夜鷹

 台与だ。


 思わず肩に力を入れた時、夜鷹が小さな嘴を開いた。


「せっかくはるばるやってきたのに、随分冴えない顔をしていること」


 騒速は安堵にどっと息をついた。間違いなく、妻の狭依の声だった。


「……驚かせないでくれ。息が止まるかと」

「顔が冴えないだけじゃなく、言うことまで弱気ね」


 すました声で言い放つと、夜鷹は騒速が伸ばした手首に飛び乗ってきた。月影に、華奢な輪郭がほのかに浮かぶ。


「いったい何があったの? あなたがそんな顔をするなんて」


 何もかも話したいと同時に、何も話せないとも思った。主命とは言え、狭依以外に妻を持てと言われたなんて。


「きっと、伊勢の姫君でも娶れと言われて、困っているのではないかと思ったんだけれど」

「どうして君は、俺の考えが読めるんだ?」


 半ば本気で、騒速は尋ねた。狭依ができるのは鳥飛ととひであって、心を読むことではないはずだ。


「台与様は、伊勢を平定するのがあなたでなければならないと言った。きっと、鳥船様や宿禰がしないことを、あなたに望んでいたのよ」


 呆気に取られる騒速の前で、狭依は淡々と続ける。


「最初はあなたの、武人としての力量に期待されたんだと思った。でも、伊勢の国長は逃げてしまったんでしょう? だったら、伊勢を結び付ける手段に、台与様なら婚姻を選ぶと思ったの」

「よく、わかったな」

「きっと、鳥船様も宿禰も台与様の言う通りにするけれど、あなたは違う気がしたから」


 へなへなと、肩から力が抜けていく。


「夫婦になって何年も経つけれど、あなたはとても初心だもの」


 狭依にそう言われると、否定の仕様がない。男女のことに関して、今でも狭依との関わりの中でのことしか、騒速は知らなかった。


 観念して、何があったかをすべて話した。騒速が次第を伝え終わって黙っていると、狭依はじっとこちらを見た。


「それで、どうするの?」

「どうするって――」

「するべきことは一つだと、もうわかっているでしょう?」


 うん、と騒速は静かに言った。心は決まっていた。





 それからさらに半年が過ぎて、桂は珠のような赤子を産んだ。女の子だった。


「泣く声が大きくて、かないません。さすがは桂様の子です」


 侍女が疲れたように言うので、騒速は苦笑した。


「私も幼い頃は、騒がしい子だった。それで姉に、騒速と呼ばれるようになった」


 自分が生まれた頃のことを、もっと姉に聞いておけば良かったと、何度目かに思う。娘や息子が生まれた時も、そうだった。


 眠りかかった赤子が、桂の腕の中で糸のように目を細めている。その目は只人のものだったけれど、桂は神の裔ではなかったから、誰も不審に思うことはなかった。


 伊勢津彦は、自らを風の神の裔と言って国長の地位に収まっていた。ただ、智鋪からやってきた騒速らには、それが偽りだと明らかだった。風神の娘は、穴戸にしかいないと知っているから。


「元気が良いのは良いことだ」


 騒速が言うと、桂は切なそうな笑みを口の端に浮かべた。騒速の気遣いを正面切って受け止めたいけれど、まだその気にはなれないようだった。


 それでもいい、と思う。桂と、そしてこの娘――夏麻なつそには、守ってくれる誰かが必要なのだ。そのことにまだ、本人たちが気づいていないとしても。


 誰かに守ってもらう安心を求め、孤独に喘いでいた過去のことが思い返された。伊伎で、父にも姉にも先立たれ、何のために生きるかわからなくなっていた頃のこと。

 あの頃の痛みは、次第に遠くなっていく。ただ時間が経ったからではなく、満たされた時間のほうが、騒速の生きた年月に占める割合が増していくから。


 ――わたし、あなたが好きよ、騒速。


 夜鷹が届けた狭依の声が、脳裏に蘇る。自分よりずっと華奢で、体の小さな狭依が、かけがえのない位置を心の中で占め、騒速をいつも守ってくれる。


 ――大好き。そしてそれは、あなたが優しい嘘をひとつついたからと言って、変わったりはしないの。


 桂の子を、騒速の子と押し通すよう、励ましてくれたのは狭依だった。主命に背くように見えたとしても、きっと台与ならそれも納得ずくのはずだと。何より、桂とその子を守る方法が、これしかないから。


 伊勢と智鋪を繋ぐ手立ては、騒速に委ねられた。ならば騒速が信じる方法で、主命を果たせばいいのだと。


 夏麻が、寝ぼけた動作で弱々しく、騒速に向かって小さな手を伸ばす。思わず口元を綻ばせた時、温かい気持ちが胸にせりあがった。


 誰かが、夏麻は騒速の子ではなく、伊勢津彦の継承者だとして担ぎ出し、反乱を企てることもあるかもしれない。もしそうなったとしても、桂がそれを否んでくれるように、彼女との絆を深めていこう。


 決意を固めた騒速に、夏麻がふにゃりと笑いかけたように見えた。

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伊勢路 青嵐 丹寧 @NinaMoue

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