開いて、自分の身体を彼女の胸元に抱き寄せて、顔で弄る様に身体を揺さぶっていた。


日和「覚…私を壊して…!」


日和が覚の耳元で囁くと、彼は勃起した性器を彼女の陰部に挿入し、お互いが激しく身体を揺さぶっていった。


暫くしてから、覚は日和を起き上がらせて、再び身体ごとゆっくりと上下に揺さぶりながら2人はお互いの表情を見つめ合いながら、傷を舐め合うかの様に眺めていた。


日和「覚…愛して」

覚「あぁ」


何度も交わした情交で、日和は覚の懺悔を認めるかの様に許そうとしていた。本当に彼を愛せるかはまだしも朧げなまま、揺らぐ想いで今後、覚の誠情を周囲に分かってもらえるかどうか考え始めていた。


翌朝。日和は目を覚まし、居間の冷たい空気が漂う中、起き上がると、食卓のテーブルの上に覚が作った朝食が並べられていた。

布団の横に置いてあったバッグから携帯を取り出して、中を開くと覚からメールが届いていた。


車を敏樹の家に返しに行くから先にご飯を食べていてと、綴ってあった。洗面所で歯や顔を洗った後、1人で朝食を取っていた時、覚が帰ってきた。


覚「日和、飯まだ食べていたか。」

日和「おはよう。うん、まだ途中だよ。敏樹おじさんも一緒?」

覚「あぁ、今来るから…親父、上がって」

敏樹「おはよう。よく寝れたかい?」

日和「おはよう。はい、ぐっすり眠れたよ」


日和の穏やかな表情を見て、覚は昨夜の日和の自傷的な行動を取った様子から一転していたので、安心していた。

日和が身支度を終えると、敏樹の車に荷物を載せて、古民家を後にした。


長野駅に到着し、改札口で敏樹と別れを告げた後、新幹線で東京に向かった。


3時間後、日和と覚は自宅に到着して、玄関のドアを開閉し、居間へ行くと、愛美の姿がなかったので、工場に出勤しているだろうと2人で話をした。夕刻の時間になり、愛美が帰宅すると、日和が長野駅で買った手土産を渡すと、愛美はありがとうと言って受け取った。


愛美「お義父さん元気そうで良かった。向こう雪凄かったでしょう?」

日和「うん。膝まで積もっていてビックリしたよ」

愛美「貴方もお義母さんのお墓参り行ってきたんでしょ?」

覚「あぁ。天気は殆ど曇っていたかな」

日和「お母さん、あのさ…お父さんもここに座って」

愛美「どうしたの?何かあったの?」

日和「婚姻届けの事なんだけど、やっぱり籍入れるの止めれない?」

愛美「もう決めたことなの。何の理由があって止めないといけないの?貴方には決定権は無いわ。」

日和「覚と…覚と親子にはなりたくない」

愛美「どうして?どうして覚って呼ぶの?」

日和「私…この人が好き。長野に行っている間、彼から抱かれた」

愛美「何、ふざけた事言っているの?覚、貴方も何か言ってよ」

覚「日和が言っていることは本当だ」

愛美「何があったのかはいいけど、日和、来週覚と区役所に行って婚姻届けを出しに行くから、貴方、家で留守番していてくれない?」

日和「お母さん…」

愛美「あのね、もしもの話なんだけど…日和、貴方、私達の事が納得いかないなら、一人暮らししたら?」

日和「一人暮らし?」

愛美「私と覚は正式に夫婦になるの。ただ貴方はこれから就職の事もあるでしょう?学校を卒業する前に早いうちにアルバイトでもしてお金稼いだらどう?就活の為にもなるわ」

日和「確かにバイトしたいとは考えているけど、家を出るのはまだ早いよ。先にバイト先見つけて貯金したら考えても良いよ。」

愛美「それでも良いわ。取り敢えず今日の所はこれで話はやめましょう。私、お風呂に入るね」

覚「愛美、ちょっと…」

愛美「覚も今日は早く寝た方が良いわよ。明日からまた工場でしょ?」


愛美は気丈に振る舞いながら日和と覚の話を聞こうとはせずに、浴室へ向かった。


日和「お母さん、私達の事聞こうとしないね」

覚「取り敢えず、今日はもう寝よう。部屋に行って」


日和は2階の部屋に行き、バッグから衣類などの荷物を取り出してクローゼットなどに収納した。


覚「愛美、籍を入れるの、止めないか?入れなくても夫婦でいれる事には変わりはないし」

愛美「日和の言った事、貴方真に受けるの?貴方から抱いたとか浮ついた事ばかり言っているのよ。可笑しくなったに違いないわ。届け出を出した後、あの子を内科に連れていくわ」

覚「内科?何処の?」

愛美「心療内科。ケアも今の内に必要になるなら、アルバイトや就活も安心して出来るでしょう?早いうちに解ることがあれば知っておくのも手だわ」

覚「そんな事をしてあの子が受け入れてくれると思うか?お前、やり過ぎだぞ…」

愛美「母親としてやるべきことよ。だから貴方も協力して。じゃあお休み」


覚は強い口調で言い放った愛美の心情を察するのに、戸惑いを見せていたが、彼女の思いも受け入れなくてはならないと考えていた。


翌週、愛美と覚は区役所へ行き、戸籍係の窓口に婚姻届けを提出した。その帰り道の車の中で2人は日和のことについて話をしていた。


愛美「ようやく届け出を出すことができて安心した。やっと夫婦になれたね。」

覚「あぁ。日和は、この事は何か突いて来ることでもありそうかな?」

愛美「どうして?」

覚「籍を入れたことは家族になった証にもなるけど、日和の気持ちはどうなのかはっきり聞いていないよな」

愛美「もう子供じゃないし、分かってくれるわよ。貴方も正式に父親になれたしね」

覚「それだよ」

愛美「え?」

覚「俺が父親になることで、今後あいつがどう俺の事を受け入れてくれるかが気になるんだよ」

愛美「そんなに不安にならなくても、あの子は貴方の事を見てくれるわ。大丈夫よ」


日和との関係を話せないまま、覚は隠しながら生きていくのは到底難しいのではないかと思い、暫く続いた沈黙の中で彼自身のいきどおりを感じていた。


数日後の夜、日和が入浴を済ませて、2階の部屋に戻ると携帯の着信が来ていたので、中を開くと相手先は颯多からだった。日和は直ぐに颯多に電話を折り返し掛けると、彼が出てくれた。


