第2話 不良の聡い耳

「なるほど。聖域内に黒いゲート、ですか」

件の院長は、真っ白な顎髭に触りながらそう呟いた。院長室の奥、ゴシック調のデスクに腰を掛けていた彼の声は、老いぼれらしく掠れていながらも威厳を纏っている。背後の簡素な窓から午後の日差しを受け、その姿は陰っていた。

 買い出しから帰ったあと、厨房へ向かったシスターと別れ、俺は院長室を訪ねた。未だ釈然としない彼女の横顔が脳裏に焼き付いていたが、聖域にオカルトが湧いた、という事態を優先しなければならない。

「加えて奇妙な音。最近は不可解な事例が多いですな」

 そいつは羽ペンを手に取り、手元に何かを書き始める。

「何か手を打つつもりでも?」

「ここの区域一帯の結界は私が管理している。結界が異常な魂に反応すれば、こちらもそれなりの対応をしよう」

 悠長にプランを述べる老爺。事態の深刻さを理解している上で話しているのであれば、随分と呑気なものである。以前から、何か企んでいる気がして、こいつは信用することができない。

「それに、オカルトが湧けば君が嗅ぎつけるだろう?その耳で」

 こちらを一瞥し、ゆっくりと笑った。

「田之倉君、そろそろその疑わしい目を向けないでくれないか?自分の立場を考え直したらどうだ」

 そして、先ほどまでとは違う、神妙な声で告げる。陰から覗く奴の鋭い眼光が、こちらを捉える。

 修道院に入り約二年、決して聡明な修道士と呼べるものではない俺がここにとどまり続けられるのは、事実この男の許可によるものだった。奴の言い分もわからなくはないが、完全に奴を信用することはできないだろう。少なくとも、お互いに詮索し合っている今の時点では。

「あんたに言われる義理はない。お互い様だろ」

 鼻であしらったが、院長は構わずに続ける。

「前から言っているはずだ。君には期待している」

 そして、より一層深刻さを増した声で、

「もう聖域は衰退の一途を辿っている。世俗化を免れることはできん。だからこそ、君のような人間が必要なのだ」

聖域の世俗化。恐らく、奴が危惧しているのは、今日の件の根底にあるこの事態なのだろう。聖域は、都市から隔てられている、言い換えれば、結界越しに都市に囲まれている、というわけだ。跳梁跋扈も甚だしい、と、聖域の人間は周りの都市を忌み嫌って、わざわざ結界が張られた聖域で暮らしているが、そいつらとの関わりを完全に断つなんてことはできない。人間がいる限り、オカルトは沸き続ける。そりゃそうだ、オカルトは人間の想像から象られ、噂話を伝って具現化していく。聖域も例外ではない。

奴の言った通り、結界は作用しているのだろう。しかし、そんな人間の稚拙な魔術程度で、人間の想像力から聖域を完全に守れるわけがない。今日のように。結界は、あくまで予防線。結界を張っているから聖域なのであって、宗教がらみの寺院が立ち並ぶ土地も他と地続き、ここが東京の一部である事実は何一つ変わらない。

