陽炎

晴田墨也

第1話

「そろそろ研究は終わったか?」

「まだだ。大人しく待っていろ」

 穂村ほむらが俺のもとに転がり込んできて半年が経つ。その間、何度同じやりとりをしたかわからない。

「何だ、最近の人間の技術力はすごいんだろう。すぐ終わると思っていたんだがなあ」

 俺は肩をすくめ、買ってきたものをコンロの脇に並べた。ひき肉と卵とキャベツで炒飯チャーハンを作り、さっさと食って寝るつもりだ。

めしか?」

 自分の分を皿に盛り、テーブルに置いたところで訊かれる。

「ああ。食うなら自分でよそえ」

「恩に着る!」

 大ぶりのスプーンを口に運びながら俺は穂村の背を眺めた。短く見積もって七百年以上は生きている生き物だというのに、炒飯如きで随分上機嫌らしい。茶碗を取り出してフライパンの前に立って、めらめらと燃える炎の髪が躍っている。

 やってきた時もそうだったな、と思った。

 研究室の窓から、穂村が刀を抱えて転がり込んできたのは、まだコートが手放せない頃だった。真っ赤に燃える長髪、銀色の瞳は見るからに常人ではない。俺は驚き、その時預かっていた研究資料を慌てて布ごと引っ掴んでそいつから逃げようとした。が、穂村は存外落ち着いた声で俺に告げてきたのである。

「頼みがある」

 まっすぐこちらを見つめて、薄赤い唇をはっきり動かして。

「これを使って、俺を斬ってほしい」

 そんなことを、言ってきたのだ。



 穂村はあやかしだという。記憶にある最初の戦と言うのが、文永ぶんえい蒙古もうこ襲来だそうだから、鎌倉時代には既にいた計算になる。

 俺は幽霊も妖も信じていなかったが、目の前に飛び出してきたので仕方なく妖の実在は認める羽目になった。

 問題は、くだんの刀である。もとより俺は、刀を扱う博物館の学芸員として、博物館と近所の大学の研究室を行ったり来たりする生活をしている。ゆえに、刀を渡されて「斬れ」と言われたところで、すぐに頷いてやるわけにはいかなかった。そも、来歴すらわからない刀だ。せめてひと通り調べさせてもらわねば処遇にも困る、と伝えたところ、ではその研究とやらが終わったら斬れと鷹揚に納得されて、今に至る。

 しかし、これがなかなか難儀だった。実は、出所不明の刀が持ち込まれるのは珍しくはない。やれ蔵を掃除していたら出てきたの、遺品整理をしていたら出てきたの、まあよくある話だ。が、さすがに妖が持ち込んできた前例は聞いたことがなかった。どうしたものか、と悩んだ末、館長にことの次第を話し、本妖ほんにんとも引き合わせて、諸々誤魔化すのに協力させる羽目になった。しばらくは仕事の合間に、爺さんの使いっ走りもさせられることになるだろう。

 問題はその先である。鞘やつかなどの刀装を取り外し、手入れし、鑑定師にも見せ、学芸員達も面白半分に代わる代わる見に来たが、結局この刀についてわかったことはほとんどなかった。

 穂村がどこで手に入れたものやらはっきりしたことを言えなかったから、作られた場所も伝わった場所も不明。強いて挙げるなら村正派あたりの気迫溢れる作風に似ているような気がしなくもないが、めるには決定打に欠ける。刀の内部を見る機械にもかけてもらったが、むろん何の変哲もない鉄の塊だ。作刀年代しかわからなかった。変な放射線を出しているわけでもない。

 そんなわけで、実のところ、研究は「何もわからない」という結論が出て終わっていると言ってもよかった。

 だが、研究の終了と俺が穂村を斬れるかどうかというのはまた別の話だ。

 穂村は、研究室にやってきたその日から俺の家に居候いそうろうしている。炎の長髪を括って扇風機に当たりながらアイスを食ったり、俺の作った飯を食ってみたり、礼と言って食器を洗ってみたり、洗濯物をいじくっては昔との着物の違いに首を傾げたりと、まあ好きにやっている。

