冗談みたいな紫の

ギヨラリョーコ

第1話

 ささやかな話をしてくれ。

 面白い話をしてくれ。

 地獄の話をしてくれ。


「ソープ行ったら姉貴が出てきた」


 俺の目をぼんやり見返して言いながら、向かいに座る松永は手だけで器用にタバコの箱とライターを探り当てた。松永のタバコは家でとおるが吸っている銘柄と違って、巻紙が安っぽい茶色をしている。

 どうせ俺が許すのを知っているから、松永は断りもせずに火をつける。


「それでどうした?」


 俺は松永に飽きられたらしい皮つきフライドポテトの山に手を伸ばす。いつも同じ店、いつも同じ料理。

 この居酒屋のフライドポテトにこだわりがあるのではなく、金を払う俺に気を遣って安いものを奢らせているのでもなく、これ以外を知らないのだろうと思う。


「んー……」


 襟ぐりが伸びたTシャツの胸が深く上下して、松永が大きく煙を吸い込む。古く湿った家のような臭いがする。快くはないが、妙に落ち着く臭いだ。


 男ばっかり3人兄弟の真ん中っ子だと、それは松永が前に自分から言ったことだった。

 松永について俺が知っている、数少ない事実の中の一つだ。松永には兄と弟がいる。この辺りで働いている。メッセージアプリのアイコンが、タバコを持った手なのに、いつもの茶色い巻紙じゃない白いタバコが映っている。そして、嘘が下手だ。

 俺はそれしか松永について知らない。後は全部推測だ。おそらく年下だろうことも、金が無いのであろうことも。


「……かんちゃんがデリヘル呼んだら従姉妹のねーちゃんが来たっつってて」

「ああ、それのパクりか」


 かんちゃんって誰、とは聞かない。大方友人だろうとは思うが、松永の交友関係にはあまり興味がない。


「祐くん、それ、また?」


 油じみてべたついたテーブルに肘をつき、とんとん、と松永は右目の下を指で叩く。


「目のとこ」

「ああこれ」


 松永は、俺の右目の下についた痣に目を留めたらしかった。

 家を出るときに鏡で見た顔には、くっきりと紫色の痕がついていた。治るまでにはまだまだかかる。

 目立つところに痕が残るのは久しぶりだったから、昨日はよほど徹も苛立っていたのだろう。俺も徹の神経に障ることを言った自覚があったので咎めるもどうかと思ったし、適当に慰めの言葉でもかけようかと思ったら、徹の方がさっさと出ていってしまった。


 帰って来なかったあたり、研究室に泊まり込んだのだろう。ホテルに行くほどの金が無いことも、転がり込ませてくれる女も友達も徹にはいないことも知っている。

 仮にも一緒に住んでいる、恋人なのだから。


 休日は徹がいないとおおむね暇なので、今日は昼まで眠り、ふと思いついて松永に誘いのメッセージを送ってからコンシーラーを買いに薬局に行った。いかにも怪我人ですというようなガーゼを貼って、月曜から仕事に行くのは気が引ける。

 レジの女性が一瞬変な顔をして俺の顔と、SNSで好評だったコンシーラーを見比べたが、気持ちは分からないでもない。


「痛そう」

「今はそうでもないな。押すとちょっと痛いくらい」

「すげえ色してる」

「面白い?」

「いや、笑えないって、それは」

「ははは」


 松永が笑わないので代わりに俺が笑った。松永は胡乱げな目つきでビールジョッキを傾けた。これも俺が奢ってやったものだ。

 松永の喉が動いて、ありがたみも無さげにビールを呑み込んでいくのを、自分のハイボールを舐めながら、じっと眺める。








 この街に住みはじめたのは、徹と同棲するようになったからだった。駅前にちょっとした繁華街があるからか、同じ路線の駅に比べると治安は少し悪いと聞いた。

 男2人で住むのにそこまでの心配もいらないだろうし、俺の職場と徹の大学のどちらに行くにも交通の便が良いのが決め手になった。

 一緒に住み始めてから喧嘩が増えたけれど、俺はおおむね満足していた。徹が怒っていると、「本性」という感じがして安心する。

 ただ、同じ家に住んでいるとひとりになるのがなかなか難しい。ひとりが好きという程でもないが、俺たちのようなカップルはべったり四六時中一緒にいない方がいい。


『その首ヤバいね』


 なんとなく外に出て、店頭メニューの串焼きの写真に気を惹かれて入った居酒屋で、隣のカウンター席に座っていたのが松永だった。松永は俺を横目で見ながら、フライドポテトの油で汚れた指で自分の首元を叩いた。