日和「明日?一応予定はないなぁ。颯多バイトは?」

颯多「あるよ。早番だから、18時で上がれる。だから、その日家に泊まりに来ないか?」

日和「うん。家に行きたい。そうだ、晩ご飯何か一緒に作らない?」

颯多「え?そうだなぁ…良いよ。一緒に作ろうか。バイト終わったら、こっちから迎えに行くからさ」

日和「じゃあ明日、楽しみにしているね」


日和は愛美に颯多の自宅に泊まりに行く事を告げ、覚には女友達の家に行くという事で内緒にして欲しいと伝えると承諾をしてくれた。

日和はクローゼットからバッグを取り出して当日持っていく物の用意をし始めた。


翌日の夕刻の時間に日和は自宅で颯多からの連絡を待っていた。1階の居間のソファでテレビを見ていると、覚が向かい合わせて座ってきた。


覚「今日、誰かの家に泊まりに行くって聞いたけど?」

日和「高校の時の同級生の実家だよ。向こう親もいるからさ、心配しなくても大丈夫だよ」

覚「そうか」

日和「何?」

覚「いや、何でもない。外、気を付けろよ」

日和「分かった」


そう話しているうちに、颯多から携帯にメールが届いて自宅の近くに車を止めて待っていると書いてあった。

日和は自宅を出て数メートル離れた所の路地に颯多の車が見えたので、駆け寄って行った。


2人は颯多の自宅の自宅に到着すると、近くのスーパーへ買い出しに行き、再び彼の家に着くと、早速台所で、夕飯の準備にかかった。


颯多が野菜を包丁で切る時に手が危ういからと、日和は正しい使い方を教えながら、楽しそうに調理をしていった。


颯多「おぉ。すっげぇ良い香り」

日和「意外と上手く出来たね。お皿だすね」

颯多「俺盛り付けするから、日和冷蔵庫からさっき買ったお茶も出して」

日和「はーい」

颯多「…よし。出来たね。早く食べよう」


2人がソファのテーブルに品物を並べると、早速夕食を食べ始めた。調理したものは、カレーライスとシーザーサラダだった。


颯多「結構味付け上手くいったじゃん。俺チョイスした調味料にハズレが無かったね」

日和「最終的には私が調整してなんとか出来たしね」

颯多「そういえばさ、日和の両親に俺の事、分かってもらえるかな。」

日和「付き合っている事?」

颯多「うん。また近くなったらさ、お前ん家に行きたいなってさ。挨拶したい気もするし」

日和「そうだなぁ。多分大丈夫だと思うけどね。」

颯多「有耶無耶に付き合っているなんてさ、それは向こうに失礼になるだろ?」

日和「そうだね、ちゃんと言った方が良いね…あのさ颯多」

颯多「何?」

日和「早坂さんの事なんだけど、結局彼女って何の関係なの?」

颯多「あぁ。あいつさ前にセフレだって話していた事あるだろ?あれ嘘ついたんだよ。ただのやきもちだったって言ってた。日和が…可愛いからってさ…」

日和「そうだったの?そうか、私ちょっと真に受けたところあったからさ。嘘で良かったよ」

颯多「本当に何もないから」

日和「分かったよ、私大丈夫だから」


2人は夕食を終えると、食器の洗い物をしてから食器棚に片付けをした。

日和は颯多がシャワーを浴びている間、日和は部屋着に着替えた。


学校や高校時代の友人達から来た携帯のメールを読んでいると、もう一通のメールが届いた。相手は覚からだった。

電話に出れるかと言う一言添えた文面に日和は取り敢えず少しだけなら良いと返信をすると、直ぐに着信が鳴ってきた。


日和「お父さん?どうしたの?」

覚「お前、本当は颯多って子の所にいるんじゃないか?」

日和「違うよ。高校の友達の家だよ。何で?」

覚「そうか…それなら良いけど。あまり夜更かしするなよ」

日和「しないよ。友達も明日バイトあるから…じゃあまたね」


日和が電話を切ると、颯多が浴室から出てきた。


颯多「誰と話してた?」

日和「お母さん。…もう子どもじゃないのに、わざわざかけてきてさ。何なのって感じ。」

颯多「近くても親だから心配するのは当然かもな」

日和「そう、だね」

颯多「ビール飲むか?」

日和「うん、飲む」


颯多がソファの日和の隣に座って、大きくため息を吐くと日和はクスクスと笑った。


颯多「なんで笑うんだよ、バイト今日大変だったんだよ。客凄い混んでいたしさ。」

日和「創作イタリアンのお店の皿洗いでしょ?人気あるところなんだね?」

颯多「うん。まだオープンして3ヶ月経ってないけど、結構忙しいよ。賄いとか出るから助かるけどね」

日和「今度私友達と行きたいな。行っても良い?」

颯多「あぁ。俺は仕事中は顔だせないけど、飯食いに来て欲しいよ。おすすめする」

日和「就活始まる前には行きたいな…」

颯多「日和、何処の職種にしようとか考えてるの?」

日和「その時によるかな。今4年生の人もまだ決まらなくて探している人達いるんでしょ?私達もどうなるか分からないなぁ」

颯多「そうだよな。…あ、お前バイトは?」

日和「そうだ、忘れてた。早いとこ決めないと、貯金できないしね。」

颯多「稼ぎたいの?」

日和「親からさ、1人暮らししたらどうだって言われてさ。今の所からだと、就職した場所が離れてたら通勤も大変そうだし。それも考えたている」

颯多「そうか…それなら俺たち2人で暮らすってのも有りだよね」

日和「2人で?」

颯多「日和…ベッド入ろう。」


颯多が日和の手を握りしめて、ベッドの中に入った。


颯多「俺もバイト辞めたら、就活に専念して、決まったらきっちり働きたい。だから、日和、2人で暮らさないか?」

日和「考えてもいいよ。就活上手く行くと良いよね。」

颯多「日和、服脱いで」

日和「…うん」


2人はお互いの服を脱ぎ、ベッドの中できつく抱きしめ合った。暫くしてから時計を見ると深夜1時を回っていた。颯多が日和が目を覚ますと、ある事を話した。


颯多「日和、前から聞きたい事あったんだけど。…お前、結構こういうの慣れているよな?」

日和「どうして?」

颯多「なんて言うか…イキやすかったり、身体のあちこちに触れると感じやすいっていうか。今まで何人かの人と付き合ってきたのかなって?」

日和「一応前に付き合っていた人で、経験はあるよ。…ってか、もう終わった話だから、気にする事ないじゃん。…颯多も前より上手くなったよね。今日も気持ち良かったよ」

颯多「そう?それなら良かった。」

日和「明日遅番でしょ、早く寝よう」

颯多「うん。お休み」

日和「お休み」


日和は先日の長野に行った時の覚との出来事が頭によぎっていた。颯多には申し訳ないという思いだったが、彼に抱かれている間に覚の身体の感覚や温もりを思い出していた。


翌月の末日頃、日和は学校で講義を受けていた。ノートに黒板の内容文を書いている時、胸の奥から異物が出てくる様な感覚になり、次第に具合が悪くなったので、助教授に手を上げてトイレに行くことを告げた。


講義室の直ぐ側にある女子トイレに入り、胸焼けの様に上がってきて、胃から嘔吐物を吐き出した。何度か咳き込む様に苦しそうにしていた。トイレから出て洗面台の水道の蛇口の水を含んで口の中をすすいだ。


持っていたミニタオルを口に当てて、鏡に写る自分の表情を見ると、やや青白くなっていた。


日和の中である事が過ぎり、学校の帰り道のドラックストアで妊娠検査薬を買って行った。


自宅に着くと、直ぐにトイレに行き、検査薬をポケットから取り出して、尿をかけて暫く様子を見ていた。自分の部屋に戻り、数十分待ち、恐る恐る検査薬を見てみると、陽性の反応が出ていた。日和は相手が覚か颯多のどちらかだと確信した。


同週の土曜日の午前に、日和は自宅から離れた所の婦人科の病院に行き、検査を受けて待合室で待っていると、看護師から診察室へ入る様促された。


医師からは妊娠して5週目に入ったところだと告げられた。医師から出産は考えているかと問われたが、日和は親と相談してから決めると答えた。もし中絶すると、今後妊娠しにくい体質になるから、気をつける様に警告を受けた。


その日の夜、日和は愛美と覚を呼び出して、卓上の椅子に腰をかけた。


愛美「話って何?」

日和「あのね、私、最近学校で胸やけがするみたいに具合が悪くなって、トイレで吐く様になったの」

愛美「それで?原因は?」

日和「今日、病院に行って検査を受けたら…妊娠しているって。赤ちゃん出来たみたい」

愛美「相手の人って颯多くん?」

日和「うん…多分そう」

愛美「そうなったら、向こうの親御さんとも話し合いしないといけないわね。覚、時間作れそう?」

覚「あぁ。日和は子どもはどうしたい?」

日和「産みたい。母親になる。」

愛美「貴方1人で子どもは産めないのよ。まず、近いうちに颯多くんのご実家に皆んなで行ってから、どうするか決めましょう。貴方もそれで良いわね?」

日和「うん。」

覚「日和?」

日和「お父さん、ごめんなさい。…こんな事になるなんて。私、無責任だよね?」

覚「兎に角、俺達は時間を作るから、お前も身体は大事にしろ」


日和は涙を流して暫くその場で顔を埋めていた。その後、愛美が浴室へ行っている間、覚は日和を寝室に呼び出して、ベッドの上で話をした。


日和「覚、どうしよう…私妊娠するんなんて、想像もしていなかった。」


覚「お腹の子…俺の子か?」


日和は無言で頷き、涙目になりながら覚の顔をみつめていた。


覚「俺…だいぶ前に精密検査を受けた事があるんだ。そうしたら、元々精子が少ないみたいで。だから子どもも持つことも出来ないって思っていたんだ。日和が…妊娠した事を聞いて、正直驚いている」

日和「何度も貴方に抱かれてきたもん。やっぱり何も起こらないはずなんて無いんだよ。」

覚「颯多って子の子どもだとも、当てはまるのか?」

日和「有りえる。どちらかの子どもだよ…」

愛美「2人とも、そこで何しているの?」

日和「お母さん…」

覚「日和をなだめていたんだ。さっきの妊娠の事についてさ…」

愛美「覚も早くお風呂に入ってきて。日和、貴方も部屋に行きなさい」

日和「分かった」


3月に入り、日和は3人で颯多の実家に訪れていた。家に着くと、玄関から颯多の母親が出迎えてくれた。居間に入ると、テーブル席へ掛ける様に促され、颯多と、颯多の父親も席から立って挨拶をしてきた。


愛美「この度は娘達がご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。」

父親「お話は颯多からも聞いています。…2人はまずどうしたいか、話して欲しいんだか…」

颯多「俺は父親になります。今アルバイトや就職の事もあるけど、日和と3人で子どもを育てていきたい。」

母親「まだ結婚もしていないのに、子どもを育てるのは、並大抵の事ではないのよ。失礼だけど、今からでも遅くないし…子どもを下ろす事を考えても良いのでは?」

愛美「それについてですが、日和は子ども産みたいと話しています。もしお宅が受け入れてくださらないのなら、颯多くんと別れて、私達家族で、子どもを育てようと決めてあるんです」

父親「日和さんはどうしたいですか?反対をしても颯多と一緒になりたいかい?」

日和「はい、颯多くんと結婚を考えています。先に子どもを産んでから、その後に籍を入れ様と考えいます。育児が落ち着いたら、私も働きます」

母親「確かに、最終的には貴方達3人の問題になってくるけど…ここまで決めてあるなら、貴方、私達も応援してあげてもいいんじゃないかしら?」


覚「…全員で、育てるのも悪い話ではありません」


愛美「覚…」

覚「大人達が身勝手に小さな命を捨てる事など、許し難いところもあります。日和と颯多は真面目な子達です。…どうか、皆で守っていきませんか?」

颯多「親父、母さん、どうかお願いします。僕等家族になりたいです」


颯多の両親以外の皆は彼等に向かって、頭を下げてきた。


父親「…分かりました。貴方達の熱意は伝わりました。まずは、日和さん…身体を大事にしなさい。学校や今後の事はその時その時に決めていけば良い。ただ、もしもの時、助けられない事が発すれば、私達も手を引かせてもらいます。その後は、そちらのご家族で決めてなさってください」

愛美「こちらこそよろしくお願いします」

日和「よろしくお願いします。」


日和達が玄関へ靴を履き帰ろうとした時、颯多の母親が来た。


母親「日和さん、本当に大丈夫?」

日和「はい。私、新しい家族が増える事が楽しみなんです」

母親「何かあったら、こちらにも直ぐ連絡してください」

愛美「色々とご心配をかけますが、この子達の為にもよろしくお願いします。」

母親「お気をつけて帰ってくださいね」

日和「ありがとうございます」


日和達は颯多と彼の母親に会釈をしてドアの外に出ていった。


数日後の午後、日和の自宅に一通の封書が届いた。前月区役所の戸籍係から愛美と覚宛に来ていたので、愛美が封書を開けると、婚姻届の書類の相違があると記載されていた。愛美は覚に電話をして翌日区役所を訪れた。


愛美「あの、今回の届け出で相違があったという事なんですが、一体どういう事なんでしょうか?」

係員「愛美さんのお子様に当たる日和さんの件で、ご確認したい事があります。」

愛美「何でしょうか?」

係員「日和さんの本籍地が茨城県になっておりまして…それはお間違いでしょうか?」

愛美「あの子の本籍は東京都です。出生届を出した時には本籍は東京で受理されました。あの…どうして茨城に?」

係員「愛美さん、失礼ですが、現在日和さんとの血縁関係がない状態になっております。こちらの戸籍謄本に記載があります。その為、今回の届け出の受理が出来なかったと都からご連絡を受けました」

愛美「日和に戸籍が無いというは?」

係員「あの、日和さんをご出産されたのはどなたでしたか?その方とご連絡は取れますか?」

愛美「その方については、もう亡くなられています。私はあの子の育ての母親に当たります」


愛美がそう口を開くと覚は驚いた表情で彼女の顔をじっと見つめていた。

2人は戸籍謄本を見てみると、日和の名前の記載されている欄には斜線が引かれていた。


区役所を後にして、帰り際に、愛美は走行している車を停めて欲しいと覚に言ってきた。

他の車が通り過ぎていくのを見計らって、覚は路肩に停めてハザードランプを点けた。


覚「愛美?」

愛美「私…あの子に何て言ったらいいのか。母親として今まできちんと育ててきたのに、あの子との間に血の繋がりが無いって言ったら、何て思われるかな?」

覚「取り敢えず家に帰ろう。暫く経ってから、話せば良い。事情をちゃんと言えば理解はしてくれる筈だ」

愛美「本当に大丈夫かしら?」

覚「あぁ。」


再び車を走らせて2人は自宅に帰ってきた。居間に上がると日和がソファにかけて待っていた。


日和「お帰りなさい。区役所どうだった?」

愛美「ただいま。…なんかね、届け出に記入漏れしていたところがあって、それで改めて提出してきたの。」

日和「そっか。そうだったんだ」

愛美「これから、夕飯の準備するから、日和も手伝える?」

日和「良いよ」


愛美は少しだけ涙目になっていたが、日和の明るい表情を見て安心したのか、のしかかっていた気持ちが軽くなっていた様に思えた。


夕食を終えて、日和が2階へ行こうとした時、愛美は彼女を呼び止めて、覚も一緒に話がしたいと告げてきた。


日和「お母さん、どうしたの?」

覚「今、言わなくても良いんじゃないか?」

愛美「いいの。日和に話しておきたい事があるの。今日の区役所に行った件なんだけど…私と覚、受理が出来なかったの」

日和「何で?」

愛美「日和、よく聞いてね。区役所の戸籍係で、戸籍謄本を見せてもらったんだけど…私と貴方は血の繋がりがないの。」

日和「どういう事?」

愛美「私の学生時代の友人が、未婚のまま貴方を出産したの。当時経済的に子どもを育てる事が困難で私と前のお父さんに相談されてきてね。それで私達が貴方を引き取る事にしたの」