 神聖な宗教寺院の世俗化。ここが人間の国である以上、そのような事態を避けることができないのは当たり前なのだろう。

「我々聖職者の時代はもう過ぎたのだ。これ以上オカルトの脅威から人間を完全に守ることはできない」

「だから、俺とか他の連中が戦って」

「君もいい加減自覚したまえ。それは事態を助長させているだけに過ぎん」

 俺の声を遮り、院長ははっきりと告げる。

「噂から生まれたオカルトを倒せば、その倒したという事実がまた独り歩きを始め、人間の悪意に利用される。そしたら」

「堂々巡り、てか?だからって放っておいて死人が出てもいいっていうのか?」

 俺の足は奴の机に向かっていた。腰を掛ける奴を見下ろす。錫杖を握る右手に力が籠った。

「そうではない。加減を覚えろ、ということだ。不必要な戦闘が火種とならないようにするためのな」

 そこで、会話は途絶えた。結界師の一人とはいえ、こいつは無責任すぎる。そして、無関心すぎる。こいつの本当の目的を知りえるまで、信頼を置くことは難しい。

 暫くの沈黙が明け、奴は口を開く。

「そうだ、田之倉君。一つお遣いを頼まれてはくれないかね?」

「おつかい?」

 なんだか小馬鹿にされた気がして、俺は眉を潜める。すると、そいつは先ほどまで書いていた小さなメモをこちらに寄越して告げた。

「他の寺院に届けてほしいものがある」



「というわけだ。はい」

 奴のいう通り、渡された小包を、俺は円珠院に届けた。出迎えた僧侶―――もとい、ここの一人娘の與曽井永蘭は、それを渋々と受け取ると、じろりと俺を睨む。

「……錫杖じゃないんですか?」

「はい」

「あの、だから錫杖は」

「はい」

「しゃ」

「はい」

「……はあ。全く、これだから不良は」

「聞こえてるぞ」

「わざといっているのをわざと返さないでくださいツッコむのも疲れるんです‼」

 早口で捲し立て、與曽井はキレのあるツッコミをする。灰色がかった桃色の三つ編みが同時に揺れた。

 彼女に託した、赤い包装紙の箱。何が入っているのか、詮索はしなかった。あの院長に余計な口を挟んで、面倒なことは避けたかったから。

「これ、二日かけてようやく届け終わったんだぞ」

「貴女会話の文脈って知ってますか?」

「でもこれ、使い勝手いいぞ」

「褒めてるつもりですか」

 げんなりとした表情で、與曽井はこちらを一瞥する。こいつのツッコミは聞いていて飽きない。俺が故意的に会話を逸らしても必ず的確な指摘をする。テンポがいい。

「修道士が錫杖を使っている事実があってはいけないこと、貴方はわかっているんですか」

 まだ優しさが残るシスターと違って、彼女の怒りは半分諦めたような怒声だ。

袈裟を着こなし、黙っていればクールで麗しい少女なのに、そのじろりと睨みつけてくる目線は鋭い。

「怒られる義理はないだろ。実際、聖域に湧いたオカルトは俺がこいつで倒してる。一昨日だって、鉄骨怪獣を倒した」

「加えて魔改造まで施して……」

「ああ、尖ってた方が戦いやすい」

玄関先での反論を諦めたのか、與曽井は一つため息をついて、俺を庫裏の一室へ案内する。

客間には、既に俺が来ることを知らされていたのだろう、饅頭と空の湯呑が置いてあった。

客間を見渡す。庫裏の一室、歴史を感じる書院造の和室。卓上に鎮座したうちの質素な修道院と比べて、日本人としての感覚が作用しているらしい、俺の心は安らいでいた。もちろん、シスターには敵わない、と心の中で呟きながら。

 俺の向かい、机の向こう側に正座し、與曽井は急須を傾ける。茶の汲まれる閑静な音が、茶の間に馴染む。

「返す気、無いんですね」

「今更これを返したところで、処理に困るだけだろ?なら使ってやった方がいい」

 畳の上に寝かせていた錫杖を手に取り、鋭く削られた棒先をくるりと回す。矛先は緩やかに弧を描き、與曽井の目の前で止まる。

 小環の音での攻撃、矛先での攻撃。この錫杖は、自分の聴力を最大限活かすことのできる、この上なく都合のいい武器である。物理法則など、この武器の前では通用しない。そういうことになっている。

一応修道士たる俺がこれを用いてはいけない、という彼女の言い分は、道理に適っていたし、俺だって全く気にしていないわけではない。現に、修道院内では必ず麻布をかけて、錫杖であることがばれないようにしているのは、俺の最大限の気遣いである。教会内でそれを見せれば、俺の居場所が危ぶまれる。まあ、それでも多少音がしてしまうから危ういのだけれど。その一方で、俺のやり方に直接意見する人間が聖域にいることに、少しだけ安堵を覚える。現に心配をされているのだ。

