第3話 貴女の祈る意味

 聖域の外れ、寂れた教会の夜。うちの修道院もかなり年季の入った建物だが、まだ修道士たちが院内を綺麗に保っている。ここの教会はさらにたちが悪い。辛うじて教会内はまだ明るかったが、修道院に隣接するあの荘厳な教会とは違い、埃っぽくて、かつて立派であったステンドグラスもくすんでいるため、白く差す月光もどこか眩さを失っている。

「ここにいたんですか、シスター」

 あの葬儀の日と変わらない台詞。しかし、その声に反応する少女の声は、以前のようにすぐには帰ってこなかった。

 俺の視線は、目の前で座り込むシスターに注がれていた。埃をかぶって並ぶ長椅子ではなく、大理石の床にぺたりと足をつけて、彼女は背を向けていた。背に垂れ下がる金色の髪が、淡い月光に照らされて、美しく映えている。

「……なんで」

 彼女の震えた声がする。

「……」

 彼女の問いに答えることに、一瞬ためらいを覚えた自分がいた。そんな今までの自分を殺し、俺は答えた。

「まず、謝らせてください。俺が、シスターのこと、気づいてあげられなかった。だから、貴女一人で抱え込ませてしまった」

 今朝、與曽井と話して、ようやく気付くことができた。彼女の気持ちを、一方的に推し量るにとどまっていた。一人、彼女が執着心と愛情の間で葛藤することも気づかずに。

「田之倉さんは、悪くないです」

 ゆっくり、彼女は呟いた。悲し気な声だった。無力感に苛まれたような、儚い声。

「誰も、悪くないのです」

 自分自身に言い聞かせるように、彼女は呟いた。

「少し、耳を貸してくれますか?」

 返答はなかった。

「俺が円珠院に届けたものです」

 俺はズボンのポケットから、小さな巾着を取り出した。薄紅色に梅の花があしらわれた、可愛らしい巾着。円珠院で與曽井から借りたものだった。じゃらり、と、中で何かが揺れる音。

「中身、何だったと思いますか?」

 蝶々結びを解きながら、俺は彼女に問いかけた。返答はない。するりと紐を説き、袋からビー玉のような小さな水晶を一つ摘まみ出す。

「魂一つを保護する結界の術式の種です。うちの院長、ああ見えて凄い人なんですね。他の寺院にも力を貸していて。見直しましたよ」

 こういうときにも、冗談交じりの口調になってしまう自分自身の肝がしれなかった。相変わらず、シスターは俺の言葉に静かに耳を傾けるだけ。漂う緊張感に反していると周知していながら、俺の言葉は続く。

「それに、與曽井から聞きました。時々、円珠院に結界の話を聞きに行ってるって」

「永蘭ちゃん、が……?」

 彼女は、思いがけぬ友人の名前を聞き、驚いた様子で口を開いた。ゆっくりと体を捻らせ、こちらを伺おうとする。肩にかかった金髪がはらりと垂れ、彼女は初めて表情を見せた。

「この結界で保護されていたレイラの魂を、貴女は持ち出した。結界の仕組みをきちんとわかっている貴女なら、これを扱える」

 目を見開いて、今にも泣きだしそうな顔で、彼女は俺を見つめていた。

「……認めたくなかったんでしょう、レイラの死を」

修道服のスカートを握りしめた手が震えていた。とても脆く、触れたら一瞬で壊れてしまうような、そんな儚くも寂しそうな姿であった。

「わかっています。わたくしが、なそうとしていることが、戒律違反であること。だけど、レイラが死んだこと、きっと嘘だって、心のどこかで思っていた。だって、あんなに、元気だった」

 途切れ途切れに言葉を吐き出す彼女。頬を伝った一筋の涙が、彼女の手の甲へと落ちた。

「あの日、田之倉さんと戦っていた怪獣を見て思ったのです。肉体さえあれば、レイラを取り戻せるって、だから」

ぱんっ

 突如、彼女の言葉を遮って聞き覚えのある怪音が鼓膜を突く。その音にシスターはびくりと体を震わせ、目の前を凝視する。一瞬にして、座り込んだシスターの前方に、この前と変わらないあのゲートが生まれた。俺は咄嗟に錫杖を構える。