日和「じゃあ私のそのお母さんは何処に?」

愛美「もう居ない。出産してから翌年に自殺したの。元々精神面が不安定だったから、子どもを産む事にも相当悩んだりしていたけど、相手の事を考えて結果的に貴方を産んだのよ」

日和「自殺…した。お母さんはどうして私を引き取ったの?」

愛美「彼女は親友だったの。私も周りに友達とかも居ない状態だったから。亡くなった彼女の為にも、懸命に貴方を育てたいってお父さんや両親にも説得させて、やっと認めてもらえたの」

日和「そうだったんだね。でも、私…自分の母親はお母さん1人しかいないよ。大好きだもん、尊敬しているところもあるし。」

愛美「日和…今までごめんね。いつか貴方に話すべきだと、ずっと耐えてきたの。やっと伝える事ができて…安心した。…本当にごめんね。」

日和「大丈夫だよ。こうして皆んなとも一緒に居ているんだし、お腹の子もいるし。家族が増えるの、本当にどれだけ幸せな事か。籍とかなくても家族に変わりはないよ」

愛美「ありがとう。貴方も母親になっているから、なんか逞しくみえてきたわ」

覚「日和、身体大丈夫か?」

日和「うん。そうだ、あのね…お父さんの呼び名なんだけど、私も家では覚って呼ぶ事にした」

愛美「どうして?」

日和「だって、この子が産まれたら2人ともおじいちゃんとおばあちゃんって呼ばれるんだよ?それなら一層、下の名前で呼んだ方が気が楽って言うかさ。…ね?良いでしょ?」

愛美「仕方ないわね。分かった、覚で良いわよ。ただし、外では必ずお父さんって呼びなさいよ。約束ね。…貴方もそれで良いでしょう?」

覚「あぁ。気が楽で済むよ。流石にじいちゃんは無いよな…」

愛美「今日は色々話したから、なんか疲れたわ。皆んなゆっくり休みましょう」

日和「そうだね。私も部屋でゆっくりしたい…じゃあ寝るかな」

愛美「おやすみなさい。身体冷やさないようにしてね」


日和は部屋に入り、机の中から母子手帳を見ていた。お腹の子どもの父親が覚か颯多のうちどちらかだという事は彼女が察しているところあるが、日和はただ無事に産まれてくることが1番何よりだと願っていた。


4月。日和は3年生に進学した。周囲の同期生達が就職活動で慌ただしくする中、日和は勉学に勤しむ一方で、1か月前から食料品やリカー雑貨を扱う小売店でアルバイトを始めた。


講義が終わると駅直結のアルバイト先に向かい、到着してお店の奥にある更衣室のロッカーで支度を済ませると、店頭へ出て、品出しの作業から始めた。夕刻の時間帯という事もあり、店内には客の列で賑わっていた。


レジカウンターの業務も行い、4時間の勤務が終わると、真っ直ぐに自宅に帰って行った。玄関に上がると、愛美が出迎えたくれた。


愛美「お帰りなさい。今日どうだった?」

日和「ただいま。いつも通り忙しかったよ。もうお腹空いた」

愛美「今出してあげるから、手を洗ってきて」


日和が夕食を食べている際も愛美は彼女の体調を気遣っていた。


日和「今はまだ大丈夫だよ。動けるうちに沢山働きたいし」

愛美「続けても夏休みが終わるぐらいまでの方が良いわよ」

日和「分かってるよ。無理しない様にするからさ」


7月。学校が夏季休暇に入り、日和は2週間に1回の婦人科の病院へ定期検診に受けに行っていた。超音波検査を終えて診察に入ると、医師からは25週目に入ったところで、子どもの性別が女の子だと告げられた。


日和のお腹周りも少し膨らんでいる事もあり、アルバイトはそろそろ辞めた方が良いと伝えられた。自宅に帰り、愛美と覚に子どもの性別とエコー写真を見せた。


愛美「そっかぁ、女の子…なんか感慨深いわね。アルバイトはいつ辞める予定?」

日和「今月末にするよ。さっきお店に顔出してきて、店長に話したら、分かってくれたよ。」

覚「少しお腹、膨らんできてないか?」

日和「うん。…覚、触ってみる?」


日和はソファから立って、上着を上げると覚は彼女のお腹に手を当てた。暫く無言で触れていると、愛美が涙目になりながら口を開いた。


愛美「その子も早く産まれてきたいって言ってそうね。日和と颯多の子どもなのに、まるで私と覚の子どもでもあるみたいね。」

日和「そうだね。この子は皆んなの子だよね。早く逢いたいなぁ…もう覚、いつまで触っているの?」

覚「いや。なんか日和が母親になっているのが、未だに不思議で。俺らもしっかり見ていないとなって」

愛美「そうよ。いざとなったら、男の貴方だって支えなきゃならないんだからね」

日和「皆んないるから大丈夫だよ。」

愛美「日和。ちょっと早いかもしれないけど、子どもの名前考えておいた方がいいかもね。」

日和「そうだ。大事な事忘れてた…やっば」


月日は流れて10月の中旬に入った頃、日和のお腹は大分大きく膨らんで、臨月を迎えようとしていた時期に入っていた。日和は学校に電話をかけて、事情を伝えると広報課の職員が休学届を受理してくれた。


愛美「日和、何か食べたいものある?今から買い物に行くから」

日和「そうだな。お肉とかちょっと食べたい気もするかな。あ、あと果物が良い。パイナップルってまだお店にあるかな?」

愛美「分かった。お店で見てくるから、留守番お願いね」

日和「うん。行ってらっしゃい」


誰も居なくなった居間に1人。日和は手を付けていた編みかけの刺繍を引き出しから取り出して、ソファに座り、縫い始めた。暫くすると、覚が工場から帰宅した。


日和「お帰りなさい。今日早かったね」

覚「1日のほとんどが外回りだったんだ。早く上がれたんだよ」

日和「外、少し寒くなってきたよね。覚は身体大丈夫?」

覚「それを言うならこっちだ。お前こそ、身体冷えていないか?」

日和「大丈夫だよ。沢山ご飯食べているし、栄養も摂っているから心配しないで」

覚「大分お腹も大きくなったな。…なぁまた触ってもいいか?」

日和「うん」

覚「耳に当ててみてもいいか?」

日和「良いよ」

覚「あっ…動いた?今、中で動いた音がした」

日和「本当だ。蹴ったんだね。最近よく動くんだよ。覚にも早く逢いたがっているかもね」

覚「あぁ。逢いたいな…」


11月。東京では珍しく粉雪がちらつき始めて、街は白い景色に覆われていた。日和は婦人科の定期検診を受けた後、自宅近くのスーパーへ買い物に出かけた。


帰宅途中、やや傾斜になっている歩道を歩いている時に、肩にかけていたバッグを落としてしまった。しゃがむ様に腰を低くしてバッグを取って立ち直した体制取ったその時、路面の雪に足を滑らせて、お尻から転倒した。


日和「腰痛かったぁ…ヤバいな、お腹大丈夫かな…」


幸いにもお腹の子には影響を与えず、再び起き上がるとゆっくりした足取りで自宅へ向かって行った。帰宅してから愛美に転んだ事を告げると、心配した表情を浮かべていたが、日和は大事には至らないから安心してほしいと返答した。


1週間後、日和は愛美と一緒に入院先の産婦人科の病院へタクシーで向かった。病室に入ると、ベッドの横にある棚に荷物を入れて、日和は着替えも済ませた。暫くするとスーツ姿の颯多が病室へ入ってきた。


颯多「調子はどう?」

日和「今のところ安定してるよ。颯多、就活どう?」

颯多「今日、2社受けてきたよ。どっちもシステムエンジニアの会社。面接緊張したよ」

日和「そっか。上手く行くと良いね」

颯多「お義母さん。俺、電話やメールしてばかりでなかなか会いに来れなくてすみません。就活忙しくて…」

愛美「良いのよ。颯多くんは就活の方に専念していていいんだから。また出産が近づく様になったら、連絡するから安心して」

颯多「ありがとうございます。…日和、大分お腹大きくなったね。なんか食べたいものとかは?」

日和「ありがとう。もう入院期間中は、量を減らさないといけないから、買ってこなくてもいいよ」

愛美「日和は本当は食べたいもの沢山あるもんね」

日和「お母さん…余計なこと言わないで。颯多、間に受けないでね」

颯多「分かったよ。2人ともなんか可笑しい。笑える」

愛美「雪、降ってきたわね。颯多くん帰りは車?」

颯多「はい。自分の車です。」

日和「気をつけて帰ってね」

颯多「うん。じゃあそろそろ行きます。またね」


日和は手を振って颯多と愛美が病室を出た。


颯多「お義母さん。日和、前に道歩いてて転んだって聞いたけど、あれから大丈夫なんですか?」

愛美「ええ。顔見た通り、元気でしょう。あんまり気にしなくても大丈夫よ。」

颯多「予定日は月末になりますよね?」

愛美「うん。当日の朝になったら、連絡するから、来れたら来てね」

颯多「俺…父親として彼女をちゃんと守ります。覚さんとお義母さんにも、出来るだけ心配かけない様にしっかり子どもを育てます。」

愛美「そんなに力まないで。気を付けて帰ってね。」


颯多は会釈をした後、病院を後にした。


1時間後、愛美も自宅に戻り、居間の本棚の中に入ってある日和のアルバムを取り出した。中には日和の生後数ヶ月経過した姿や、幼稚園の入園式で正門前に生前の夫と3人で並ぶ姿、8歳になった時に山梨にキャンプへ出かけた時に撮った写真などを眺めていた。その後覚が帰宅したので、夕食の準備をして、2人で食事を取った。


