後編
その見事な身のこなしに見惚れていた吉乃は、大男の視線が自分から外れたからか、気が抜けてぐらりと体勢を崩した。そのまま後ろに尻餅を付きそうになったが、実際はそうならなかった。後ろから、支えてくれる人がいたのだ。
「武蔵坊弁慶って、やっぱりあの、源義経の部下の?」
同時に声を掛けられた吉乃は、吃驚して飛び上がった。慌てて振り向き相手を認識して、更に驚いて声を上げた。
「お、お兄さん?!」
「大丈夫?店員さんも、六波羅亭に行ってたんだね」
それは、オダマキ堂にやってきているあの青年だった。彼は吉乃には目を向けないまま、大男と黒衣の人物が対峙する様子をみている。
落ち着いた声で、彼は言った。
「実はあの小さい方、俺のツレなんだ。店員さんたちに聞いた幽霊弁慶の話をしたら、食いついてね。試しに来てみたら、先に店員さんが捕まってたってわけ」
「……お連れさん、すごいですね。牛若丸みたい」
吉乃も二人に目を向ける。そして現実感がないままに、ぽつりと呟いた。青年はその言葉に、やっと吉乃に視線を移した。
「なんで弁慶なんだろう? 確かに弁慶と言われても違和感のない姿だけれ、大男の怪人だったら他の名前でも良いような気がする」
青年の疑問は最もだった。武蔵坊弁慶はそれなりに名は知れているが、誰でも知っている人かと言われればそうでもない。でもそれは、彼がこの辺りの出身ではないからそう思うのだ。
「この町の人だったら、誰でも弁慶だって思いますよ。僧兵姿の大男には、馴染みがあるんです」
「不思議だな。ここは別に、弁慶に歴史的に縁がある地ではないのに」
「それが、そうでもないんです」
首を傾げる青年の方が、吉乃には不思議に思える。でもそれは、吉乃がこの町で生まれ育ったからたま。この話は近隣の住人ではないとピンとこない。それを知識としては分かっていても、突きつけられると認識の違いに、吉乃も戸惑った。
「この辺では有名な昔話です。信憑性は全くないんですけど……義経北上伝説って知ってますか?」
義経北上伝説は、この国の各地で語られる伝説だ。有名な伝承の地は何ヵ所かあるが、基本的には北陸中心に分布している話である。
武蔵坊弁慶の主――源義経は、鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝の弟。彼には天賦の戦の才があったとされ、そのカリスマ性と行動力で、それまで政治の中心にいた平氏を滅亡にまで追い込んだ歴史上の人物である。そこに至るまでの戦いは源平合戦として知られ、平家物語などが有名だ。
義経が生まれたのは、源氏が平氏に負けた平治の乱の頃。義経は父義朝が討たれた後、幼少期を鞍馬山で過ごす。その頃に生涯の忠臣である武蔵坊弁慶と出会い、そして奥州平泉ーー今の岩手県あたりの大豪族、藤原氏を頼って京を後にする。義経は成長すると、兄頼朝の挙兵を機に鎌倉に駆けつけ、平家を滅ぼす。そのクライマックスは壇ノ浦の戦いとして知られている。
しかしその後、義経を待つのは悲劇だ。兄に叛意を疑われ、追われる身となった義経が最後に頼ったのは、かつて身を寄せていた平泉だった。しかしそこで裏切りにあい、遂には討たれてしまう。――義経北上伝説とは、更にその後を語る伝説だ。
「義経北上伝説……。討たれたと思われていた義経が、実は生きていた。生きて、平泉から更に北へ逃げ延びたという伝説だよね。義経一行が立ち寄ったとされる、ゆかりの伝承が残されているんじゃなかったかな」
とはいえ、そこに史的な根拠はない。けれど当時から義経は多くの人に慕われていたらしく、生きていて欲しいという人々の願いから、そのような伝承が生まれたとされている。果てには蝦夷に辿り着いて暮らしたとか、そこから大陸に渡りチンギス・ハーンとなったとか言われるのだ。
「この辺りも、その義経北上伝説がある地のひとつなんです。平泉の難を逃れた義経一行は、各地を転々とした後で、このあたりに辿り着いたんですよ」
「意外だな。ここは、他の北上伝説の地とは随分違うような気がするんだけど……」
「立地ですよね。不思議に思うのも当然です。北上伝説があるのは勿論、平泉より北。でもここは、平泉からは関東寄りですから」
そうなのだ。一応北陸ではあるけれど、義経が北へ向かう足取りとしては不自然なのである。