「錫杖の使い方、間違っていることに気づいてくださいよ」

 與曽井は目の前に突き出された錫杖の柄を横に払った。俺は諦めて愛杖を引っ込める。

「まあ、暫くはこいつに世話になるよ」

 真顔の俺に、言葉を失った與曽井。俺は感謝しているつもりで言ったが、どうしても彼女に訝し気な目を向けられる。諦めて、彼女は自分用の饅頭に手を伸ばした。

「それはどうもご苦労様。それにしても、聖域にオカルト……ここも物騒になったものね」

 饅頭の包装を器用に剝がしながら、彼女は呟いた。

「随分と他人事だな」

 ここだって聖域の一角である。教会の人間のように、オカルトやらを厭う人間がいても不思議じゃない。

「私の叔父―――住職は結界師の一人です。だけど、結界が緩んでいるならすぐに気が付くわ。少なくとも、今結界に変化はない。内部の人間が仕掛けているのか、知らないけど」

「……」

「それに、オカルトが出たって、あなたみたいな人が倒すでしょう?」

そういって饅頭を頬張った彼女に、俺は視線を向けた。これを期待の言葉として受け取っていいのだろうか。素っ気ない口調と裏腹に、その言葉の重みを感じた。

あの院長も同じようなことを言っていた気がする。しかし、期待されるようなことをしたつもりはなかった。ただ単に、オカルトを倒すだけ。

「心配はしています。だけど、オカルトを真っ向から消そうなんて考えが間違っているわ」

「根源から取り除く、なんて無理な話だもんな」

 人間の想像力を止めるなんて無茶な話である。人間の感情が消えた世界なんて、想像したくもない。ただつまらないだけだ。

「何のための自警団なんですか?その錫杖を使うなら、その分働いてくださいよ」

「自警団を組織した覚えはない。他の連中が集まってるだけだ」

「これだから面倒なんですよ、貴方は……アイリスはよくも貴方を認めましたね」

「シスターは優しい可愛い美しい。三拍子揃った日非の打ち所の無い女性だからな」

 錫杖の件とはまた違った呆れ顔。どこか引かれている気もする。内心気持ち悪いと思われてもまあ仕方が無い。茶に口をつける。

 シスターのことを話題に出され、俺は彼女を思い出した。言われてみれば確かにそうだ。何度彼女を口説こうが、彼女は感情を誤魔化すことがあっても、直接何かを言うようなことはしない。與曽井だったら今のようにストレートに感想を述べる。

「本当に彼女のことを思うなら、少しは気遣ったらどうです?」

 呆れ半分に、與曽井は問いかけた。

「気遣い?」

「妹が亡くなって、彼女が心に傷を負ったことぐらいわかります。だけど、あのシスターよ?ただでさえお節介なのに」

 彼女は小さくなった饅頭を口の中に放り、ゆっくりと咀嚼をする。その言葉に、俺は違和感を抱いた。

「お前、なんでレイラが死んだことを知ってる?」

 そう問いかけると、與曽井はごくりと餡を飲み込んでから、

「なんでって……昨日、彼女と話しましたから。結界のこととか、教会のこととか」

 至極当然のことのように、彼女は答えた。

「彼女、時々うちに来るんですよ。結界について勉強しに。教会と寺じゃ、結界の仕組みが少し違っているから参考になるって。貴方と違って、彼女は勉強熱心だから」

 少しばかり皮肉を効かせながら、彼女は付け加えた。そして、素知らぬ顔で、茶に口をつける。

「もしかして、聞かされてない?彼女から」

「聞いたことがない。まあ、俺が普段修道院にいることが少ないから、気づかない」

 修行僧が目の前でドン引きしているが、まあそれは置いておこう。

 そんなことより、だ。表面的なことしか、見えていなかった。

 どんな音でも聞こえるのに、彼女の本音なんて聞き取れなかった。いや、聞き取ろうとしなかった。勿論、心の声を聞くことができるなんて、そんな都合のいいことはないだろう。しかし、怪音よりも、ロザリオの音よりも、どうして俺は彼女の声を聞こうとしなかった?簡単なことだったはずだ。この耳で、誰かの心の奥を察しようとすることなんて。

 ……信頼されていないのだろうか。毎日、教会の中で見せるあの笑顔の裏を、俺は一度でも追いかけようとしたことがあったか?自分の理想と乖離した現実を受け入れたくなかった?俺の押しつけがましいエゴで、彼女の心を聞こうとしなかった?