 俺の首元には、その前日に徹に絞められた赤黒い痣が薄く伸びていた。


『彼氏と喧嘩して絞められた』

『マジでヤバいじゃん』

『うん、マジでヤバい』


 あんまりに空っぽなやり取りが可笑しくなって笑うと松永は「笑い事じゃないね」と言ってから小さく笑い返した。


『俺、この辺引っ越してきたばっかなんだけど、なんか面白いところある?』


 松永はきょとんとした顔で首を捻って、その顔のまま口を開いた。


『永穂ビルってあるじゃん、ここ出てすぐ左の』

『あるんだ』

『カラオケ屋とサラ金が入ってるとこ。あそこ、飛び降りの名所』

『名所って』

『今まで3人飛び降りてて、でもまだ屋上にフェンスとかが無いから』

『やばいね』

『あんたのカレシ、4人目にしたけりゃいつでもできるよ』

『しないよ』


 そんな話をして、そして俺にフライドポテトとビールを奢らせた松永を俺は気に入っている。十分すぎるほど気に入っているから、それ以上のことは知らなくていい。

 そもそも松永のことを知りたければ知る機会はいくらでもあった。結局、知る気が無かったから聞かなかっただけだ。

 実のことを言うと、駅前の永穂ビルの屋上には地上から見ても分かるくらいの高いフェンスがある。店を出てすぐに気づいた。

 松永は嘘が下手だ。







 面白い話して、とか、面白いこと教えて、と尋ねるたびに、松永は律儀に下手な嘘をつく。

 面白くて不幸で下手な嘘をつく。


「カレシってどんな人なの」


 ビールを半分まで飲み干して、松永が尋ねる。初めて訊かれた。

 もしかしたら、ずっとタイミングを見計らっていたのかもしれない。


「かわいい顔してるよ、俺より背は高いけど」


 冷えて油のじっとりとしたポテトをつまんで口に放り込む。

 そうじゃない、という松永の視線は気のせいではない。


「……何してる人?」

「研究」

「儲かる?」

「全然。大事な研究らしいけどね」


 専門分野に関する徹の講釈は、常に徹の知的な優越感と苛立ちの印象だけを残して、右から左に抜けていく。

 『何の役に立つの?』と聞いてまともに苛立ってくれるうちはよくそうやって怒らせていたが、今となってはあまり取り合ってくれない。質問しても生返事が返ってくるばかりだ。

 だから最近は、もっと別の言葉を使ってみている。


「そんな人とどこで知り合うわけ」

「大学の同級生だったから」

「祐くん大学行ってたんだ」

「普通に行ってたよ」


 松永は、「俺はフツーに行ってなかった」と漏らして、左手でじりじりと減り続けていた煙草を咥えなおす。

 多分言葉を探している間だ。

 でなければ、探し当てた言葉を吐きだす覚悟を決める間。


「殴り返さないの?」


「俺が悪いし」

 松永がやっと、上ずった声で吐き出した言葉に、想定解をそのまま投げ返してやる。

 松永に関して知るべきことを、俺はおそらく全て知っている。


「何言ったの」


 松永は多分、多分だけれど、僕にそう見えるほどバカではないのだろう。俺が徹を怒らせたことをちゃんとわかっている。

 怒ってる徹が1番かわいい。何もかもうまくいかない徹が。

 俺に向けられた、怒りに歪んだ眼を思い出して口元が緩む。



「恵まれててごめんな、って」



 松永の瞼が不自然に動いたのを見なかったことにした。松永にはそれを求めていないから。

 スマホを見るともう18時だった。店も混み始めている。

 家を出る前に徹に送った『夕飯まで外に出てるから』というメッセージには返信が無かったけれど、既読になっている。

 残りの冷めきったポテトをほとんど作業みたいに口に押し込んでいく。松永はそれをちっとも手伝わずに、ジョッキを伝う雫をぼんやり眺めながら煙草を吸っていた。


「祐くんもう帰んの?」

「何? 飲み足りない?」


 松永は曖昧に首を傾げて、「そういうんじゃないな」と呟く。


「じゃあ何、さみしい?」


 徹もおそらく帰ってきている。多分俺の顔を見て気まずそうな顔をするから、何でもないような素振りをしてやらないといけない。そっちの方が変に詰るよりよっぽど徹の罪悪感に刺さるだろうから。そうやってたっぷり罪の意識を煽ってやらないと徹は謝れないのだ。ひとをいじめ慣れていない人間はそういうところがかわいい。


 ジョッキの底に残ったビールが、ずるずると松永の喉に流し込まれていく。

 なんとなしに中途半端に残った俺のハイボールを松永の方に押しやってやると、案外強い力で押し返された。


「それでもいいよ」


 松永は何かを諦めたように低く呟いた。

 もみ消されたタバコが、灰皿の上でぐんにゃりとくずおれて燻っている。


「いこう」


 自分が何にガッカリしているのか、今俺は上手く説明ができない。

 無性に徹に会いたかった。

 立ち上がる松永について、ポテトもハイボールも結局残したまま席を立つ。

 居酒屋のレジ打ちも俺の目元の痣を見てわずかに怪訝な顔をして、それから松永と見比べたから、俺はつとめて笑顔で金を払った。

 一方の松永はその視線にいたたまれなくなったのかなんなのか、さっさと店を出ていた。

 レシートを受け取るのももどかしく、店の引き戸を開けてその背中に追いつく。


「松永」

「大丈夫」


 三人飛び降りてフェンスが付いたビル越しに見る夕空は、冗談みたいに鮮やかな、治りきらない傷のような青紫色をしていた。

 西日に眩しそうな顔をして振り向いた松永には、俺がどんな目で松永を見ているのかわかるまい。

 太陽を背にした俺には、松永の顔が鮮やかに見えているのに、その表情の意味を汲み取れないまま立ち尽くしている。唇を噛んで、そして開く、その顔。


「祐くんは世界一幸せだよ」

 

 松永は嘘が下手だ。

 居酒屋の席にコンシーラーの入ったビニール袋を置いてきたことに、その時気づいた。

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冗談みたいな紫の ギヨラリョーコ @sengoku00dr

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