「いやあ、ご名答ご名答。流石『番犬』の田之倉響だ」

 その禍々しいゲートから聞こえる、若い男の声。あの日、鉄骨怪獣を倒したときに聞いた声と同じ声だ。

「番犬……?」

 そう呼ばれた覚えは全くなかった。しかし、俺の名前が同時に呼ばれた以上、それが通称であることに気づく。

「自警団とは別にオカルトを倒し続ける、聖域の一匹狼。ついでに耳もいいから、番犬って、一部じゃそう呼ばれているのさ」

 すると、ゲートの奥から白い服の人型が姿を現す。身の丈に合ってない白衣を引き摺りながら、その男は告げる。

「お前か。シスターに悪いことを吹き込んだのは」

 錫杖を構えたまま、俺は目の前の白衣に問う。

「悪いこと?俺は彼女に協力してあげだけだよ」

「局の人間が聖域にいることは周知してる。実際、聖域全体が局の管理下にあるわけだから」

 

「四十三郎を君が倒したとき、たまたまそこのシスターを見つけた。随分悲しそうだったからその後を追ったら、彼女から持ち掛けられたのさ。魂があれば、人を蘇生できるかってね」


「ここは純度の高い魂が多い。俺もちょうど研究の為にそんな魂を探していたところだったからね、協力してあげたってわけ」

その小柄な体格にしては大きな態度。こちらを挑発するような口ぶりが、俺の内側の苛立ちを募らせていった。

「結界は、外からの干渉を防ぐ。人同士の繋がりも外より希薄だから、噂話も立ちづらい。だけど」


「その気になれば聖域内で作ることができる。結界の内側にいれば、魂に反応できませんからね」

「君の言う通りだ。俺はオカルトを持ち込んだんじゃない。聖域の中で作り上げたんだ。どうやってできたか、もうわかるだろう?」

「……シスターの、想像力」

 俺の言葉に、その男は満足そうに笑みを浮かべる。

 シスターの、レイラがまだ生きているという強い思い込み。その思念を利用し、あの白衣はオカルトを作り上げた、ということか?にわかには信じがたかった。しかし、俺の傍らで俯いたシスターの姿を見る限り、それが真実であることに間違いないようであった。

「彼女には感謝してるよ。これぞウィンウィンってやつ。俺は魂の研究ができて、彼女は最愛の妹と再会できるんだからね。自信作さ」

 両腕を大きく広げ、その男は感嘆の声を漏らす。その自信に満ち溢れた表情の背後、ゲートの中で何かが蠢く。やがて漆黒からもう一つの人型が現れる。ぎしぎしと、関節を鳴らしながら。

 自信作、と称されたそれは、以前と変わらない鉄の塊である。しかし、それは二本の足で、地面をとらえていた。そして、傍らには、人型よりも大きな棺桶。

 その人型は、バグまみれのコンピューターのように、ぎこちなく首の関節を動かし、振り向いた。ありえない方向に曲がった首と体と共に、真っ黒いスカートとシスターベールがふわりと広がり、辺りに黒く得体の知れない何かを振りまく。