 俺は、初めのうちこそ髪が家具に燃え移ったりしないかと気を揉んだが、そのうち気にしなくなった。騒ぐわけでもない同居人との暮らしはそこそこ気楽だったし、実家を出て久方ぶりに「おかえり」という言葉を聞けるのも悪くなかった。めしも、どうせ作るなら一人分より二人分のほうが張り合いがある。

 だから、困っていた。

 穂村が俺の家にいるのは、俺があの刀を調べ終えて奴を斬るまでの間だけだ。調べ終わったら俺は、あいつを斬らなければいけない。半年間共に暮らした奴を。

 布団に入って考える。穂村は畳に転がっている。タオルケットを腹にかけて夢の中だ。寝息が聞こえる。人間じゃないくせにきっちり眠るのが滑稽だと思う。夜は、髪の炎も熾火おきびくらいの暗さになる。俺は、それが時折はぜるのを眺めながら、考えている。

 俺は、こいつを殺せるのか。

 あの刀は、本当に「妖殺し」ができるのか。

 いい刀だとは思う。身幅は広め、反り深く、丁字ちょうじの刃紋が美しい。ある程度研がれた形跡があるから実際に何かを斬ったこともあるんだろう。だが、それが妖とは限らない。

 穂村は、あの刀を「妖殺し」と呼んだ。普通の刃物では穂村の身体は傷つかないらしい。他の武器でもそうだ。力のある妖であるがゆえに、奴を殺すのは難しい。それを可能とするのが「妖殺し」なのだという。

 だが、いくら調べても刀は刀だ。あれは、何の変哲もない鉄の塊である。あれで穂村が斬れるのなら、うちの博物館にあるすべての刀で斬れておかしくない。

 そもそも、俺は巻藁まきわらしか斬ったことがない。いきなり人間の形をしたものに刀を振ったところで上手く斬れるだろうか。

 何より、同じ釜の飯を食った男を斬る胆力が、俺にはあるだろうか。

 そう思う反面、俺は既に気付いている。

 俺は、あの刀の斬れ味を知りたいのだ。

 あの刀が穂村を斬ることができるかどうか、知りたいのだ。

 その感情に触れるたびに、俺は心臓を氷水に放り込まれた気分になる。

 穂村を殺したくはない。当たり前だ。半年も共に暮らせば気も許す。互いのどうしようもないところも見つつ、悪くないと思っているから追い出しもしなかったのだ。そんな奴を、はい時期が来ましたから殺しましょう、なんてできるものか。

 だが、刀で誰かを斬るなど、今の日本で出来るわけはない。そのあり得ない機会が目の前にあるという状況に、興奮しないほど出来た人間でもない。

 俺は刀が好きなのだ。幼い頃から通い詰めた博物館に就職するために、学芸員の資格を取るくらいには。たとえその相手が友人であろうとも、かつてそれが使われていた時代同様、人を斬っていい、という状況はあまりにも甘美だ。

 寝返りを打つ。穂村の髪が目に入る。ちろちろと燻るような炎が薄ぼんやりと部屋を照らす。俺はぎゅうと目を瞑る。

 俺は、穂村を斬れるのだろうか。



 永遠に刀を預けているわけにはいかない。その日はあっけなく来た。館長が、丁寧にもとの刀装を刀につけて、風呂敷に包んでくれる。

 しっかりした重さがあった。人の命を奪える重さだと思った。

 館長は俺が穂村を斬ることを知っている。そういう約束で刀を預けられたことを知っている。だから何も言わない。黙認、とも違う。あるいは、俺に穂村が斬れると思っていないのかもしれない。

「では、気をつけて」

 長い付き合いだが、爺さんの声の機微きびはわからない。

 よく晴れて蒸し暑い夜だった。刀を抱えて帰宅した俺を見て、穂村がぱっと顔を輝かせる。

「終わったのか!」

「ああ」

「待ちくたびれて干物になるかと思ったぞ!」

「干物になったら死ねていいんじゃないのか?」

「復活してしまう可能性があるだろう。それは嫌だ」

「嫌なのか。復活」

「ああ、嫌だ。きっちり死ねないと困るんだ」

 穂村は俺よりデカい。骨もしっかりしていそうな体つきをしている。そして、美形だ。ぎらりと光る銀の瞳と、気分に合わせて燃え盛る炎の髪が普通の人間のものであれば、町行く人間の十人に八人は振り返るだろう。ついでに威勢もいい。