「でも、それには訳があって。このあたりにだけ伝わってる、言い伝えがあるんです」
それは、こんな話だった。
平泉から逃げ延びた義経一行は、そのまま北へと逃げていこうとした。実際は一度北へ向けて出発し、そのまま蝦夷を目指したらしい。しかしほどなくして、彼らは方向を変える。一度ぐるりと迂回し、再び南へ向かったのだ。
「京に居た頃の義経の恋人であった静御前が、義経を追って既に近くまでやってきていたんです。義経が平泉で襲撃される前日には、本当に目と鼻の先まできていて。彼女を案内してきたのは、奥州藤原氏の家臣の中でも義経に心酔していた者だったといいます。藤原泰衡が義経を討ち、そして鎌倉に討たれた一連の流れで身の危険を感じ、静御前と家臣はこの辺りの集落に身を隠すことにしたんです」
運良く、静御前と家臣は鎌倉からの追手をやり過ごすことができた。そして、伝手を辿ってようやく義経にそれを知らせることができた時に、義経一行が向かう先を変えたのだ。
「この町の――ちょうど、この大橋を挟んだ対岸で、やっと静御前と義経は再会することができたんです。当時はこの橋はなかったので、川越しに二人は互いの姿に涙したって言われているんです。それで弁慶が、近くで木を倒してきて、川に急ごしらえで橋を渡したって言われているんです」
「思いのほか、ロマンチックな伝説だね」
吉乃は、そうでしょうと頷いた。吉乃はこの伝承が、なかなかにお気に入りなのだ。
「義経一行はそのままここを隠れ里として、生きたみたいですよ。町の色んなところに、謂れのある場所が残されています。そして、事あるごとに義経一行の話を聞かされるんです。私にとって長刀持ってる大男は弁慶以外には思いつきません」
「なるほどねぇ。そりゃあ弁慶だって思うわけだ」
「……まぁ、あそこにいるのは、普通に考えて弁慶を気取って騒ぎを起こしてる、迷惑な人なんでしょうけど……」
吉乃は、未だに対峙している二人を見つめる。暗がりではっきりとした容姿はわからない。でも、吉乃が想像していた弁慶そのものだ。――そもそも、今回の幽霊弁慶の騒ぎも、ただ容姿だけで弁慶だと騒がれたことではない。
橋を通る者に立ちはだかる大男。勝負を持ち掛け、戦利品を獲る。それは、ちょうど義経が幼少期、牛若丸と言われた頃の弁慶との逸話そのものだったからだ。だから、盛り上がった。弁慶の幽霊が蘇り、人々を脅かしているのだと。弁慶はああやって、再び牛若丸が自分の前に現れるのを待っているのだと。
「いいや……あれは弁慶だ。弁慶として生み出されている」
青年がぽつりと呟いた。吉乃がその意味を聞き返すよりも先に、彼は誤魔化すように言った。
「それにしても、橋を渡る者に絡むなんてね。五条大橋の焼き増しだ。京の五条大橋で、弁慶は平家から刀を奪っていたんだよね。千本集めるって豪語して、その時に牛若丸に会った。でも、ここの幽霊弁慶は刀を狩る代わりに菓子を狩るのか。……ん? 待てよ。菓子、弁慶、六波羅……」
顎に手をあてて考え込んでいた青年は、はっと目を瞬かせて吉乃に尋ねる。
「店員さん、今日買ったのって何のお菓子だった?」
「え……どらやきと、きんつばと……あ、あと焼き菓子です。最近始めた洋菓子、試して見たくて。残念ながら、そこで全部潰れてますけど」
襲われた時に落として、挙句に自分で踏んずけてしまったのだ。もう食べれない。がっかりして肩を落とす吉乃に、青年は真剣な顔だ。
「洋菓子って、六波羅亭が最近始めたって言ってたやつだよね」
「そうです。春先から販売開始してます」
「あー、そういうこと。みえてきたな」
なんだか納得したらしい青年は、にっこりと吉乃に笑いかける。
「安心して。実は俺たち、あの大男を捕まえるためにやってきたんだ。それで、ちょっとだけ協力してくれるかな」
「は、はい! 私で良ければ……!」
爽やかな青年の笑顔に、思わず吉乃は顔が熱くなるのを感じた。そういえば、まだ抱き留められた体勢のままである。急にそれを意識してしまい、吉乃は心拍数があがっていくのがわかった。
けれども青年は気づかないようで、向こう側にいる連れのその人へと声を掛けた。
「おーい、わかったぞ!時間稼ぎはもう必要ない!」
「了解」
短く声が返ってくる。その時に、吉乃は気づいた。
(あの人、女の子だったんだ……!)