 そして、ベールの下から微かに覗いた、短い髪の毛先。

 見間違うはずがない。その鉄の塊は、器用にレイラをかたどっていた。

 驚きを隠せないのは、俺だけでなかった。

「……な、」

 鉄の塊と化した妹を見上げ、シスターは言葉を詰まらせる。

「まってください、はなしが、ちがう」

 乙女の声が、震えている。ずしり、と銀色の棺桶を引き摺りながら重い足を進める嘗ての妹に、シスターは身を後退させる。震える両手で、必死に大理石の床を掴みながら。

「話が違う?貴女の早とちりだ、シスター・アイリス」

 白衣の男は、高らかに笑った。静かな教会に、よく響く声だった。

「どうして、レイラは、器があれば元に。戻る、って」

 たどたどしい言葉を呟いた。

「この器は俺の傑作。中にはオカルトも宿っている。あとは貴女の持つ彼女の魂と融合さえすれば、彼女は完成する」

 そういいながら、その男はシスターに一歩一歩歩み寄る。

「純度の高い魂に、純度の高い思念体。そして、強靭な体。これほど美しいオカルト、そうそう作れないよ」

「シスター、逃げて」

 しかし、彼女は動かなかった。その場に硬直し、かつての妹を模した人型を呆然と見つめるばかりであった。

「邪魔はさせない。折角作ったんだから」

 至極当たり前のことのように、その男は答えた。しかし、その目は笑っていなかった。

「行け」

 男のその短い言葉に反応したのか、鉄人は棺桶を引き摺りながら、シスターをめがけて駆ける。鉄人から彼女まで、距離は短い。

「シスター‼」

 俺は叫んでいた。そして、鉄人とシスターの間に体を割り込ませ、鉄人に体当たりをかます。俺のタックルで鉄人は後退したが、すかざす体勢を整え、標的をこちらに定め直す。こちらもすかさず錫杖を握り直し、再び襲い掛かる鉄人の腹を目掛けて思い切り薙ぐ。しかし、その超重量を薙ぐことは叶わず、鉄と木が拮抗するばかりであった。みし、と木の軋む音。流石に、錫杖にも限界がある。俺は、塞がった両手の代わりに右足を上げ、奴の腹に蹴り込む。

鉄人の目の前で戦々恐々とするシスターに、

「下がってて」

 そう声をかけたのも束の間、奴はまたも素早く体勢を切り替え、棺桶を構え直す。一秒たりとも油断はできない。奴の足が動いた音を、決して聞き逃すことはできない。

「どうして君は戦うんだ?俺にはわからないなあ」

 野次馬のように、白衣は叫ぶ。切羽詰まったこちらを嘲るように。

「救いなんてない。君ならわかっているはずだろ?」

 奴の声が、俺の耳を妨害する。その嘲笑に、俺の腕が一瞬鈍る。確かに耳に届いていた鉄人の音は、俺の思考をすり抜ける。鉄の塊とは思えない、しかし、それでも躱せる速さのはずだった。まずい。そう思った刹那、棺桶によって、俺の身体は薙ぎ払われる。腹部に伝わる、痺れるような痛み。それを感じる間も短く、教会の朽ちかけた壁に打ち付けられ、背中から全身に激痛が走る。

「田之倉さんっ‼」

 シスターの悲痛な声が聞こえる。床に倒れた俺の身体を何とか持ち上げようと、腕を立てる。俺の頭の先で、ぎしぎしと、鉄が擦れる音。痛みを伴いながら首をもたげ、相手の様子を伺うと、鉄人はその場から動けずにいたシスターを次の標的としているようだった。

「れいら、やめて。めを、さまして」

 泣き声に入り混じったシスターの声は、その鉄人には響かない。彼女の乞う声に構う素振りもなく、ゆっくりと、嘗ての姉の元へと歩み寄る。

 それは、残酷な音だった。

「許せないよな」

 不意に、笑みが溢れた。それは、自嘲とも、嘲笑いとも思える笑みだった。

 身勝手で、自己満足な俺のエゴを、彼女は優しさで受け止めてくれた。その優しさのように、俺はこの聖域のエゴを、彼女の願いを受け止める。傲慢ならそれでいい。欲望と人間を切り離すことなんてできやしない。それなら、守る価値がある。愛おしいと感じられる場所だから。

