有閑ムッシュと春の朝

クニシマ

◆◇◆

 ぼくも殺されちゃったらいいのになあ、と彼はつぶやいた。

 僕にとっては朝起きてすぐ、彼にとっては夜眠る前、三十分ほどの電話をするのがこのところ日課になっている。そこで僕が、昨日近所で銃の乱射があったよ、と話したところ、そう言われたのだった。けして理解できないような発想ではなかった。二人ともそれぞれに大病をしてから数年、今は遠くない未来に訪れるであろう死をただ待っているのみなのだから仕方ない。僕はアメリカで、彼は日本で。

 彼とはもう半世紀の付き合いになるらしい。出会ったころには、このように古希を迎えるまで友人でいるなどとは考えもつかなかった。そう、古希。僕にも彼にも似合わない言葉だ。僕らは大学の同期だった。音楽の趣味が合ったことから、何をするにも共にいるほど親しくなって、二人で卒業までを無為に過ごした。若く不真面目な僕は、きっと自分は近いうちロック・スターのように早死するのだと信じて疑いもしなかった。彼も同じだろう。あのころ、誰もがそうだったのだから。けれど僕らは死なないまま、それなりの人生を長いこと送ってきてしまった。今更になって、それがようやく終わろうとしている。

 窓の外、眼下に広がる東海岸の街並みは今日も代わり映えのしない色だ。明るい朝の日差しが部屋に陽だまりを作っている。フローリングに爪の音を響かせて、愛犬がベッドの傍まで寄ってきた。彼の声が耳元に落ちる。

「死ぬときぐらい帰ってきたらいいのに。若いころ、畳の上で死にたいとか、言ってたくせにさ。大昔だね、もう」

 僕は受話器を持ち替え、手を伸ばして犬の頭を触った。

「アメリカにだって畳くらいあるよ」

「つまんないの。」

 口をとがらせる彼の表情が思い浮かび、僕はしばらく笑っていた。ずっと昔によく見た顔だ。ここ最近はそんなことばかりが楽しい。

「なら、遺言にでも書くからさ。君んちで僕の葬式やってくれよ」

 それは半ば本気だった。このまま、直接には会えないままで死ぬだろうと互いにわかっているのだ。彼は「やだね、そんなに広くない」と応える。

「はは……嘘をつけよ、豪邸とうわさじゃないか」

 何年か前——いや、下手をしたら十何年か前、彼は東京の家を引き払い、軽井沢だかに大きな家を建てたと聞いていた。いつか訪れたいと思っていたが、実際にそうすることもなく今日を迎えたのだった。きみのところほどじゃない、と彼は謙遜をしてみせる。それから少し言いよどみ、乾いた声で「それに、きっとぼくが先だよ」と続けた。僕は即座に返した。

「いいや、僕だ」

 わずかな間だけ空白が聞こえ、そして彼の笑い声が小さく耳朶に触れた。弱々しい音だった。

 ほとんど毎日、僕らはこんな話を繰り返している。いつ死ぬだろうとか、どう死ぬだろうとか、そうやってたまには昔のことを振り向いてみたりなんかして。同じ話ばかりするのは、同じ時間を過ごしてきたのだと確かめ合うために他ならないのだった。

「だけどね、もうろくに歩けもしないんだから、どっちにしたってきみの葬式には出られないよ、ぼくは。弔辞だって読めないし、それならきみより長く生きる意味なんてないよなあ」

 しわがれたその声にふと止まった僕の手を犬がそっと舐める。唾液は生ぬるい命の温度だ。

「そんなのは僕も同じだ。第一、君の死に顔なんか見たくない」

「はは。目の毒だって?」

 僕らは笑い合った。どこまでも穏やかで軽やかな空気が満ちている。同病相憐れむと言ってしまえば簡単だが、それきりではない何か慈しみのようなものが僕と彼の間に横たわり、二人をきつく結びつけているようなのだ。

 彼の声を受話器越しに聞いていると不意によぎる光景がある。もう三十年は経つだろうか、僕がここに暮らし始めたころ、家からそう離れてもいない場所でテロがあった。白昼の都市部で大規模な爆発が起こったと速報されたらしく、日本は真夜中だのにすぐ彼から電話がかかってきた。窓の外で広がり続けるどす黒い煙を眺めながら、とりあえずは無事だと話していたとき、ちょうどまた爆発した。一度目より大きい音だった。僕らは同時に叫んだ。今にも引き裂かれそうな恋人同士のように、ずっと互いの名前を呼び合っていた。電話口にまでしつこく反響する、窓ガラスを震わせて轟くその音があまりに強大で、何か声を出していないと正気を保っていられなかった。曇天が一面に貼りついたようにして何も見えない外の景色と、残り続ける振動の余韻、次から次へと落ちては床の上で粉々のかけらに変わった窓辺の調度品。僕の恐怖をわかってくれる彼の声がなければ気が違ってしまいそうだった。そのとき、彼以外の知人からはまるでなんの連絡もなかったから、僕の友人というものは一人しかいないのだなと思った記憶がある。