黒衣の人は確かに華奢であったけれど、まさか女性だとは思わなかった。あの軽々とした身のこなし。木刀を手にした姿は堂々としており、様になっている。
(か、かっこいい……)
つい吉乃は見惚れた。それにしても本当に、牛若丸のようだった。弁慶と牛若丸の五条大橋の出会いが再現されれば、まさに今の二人のようになるのではないかと思わされた。五条大橋では、弁慶は牛若丸に敵わなかった。そして心酔して、忠臣となるのだ。
黒衣の少女は、大男を嘲笑うかのように攻撃をことごとく躱していく。
でも、大男も引かない。隙を一切見せずに振り回す長刀のせいで、少女は大男に近づけない。
実力は互いに互角に見える。しかし、持久戦に持ち込まれれば少女の方が不利かもしれない。ひらりひらりと舞う少女の方が、圧倒的に動かされているからだ。
それを本人も自覚していたらしい。一度大きく距離を取り、大男から数メートル先の欄干へと着地する。そして青年の方へ一瞬視線を送り、鋭く叫んだ。
「そろそろ頼む!」
「うん、そうだな……今回は、義経にあやかろうか」
青年は少女の声に頷いて、立ち上がる。吉乃の前に立ち、青年は口を開いた。
「兵法の基礎たる物は迅速なり、戰場の勝利を掴むは包囲なりーー武の真髄、ここにあり」
青年が朗々と唱えたそれは、詩のようだった。吉乃は意味を理解することができない。ただ、対峙する二人の反応は違った。
青年の言葉を聞くなり、大男は目を剥いた。そして少女は、口元に笑みを浮かべた。
「……きたッ」
呟き、強く欄干を蹴って飛び出す。向かう先には大男。飛び込んでくる少女を落とそうと、容赦なく長刀が振り下ろされる。それを彼女は、真正面から木刀で受け止めた。
「互角……?!」
大男と少女。どちらの力が強いかは、考えるまでもない。だが少女の木刀と大男の長刀は、拮抗した力で押し合っていた。そう。先程と比べて、明らかに少女の力が増しているのだ。
(さっきの……あの詩の力……?)
一体、どんなカラクリなのかはわからない。でも恐らく、青年が口にしたあの言葉がトリガーなのだ。あの詩を聞いた少女は、まるでスイッチが入ったように大男を圧倒する。
大男も少女の変化に気づいているのだろう。先程とは異なる力に、焦るように唸る。
……でも、もう一歩届かない。互角まで上り詰めたのは良いものの、その先は足りないようだった。幽霊弁慶は、強い。このままでは少女も、圧し負けるかもしれない。
そのとき、青年が吉乃の肩を叩く。顔を上げた先の青年の笑みを見て、吉乃ははっと我に返る。そして息を吸い込むと、先程教えられた通りに叫んだ。
「常連さーん!いつも塩サバ定食、おいしいですかー?!」
吉乃の声に、ギクリと一瞬動きをとめたのは大男だった。一瞬の緊張の緩みに、僅かに大男の腕が揺れる。
その隙を、彼女は見逃さなかった。少女が、一歩身体を引く。急に拮抗していた力のバランスが崩れ、大男が前のめりになる。大きく振り上げられた木刀。
そして大男が防ぐ間もなく、少女は腕を袈裟切りに振り切った。
「幽霊弁慶、成敗!!」
木刀は、まっすぐ大男の脳天に直撃した。その衝撃で、どうっと巨体が倒れ込む。振動で、橋が揺れた。
それから、彼は起きあがることはなかった。
◇◇◇
「ありがとう、君の協力のおかげだ」
「い、いえ……大したことしてないです……!」
頭を下げる青年に、吉乃はとんでもないと首を横に振る。
実際吉乃が青年に頼まれたのは、本当に簡単なことだった。つまり大男に声をかけることである。吉乃は青年から、大男の正体がオダマキ堂の常連であることを知らされ、声をかける内容は何でもいいが、オダマキ堂を思い出させるようなものがいいと言われた。そして飛び出たのが「塩サバ定食」である。
「まさか、幽霊弁慶が本当に常連さんだったなんて……」
大男が起きあがらないことを確認して、そろそろと吉乃は青年と共に、少女と大男に近づく。
確かに背の高さや体格は似ていた。けれども、あの常連客は人を襲うようには思えなかった。いつも優しい顔をしていて、吉乃にも丁寧だった。
「見かけでは判断できないことは、多いよ。あちらでは良い顔をしていても、こちらでは何をしているかわからない。誰も彼もそんなものだ」
少女は呟きながら、どこかから取り出した縄で意識を失った大男を手早く拘束していく。その手際の良さに目を奪われながら、考える。