「なあ、知ってるか?」

 俺の声に、シスターと白衣がこちらを向く。俺は、痛みの引かない体を起こし、錫杖を支えにして立ち上がる。

「ここの人間はな、救われるために毎日懲りずに祈祷して、見たこともない神に縋ってる」

 一歩ずつ、鉄人の方へと足を運ぶ。足を上げるだけで引きちぎれてしまうと錯覚するほど痛い。それでも、止めることはできない。

「おかしいと思わないか?化物なんてそこら中にいるのに、神は姿すら見せない。哀れで、滑稽で」

「ほら、君もそう思って、」

「だけどな」

 白衣の声を遮り、俺は声を張り上げる。教会の空気が揺れ動いたのを感じた。

 ふつふつと、身体の内側で憤りが燃える。引き攣った口角。錫杖を握る右手の甲に、骨がくっきりと浮かび上がった。

「誰かが守らないと、神が奴らを救う前に奴らは死ぬ。ここはそういう街だ」

鉄棺が軋む音。関節の擦れる音。鉄人が再び戦闘態勢に入る。

「だから、そいつらの理想が叶うまで、聖域の人間を救う。それが、俺がここで戦う理由。これで満足か?」

 真っ直ぐに、目の前の鉄人を睨みつける。鉄人の背後で、俺の言葉に、忌々しげに反応をする白衣。

「果てがない。きりがない。簡潔にいって、無駄だ」

 

「ここで君も処分されてくれ。君たちの言う、神聖な力ってのでさあ‼」

 白衣は目をかっと開き、叫んだ。そんな声と同時に、鉄人は大理石を蹴り上げ、こちらに突進する。大理石がめり込む音。

「ハッ、それのどこに神聖な力がある?唯のパチモンだ」

 俺は白衣の言葉を一蹴し、肩に掛けていた錫杖を大きく振りかざす。しゃんっ、という聞きなれた小輪の音と、軋む鉄の音が重なった。音が重なり、生まれた大きな波。その衝撃に、鉄人は一瞬怯んだ。

「もう、悲しませない」

 レイラ―――基、その文字通りの鉄人は、明らかにオイルの足りていない関節を酷使し、手に携えた大きな棺桶と共にこちらに走り寄って来た。ぎしぎしと鉄の軋む音が耳を劈く。何度聞いても耳障りな音である。

 俺の耳元で、ちり、と安っぽい音と共に鈴が揺れた。俺は、大理石の床を蹴り上げる。目の前に迫る鉄人。奴が棺桶を構えたのも間に合わず、奴の身体に錫杖の先端が突き刺さる。その鋼の身体は軽々と吹っ飛び、教会の奥に聳え立つオルガンへ打ち付けられた。

 その動きを見逃さなかった白衣は、声を漏らす。

「なんだ、お前…?」

 その声は、驚きを隠せないようだった。無理もない。何せ、今俺は音で奴の身体を吹き飛ばしたのだから。

 耳元の鈴。かつて両親が腕のいい武器職人に作らせた、俺自身の聴力と周囲の音の制御器。その鈴がなったときが力の放出する絶好の機会。

鉄人は、打ち付けられた体を何とか起こし、棺桶を引き摺りながらこちらに向かう。しかし、スピードはさきほどよりも速くない。奴のそのボディにも限界があったらしい。こちらに近づくたびに、いくつかの鉄くずが欠けてゆく。

鉄の軋む音が変わった瞬間に行動が切り替わることを分かってさえいれば、それの攻撃をかわすことは容易だろう。しかし、隙を突かれて鉄人の身体を悠に超える大きさの棺桶で殴られれば、ひとたまりもない。もう二度と、あの鉄棺を食らうことは御免だ。

 錫杖を地面に叩きつけ、衝撃波が教会の床を伝わる。円心状に広がった波は鉄人の足へ直撃する。しかし鉄人はそんな衝撃を食らっても体制を変えずに、鉄で固められた足を前へと動かす。

 戦いながら、目の前の少女の強さを実感する。スクラップを無理矢理人型に押し込めたような化け物。棺桶を振りかざすたびにふわりと広がるシスターベール。シルエットが似通っているだけで、レイラとはまるで違う。俺の知る彼女は、こんな野蛮な少女ではない。利口で、面倒見が良くて、愛想のある幼気な少女。