愛美「日和の予定日が近くなってきたの。あと15日か。早いわね。」

覚「そうだな。俺も予定日に仕事上がれたら、直ぐに病院行くから」

愛美「こういう時に言うのも何だけど…あの子の父親って本当に颯多くんなのかしら?」

覚「どうして今そんな事を?」

愛美「あの子には変なこと考えたく無いんだけど…また別に父親が居そうな気がして…」

覚「馬鹿な事言うな。父親は颯多1人だ。いずれか籍も入れるんだし、余計な事考えるな」

愛美「覚…貴方は日和の事、籍がなくても父親になれる?」

覚「俺がもし父親になれても、日和が何て答えるかはあいつ次第だ」

愛美「そうよね。ごめんね、これ以上言うの止めるわ」


愛美がそう言って食器類を台所へ持って洗い物の片付けを始めると、覚は愛美の背後から彼女を抱きしめた。


愛美「ちょっと、覚?どうしたの?」

覚「急に抱きしめたくなった。少しだけいいか?」

愛美「日和の事、心配?」

覚「あぁ…産まれてくる子どもも気になるんだ」

愛美「皆んな不安になるのは仕方ないのよ。私も出産の経験は無くても、あの子を育ててきた苦労はよく分かるわ」

覚「彼女に強くなって欲しい」

愛美「そうね。私達で、皆んなを守っていきましょう」


2人が話し終わると、覚は居間のベランダの窓を開けて、タバコを吸い始めた。


11月の下旬に差し掛かり、夜の21時を過ぎた頃、日和は病室のベッドの上で身体を横向きの体制を取ろうとしたその時、陣痛が始まった。


やがて全身に痛みが走り出したので、起き上がろうとしたら、太もものあたりに液体の様な物が染み付いていたので、ナースコールを押し、看護師が駆けつけた。看護師から破水した状態になっているので、直ぐに分娩室に入る様に告げられると、タンカーで分娩室に入って行った。


暫くしてから愛美と颯多が病院に到着して、分娩室の前に居る看護師に声を掛けた。


愛美「あの、日和は?」

看護師「今、日和さんの状態ですが、酸素濃度が低下している状態なので、呼吸器をつけて、これから出産に入ります。お二人のうちどちらが中で立ち会いますか?」

颯多「僕が行きます」

看護師「では一緒に中へお入りください」


颯多が専用の帽子とエプロンを着て、分娩室に入っていくと、分娩台の上で呼吸器を付けて苦しそうにしている日和の姿があった。


颯多は日和の手を握りしめて励ます様に声をかけていた。医師と助産師達も分娩の準備を進めると、助産師が声を掛けてきた。


助産師「日和さん、分かりますか?これから私達と一緒に出産に立ち会います。呼吸を合わせて、元気な赤ちゃんを産みましょうね」


日和は頷くと、助産師らが大声で日和に腹式呼吸を促した。


助産師「まずゆっくり大きく息を吸って…そう、そして吐いて。そうです。また繰り返してください。吸って…吐いて…そう、体をおへその前に見えるように丸めてきて…そうそう、じゃあいきんで!」

日和「うぅっ…!」


日和がいきみを始めてから5時間が経過して、周りの人達が彼女の表情を伺いながら、また何度かいきみを繰り返していった。


助産師「日和さん、旦那さんの颯多さんの顔分かりますか?」


日和は颯多の顔を見て頷いた。


助産師「また深呼吸していきみますからね、大丈夫!肩の力を抜いてゆっくり行きますよ。ゆっくり息を吸って…吐いて、また吸って、吐いて、そうそうだいぶ上手に息が整ってきているよ。ではまた深呼吸してください…そう、いきんで!」

日和「はぁ、、痛い…颯多、どうしよう…助けて。」

颯多「日和、大丈夫。皆んないるから、一緒に深呼吸して…そう肩の力を抜いて」

助産師「そうだよ、良い旦那さんだ。頼もしい!また深呼吸をしていきみますよ!…そう、頭出てきたよ!先生、日和さんの酸素量は?」

医師「安定してる。このまま続けて」

助産師「日和さん、同じ様に深呼吸といきむのを続けましょう。旦那さん、日和さんの身体をさすって上げてください」

颯多「はい!」

看護師「日和さん頭を上げますから、続けていきんでくださいね」

日和「…はい…」


日和が苦しむ中、全員で彼女を励ます様に分娩は行われた。

その7時間後の11月22日の朝8時過ぎ、分娩室から高らかに赤子が泣き叫ぶ声が響いてきた。


分娩室の前の椅子に横たわって待っていた愛美が身体を起き上がらせて、立ちあがった。


愛美「日和…良かった。産まれたんだね」

看護師「お義母さん。今、日和さんが出産を終えました。日和が意識が低い状態になっています。もう少しお待ちください」

愛美「分かりました。お願いします。」


医師「呼吸器の酸素量を上げます。心マの準備もお願いします。」

看護師「旦那さん、外に一度出てください」

颯多「日和…」


日和は無事に子どもを出産し、看護師が赤子を専用の保育器に入れると、日和は次第に意識が遠のいていった。一時心肺停止の状態になり、医師らが心臓マッサージを行い、様子を見ていくと、暫くしてから日和はまた意識を取り戻した。


日和は目を覚ますと、分娩台の横に保育器に居る自分の子どもを見て、安心していた。


1時間後、病室に移り、愛美と颯多が日和が眠る隣の子どもの顔を見ていた。その2時間後、覚が病室に到着して、3人の安堵した表情を見ていると、子どもの様子を暫く眺めていた。


日和「覚、赤ちゃん抱いても良いよ」


覚が子どもを抱き抱えると、子どもの穏やかに眠る表情を見つめながら、彼もまた胸を撫で下ろしていた。


数日後の退院の日、日和と愛美は颯多の車で、自宅に帰って行った。居間の窓際にあらかじめ設置してあったベビーベッドの上に子どもを乗せて、日和は暫く子どもをあやしていた。


愛美「日和、その子の名前考えたの?」

日和「うん。灯里あかり。火を灯すに里って書いて灯里。穏やかな子に育って欲しくて、颯多と一緒に考えたよ」

愛美「そうか。灯里ね。良い名前ね。そうだ、私習字得意だから、これから、道具出してくるね。ちょっと待ってて」


愛美は寝室の引き戸から以前まで使っていた自身の習字道具の一式を出して、卓上の上で半紙と硯を広げて、筆で灯里の名前を書いた。神棚の隣に半紙を貼り付けて、日和もその字を見て微笑んでいた。


日和「凄い…お母さんありがとう。」

愛美「どういたしまして」

覚「ただいま」

愛美「お帰りなさい。」

覚「これ、工場の社長達から。出産祝いとプレゼントをもらったんだ。」

愛美「わざわざ悪いわね。後でお礼しないとね。日和これ開けてみよう」

日和「ブランケットだ。可愛い…ありがとう覚。」

覚「お前も落ち着いたら、工場の皆んなに挨拶行けよ」

日和「分かったよ。灯里見て、社長さんからもらったよ」


その様子を見て愛美は覚に話しかけた。


愛美「貴方、最近笑う様になったわね」

覚「そうか?…この子が産まれてから、そうかもな」

日和「また照れちゃってるし」

覚「照れてなんかいない。俺が笑うのが可笑しいか?」

日和「別に。ねぇ、灯里」

愛美「日和、灯里はまだあまり目が開かない状態なんだよ」

日和「耳で反応してるから、みんな聞いているよ。ね?」

覚「ふふっ」

日和「ほら!笑った!お母さん見た?」

愛美「貴方もそんなに覚をからかうんじゃないの」

日和「お母さんお腹空いた。あたし手伝うから早く用意しよう」

愛美「いいわよ、日和は休んでいて。」

覚「この習字、愛美の字か?」

日和「そうだよ。達筆でビックリしたよ。灯里って読むんだよ」

覚「灯里か、良いな。」

日和「覚、灯里をあやしてあげて」


覚が灯里の手を差し伸べると灯里は覚の指に触れて、一本一本と彼の指を握り反応をしてきた。


日和「灯里、覚の事好きなのかな?手を入れてくると直ぐ指を握るよね?」

覚「本当、不思議だよな」


(仮の文面。生後32日後のお宮参り。水天宮へ出かけるのは?)


2月の立春が過ぎた頃、日和は愛美に学校の事について相談していた。


日和「お母さん、私学校辞めることにした。来月退学届出しに行こうと思って」

愛美「それでいいの?」

日和「うん。灯里の育児もあるし、学校と両立させるのは無理っぽいしさ。それなら一層の事辞めた方がいいかなって。学費の事もあるしさ」

愛美「学費は私の両親も少し補ってくれていたこともあるしね。そうね、灯里の事考えるとそうした方がいいね。」

日和「あっ、灯里ぐずっている。おむつかな?」


日和は灯里のおむつを交換した後、抱きかかえて暫くあやしていた。


愛美「だいぶ目がはっきりしてきたわね。瞳が大きいのは、日和に似たわね」

日和「鼻と口元は颯多だね。良かった二人に似てさ」

愛美「今年は随分と雪が降るわね。覚、今日も外回りだったはず。大丈夫かしら…」

日和「来週さ工場に行って挨拶して来ようと思っている。覚、車載せてくれるかな?」

愛美「うん、その辺は聞いてくれるわよ。帰ってきたら、聞いてみたらいいわ」

愛美「私、これから出かけてくるから、留守番お願いね」

日和「うん、気を付けて行ってきてね」

愛美「行ってきます」


日和は愛美が出かけると、灯里の胸を優しく撫でながら歌を歌い掛けてあげていた。


翌週、日和は覚の車で工場に訪れていた。社長に前回もらった出産祝いのお礼を兼ねて挨拶をして、1階の整備室へ社員たちに会いに行った。


社員1「久しぶりだね。元気そうで良かった。」

社員3「灯里ちゃんだっけ?目が日和ちゃんそっくり。良い所にて良かったな。」

日和「ええ、まぁ。あのうちの父は?」

社員3「今、外勤だよ。もう少ししたら帰ってくる」

社員1「ねぇ、俺抱っこしてもいいかな?」

日和「はい、どうぞ」

社員1「…うわ、柔らかい。頭ちゃんと持たないと落ちそうで怖いな。でもマジ可愛い」

社員2「ほら、ちゃんと抱えろって。次俺に抱かせて。日和ちゃんいいかい?」

日和「はい」

社員2「あぁ、泣いてきちゃった…日和ちゃんに渡すね」

日和「灯里、どうしたの?少しぐずついているな…ちょっと2階の社長さんの所に行ってきます」


日和は2階へ上がると社長と事務員の人に灯里をあやして欲しいとお願いをした。しかし、一向に灯里は泣き止まず、そうしている間に1階に荷物を置いてきたのを思い出したので、事務員に灯里を預けて、荷物を取りに駆け足で行った。