 すでに開いている扉を几帳面に叩く音がして、妻が姿を現した。コーヒーを持ってきてくれたのだ。ありがたく受け取り、ひとくち啜る。妻は窓を開け、部屋に風を通し始めた。

「今日は何か、面白いものを見なかったの。」

 尋ねてみると、彼は少し考えてから「ひばりが庭に来たよ」と言った。だから餌をやったんだ、と。

「ああ、いいね、それは」

「ほかの鳥も来たら、賑やかでいいよねえ。エーちゃんに頼んで、巣箱でも置いてもらおうかな」

 エーちゃんというのは彼の奥方の恵里子えりこさんである。恵里子さんと彼とは幼馴染で非常に仲が良く、今に至るまで深刻な喧嘩をした経験がないというのだから驚いてしまう。羨ましいものだ。彼が大学を卒業してからすぐに行われた二人の結婚式では僕が友人代表のスピーチをやった。その後、僕は三度結婚をして、一度も式は挙げなかったけれど、婚姻届を出すたび彼ら夫婦に証人をやってもらったのだった。

「恵里子さん、元気かい」

「まあね。そっちの……亜紀あきさんは、どうなの」

「ぼちぼちかな」

 部屋を簡単に掃除し終えた妻が、犬を連れて出ていった。僕はまたコーヒーを口に含む。彼が静かな調子で喋り出した。

「女は男より長く生きるそうだし、実際、ぼくらは先に死ぬわけじゃないか。エーちゃんとか、亜紀さんより。」

 うん、と相槌を打つ。彼はゆっくりとため息をついた。

「やっぱり、なんだろうなあ、寂しい思いをさせることになると思うとさ。」

 心の優しい男だ、と、どこか一歩引いたところで考えてしまうから僕はだめだ。正直なところ、僕は自分亡き後の家族など知ったことではなかった。

「どうかな。案外、寂しい思いなんかしないのかもしれないよ」

 少なくとも亜紀はまだ若いから、僕の後にもう一人くらいは相手を見つけて楽しくやることだろう。彼はあまのじゃくな僕を笑う。

「またそんなこと言って。まあ、でも、寂しがらないでいてくれるに越したことはないね」

 まったく僕なぞの友人でいるには惜しいほどよくできた人間だ。そうだ、きっと僕は彼ではなく恵里子さんが羨ましいのだ。

 それから僕らは少し黙り込んだ。僕はコーヒーを飲み干し、かすかな風に揺れるカーテンの軌跡を目で追っていた。彼が電話の向こうにいるときだけは、体のどこも痛まないような気がする。

 ふと思いついたことがあって、僕は口を開いた。

「君、確か、脳だったよな。ほら、あれだ、脳腫瘍だ」

「うん、そうだよ。きみは膵臓癌でしょう。もう、全身なんだっけ」

「ああ。でも脳には行ってない。それでさあ、もし、もしだよ、君の脳の悪い部分を切除して、そこに僕の脳を移植したら、僕らは二人で生きていくことができるのかな。」

 一拍間が空いて、彼の大笑いする声が聞こえた。

「そんなにうまいこといくもんか!」

 つられて僕も笑う。

「まあそうだよなあ。若いうちにもっと勉強しておけばよかったな」

「ほんとにね。でも、面白いなあ、それ」

 素敵だね、と彼は言った。嬉しそうだった。だから僕も嬉しかった。

「あっ、そういえばねえ。近所に、猫をいっぱい飼ってる人が引っ越してきたんだって」

 そう語る彼の声は少し明るくなっている。「猫か。そりゃいいね」と僕は応えた。彼は猫が好きだ。ただ、猫が自分より先に死ぬのも、自分が猫より先に死ぬのも嫌だといって、飼ったことはないそうだ。

「次にもし生まれてくるんなら、猫になれたらいいのかもね。幸せだろうな、きっと」

「なるほどね。それじゃあ僕は猫好きに生まれて、君の飼い主をやってあげるよ」

 本当にそうなったならどんなにいいだろう。彼は楽しげな笑い声をあげる。

「それっていいなあ。きみに飼われるんだったら、安泰だ……」

 でも猫だったら結局きみより先に死ぬんだな、とつぶやくから、僕はすかさず言った。

「そうしたらまた生まれてきたらいいんだ、何回だって飼ってやるからさ」

 彼は「そんなのぼくだけ疲れるじゃない。ずるいよ」とまた笑う。こんな時間を過ごすうちに終わっていくのだから、素晴らしい人生であったと、心底そう思う。

「いいじゃないか。そうなろうよ」

「うん、なろう。きっとだよ」

 子供のような約束をし合って、それじゃ、と彼は言った。

「そろそろ寝るよ。」

「ああ、じゃあ、また明日。おやすみ」

「うん、また明日」

 受話器を耳から離すと、じわりと全身にまとわりつく苦しさを思い出した。けれども、まあ、いいのだ。もうすぐ僕らの呼吸は止まって、僕は猫好きに、彼は猫になる。もしもそれが電話を終えた次の瞬間のことであるとしても、きっと僕らは変わらずまた明日と言い合うのだろう。

 風がそよ吹き、太陽はわずかにまぶしい。世界はゆるやかな春に満ちている。

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