 もしかしたら、そんな彼女の姿さえ、過去の俺が見た理想なのかもしれない。無意識に切り取った、俺の都合と理想のスクラップ。しかし、今は隣にシスタ―がいる。だから、俺は自分の心を、言葉を、音を信じることができる。

 俺の正面に突っ込む鉄人。両手で大きく振りかざした棺桶。一瞬、彼女の動きが止まる。ぎしり、と関節が軋む音。もう二度と、その姿で攻撃なんてさせない。その音が止む瞬間を狙って。彼女の胸元、偶然にも銀色の鎖が絡み合い交差したその隙間。

「—―――――ッ‼」

 ぢゃんっっっ‼

その一瞬の隙間を目掛けて、錫杖の先端を突き刺す。真鍮製の小輪の音が教会内に響く。先端が刺さったその一点から、大きく衝撃波が生まれる。波打った鉄の身体は、棺桶から手を離し、後方へ吹き飛んだ。どすり、と鈍い音と、遅れて棺桶が着地する音。

その鉄の身体は、身体を持ち上げようとする。しかし、その肢体は、仰向けに倒れ込んで上手く腕を立ち上げることができない。そして、充電が切れたかのように、動かなくなった。

あの体の中身、オカルトを倒したという手応えは、正直なかった。しかし、大丈夫だと、そんな予感がしていた。

「シスター」

 呼ばれて、俺の方を向いた彼女に、俺は声を掛ける。

「レイラの魂、保護してくれますか?ここ、無法地帯なので」

 涙に腫れた目を袖でごしごしと拭くと、彼女は頷いて鉄人の方へと立ち上がって駆け寄る。あのことは彼女に任せていいだろう。

「さて、あとはお前か」

 俺は、錫杖を肩に掛け、白衣の方を向いた。白衣は、呆然としてこちらを見つめ、やがて力が抜けたように膝から崩れ落ちる。

「……そんな、人形が、倒された……?」

 その声には様々な感情が入り混じっていた。憤慨、焦燥、恐怖、思惑。混濁した激情を吐き出し、男は座り込んだまま後退した。人形、という愛らしい言葉は一種妄言のようにも聞こえたが、それを真実だと信じ疑わない奴の顔によって、その鉄人があたかも人であるかのように思える。しかし、

「お前が作った人形だろ。仲良くあの世行きか?」

鼻であしらい、俺は嗤った。もはやあれはレイラではない。だってレイラはもう死んだのだから。ただの、レイラに似ても似つかない形骸だ。

 奴を殺す気なんて毛頭なかった。しかし、冗談のつもりで言った言葉を、奴は真に受けたらしい。俺の言葉を聞くと、そいつはひぃ、と小さな悲鳴を上げ、血の気を引いたような顔をする。そして、ポケットから取り出した小銃を横方向へ打った。ぱんっという音と共に、見覚えのあるゲートが奴を飲み込み、一瞬で消えていった。

 あの男の怒りの形相は、間違いではなかった気がした。俺は『死神』なんかではないから魂の重要性なんて知ったことじゃないが、あの魂の宿った鉄人は、奴の理想の具現だったのかもしてない。奴の、研究者としての矜持とか、固執とかに似た、彼なりの理想。しかし、それをぶち壊して悪い気はしなかった。むしろ、せいせいした。

 俺は、鉄人の傍らで祈祷をするシスターの元へ寄った。俺の足音に気づいたシスターは、顔を上げ、悲哀交じりの笑顔を見せた。

「田之倉さん、わたし」

 今にも崩れてしまいそうな彼女の笑顔。つっかえた言葉の先、溢れ出しそうになるその感情が、嗚咽にせき止められる。

 シスターの横にしゃがみ、鉄人の胴に触れる。三月の夜はまだ寒さが残っている。すっかり夜の冷たさを吸い込んだ鉄の身体は、もはやスクラップ同然であった。

「もう、無理しなくていいんですよ」

 優しく、彼女にそう告げた。その言葉を聞いて安心したのか、シスターは大声で泣いた。子供みたいに、止めどなく大粒の涙を流して。彼女は決して、その鉄人の手を離さなかった。あの日、ロザリオを握りしめていた時のように。