再び2階へ上がり、灯里の声が聞こえる社長室の扉を開くと、そこには覚の姿があり、灯里を抱いていた。


日和「お父さん、灯里泣き止んだ?」

覚「あぁ、ずっと泣いていたからここに移して泣き止ませて、今落ち着いたところだ」


社長「良かった、泣き止んだんだね。覚、お前意外と得意なんだな。まるでお前が父親みたいだな」


覚「そう…ですか?それはないですが」

事務員「覚さん、赤ちゃんあやすの上手ね。ねぇ、日和ちゃん」

日和「本当。意外な特技が見つかったって感じです」


覚が灯里を日和に渡して、微笑む灯里の表情に皆で和やかに眺めていた。覚が1階に行くと社員達が雑談をして弾んでいた。


社員3「ああ覚、戻ってきたんだな。」

覚「おう、さっき日和と灯里がここに来たって?」

社員2「うん。灯里ちゃん抱かせてくれたよ。もう自分の子以来赤ちゃん抱くの緊張したわ」

社員1「そうだな。お前んちの子小学生だもんな。2人とも元気か?」

社員2「まあな、男同士だから生意気だけど毎日はしゃいで家ん中うるさいんだよ」

社員3「いいじゃん。楽しそうでさ。俺なんかまだ子どもいないからさ、皆が羨ましいよ」

社員1「早く出来ると良いな」

覚「もう休憩時間過ぎているから、作業にかかるぞ」

社員「はい!」


ある日の夕食時。愛美は2人にとがめる様な会話をしてきた。


愛美「灯里の健診どうだった?」

日和「今のところ異常はないって。」

愛美「最近よく物を戻したりしやすくなったり、下痢も起こしたりしていたから、どうかなって気になっていたけど、何とか落ち着いてはいるのね」

覚「そんなに酷かったのか?」

日和「うん。今の期間ってお腹が緩みやすい時期だから、様子を見てだけど、ぐっすり寝ているから、大丈夫そうかな」

覚「灯里見てくる」

愛美「覚、灯里がお気に入りね。貴方が父親みたいにみえてくるな」

日和「お母さん、何言ってるの?それ無いから」

愛美「私達に子どもが出来ないから、余計そう見えてくるのよ。可笑しいかな?」

日和「ねぇ、なんかここの間同じ事言ってくるよね。何か気になる事でもある?」

愛美「灯里の父親が貴方だったら、私達…きっといがみあっていたかもね」

日和「お母さん?」

覚「お前、どうしたんだ?」

愛美「2人に前から聞きたい事あってね。日和は覚の事は自分の父親だと思っている?」

日和「それは…あまり意識していないかな。でもお母さんのパートナーだって言うのは分かってるよ」

愛美「じゃあ日和は覚が1人の男性に感じる事ってある?」

日和「お母さんそう言うの止めよう。灯里が居るんだよ」

愛美「貴方が高校2年の時、覚がここに来てから、貴方に声をかけられる事が何度かあったでしょう?あれ、何だったの?」

覚「愛美…」

愛美「貴方は黙ってて。高校3年の受験前に日和の部屋に上がってた時、何か声が聞こえてきたから、階段から聞いていたら、叫んでいる声が響いてきて…」

日和「お母さん…」

愛美「大学1年の夏期休暇に工場で貴方方2人が備蓄室に入っていったのを見かけたから、跡を着いて行ったこともあるし」

覚「止めろ愛美」

愛美「私が法事で家を空けていた時、長野に行った3日間…貴方達、古民家で何をしていたの?」

日和「…私、この人に高校の時から抱かれた」

愛美「それで?」

日和「初めは嫌がらせかと思って何度が抵抗しても止めてくれなくて。周りには誰にも話さなかったけど…」

愛美「全く誰にも?」

日和「念の為、警察には相談した」

愛美「その後はどうしたの?」

日和「警察の人には1度だけ話して、それきり何もしなかった。ただ日を追ううちに、覚の事が身体から離れなくなって…傍にいるうちに孤独で寂しそうな人だと気づいた時、彼を男性だと考えるようになった。…あたしは…」

愛美「覚、長野で泊まっている間、この子に何をしたの?」

覚「…抱いたよ。俺も日和への意識が強くなって、しょうがなくなってきた。そんな風に女をいだいた事がなかったから、どうすれば良いのか分からなくなって…」

愛美「それでずっとコソコソ隠れながら?一線を超えた訳?」

覚「そうだ。…いつか話そうと考えていた」


愛美は椅子から立ち上がり、覚の頬を平手打ちをして、胸ぐらを掴みかかり何度も壁に押しては身体を叩き続けた。


日和「お母さん止めて!灯里が起きちゃうよ!」


愛美は日和が腕に掴みかかった両手を思い切り振り離して、日和はその場に倒れた。


覚「日和!…おい愛美、止めろっ…!」


愛美が日和の首に片手で掴みかかろうと腕を伸ばした時、覚が止めて、愛美の腕を強く掴んで振り解き、愛美が興奮している身体の背中をさすった。


覚「日和には何も振るうな。…愛美、兎に角座れ。日和怪我してないか?」

日和「大丈夫…あっ、灯里が…」


急に騒ぎ立てた音に反応して、灯里は大声で泣き叫んでいた。日和は灯里を抱き抱えて泣き止ませようと、懸命になだめすかしていた。愛美は卓上の椅子に座って、両手で顔を覆いながら涙を流していた。


一瞬にして居間の中に広がったどよめきの余韻が残る中で、覚は視線を床に下ろして、ソファの上に静かに座った。次第に灯里も泣き止んできて、日和は再びベッドに寝かせた。暫くの沈黙の中、愛美が口を開いた。


愛美「貴方達は、これからどうしたいの?」

日和「私はともかく灯里を皆んなで面倒を見て欲しい。まだこんなに小さいのに、何処にもやる事なんてできないよ。」

愛美「覚は?」

覚「日和と同意見だ。見捨てるなんてできない」

愛美「私もよ。見捨てたら、全員捕まって何もかもバラバラになるわ。それだけは避けたい」

日和「お母さん、私…お母さんみたいな母親になりたいの。前のお父さんが亡くなった後、私をずっと育ててくれた様に…」

愛美「私は貴方を手放すなんて考えた事なんかないわ。主人と…親友と約束したから。何があっても引き裂く事なんて出来ないわ」

覚「俺、ちょっと外へ出てくる」

日和「覚…!」


覚はそう告げて携帯と車の鍵を持ち、玄関の外へ出て行った。


日和「覚、何処に行ったんだろう…」

愛美「きっと近くだと思う。暫くしてから帰ってくるから、大丈夫よ」

日和「覚、変わったよね」

愛美「本当ね。以前から比べたら、逃げなくなったわ。最初は無口だったり、言葉数多くなかったりしたけど、皆んなで暮らしているうち…灯里が産まれてから、随分と穏やかになっていったよね」

日和「前のお父さんに…何なく似ているかも」

愛美「やっかみだけど、何処となく雰囲気が似ているのかもね。男ってそういうものなのかしらね」


日和は灯里が声を発しているのに気付いて、灯里の頬に触れながら、あやしていた。

暫くすると、颯多から電話がかかってきて、日和が出ると話をしたい事があるから、灯里と一緒に次の日の日曜日に実家に来て欲しいとの事だった。

愛美にもその事を伝えると承諾したので返答し、電話を切った。


2日後の日曜日、日和は灯里を抱いて颯多の車で彼の実家に行った。玄関へ上がると颯多の母親が灯里を見て抱き抱えて、嬉しそうに微笑んでいた。居間のソファに腰を掛けて、向かい合わせで話をしていた。


颯多「両親とも話をしたんだけど、俺ら新しい所に一緒に住まないかなって」

日和「新居に?」

颯多「うん。いつまでも日和の両親の元に預けるのも面倒かけるから、灯里が大きくなる前に引っ越さないかって話してたんだ」

母親「私達も貴方が出産してから、顔を出したりするの少なかったでしょ?だから、まず新居を探している間に私達の所に灯里を預けて欲しいって考えているの。貴方の実家から少し離れてしまうけど、学校なら電車でなら近いでしょ?どうかしら?」

日和「私は大丈夫ですが、灯里がこちらの家に慣れてくれるかどうか、気になります」

父親「確かに慣れるまでは落ち着かないかもしれないけど、普段は妻が家に居るから、安心して欲しいんだ。」

日和「一応考えても良いですが、私の親にも話をさせてください。それから決めたいです」

父親「うん。そうしなさい。親御さんも良い様に勧めてくれるかもしれないしね」

日和「あの…灯里抱いてくれませんか?」

父親「あぁ、私はいい。お前灯里を」

母親「あら、勿体ぶってね。…本当に可愛いわね。口元が颯多の赤ん坊の時に似ているわね」

颯多「そう?日和のお義母さんにも言われたよ」


颯多の家族が灯里の事で会話が弾む中、日和は愛美や覚の思いをどう説得すれば和解してくれるか心境が揺らいでいた。いずれかは颯多と灯里と3人で暮らして育児をしなければならない不安をどう上手く進めれば良いか悩み始めた。


日和は灯里と自宅に帰宅すると、覚が1人で台所の換気扇の前でタバコを吸っていた姿が目に入った。


覚「悪い、今消すから」

日和「ありがとう。お母さん買い物?」

覚「あぁ、さっき行ったばかりだ。颯多の両親は何て話してた?」

日和「それなんだけど、颯多と灯里と3人で新居探して暮らしたらどうだって言われてさ」

覚「そうか。いずれかはこの家を出ないといけないのか。」

日和「寂しい?」

覚「あぁ。折角賑やかになってるのに、2人が居なくなるのは愛美も寂しがるな」

日和「でも都内に居るんだしさ、車でなら直ぐ会いに行ける距離の所に住もうって考えているんだ。」

覚「いつから探しに?」

日和「早い方が良いって言われたから、多分来月かな?」

覚「まだ灯里は4ヶ月だぞ?お前ら2人でどうやっていくんだ?」

日和「颯多がね、1件なんだけど、内定が決まったんだ。だから、まずそこに就職する予定だから、何とかなるよ」

覚「日和、こっち来い」


日和が灯里をベッドに置いて、覚の横に座ると、彼は彼女を抱きしめた。


日和「ねぇ、灯里が見ているよ」

覚「灯里にはまだ分からないよ。」


覚は日和を見つめて、彼女の頭を撫でて唇にキスをした。


日和「タバコの匂いする」

覚「これでも、前よりは吸う本数減らしているんだ」

日和「偉いじゃん。…覚、そんなにきつく抱かないで…」

覚「お前が何処かへ行ってしまうのは、嫌だな」

日和「子どもじゃあるまいし。颯多と上手くやっていけるよ」

覚「灯里が心配だ」

日和「これから何度か家にも顔を出すから、そんなに心配しないで。ね?」


2人は何度も唇を交わしていた。すると玄関の鍵が開く音が聞こえたので、咄嗟に身体を離した。


愛美「ただいま。日和帰って来てたんだね」

日和「おかえり。うん、話終わったよ」

愛美「何か言っていた?」

日和「それがね、颯多が灯里と一緒に暮らしたいから、来月新居探しに行くって話になって」

愛美「そんなに急がなくても良いのにね。でも、今後のことを考えたらそれも良いのかもしれないわね」

日和「お母さんは賛成?」

愛美「はっきりは言えないけど…覚は?」

覚「俺はまだ早い気がするかな。ただ2人の為なら検討はしても良い」

日和「一応来月探しに行くから。…2人ともそんな悲しい顔しないでよ。いつでも会えるんだからさ」

愛美「まぁ、取り敢えず探すだけ見に行ってごらん。颯多くんの通勤にも不便がない所にしなさい」日和「うん。考えておくよ。夕食の支度手伝うよ」


夕食後、日和は灯里と浴室へ行き、灯里の衣服を脱がせて、自分も服を脱ぐと浴室へ入った。


洗い場の椅子に座り灯里を太ももの上に乗せて、頭から赤ん坊用のボディソープで洗っていき、身体全体を洗い、シャワーで優しく洗い流していくと、灯里がすっきりとした顔をして日和に笑いかけていた。