そんなものなのだろうか。幽霊弁慶は、人々を脅かしていた。だから、その正体である常連さんは悪。吉乃に優しくしてくれたことも、良いお客さんだったことも、関係ない。……そうなのだろうか。
思わず考え込み俯く吉乃の肩に、そっと青年が触れた。
「店員さん。……このことは、他言無用でお願いしたいんだけれどね」
前置きして、青年が切り出した。
「実はこの男、とある組織によって超人的な力を持つように生み出された存在なんだ。それこそ、弁慶のようにと望まれてね。でもその組織から逃亡して、行方が分からなくなっていた」
「私たちは、それを成敗する為にやってきた正義の味方ってわけ」
少女も青年に同意するように言う。
驚く内容だが、二人は嘘をいっているようには思えない。なにより、吉乃は今まさに人並みはずれた戦いを目にしたばかりである。納得せざるを得なかった。
「あなたたちも、何か特別なんですか……?」
「さて、それは教えられないな。企業秘密だから」
にっこりと笑って、青年は誤魔化した。吉乃は深く追求せず、地面に転がる大男に目を向ける。
「常連さん、どうなってしまうのでしょう」
「彼は少し先の町まで噂されるほど、迷惑をかけてしまったからね。一旦俺たちと来てもらって、そこから反省してもらうことになるのかな」
「そうですか……」
もうオダマキ堂には来られないのかもしれない。そう思うと、残念な気持ちだった。
「でもこの男、していたのは悪いことばかりではないから。手段は良くなかったけどね」
意外にも、フォローを入れるように口を開いたのは少女だ。
「六波羅亭の菓子だよ。幽霊弁慶が取り上げていたのは、あの店の菓子ばかりだろ。しかも昔ながらの和菓子ではなくて、洋菓子の方」
「あっ……」
吉乃は地面に放り出された手提げ袋を見た。すっかり潰れてしまって食べられたものではないが、その中には確かに、洋菓子が含まれている。
そういえば、今まで吉乃は幽霊弁慶に遭遇しなかった。六波羅亭には何度も通っていたし、時には日が暮れた後に橋を通ることもあったのに。……それは、吉乃がずっと買っていたのが和菓子だったかららしい。
「あの店も、なんとなくきな臭いと思ってたけどね。どうやら幽霊弁慶は元々、六波羅亭に飼われていたみたいだな。だから、彼は気づいたんだろう。あの洋菓子には良くないモノが入ってた」
「それが何かはちょっと、店員さんには言えないけど。まぁ、摂取し続けるとそこの男みたいになる薬物ってとこかな」
最後まで言われなくても、吉乃も薄々だが感づいた。つまり、幽霊弁慶が元々いた組織とやらの危険物なのだろう。
「まだ洋菓子販売は、始まったばかりだった。販売自体が、ちょうど夕方から夜に掛けてのみだったんだ。だから幽霊弁慶は、洋菓子を買って帰る客に勝負を持ちかけ、菓子を奪った……」
「やり方は効率悪いけどな。こいつなりに、考えた結果だったんだろう」
幽霊弁慶が菓子を奪うものだから、結局ほとんどの客は洋菓子を口にしないでいたらしい。それこそが幽霊弁慶の目的だったのである。
「じゃあ私たちを、守ってくれていたんだ……。ありがとう、常連さん」
思わず呟いた吉乃に、青年が優しく笑った。
「店員さんが感謝していたってことは、伝えておくよ」
「ありがとうございます」
「あ、もうひとつ。店員さんに見て欲しいものがあるんだ」
青年はポケットを探り、なにやら細い棒状のものを取り出した。それを吉乃の目の前に突きつける。吉乃は出されたそれを見つめたけれど、なんだかよくわからなかった。
「なんですか、これ。ボールペン……?」
首を傾げて青年と少女に目を向ける。すると何故か二人はサングラスを掛けている。吉乃が驚きの声を上げる前に、青年が微笑んだ。
「悪いけど、全部忘れてね」
カチッという音と共に、ボールペンの先の方に光が灯る。あまりに目映い白い光に吉乃は思わず瞳を閉じた。……どこかの映画で見たような展開だな、と思いながら。
――――――そして。
「あれ…………?」
目を開いた時、吉乃は大橋をちょうど渡り終えた位置に立っていた。日はすっかり暮れている。
「私、どうしてここにいるんだっけ。六波羅亭に買い物にいこうとして……」