教会の窓から差し込んだ静かな月光が、咽ぶ彼女と鉄人を照らしていた。


 翌朝、シスターは朝食前に俺の部屋に押しかけ、頭を下げた。同室の修道士たちから訝し気な目で見られ、一瞬焦ったのは事実だが、彼女の純真さに朝からほっとした。

 昨日の戦闘のダメージが応えたのか、案の定俺の身体は悲鳴を上げていた。昨晩からあの棺桶で殴られた痛みが抜けない。主に腹辺り。昨日見た時点で、腹には大きな痣ができていた。昨晩、シスターに支えられながら修道院に命辛々帰還した俺は、腹を中心にこれでもかと包帯を巻かれ、強制的に身動きが取れずにいた。しかし、シスターが巻いてくれた包帯は、不思議と俺の心を落ち着かせていた。心配してくれた、そんな思いが嬉しかったから。

今朝も、傷だらけの俺を労わってか、シスターは食事を俺の部屋まで運んできてくれた。そして、改めて謝罪した。

「昨晩は、すみませんでした。貴方に、戦う理由を作ってしまって」

首にかかったロザリオを握って、彼女は深く頭を下げた。

俺はかみ砕いたじゃがいもを飲み込んで、話しかけた。

「頭を上げてください、シスター。俺こそ、すみません。シスターのこと、早く気づいてあげられなかった」

 彼女に心配を掛けまいと、なるべく明るい声で声を掛けたつもりだったが、彼女の反省の色は一向に抜けない様子であった。

「いいえ、わたくしの未熟さ故の失態ですもの。レイラにもう一度会いたい、などと、自らの浅はかな欲に負けた。そして、戒律を破ってしまった。それは事実です。そして、罪なんです」

 今朝から彼女の声はいつもより暗い。終始反省モードであるのは、真面目な彼女らしいといえばそうなのだが、少々気まずい雰囲気でもあった。一度会話が途絶えてしまうと、沈黙が続く。パンにかじりつきつつ、言葉を探す。

昨晩、彼女の理想を垣間見た。それは、果てしなく、儚い理想。幻想、と一言で片づけてしまえばそれまでだ。しかし、彼女はその幻想を実現したい、そう願い努力していたのだ。

「今朝、院長様に呼ばれましたの。事情を説明したところ、今回は目を瞑る、と言われましたわ」

 あの院長が何を目論んでいるのかは知れたことではないが、仮にも修道士たちの長である。恐らく、彼女の心理状況を鑑みた上での判断だったのだろう。何せ、動機は彼女の憂慮である。今回ばかりは、あの院長にも感謝しなくてはならない。