一緒に浴槽に浸かり、暫く入っていると、愛美が様子を見に来た。


愛美「日和、灯里どう?」

日和「うん。上手く洗えた。ドア開けていいよ。」

愛美「あら灯里、気持ち良さそうね。湯加減どうですか?」

日和「ちょうど良いって笑っているよ。お母さん、そろそろ灯里渡して良い?」

愛美「えぇ。さぁママより先に上がりますよ。身体拭こうね。…日和、ゆっくり浸かりなさい」

日和「うん、灯里頼むね」


愛美が浴室から出ていき、暫くすると、脱衣所に覚が来ていた。


日和「覚?どうしたの?」

覚「お前、自分のバスタオル忘れてただろ?ここに置いておくから」

日和「ごめん…ありがとう。ふふっ」

覚「何?」

日和「ねぇ、覚えてる?私が高校2年の時にこうして浴槽に浸かっている時、覚がいきなりドア開けて入ってきて、石鹸を置いていったの?」

覚「あぁ。そんなこともあったな」

日和「ああいう風に来るのはもう止めてよ」

覚「するかよ」


2人が笑い合うと、覚は居間へと戻って行った。


3月。街のあちこちに咲き乱れる桜が満開に達して、そよ風が吹く中、日和は学校へ行き、敷地内の中央の建物の中にある学務課の室内に居た。窓口で、退学届を記入して学生証も一緒に返した。


職員「山口さん。」

日和「はい?」

職員「お子さん元気?」

日和「元気です」

職員「子育て頑張ってくださいね」

日和「ありがとうございます」


日和は学務課を出た後、敷地内に植えられている樹々を眺めながらゆっくりと歩いていた。

もう来ることも無い校舎や講堂に目をやり、正門前で振り返ると学校の名前が書かれた表札を見て、一礼をして学校を後にした。


数日後、日和は颯多と一緒に京王線沿いの商店街の通りに構える賃貸会社の店舗に物件を探しに来ていた。担当者と一緒に数件アパートなどを回り、2時間ほどかけて廻っているうちに、下高井戸駅から徒歩15分程にある1LDKの築30年のアパートを見つけた。


颯多「1LDKか、広さもちょうど良さげだね」

日和「3階の最上階にしては良い場所かもね」

颯多「ここにしようか?」

日和「そうだね。」


再び会社に戻り、入居契約書の手続きをして、会社を出ると駅で電車を待っていた。明大前行きの電車が到着し、先に颯多が乗ってバイト先へ行った。次の快速電車で日和は新宿駅まで直通で行き、山手線に乗り換えて、西日暮里駅まで乗って行った。


駅の改札口近くで覚の車を待っている間、構内のカフェに入り時間を潰していた。1時間経っても覚が来ないで、携帯に電話をしてみると、道路が渋滞しているから、待っていて欲しいと返答してきた。


窓の外の高架下の人達が行き交う中、コーヒーを飲んでぼんやりと携帯を見ては外の人を眺めていた。暫くすると、再び携帯の着信音が鳴り、覚から連絡が来た。日和は店の外に出て、交差点を渡り、浅草行きのバスの停留所の付近に、覚の車を見つけて乗って行った。


日和「新居見つかって手続きしてきたよ。駅からも近いし、良い所空いていて良かったぁ」

覚「そうか…」

日和「あまり、乗り気じゃ無い?」

覚「いや、早く見つかって良かったな」

日和「灯里が慣れてくれれば良いな」

覚「愛美が言ってたんだけど、日和は仕事どうするんだって?」

日和「そうなると預かり保育園とか探さないといけなくなるな。2人とも工場だし、颯多も学校と就活、颯多のお義母さんにも頼るわけにもいかないな…」

覚「引越しはいつ?」

日和「再来月の下旬くらい。まだ入居者がいるから、退去してからだって」

覚「それなら、ギリギリまで俺らの所に居ろよ。灯里も安心するだろ」

日和「灯里、灯里って…本当、私より灯里が大事だね。親馬鹿っぽい」

覚「親馬鹿で充分だ」

日和「えっ?」

覚「…ちょっと寄りたい所がある」


覚は自宅に直進する方向から左折の道に入り、荒川の河川敷の駐車場に車を停めた。


日和「話って?」

覚「お前、今のままでいいのか?」

日和「何が?」

覚「…灯里の父親って本当に颯多か?」

日和「今更どうして?」

覚「颯多は何で俺を疑わないんだろうって」

日和「覚こそ、どうしたいの?」

覚「灯里、俺の子だろう?」

日和「馬鹿な事言わないで。」


日和が河川の方に視線を逸らすと、覚が日和の手を握ってきた。彼の方に目を向けると覚はじっと日和の表情を見ていた。


日和「そんなに見ないで」

覚「いずれかバレる前に、颯多に本当の事言ったらどうだ?」

日和「じゃあそんな事どうやって言えば良い?それが事実だって言ったら、颯多…相当落ち込むよ。そんな事あり得ないから、もう兎に角帰ろう」

覚「日和…」

日和「止めて。私に触らないで。…帰ろうよ、灯里が待っている」

覚「少しは考えておけよ」


再び覚は車を出して自宅へ向かっていった。

自宅に到着すると、1台の車が家の前に停まっていた。よく見ると颯多の車だった。日和は先に車から降りて駆けつけると、居間のソファに灯里を抱きながら座っていた。


日和「颯多、バイトは?」

颯多「今日急遽シフトが変わってさ。折角だから灯里に会いに来たよ。なかなか泣き止まないんだ。日和、変わっても良い?」

日和「もしかしたら、おむつかも…あぁ、やっぱり。今替えるね」

颯多「覚さん、お邪魔しています。」

覚「愛美はまだ工場?」

颯多「はい。さっき電話来て、そろそろ帰ってくるみたいです。」

日和「どうしたのかな?灯里、泣き止まない…」

覚「貸して」

颯多「…あっ、ぐずるのやめた。治って良かった」


覚が暫くベランダ側の窓で灯里を抱きながらあやしていると、その姿に颯多はある不信を抱いた。


颯多「なんで、灯里は俺に懐かないんだろ?」

日和「それは、颯多がまだ灯里といる時間が少ないからだよ」

颯多「覚さんだって日中居ないだろ?今時間しかこうやって灯里をあやせないし。俺より覚さんに凄く懐いてる。」

日和「赤ん坊だもん。気まぐれなところあるよ…」

颯多「父親は俺だよ?いくらなんでも少しは懐いたっていいじゃん。」

覚「俺、昔親戚に小さい子とかあやした事あるから、それで灯里が分かっているんじゃないか?俺もよく分からないし」

日和「そうだよ。慣れもあるよ。だから、そんなに怪訝にならないで」

颯多「灯里の父親、覚さんなんじゃないか?」

日和「え?」

颯多「前に長野に2人で行ったって話したよね。その時、本当に何もなかったの?」

日和「あの時は覚のおじいちゃんやお墓参りに行ってきただけなんだよ。ある訳ないじゃん…」

颯多「もう隠すの…止めたらどうだ?なぁ日和?」

覚「今のうちに話したらどうだ日和…」

日和「颯多…2階に来て」


日和は颯多の手を引いて、2階の部屋へ上がっていった。

日和「私もどう言えば良いのか、色々悩んでいたんだよ。」

颯多「長野で何があったんだ?」

日和「私…あの人に3日3晩、覚に抱かれていたよ」

颯多「いつから、そんな仲になったんだ?」

日和「大学入ってから。覚から告白されて、そういう関係になった」

颯多「戸籍上は父親だろ?そんな関係許されないだろ…?」

日和「それが、私…お母さんと血の繋がりがないの。お母さんの亡くなった親友の人から引き取って私を育てていったんだって。」

颯多「つまり戸籍がない状態なのか?」

日和「そう。だからそのせいで覚とも婚姻届が受理できなかったの」

颯多「それでもあの人は父親だろう?どうして好きに…」

日和「好きになったら、いけない?」

颯多「日和」

日和「私、あの人を好きになったらいけないのかな?…覚は初めて会った時から、父親なんて受け入れる事なんか出来なかったよ。1番複雑なのは…私だよ…」


日和は涙を流しながら、颯多の腕に寄りかかった。


颯多「そしたら、調べてみるか?」

日和「何?」

颯多「DNA鑑定だよ。時間かかるけど、受ければ結果が判る」

日和「颯多、そんな事をして結果が判ったらどうするの?」

颯多「取り敢えず検査を受けに行ってから、それから決める。ただ、どちらにしても…灯里は俺が引き取る」

日和「覚とお母さんに話しておこうか。」

颯多「今、覚さんに言おう」


そう言うと颯多は1階の居間へ降りて行き、覚に事の説明を話すと、鑑定を受けても良いと承諾した。


1ヶ月後、日和と覚、颯多と灯里の4人で、医大病院の遺伝子診療科へ行った。覚と颯多と灯里の血液を採取し、検査室の前で待っていると、鑑定士から個室へ入る様に促された。鑑定の結果に3週間程かかると言われて、同意書を確認した後、病院を出た。


数日後、新居への引っ越しの日の午前。日和の自宅で颯多や引越し業者と一緒に荷物の整理をし、いくつかの段ボール箱や収納家具などを部屋から運び出し、トラックの中へ運搬していく作業を行っていった。業者が先に新居へ向かうと、日和は灯里を抱いて愛美と話をしていた。