そこから先が、よく思い出せない。しかし六波羅亭に行ったのならば買ったであろう菓子は、持っていなかった。
「私、何してたんだろう……?」
首を傾げた吉乃はそのまま、帰路に着いたのだった。
◇◇◇
「大変よ、ヨシちゃん。あの話聞いた?!」
出勤するなり勢いよく話かけてきた女将に、吉乃は目を丸くした。
「あの話って?」
「六波羅亭の洋菓子よ!あの新規事業に関わっていた人たちが重大な資金横領していたらしくて、朝早くから警察沙汰になってるのよ」
これには、驚いた。近所でそんな事件が起きているとは。
「あれ。そういえば、あの常連さん来ないですね」
この時間に決まって訪れる大男だ。ほとんど毎日、欠かさず来てくれていた。それなのに姿が見えないことが、彼の身に何かあったのではないかと思ってしまう。
しかし女将は、考えるように目を伏せて言った。
「そうねえ……もしかしたら、もう来ないかもしれないわね」
「え、どうしてですか?」
「あら、ヨシちゃん知らなかったの。彼、六波羅亭の和菓子職人さんだったのよ。でも、春先から洋菓子の方の部署に回されたとかで……」
全く知らなかった。女将はなかなかの情報通で、この近辺で彼女が知らないことは何もないのでは、と吉乃は度々疑っている。
「横領事件は上の方の人たちだから、職人さんは関係ないでしょうけど。流石に嫌になっちゃったかもしれないわね。あれだけの腕があれば、他のお店でもやっていけるでしょうし」
「そうなんですね……」
女将がいうのなら、きっとそうなのだろう。良い食べっぷりを毎日楽しみにしていのに残念だった。
と、何となくメシコメサイトを開いた吉乃は、あるものを目にして悲鳴を上げた。
「た、大変です!女将さん!」
「ヨシちゃん、どうしたの?!」
「メシコメ、オダマキ堂にコメントがついてます!」
「あら、また常連さんがつけてくれたのかしら」
のんびりと返した女将に、そうではないのだと吉乃は目を剥いた。
「違いますよ!あの、食堂破り侍です!女将さん、昨日って常連さん以外はどんなお客さんが来てました?!」
「ええ……侍の方は確実にいらっしゃらなかったけれど……」
「食堂破り侍っていう名前は、ペンネームだから実際は侍じゃないんですって!」
勢いよく詰め寄る吉乃に圧倒されて、女将は昨日の客層を思い浮かべる。
「どうだったかしら。おひとりの男性が何人かと、ヨシちゃんくらいの男女カップルが一組いらっしゃったけれど……」
「やっぱりどんな人だかわからないかー!覆面ライターだから仕方ないのだけれど……!」
吉乃が端末を握りしめた時、厨房の奥から血相を変えた男性が一人やってくる。料理人見習いをしている、店主の弟子だ。
「おおい、女将さん!さっきから問い合わせの電話がずっと鳴りっぱなしで……予約とかできるのかって、どうしましょう!俺も師匠も、対応しきれなくて!」
女将と吉乃は顔を見合わせた。
どうやらオダマキ堂の大繁盛は、すぐ側まで足音を響かせてやってきているらしかった。
オダマキ堂
評価:★★★★★
レビュー:昔ながらの定食屋で、落ち着きと風情のある名店。近隣住民からも、長く愛されている店である。看板メニューは季節の焼き魚定食と、秘伝のタレを使った生姜焼き定食。筆者が食べたのは、この季節に美味しい塩サバ定食だった。魚の美味しさだけでなく、添えられた小鉢、釜で炊いた雑穀米など細やかな工夫に料理人のセンスの良さが光る。毎日でも通いたくなる、優しい味である。
この辺りは義経北上伝説が受け継がれている。他には類を見ない伝承が口伝で伝わっており、民族学的に今後注目されてもおかしくない。中でも大橋は、かつて吉野で別れを余儀なくされた恋人たちが、再会したというロマンスに溢れる縁結びスポット。
しづやしづ しづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
かつてそう詠い舞った静御前は、ここの伝承では彼女が望んだように時を戻すことができたのだろうか。
……おいしい食事に舌鼓を打ちながら、そのような歴史ロマンに思いを馳せてしまった。
(食堂破り侍)
◇おわり
幽霊弁慶御成敗 藤あじさい @fjryo-9667
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