「よかったじゃないですか。ここを追い出されることはないですよ」

「ですが……」

 うつむいたまま、言葉を濁す彼女。

「シスターは利用されただけですよ。悪いのはあの局の白衣です」

「そんなことありませんわ」

 今彼女に慰めの声をかけても、彼女の自責の念に悉く否定されてしまう。彼女の口から、全否定の言葉ばかりが飛び出る。

「私が、レイラの死を受け止められなかったから。願いを、叶えようなんておもったから。田之倉さんだって聞いていたでしょう?あのことは、わたくしが持ち掛けたって」

 信仰して、結界の勉強もして、誰よりも真摯に人々と向き合って。そんな彼女の夢を、欲望だの幻想だのと切り捨てられてほしくなかった。

「ねえシスター」

「……はい」

俺は改めて彼女と向き合う。彼女はやはり顔を伏せたままであった。後悔の色を浮かべながら。

「戒律と家族、どっちが大切ですか?」

 俺が問いかけると、シスターは初めて顔を上げた。えっ、と声を漏らし、こちらを呆然と見つめている。

「えっと、それは……どちらも大事、ですが」

「強いて言うなら」

「ふぇ」

 シスターは、動揺した声を上げつつも、

「……家族、でしょうか」

 胸元のロザリオを握り直し、恐る恐る答えた。

「私は、神に身を捧げた身です。だから、この身が滅びたって構わない。だけど、やっぱり、家族を失うのは、大切な人を失うのは、戒律を破ってでも防ぎたいのです」

 今日一番、凛とした声で、彼女はそう言った。

「勿論、田之倉さんだって家族同然だから」

 その言葉に、一瞬心臓が止まるかと錯覚する。

「貴方がいつもわたくしのことを気にかけてくれること、とても嬉しいのですわ。ここにいていいって、そう思えるから。だから、愛おしい、失いたくないという気持ちが膨れ上がる。この場所を。ここの人々を」

 俺と目を合わせ、彼女はそう告げた。優しい微笑を浮かべながら。ようやく、彼女の心の内を知ることができた気がする。彼女の言葉に安心を覚えるのは、きっと俺や他の人だってそうなのだろう。

「多分、それがシスターの祈る意味だと思います」

 俺は、ようやく見つかった結論を述べた。

「理想がなくちゃ、信仰する意味なんてない」

 彼女の、慈愛に溢れた理想が、彼女の強い信仰心と結びついている。それが、俺の答えだった。彼女が、他人のことになると自己犠牲も厭わずに身を乗り出すことを、昨日の夜改めて実感した。

俺は信じていない。神も、祈りも。仮に神と崇められるオカルトがいて、不思議な力で誰かを救済したって、そんなの奴らのきまぐれだから。オカルトなんて、根本的に人間とは思考回路が違う(一部例外はいるとして)。

だけど、シスターは信じている。神を。祈りを。自身が掲げる、強い願いを。信仰が一種の安心材料だという価値観だって、きっと彼女を守るから。その強い意志が昨晩のようなオカルトを生み出せてしまうのなら、彼女に叶えられない理想はない、そう、確信できるほどに。

「聖域は、人々とその理想を守る為にあるんだって、勝手に思ってますよ。俺は」

例え聖域が廃れていったとしても、きっと彼女の信仰心だけは失われない。例え人々の心が廃れていったとしても、彼女の生み出す奇跡が、結界が、人々を守る。今の聖域に生きていて、彼女の純真さを見て、なぜか、そう思えた。

 それが、俺がここを守る理由になる。

「俺が守ります。この修道院も、聖域も、勿論シスターも」

 少し目を見張ったシスターに、俺は微笑んだ。

「だから、抱え込まないでほしい。貴女の理想を、俺も少しは気づいて、支えてあげられるから」

 二年前、国の徴兵活動に嫌気が刺して教会に初めて駆け込んだとき、彼女に救ってもらったことを思い出していた。あの時、彼女は言った。一人じゃない、と。その言葉は、今でも俺の心にずっと残っている。耳の奥に、ずっと響いている。

「シスターも人のこと言えないでしょ?」

 俺の言葉に、彼女は少し考えてから、

「……本当に、変な人」

 そう言って、くすりと笑った。

「いつも遠回しな言葉ばかりじゃないですか、もう」

「え、これ怒られる流れでしたか」

 予想外の言葉に、俺は少し呆気にとられた。格好つけた面目が立たない。急に恥ずかしさが込み上げて、俺は目線を落として頭の裏を掻いた。改めて感謝されることがもどかしく感じる。