愛美「向こうに着いて落ち着いたら、連絡してね。これ、灯里の荷物。颯多くんも、2人の事よろしくね」


颯多「俺ら頑張ります。灯里の為に沢山働きます。だからお義母さんもまた顔出しに来るんで、よろしくお願いします。」

愛美「そんなにかしこまらなくていいのよ。…覚、寝室に居るんだけど、出てきてくれなくてね。拗ねてるのかしら?」

日和「また後で電話するから、心配しないで。」

颯多「それじゃあ僕ら行きます」


日和と颯多が車に乗ろうとした時、ベランダの窓から覚が日和の顔を見ていた。日和は振り向いて彼の姿に気づき、灯里と一緒に手を振ると、覚は家の中に入って行った。

不安げな顔で見ていた日和に颯多が声を掛けて、車に乗る様に促された。


30分後、新居の下高井戸に着くと、先程の引越し業者のトラックが停まっていたので、直ぐに呼び出して、部屋の中に荷物を入れていってもらった。運搬が終わりひと息ついて、荷物で埋め尽くされた狭い部屋の中をかき分ける様に歩いて、灯里をベビーベッドへ寝かせた。颯太が近くのコンビニへ昼食を買いに行って帰ってくると、台所の空いているスペースで、愛美が予め作ってくれた灯里のご飯と一緒に食事を済ませた。


颯多「今日の夕飯さ、俺らの分はデリバリーで取ろうか?」

日和「賛成。流石に作る気ないよ。」

颯多「今日は出来る範囲で荷物片付けていこうね」

日和「早速やろうかぁ」


2人で荷物などを置く位置を決めて行きながら、作業の続きを行い、気がつくと外はすっかり暗くなっていた。


3週間後、日和と颯多はDNA鑑定を受けた医大病院へ再び行き、診察室で医師から結果を聞いていた。


医師「今回の結果ですが、こちらの鑑定書をご覧ください。4名の陰陽性の反応ですが、颯多さんと灯里さんの血液からは同じO型が一致しまして、遺伝子は陰性の結果となりました。こちらの項目ですが、覚さんと灯里さんからは同じO型の血液が一致と…遺伝子は陽性反応が出ました。よって、灯里さんの父親に当たる方は覚さんとなります。以上となりますが、ご質問はありますか?」

颯多「この鑑定結果は100パーセントの確率で当たっているものなんですか?」

医師「ほぼそうだとされております。」

颯多「分かりました。ありがとうございました」


診察室から出て、院内のフロアを歩いていると颯多はしばらくの間無言のまま、日和の顔を見ようとしなかった。車で日和の自宅へ行き、愛美と覚に鑑定書が入った封筒を渡した。愛美が中を開けて、鑑定書を見ると、陽性反応が出た覚の項目の欄を見つめて、愕然としていた。


愛美「こんな事、向こうの親御さんに何て言えばいいの?」

颯多「僕は何があっても灯里の父親として育てていきます。だから、どちらにしても覚さんとは一緒には居られません。僕らはこのまま3人で暮らしていきます。今まで通りにさせてください」

日和「私からもそうさせてください。責任は私に在ります。颯多と一緒にいさせてください」

愛美「覚。貴方はこれでいいの?」

覚「本来は俺が責任を取らないといけないけど、二人がそう決めたなら、灯里を守って行って欲しい。…お願いします」

颯多「時々こちらにも顔を出しに来ます。ずっとこれから皆で灯里を育てていかなければならないし。色々ご迷惑かけますが、末永くお願いします」

愛美「二人ともまだ若いのに貴方たちにばかり、育児を押し付けるのはよくないわ。私達も協力するから、まだまだ頼ってね」

日和「お母さん、ありがとう。…覚、本当に大丈夫?」

覚「あぁ。俺らもちゃんと灯里の面倒は見ていくから。お前もあまり気を負うな」

日和「ありかとう。皆…ありがとう」


日和は声を震わせながら深く頭を下げると、愛美が傍に寄り日和の身体を抱きしめた。


2ヶ月後、颯多が夏季休暇に入り、アルバイトに行っている間、日和は灯里を颯多の母親に預けて、実家に帰ってきていた。


覚「おかえり。上がれよ」

日和「あぁ久しぶりだぁ。やっぱり落ち着く。もう外暑くて嫌だよ」

覚「下高井戸どうだ?」

日和「落ち着いたよ。灯里はまだ慣れない感じがあるけど、寝れる時は寝ているから大丈夫だよ」

覚「灯里、夜中や明け方とか起きたりしないか?」

日和「たまにある。思っていたより、夜泣きしない方で助かっているよ。お母さん買い物だよね、遅いな…」

覚「これ、長野の親父から桃送ってくれたんだ。食べるか?」

日和「うわっ箱いっぱいだね。食べようかな?私皮剥くよ」


日和は台所で桃を水道水で冷やして、皮を剥き、包丁で切って皿の上に乗せて、ソファのテーブル台に置いた。


日和「いただきます。…うん、甘くて美味しい。瑞々しいね。」

覚「お前、桃好きか?」

日和「うん。大好き。灯里に食べさせたいけど、まだ完全に食べれないんだ。」

覚「何個か持って行けよ。颯多にも食わせてやれ」

日和「うん…ふふっ幸せ」

覚「美味そうに食うなぁ」


日和が桃を口に咥えると覚はそれを見て鼻で笑い、日和が振り向くと、覚は日和が桃を食べたまま、日和の唇にキスをして、食べかけの桃を咥えて彼はそれを食べた。覚が改めて皿の桃をフォークで刺して食べると、日和は彼の肩を無言で叩いて、お互いに顔が綻んでいた。


季節は10月。午前8時、日和は灯里をベビーカーに乗せて、自宅近くの保育園へ登園し、担当の保育士に引き渡すと、来た道を戻って行き、下高井戸駅の最寄りにある商店街の小さなスーパーへ出勤した。


貴重品をローカーへ入れて鍵を掛け、店頭のレジ台へと入っていった。レジ打ちの作業を6時間行い、退勤してから、再び保育園へ直行した。


15時になり園内の玄関へ入っていくと、灯里の姿を見つけて、保育士に声を掛けた。挨拶を済ませると、灯里に声を掛けながら、自宅へ帰って行った。


夕食時、颯多は日和に保育園での灯里の様子を気に掛けて話をしていた。


颯太「入園してから1か月だろ、ぐずったりしていないかな?」

日和「先生から聞いた話だと、他の子達の中に居ても、あまり泣かないみたいだよ。保育園気に入ったのかなってさ」

颯多「それならいいけど、日和もバイトも始めたばかりだし、保育園と併せて切羽詰まってないかなってさ。」

日和「まだ始まったばかりだからそんなに根詰めてないよ。今私楽しいもん。」

颯多「何かあったら直ぐ言えよ。日和、自分で抱える癖があるし。俺も内定が決まったから、ほとんどバイトの方に時間使っているけど、本当は俺も休み入れたいんだよ。」

日和「そうはいかないよ。颯多にはガンガン働いてもらわないと。ねぇ灯里」

灯里「うぅ…あー。あっ」

日和「ほら、言っているよ。パパ頑張れって」

颯多「そうかぁ?なあ灯里、パパにタッチして…駄目だ、ご飯止まらないこの子」

日和「うわっ、床いっぱい落としてるし。灯里、ちゃんと食べようよ」


日和は灯里が食べこぼした物を布巾でふき取り、改めてスプーンを持って灯里にご飯を食べさせた。颯多が灯里の頬を人差し指手で突くと、灯里は手足を振りながら笑って場を和ませるように微笑んでいた。


11月。灯里の誕生日の前の日。空が赤褐色と灰色の低い雲で覆われている夕刻の時だった。


覚は外勤の帰り道、渋滞する道路に暫く立ち往生の状態で車内で待っていた。

暫くすると携帯の電話が鳴り、中を開くと非通知着信が来ていたがそのまま出てみると、聞き慣れない女性の声がした。


女性「…」

覚「あの…どちら様?」

女性「帰って…」

覚「えっ?」

女性「早く…日和の所に帰って」

覚「もしもし。愛美か?誰?」

女性「…」


その時だった。


前の停車していた材木を積んだトラックが反対道路の車と接触してきて、強い衝撃音が辺りを響き渡り、その反動で覚の車のフロントガラスに材木が勢いよく叩き割って突っ込んできた。


ハンドル操作も取れないくらいの物凄い勢いで来たため、身動きが取れずに、覚はそのまま材木に身体ごと貫通し、後部座席の窓ガラスの一面が一気に血まみれになった。


歩道橋を渡る人々がやがて多くの人だかりとなり、辺りは騒然となっていた。


数十分後、警察車両や救急車が到着し、救急隊員達が車内の中に居る覚を運び出して、病院へと運び込まれた。医師や看護師らは損傷した身体の状況から見て、覚は即死となり、そのまま帰らぬ人となった。


事故から1時間ほど経過してから、愛美の元に警察から電話が来た。日和と颯多にも連絡を取り、全員で警察署へ行き、事故の状況を聞いた後、遺体が監置された病院へそのまま向かった。


安置室へ入ると、白いシーツに包まれる覚の遺体があった。顔を確認した後、覚本人に間違いがない事が判り、安置室から出て看護師から、身元の確認が取れた事で、愛美は死亡届を出す様に促した。


2日後、長野から敏樹も来て、通夜の晩、葬儀場で敏樹は棺の中で穏やかに眠る覚の顔を暫く見つめていた。

覚の葬儀はしめやかに行われ、全ての工程が終わり、式場から自宅に帰ってきてから、時刻は17時を廻っていた。


祭壇の前に覚を囲む様に皆で座り、雑談を始めていた。愛美は日和と覚の関係を持った経緯も話すと、俊樹は静かに頷いた。


日和「覚は長野に居た頃、どんな人だったの?」

敏樹「口数の少ない子だったが、素直な所もあったよ。学校のクラスに馴染めない事もしばしあったけど、勉強は出来た方だった」

愛美「あまり昔の自分の話をする事はほとんど無かったわね」

敏樹「あいつは昔、自殺願望が強い時期が一時あって。俺と母さんでなんとか引き止める事はできたから、更正してくれるのかと、期待していたよ。上京してから20数年経って落ち着いた年頃かと思ったが。ただこんな結末になるなんて…予想もしていなかった」