 彼女の暗い顔を見たくなくて、敢えて冗談や口説きを交えていた。そのたびに彼女は笑ってくれたが、今思えばそれは俺に合わせてくれていただけだったのかもしれない。彼女は優しいから。

 俺の心の中で、美しい彼女が笑う。それは、ただ静謐で、雑音のない、理想の世界。受け入れなかったのは、彼女が心の奥に抱える、何か得体の知れない思念。

 レイラが死んで、彼女が何か一人で抱え込んでいたとしたら。あの葬儀の日、俺は彼女に何もしてあげられなかった。

「なにはともあれ、彼女が一人で抱え込んだら、貴方だって黙ってないでしょう?」

 與曽井はこちらを改めて見つめ、問いかける。先ほどの諦めが混じった瞳ではない。彼女のことを心配する、友人としての真っ直ぐな瞳である。

「アイリス、貴方が思っているより大胆だから」

「……そうだよな―――」

「ねえ永蘭―?いるのかしらー?」

 突然、俺の声を遮るように、玄関先から聞き覚えのある声が聞こえた。自分の眉間がぴくりと動いたことがわかった。シスターとは違う、甲高い少女の声。俺があまり遭遇したくない声。残念ながら庫裏にインターホンなんてものはついていない。その女はただでさえよく通る声を張り上げ、住職に呼びかける。

 女の声を聞き、立花は戸の方向へ体を捻じ曲げ、

「あ、槻山さん。今行きますー」

 立ち上がって部屋を出た。

 タイミングが悪すぎる。今凄くいい決意のシーンだった気がする。戸の先で、二人分の足跡が近づいてくる。襖が開き、その来訪者と目が合う。どうやらあちらも同じ感情を抱いたようで、目が合った途端に奴は顔をしかめる。

 そんな俺たちを差し置いて、與曽井はその女に声を掛ける。

「奇遇ですね。ちょうど槻山さんも来るなんて」

「ちょっと用事があったのよ。来てやったわ」

 與曽井に案内されるやいなや、どっかりと藤色の座布団に座り、胡坐を組む女。與曽井は、先ほどと同じように急須の中身を白磁の茶器に注ぐと、思い出したように急須を置く。

「あ、私、本堂の方見てきます。またオカルトが湧いていたら困りますから」

 與曽井の足音が離れていったことを確認し、俺は斜め前で胡坐をかく女を一瞥した。切り揃えられた黒髪のボブに、そのマゼンタ色で存在感を露わにするハート形のヘアピン。質素な和室と明らかになじまない、白と黒のジャンパー。こちらも、刺し色のマゼンタがより異質さを、そして彼女の傍若無人さを体現している。

「なんでお前がいるんだよ、『死神』」

 俺の忌々し気な声に表情筋を強張らせ、そいつはにやりと笑った。マゼンタ色の双眸が、殺意を隠す気もないままこちらを睨む。

「それはこっちの台詞かしら。お互いツイてないわねぇ」

 挑発的な言葉とは裏腹に、その目の殺気はひたすらにこちらを捉える。書院造の一室に、一瞬にして立ち込める殺意。そんな一触即発な空気に痺れを切らし、ノエルに差し出された白磁の茶器が、一瞬にしてどす黒く染まり、その器体をことり、と揺らす。言うまでもなく、それが『死神』の本体であった。脳内に伝わる、低くしわがれた、ハードボイルドな声。

『おいノエル。まーた小学生みたいな喧嘩始めンのか?あんちゃんもやめとけやめとけェ。ほんッとしょーもないなお前ら』

 非常にまともなことをつらつらと述べる『死神』。

「うるさいのよⅮ!口出しするんじゃないのよ!」

『お前の声もでけェンだよ住職にばれたらどうする‼』

 鶏の如きよく響く少女の声と、テレパシーで脳に響くハードボイルドな声。二つの喧騒が、俺の耳と脳を攪乱する。

「騒ぐだけなら帰ってくれ。お前らに用はないんだよメス鶏」

「あんたもうっさいのよ盗聴野郎‼」

「聞こえちまうんだから仕方ないだろ厨二女が」

 騒がしい奴らが来た。今から俺が決意を固めようとしたその矢先に。『死神』はともかくとして、問題はあの女だ。いつ見ても嫌悪感しか抱けない。自らの正体を隠す気がないのか?