そんな俺の様子を見て、彼女は安心したように笑い続ける。

「ありがとうございます、田之倉さん」

 そして、ぎゅっと、ロザリオを握り直し、彼女は目を閉じる。口元に微笑みを湛えたまま。

「聖域は、誰かと、誰かの願いを守る場所」

 一文字ずつ、その言葉をかみしめるように、彼女は声にした。

「わたくし、叶えてみせます。貴方と、皆さんと一緒に」

「わたくしには、守らなくてはいけない家族がいる。だからもう、泣きませんわ」

そういって、彼女はにっこりと笑って見せた。葬儀の日のどこか悲哀じみた笑顔とは違う。朝の麗らかな日差しに照らされた笑顔が、とても輝いて見えた。


***


 東京、霞が関の一角、二十階建ての高層ビル。夜空に高く伸びるそのビルの地下一室で、はワープゲートから抜け出し、その体と身の丈に合っていない白衣を引き摺る。疲労感に苛まれた身をソファに投げ出し、大きな溜息をつく。無機質なラボに似つかない柔らかく上質なソファは、伯井がわざわざ持ち込んだものである。その柔らかさに慰められるようにして、伯井は息を整える。そんな部下の姿に、上司であるはデスクのパソコンに視線を注いだまま、声をかける。

「大分痛い目を見てきたのかな?誰だっけ、えっと」

「聖域の番犬です。凶暴で生意気な」

 声を絞り出し、上司の言葉を補足する。一滋は回転椅子を部下の横たわるソファに近づける。粗雑に束ねられた牡丹色の髪が同時に揺れた。

「番犬、ねえ。零式で見てる限り、忠誠心なんて微塵も感じられなかったけど」

 そして、ソファに仰向けで項垂れる部下の顔を椅子の背越しに除き、

「これからも、聖域は面白くなるね。君もそう思うだろう恭介?」

 その童顔を歪ませ、にやりと笑った。椅子の背に腕をかけて笑う上司に、伯井はうんざりとした様子で答える。

「勘弁してください。折角作った人形、壊されたんすよ?」

 はあ、と大きく溜息をつく。手塩にかけて調整したシスター型の人形を、あの男は木の棒一本で破壊した。あの中に宿しておいたシスター・アイリスのオカルトまで悉く殺して。去り際に見せたあの凶悪な笑みがトラウマになりかけている伯井であった。

 実験がてら作った四十三郎、基、あの怪獣は、あの場で小手調べに軽く作ったものだから別に気にしていない。しかし、あの鉄人形は別だ。確かに、あのアイリスとかいうシスターに頼まれて急に作ったものだったから決して完璧な出来ではなかったが、それでも今持っている伯井の科学力を結集して作った努力の結晶である。加えて、純度の高い魂に純度の高いオカルト。それを壊されてしまえば、流石に心が痛い。

「研究者失格だよ恭介。失敗を恐れてどうする?」

 終始楽しそうな一滋は、絶望を露わにする伯井の頬を引っ張る。

「らっれぇ……」

 随分メンタルを引き裂かれたようである。落ち込む部下を気遣う素振りもなく、一滋は存分に彼をからかう。

 確かに、伯井はここ数日聖域のラボに籠り、何やら小細工を仕込んでいるようであった。暫くこちらに帰ってこなかったから、何かいい標的を見つけたのだろうと密かに期待をしていた一滋であったが、結果は見ての通りである。番犬とやらに散々打ちのめされた部下。その青年ともいつか相まみえてみたいものである、と企みつつ。

そして、満足したように一滋は再び回転椅子をデスクへ引き戻し、再びパソコンと向き合う。

「面白いのは聖域だけじゃない。この東京も、まだまだ知らないことで溢れているんだから。ここでめげている暇はないサ」

 彼女の見つめるパソコンのモニターには、ネット記事のサイトが複数広がっていた。どの記事も、オカルトという文字が飛び交っている。その根拠の薄い文章を何度も何度も読み返し、彼女は呟く。

「『死神』……その首洗って待ってなよ?」

 モニターに照らされた彼女の琥珀色の瞳は、暗いラボで怪しげに光る。その目線の先に、黒フードの骸骨頭を捉えながら。  《続》

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