 そんな男が、死ぬ算段をつけて妙に優しい声で眉を下げて「死ねないと困る」なんて言うのは似合わなかった。自殺とはもっともかけ離れていそうな男だった。

「なあ、穂村」

 だから、つい訊いてしまったのだ。

「お前、なぜ死にたいんだ」

 初めに尋ねるべきだったかもしれないそれは、穂村にとっては何ということもないことだったらしい。勿体ぶったふうもなく、あっさりと理由を口にする。

「無力だからだ」

「無力?」

「ああ。俺は長い間、多くの勝負を見つめてきた。昔はのもとじゅうをうろついたものだ。俺以外にも似たようなのがたくさんいた。勝ちたいと願われ、願いに呼応して生まれた怪生けしょうどもが。俺達は自分のことを、八百万やおよろずの末席に座すものだと思っていた。勝ちを司る、そういうものだと。八十年ばかり前まではな」

 穂村の瞳がふぅっと遠くを見つめる。

「あの戦は、酷かった。戦闘機が多くの爆弾を落としていった。逃げ惑う人間を押し潰すように撃っていった。それも一人一人をそうと理解してやっていたわけじゃない。通った場所をまともに見もせずばら撒いた結果、人間達が吹き飛んでいったんだ。青空に眩く輝いた飛行機を、俺はよく見ていた。それの通った後は血と肉と呻きが残っていた。……俺ではとても、手が届かなかった」

 銀色が揺れる。

「古来より戦火のたびに、人々は祈ってきた。勝者も敗者もずっと、俺の手の届く場所にいた。敗北に伴う憎しみを癒すことはできずとも、次の勝利への渇望を抱かせてやることはできた。

 だが、あの時はそれすら出来なかったのだ。俺は憎かった。あの銀色が。あれが落とした焼け野原が。何百年も人間達が築いてきた場所を、俺の手の届かない場所から焼き払うあいつらが」

 微かに俯いたほむらの髪の向こうで、瞳が鈍く輝いている。

「戦が終わった後、日のもと中を歩いたが、悲哀ばかりだった。そりゃあ、その中でも人間達は逞しく生きていたが……あくまでも敗北の中の生だった。俺が何百年も祈られてきた勝利はどこにもない。もはや、それを願うものもいない。俺は、勝利を導いてやれなかった。いや、そもそもが俺は勝利を導くものでなどなかったのだろう。そう名付けられただけの妖に過ぎなかったのだ、と気付いた」

 それは、人が言うところの「絶望」ではないか。俯いてしまった穂村を見て、俺は思う。己の存在意義をなくし、どう足掻いても届かない、遠い場所を見つけてしまった時の感情。どうにもならないと悟らざるを得なかった時の。

「次第に俺達は皆、一様に己の意義を理解した。いや、意義がないことを理解したのだ。願われただけの怪生に出来ることはもうない。願いでは飛行機を撃ち落とせない。飛行機から人を守ることもできない。あるのはただ、民を蹂躙した何かへの憎しみを持つだけの存在だ。であれば、これ以上永らえる意味もなかろう。下手に永らえて、戦闘機ではなく人々を憎む存在に成り果てても困る。見守り続けてきた人々を傷つけるくらいなら、早めに消えておかねばなるまい」