 『死神』。現在の都市、聖域の外側でオカルトを退治するオカルト、と噂されている。神出鬼没、疾風迅雷、何より正体不明。全身黒ずくめのコートに、深くフードを被った骸骨頭。何やら青臭いそのオカルトは、数年前に都市に姿を現して以来、東京中の噂の中心となっていた。しかし、その正体は、斜め前で喚き散らす少女と、そいつに憑りつく本物の死神の二人組。彼女ら曰く、その正体を知る輩は、数えるほどしかいないらしく、その数少ない一人が俺であった。

「ほんっとサイアク。今日はようやく賞金首の口裂け女をひっ捕らえたから気分よかったのに」

 座卓に頬杖をついて口を尖らせる相棒に、

『まあ仕方ねェさ。折角だからこいつにも話聞きゃいい』

「ゔぇ」

 相棒の提案に露骨に嫌悪感を表し、ノエルはこちらを恨めしそうに睨む。

「仕方ねえだろ。お前の正体を知ったのは事故だった」

『そろそろ認めろ、ノエル。一人じゃどうせ心細いンだ。協力者がいるだけいいだろ?』

「お前らに協力した覚えもつもりもないぞ」

『お前の面倒臭さも大概だなァ田之倉‼』

 與曽井に負けず劣らず、こいつのツッコミもなかなかである。

「そもそも、死神は聖域に入れないだろ」

「あんた、何も知らないのね。無能―ぷぷー」

 俺の粗を見つけ出し、口元を隠しながら嘲るそいつ。嬉しそうなのがまた癪である。

『俺ァ生きた人間に憑りついてるだけだからなァ。ま、ただのオカルトとは違うってことだ』

「あんたも大変だな、こんな奴と付き合って」

 漆黒の茶器に向かって問いかける。

『まァ、これも死神の仕事だからなァ。俺は契約者がいねェと動けねェし』

「それで、話って」

 和室内の静けさを取り戻すと、彼女は目を合わせないまま告げる。

「数が合わないのよ」

「数?」

 あまりに簡潔な言葉に聞き返すと、

『お前んとこの教会で、魂の数が合わねェんだよ』

 今までの声が一変、死神はトーンを落として告げた。

 魂の数。『死神』によく似あった言葉であった。しかし、

「どういうことだ?お前らが東京中の魂を管理してるんだろ」

「あんた、それでも修道士なの?」

 目を疑うような反応を見せ、ノエルはやれやれ、というジェスチャーをする。

「いいわ、この私が猿でもわかるように説明してあげる」

 にやりと笑いながら、彼女は左手の人差し指をこちらに向ける。

「そもそも、人間は肉体と精神、そして魂で成り立ってる。この三つの要素のうち、どれか一つでも欠けたらその時点で人間は死んでるってことになる」

 そいつは、手元の饅頭を、死神の乗り移った湯呑に乗せた。饅頭が頭部のように鎮座する。

「人間が死んだら、肉体が損傷して、その三つの繋がりが薄くなる。魂も、肉体と精神から離脱しやすくなるってわけ」

 そういうと、饅頭を湯呑からとる。蓋がなくなった湯呑から、白い湯気が立った。

「そこで厄介なのが、魂はオカルトと融合できる、ってところ。オカルトは、人間の噂話とか想像力で具現化した思念体。人間の精神に近いけど、人間と違って肉体がないから、オカルト自身の力を制御するための枷がない状態で、暴走しやすい。人間によって想像された力で、人間たちの生活を脅かす。魂と融合して自我を持てば尚更ね」