颯多「愛美さんと別れようとしなかったのはどうしてですか?」

愛美「何かを守りたかったのかもしれないわね。もしかしたら、それが灯里の為だったかもしれない」

敏樹「よく口にしていた事があったな…」


俊樹は覚の中学生時代を振り返り、車を走らせる中、長野の農地に広がる雪一面の景色を眺めながら次の様に呟いていた。


覚「父さん、どうしてここには海が無いの?」


敏樹「…それが口癖だった。」

日和「だから、前に私と糸魚川の海を見に行った時、ずっと地平線の方を眺めていたんだ」

敏樹「親不知か?」

日和「はい。」

敏樹「糸魚川の海岸沿いは家族でよく通ったよ。あいつ1番焼き付いていたんだな。だから、日和を連れて行ったのかもしれんな」

愛美「お義父さん。遺骨の事ですが…」

敏樹「あぁ。私の方で引き取るよ。母さんと一緒にしておく方があいつも安心する」

愛美「最期の最後まですみません。よろしくお願いします。」

敏樹「灯里を抱っこしても良いか?」

日和「良いですよ。…灯里、おじいちゃんだよ」


灯里は敏樹の顔を見て、優しく笑っていた。


敏樹「どういう形であれ、灯里をこの世に残す事は宿命だったのかもな。覚は自分が生きていた証を残したかったのかもしれんな。」


更に2日が経過した日、愛美と日和は敏樹を見送る為、東京駅の構内に来ていた。


愛美「お義父さん、それじゃあこの遺骨と位牌を渡します。向こうでもお義母さんによろしく伝えてください」

日和「気をつけて帰ってね。来てくれてありがとう」

敏樹「2人とも、覚の分まで長く生きるんだぞ。日和もいつかけじめを付けなければならない日が来る。灯里を、周りの皆を大事にしなさい」


俊樹はそう告げると新幹線車両が停まるホームの改札口を通り、背を向けたまま、2人を後にして、長野に帰って行った。日和と愛美も途中まで電車でそれぞれ自宅へ帰って行った。日和が自宅へ着くと、颯多が灯里を寝かしつけていた。


颯多「おかえり。おじさん見送れた?」

日和「ただいま。うん、遺骨と位牌も持って行ってくれた。長野に着いたら、お母さんに連絡してくれるって」

颯多「おじさんに色々話したのに、落ち着いて聞いてくれたよね。なんか凄いなって」

日和「貫禄?」

颯多「それもある。覚さん、灯里を残してくれた事、決して罪じゃないんだってさ」

日和「そうだよ。灯里は私達の為に生まれてきてくれたんだよ。この子に感謝しないとね」

颯多「灯里の誕生日、遅くなったけど…ケーキとか買っていこうか?」

日和「うん。そうしよう」


颯多は日和が俯いている姿に気づいて彼女の顔を見ると、ボロボロと涙が零れていた。


颯多「日和、大丈夫か?」

日和「ごめん…覚の事が頭の中に浮かんできて。急に涙が出てきたの」

颯多「覚さん、ちゃんと供養できたし。あの人だって、日和の事見ていてくれてるよ」

日和「今でも彼の事分からない所があるの。何かもっと気付いてやれれば、こんな事にならなったはず。」

颯多「いつまでも引きずるのは良くないよ。俺らが、皆が居るから背負い込まないで。な?」


颯多は日和の両手を握りしめて、暫くの間、彼女が泣き止むまで静かに見守っていた。


2人は着替えた後、灯里を連れて近くのケーキ店へ行き、15号の苺のケーキを購入した。商店街でも買い物を済ませて、自宅へ帰ると、颯多は誕生日用の飾り付けを壁に貼り、日和もケーキやオードブルをテーブルに並べた。


灯里を椅子に座らせると、ケーキにロウソクを立てて、歌を歌い、3人でロウソクの灯を吹き消した。2人が拍手をすると、それに合わせるかの様に灯里も手を叩く真似をした。一眼レフのカメラで写真を撮った後、食事をし始めた。


灯里は手づかみでオードブルの品を嬉しそうに食べて、2人は時々ガーゼで顔を拭いてあげながら、一緒に食卓を囲んだ。後片付けが終わり、灯里をベッドに寝かせると、2人はケーキとコーヒーを食した。


日和「あとは、来月のクリスマスか。なんか忙しいね。」

颯多「そういうものだよ。どこの家でも皆同じだよ。俺、25日なら休み取れるから、その日にクリスマスパーティーしよう。」

日和「またケーキ予約しないとね。私吉祥寺のケーキ店で行きたいところあるから、そこに予約しようかな。いい?」

颯多「うん。任せる。灯里も楽しみだね」

日和「颯多」

颯多「何?」

日和「ありがとうね。覚の事も受け入れてくれて」

颯多「あの人の為にも、灯里を育てていかないとね。」


少しずつだったが、颯多もそれなりに覚の思いに理解を示していこうと、決心した様子を伺う事が出来て、日和は皆で共に生きる覚悟を決めていた。


12月に入り、日和は仕事の休みを利用して、灯里を連れて愛美の自宅へ来ていた。玄関の鍵を開閉して、中に入ると誰も居ないはずの居間から物音が聞こえた。灯里が何か言いたそうな声を出したので、居間へ向かうと、そこにはもう居ないはずの覚の姿があった。


覚「おかえり。灯里連れてきたんだ」

日和「ただいま…今日仕事は?」

覚「早く上がれたんだ。さっき帰ってきたところ」


2人が話していると、灯里が覚の方に身を乗り出す様に動いていたので、覚に灯里を抱かせた。彼は優しく微笑むと、灯里も彼の頬に触れて笑っていた。


覚「日和」

日和「何?」

覚「ありがとう」


覚はそう言って再び灯里を日和の元に返し、玄関のドアに立ち、タバコを吸ってくると行った。日和は上着を羽織って欲しいと尋ねると、必要ないと返答し、扉を開閉した。暫くすると、愛美が帰ってきた。


愛美「あら、来てたの?」

日和「お母さん、今家に覚が居たの。タバコを吸ってくるって外に出て行ったけど、彼に会わなかった?」

愛美「外には誰も歩いている人は居なかったわよ。どうしたの?何か見たの?」

日和「そっか。…そうだよね、誰も居ないよね」


それから4年後。8月の猛暑が続く青空の下、日和は颯多と灯里を連れて長野の敏樹の元を訪れていた。


4人は覚が眠る斎場の墓場に来て、車から降りると、灯里が走り出したので、それを追いかけるように跡を追った。

墓石の前に仏花と果物を添えて、手を合わせた。

斎場の麓から見下ろす、平野の景色を眺めながら、再び車に戻り、俊樹の自宅に向かった。


日和「灯里、汗拭いてあげるからおいで」

灯里「嫌。パパと遊ぶ」

颯多「俺が拭くよ。灯里、おいで」

灯里「自分で拭く…囲炉裏まで追いかけっこしよう」

颯多「おい、待てって。足元気をつけなさい」

敏樹「今日は随分元気だな。あれだと後でバッタリ寝るな」

日和「おじさん、すみません。今連れてきます」


囲炉裏の居間まで、廊下を走って行った灯里を追いかけて、颯多が再び居間へ連れ戻した。


敏樹「灯里、スイカ食べるか?」

灯里「食べる!」

日和「私、スイカ切りますね…灯里、座って待っていて」

灯里「はーい」


日和がスイカを等分に切り分けて、皿に乗せて、テーブルに出すと、灯里がスイカに手を伸ばして掴もうとしていたので、颯多が皿に取って、灯里の下にスイカを渡した。


灯里は大きく口を開けてスイカを頬張ると、皆がそれを見て微笑んだ。

スイカを食べ終えた灯里はうとうとと首を頷き出したので、日和は襖の押し入れから布団を取り出して、灯里を寝かしつけた。


敏樹「大分はしゃいでいたからな、あの子」

日和「長野も今年は暑いですね。さっきも日差し強かったし、日焼けしそうな感じだったし」

颯多「日和、まだ顔が赤いな。タオルで顔冷やしたら?」

日和「そうだね、そうする。あっつい…」

颯多「去年の3回忌も取り行ったんですよね、行けなくてすみませんでした」

敏樹「いや、良いんだ。皆んな忙しかっただろう。逆に来なくて良かったよ」

日和「灯里、おじさんに会いたいって口うるさく言ってたよ。」

颯多「覚さんにもお参りしたいって駄々捏ねていたよな。家の写真をじっと眺めてさ、いつ長野に行くのってしつこいくらい言ってきてましたよ」

敏樹「覚が亡くなったて4年か…愛美さんも落ち着いただろう?」

日和「はい。今頃は工場にいます。工場の人達も、相変わらず賑やかですよ」

敏樹「日和。…あいつへの気持ちは落ち着いたか?」

日和「はい。大分…」

敏樹「灯里を見てると、俺も幼少期の覚を思い出すよ。一人っ子だったから、親戚の人達も可愛がってやってたな。」

颯多「覚さん、灯里の事、今でも見てくれていますよね?」

日和「颯多…」

敏樹「見ているに違いない。父親は2人。今のうちはそれが一番良いのかもしれんな。颯多も父親らしくなってきたな」

颯多「僕も精一杯頑張ってます。あの子には、沢山教えてあげないと行けない事もあるし。」

敏樹「子どもは親や大人達の知らないうちに色んな物を見て知って成長していくからな。しっかり見守っていってやれ」

颯多「はい」


翌日の朝。日和と颯多は敏樹に挨拶をして別れた後、灯里を車に乗せて、長野駅へと向かった。駅に到着し、レンタカー会社に車を返した後、構内の改札口を通り、ホームで待っていると、東京行きの新幹線が着いた。

乗車頃、直ぐに出発し、やがて東京駅に着いた。


自宅に着き、荷物を置くと灯里が眠そうに颯多の脚にしがみついてきた。灯里をベッドへ寝かせてタオルケットをかけると、直ぐに眠りについた。


日和「灯里、余程楽しかったんだね」

颯多「うん。連れていけて良かったよな」

日和「暫くはこの子も静かにしてくれそうだね」


お盆が明けると、日和と颯多はそれぞれ仕事に出向いていった。

15時を過ぎた頃、人気も次第に歩道に歩く姿が見え始めていた。


日和は保育園に行き、灯里を連れて、家路へと向かっていった。保育園で覚えた歌を2人で歌いながら、歩いていると、後方から車が出てきたので、灯里を歩道の脇に寄せて、車が通り過ぎた後、再び歩き出した。


数日後、日和は愛美の家に灯里を連れて行き、2人で愛美の帰りを待っていた。日和がトイレに行っている間、灯里は1人、覚の仏壇の前にある写真を眺めて呟いていた。


灯里「お父さん…ん、パパ?」


ベランダの窓から涼しげな風が入ってきて、レースのカーテンが灯里の身体にまとわりつく様に触れてきた。


日和「灯里。窓開けちゃ駄目だよ。エアコンつけているんだから」


日和は窓を閉めて、灯里をソファに座らせた。日和も仏壇に手を合わせて長野に墓参りに行った事を心の中で伝えた。やがて、愛美が帰ってきて、3人で会話をし始めた。


残暑の季節が例年通りに訪れて、日和は家族でつつが無い日々を過ごしている事が、何よりの幸せを実感していた。


きっと今頃、彼もまた、平穏に何処かで暮らして見守ってくれているに違いない。


そう思いながら、安穏の意を込めて祈祷した。


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翼のない鳥たちは何を見たか。 桑鶴七緒 @hyesu

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