 穂村がようやく顔をあげた。案外けろっとした顔で笑っているので、言葉を失う。戦闘機を睨み続けて色の移った瞳が、柔和に細められている。

「そういうわけで、いつにする? 俺としては今日でも構わないが、お前、疲れているだろう。明日の朝にしようか?」

 俺は、考えた。それからすぐに答える。

「いいよ」

 刀を握る。

「今から斬ってやる。血は出るのか? 出るなら外とか風呂場とかにするけど」

 穂村は首を傾げて考える。

「一応外にしておこうか。何も出ないとは思うが、万が一があると困る」

「わかった」

 憐れみがないとは言わない。無力を突きつけられることは苦しい。何もかもが追いつかないと理解するのは辛い。けれども、斬ろうと決めたのはそれが理由ではない。



 星が瞬く近所の空き地で、穂村がどっかりと胡座あぐらをかく。髪を高く結って、刃の邪魔にならないようにしている。

「首を落としてくれ」

 そう言った。

「それで死ねるはずだ」

 俺は訊く。

「死ねなかったらどうする?」

 穂村が笑う。

「『妖殺し』がそのような下手を打つものか」

 俺は風呂敷をほどく。

「調べた限り、こいつはいい刀だが、特別な力は何もない。お前を殺せない可能性はゼロではない」

 すらり、と刀を抜く。鞘を地面に置き、静かに深呼吸する。

「今から俺は、お前を斬る。だがもしも、もしもこの刀がただの刀で、お前が死ねなかったなら、穂村よ、提案がある」

 美しい妖だった。高潔なまま死にたいとのたまう男だった。そんなものを相手に、こんな約束を結ばせるのは悪いような気もする。

「俺のうちで暮らさないか」

 それでも俺は、穂村を絶望の中で死なせたくはなかった。

「お前がいたこの半年間はわりあい楽しかった。一人じゃ鍋も食いにくい。西瓜をひと玉買うのもできない。ただいまと言っても誰も何も言わない。お前は無力だと言ったが、俺にとっては、力あるものだった。だから、」

 だから、穂村。

 死ぬならそれでもいい、お前の願いだから。だが、この刀がお前を殺すのに失敗したからと言って、死に場所を探しに戻らないでほしい。

 穂村が俺を見上げた。銀色が緩く見開かれている。

「死ぬな、と言っているのか」

「違う。お前の願いを否定するわけではない。ただ、俺はお前ほどこの刀を信じていないんだ。俺はまだ、この刀が妖を殺すところを見ていない」

「なるほど。見たことのあるものしか信じないと言っていたな」

「そういうことだ」

 俺は穂村を斬る。約束通り、研究を終えたから斬る。だが、殺せるかどうかはわからない。この提案は、殺せなかった場合の保険だ。そう続けてやると、穂村は頷いて髪の束を首の横に流す。

 そうして一言「承知した」と言った。

「太陽。お前に斬られてなお俺が生きていたならば、そうだな。お前が生きているうちは、共に過ごしてやろう」

 どこか嬉しそうに聞こえたのは、俺がそう信じたかったからかもしれない。

「言い残すことは?」

「ない」

「わかった」

 これは、俺のわがままだと思う。穂村を斬るくせに、死ぬなとは言わないくせに、お前は無力でなどないと言うのは、ひどいのではないか。そう思わないわけではない。刀を握る手がじっとりと汗ばみ始める。しかし、後へは引けない。

 俺は穂村を斬る。あかあかと燃えるほのおの男を斬る。ゆらめいて見えるのは錯覚か。

 足を軽く開く。両手でつかをしっかりと握る。自分が高揚しているのがわかる。同時に冷や汗をかいているのも。殺すことを覚悟しながら、失敗することを祈る。それでも、躊躇ためらうことはできない。ひと息にやらねばならない。中途半端では、かえってこいつを苦しめる。

「太陽」

 穂村のうなじに向かって刀をかざす。声色は西瓜を一切れねだる時と変わらないのが、いやに苦しい。

「上手く殺してくれよ」

 こいねがう声に応えてやる。

「ああ」

 斬れ味を知りたい、と思った。死んでほしくない、と思った。どちらも間違いなく本心だった。

 だから俺は、重みに任せてしっかりと刀を振り下ろす。

「間違いなく、斬ってやるさ」

 刀を伝ってきた硬い骨を割る感覚を、俺は生涯、忘れないだろう。

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陽炎 晴田墨也 @sumiya-H

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