 湯気の立つ湯呑を持って、中身をかき回すように手首から揺らす。茶は、湯呑の中から時折その緑色を飛び出させる。よくも零さずに器用なものだ。

「だから、死んだ人間の魂を聖域とかの寺院できちんと供養してもらって、一時的に拘束して、あとで局が回収に来るってこと。じゃ、東京の魂を全部管理できないからね」

 そういうと、彼女は湯呑を引き寄せ茶を呷った。

「局ってあれか、聖域の管理を統括してるっていう」

 聖域は、国の管理下にある。特に、都市管理局、通称局は、聖域に限らず、都市全体におけるオカルト関連の厄介ごとには悉く関わっている。

「そ。他の組織やらが手出しできないように、局が中心に国中の魂を管理してる」

『死神は、オカルトとくっついた魂を分離させて、あの世に送るっていうのが仕事なんだが、個人の魂を特定することができねェ。んで、局は魂とオカルトの分離ができねェ。その点、局は俺らがいねェと魂を全部回収するのは不可能だ。だから仕方なく国に付き合ってやってンだ』

「私たちはその消えた魂を探してる。今言った通り、魂を管理するためにね。何でもいい、心当たりない?」

「俺に干渉する力はない。……まさか」

「そのまさかなのよ」

 俺の言葉に間髪入れず、ノエルは答える。

「あんたの教会の中の誰かが、魂と干渉して、持ち出した可能性がある。結界が正常に作用してるんだから、外部からの干渉はできないはずよ」

 奴の珍しく真剣な表情に、しばらく沈黙が続いた。マゼンタ色の瞳は、その『死神』の契約者としての矜持と威厳を湛え、まっすぐ俺を捉えている。

 そいつの言ったことは正しかった。聖域全体を覆う結界だけではなく、建物にだって簡易的ながら結界が張ってある。精神体のオカルトは立ち入れないし、教会内で息を引き取ったレイラの魂だって、死神が細工をしなければ結界外に出られない仕組みになっている。この十分なクローズドサークル内で、レイラの魂を結界の外に持ち出せる人間がいるだろうか。

 魂の干渉。俺のように些細な音を聞き取るのとはわけが違う。何せ人知を超えているのだ。それを並みの人間がやろうだなんて無理な話だ。うちの教会で、魂に干渉できる程度の力を持ったもの。神聖術なら可能か?そうすると、修道院、教会の関係者ほぼ全員に当てはまる。真っ先に疑うべきはあの院長だろう。しかし、

「シスター」

 與曽井の証言、聖域の世俗化、魂の仕組み。点々と浮遊したそのヒントが、俺の嫌な予感を煽る。

「そのシスターとやらが何か知っているのなら、この件はあんたに任せるわ。私たちが干渉したところで野暮なだけだし」

 俺がぽつりと呟いた言葉を、彼女は聞き逃さなかった。マゼンタ色の瞳が、じっとこちらを見つめる。今日ばかりは、彼女に感謝しておこう。今日ばかりは。

「なんとしてでも魂だけは捕まえてきなさい」

 凛とした表情で、ノエルは俺に告げた。俺は小さく頷き、錫杖を手に立ち上がる。

戸の奥から、だんだんと近づいてくる一つの足音。

「すみません二人とも。特にいじょ」

「與曽井、聞きたいことがある」

「な、なんですか。急に」

 和室の戸を開けた與曽井に向かって、俺は立ち上がり問いかけた。いきなり神妙な顔で問い詰めたからか、動揺した與曽井の手から小さな巾着が滑り落ちた。着地しかけたそれを、すかさず寝転んだノエルが足元でキャッチする。いつの間に湯呑は白さを取り戻していた。

 やらなくてはいけないことがある。まず、與曽井に聞きたいことがある。あのいけすかない院長にも聞きたいことが山ほどある。一度知ってしまった以上、ここで引き返すわけにはいかない。耳の奥に残った、シスターの声。あの内側を、受け止める覚悟と共に。

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