後編
知忠が為範を振り切って宮中へ侵入したころ、殿上人たちは無礼講とも言える淵酔で肩脱ぎしてくつろぎ、乱舞に興じていた。
このあとには、舞姫付きの童女の素顔を帝が御覧になる童女御覧という行事が控えているというのに、淵酔が長引くせいで時間が押している。しかし知忠にとっては、その方がよほど都合がいい。
(いつまでも騒いでいればいいさ。その間に、わたしは母上を探すまでだ)
宮中といっても大内裏は焼失したまま再建されず、いまは藤原北家閑院流の邸宅であった閑院を里内裏として使用している。大内裏を模して改修されているとはいえ、その広さは足もとにも及ばない。
童女の姿をした知忠は、臆することなく邸内を歩きまわった。
手入れの行き届いた庭園、よく磨きあげられた柱や床、伊賀では見たこともないような調度品の数々、どこからともなく漂ういくつもの薫物の香り。それらは都の外にあっては知る由もない世界で、そしてまた、知忠が否応なしに奪われた世界だった。
(父上があのようなことにならなければ……平家がいまも権勢を誇っていれば、わたしも今ごろは……)
知忠はこれまでになく、腹の底に怒りが湧いてくるのを感じた。
知忠に不自由のないようにと、為範はよく尽くしてくれたと思う。しかし身を潜めるような生活では、自ずと制限されることも多かった。都にあれば享受できたであろう諸々のことを、知忠はすべて取り上げられたのだと改めて思い知った。
(──とにかく、母上だ。母上にお会いすれば、これまでの生活もいくらかは報われるだろう)
胃の腑から喉もとへとせり上がろうとする怒りを、知忠は無理に押さえつけた。そして、ため息をひとつこぼして、足を踏みだそうとしたところで声をかけられた。
「あなた、なにをしているの? ここの童女じゃないわよね」
「この子、迷ったのではないかしら。きっと舞姫付きの童女よ。どこの子なの? 連れて行ってあげるわよ」
親切そうな顔をした年かさの女房ふたりに、知忠は返事をすることができなかった。喉はまだ調子が悪く、話そうとするといくぶん低くなった声が時折ひっくり返る。
「そんなに怯えなくてもいいのよ。どちらの童女なの? 大納言さま? それとも参議の兼忠さま?」
「ちがうの? じゃあ、国司の方ね。紀伊どのなの?」
矢継ぎ早に問いかけられ、知忠は顔を見られぬようにうつむいて、ただ首を左右に振りつづけた。どこへも連れて行かれては困る。どうにかこの場を逃げ出そうと算段していると、またひとり、女房が慌てたようすですべり込んできた。
「大変よ。長門どのの童女がひとり、行方知れずなんですって! 童女御覧に出るのがどうしてもいやだと言って──あら、この子はなあに?」
知忠の存在に気づいた女房に、ふたりの女房は合点がいったというようにうなずいた。
「そう、あなたなのね。道理でなにも喋らないはずだわ。いけないことよ、ちゃんとお勤めは果たさないと」
「そうよ? 今回は長門どのしか童女御覧には出さないそうじゃない。ちょっとお顔を御覧に入れるだけでいいんだから、我慢なさい」
まずいことになったと狼狽する知忠の挙動は、ますます女房たちに確信を与えた。
(そんな、帝や公卿たちがいる前で顔を見せるなんて、とんでもない!)
頭をかかえる知忠に、女房たちはやさしく声をかけながら、がっちりと脇を固めた。
「大丈夫よ、泣かないで。言われたとおりにしていれば、すぐに済むから」
「それにあなた、とっても可愛らしいもの。笑われたり、ひどいことを言われたりすることはないわ。安心して?」
長門の国司が献上した舞姫の控所へ連れていかれた知忠は、みながきょとんとするのを見逃さなかった。それはそうだろう、逃げだした童女とはまるきり別人なのだから。
連れてきた女房たちはその空気を、童女が見つかったことの驚きだと解釈した。そして満足げに知忠を差しだし、去っていった。
「……あなた、だれ?」
そう聞かれても、答えるわけにはいかない。追いだされることを期待して困ったように首をかしげていると、いかにも場慣れした女房が舐めるような目で知忠を値踏みしはじめた。
(まずい、わたしが男だと見抜かれる──!)
肩をすくめて縮こまり、ぎゅっと目を閉じていると女房がふっと息を吐いた。
「この子でいいわ。どうせ童女の顔なんて、だれもいちいち覚えていないもの。みんな、いいこと? このことは口外しないように」
思ってもみなかった展開に呆気にとられる知忠をよそに、女房たちは間もなくはじまる童女御覧のために知忠の装いを正した。華美な衣装に包まれると、ますます知忠の可憐なことが際立った。
壮年の殿上人のひとりが知忠に付き添い、そろりそろりと清涼殿へ渡る。
御簾のむこうには帝がいる。もしかすると、親王もどこからか覗き見ているかもしれない。ということは、その傍らには母の姿も──?
(だめだ、ぜったいに顔を見せられない。母上はきっと、わたしだと分かるにちがいない。そうなれば、母上が苦しむことになる)
偽の童女──いや、女ですらない、しかも平家の遺児がこの場に紛れ込んでいたという重大な事実を、母に背負わせてはいけない。そう思った知忠は、顔を隠すために掲げている扇を握りしめた。
扇を置くようにという命が出ても、知忠は微動だにしなかった。付き添いの殿上人が小声でうながしてくるが、素知らぬ顔で聞き流す。
何度かそのやり取りをくり返したところで、殿上人が無理矢理に扇を奪おうと手をかけてきた。知忠も腹に力を込めて、扇を奪われまいとする。
「くっ……この童女、なんて力なんだ」
扇をめぐり、ふたりが押したり引いたりしている姿が滑稽だったのか、参列者たちから笑いがもれはじめた。脂燭を掲げる公卿の肩も、小刻みに揺れている。
(なにがそんなに可笑しいんだよ。無理矢理に女の顔を見て楽しいのか、こいつらは。悪趣味だよ、どうかしてる!)
なおも強引に扇を取りあげようとする相手を、知忠はふっと力を抜いて軽く押しだした。殿上人がうっかり間抜けな声を出して尻もちをつくと、みなが腹を抱えて笑った。
憎々しげに睨みつけてくる相手へ、扇の陰からちらりと視線を寄越し、知忠は小さく鼻で笑う。そしてそのような態度を取った自分を恥じた。
(平家の世が続いていれば、わたしのほうがずっと立場は上だったかもしれないのに。このようにつまらない仕返しで喜ぶとは、自分が情けない──!)
そのあとも、頑として扇を置かない知忠にあきれたのか、そのまま退出を許されると一目散に宮中から逃げ出した。
数日後、ふたたび伊賀へ戻った知忠は、意を決したように為範へ問うた。
「平家に心を寄せる者は、まだ残っているか」
為範は寝起きに水を掛けられたような顔をしてから、きっと表情を引きしめた。
「はい。多くはありませんが、伊賀・伊勢には志のある者がいくらかはおります」
「そうか──」
知忠は目を閉じ、産毛しか生えていないあごを撫でつけた。冷たい風が伊賀の山へ吹きつけ、葉擦れの音がひときわ大きく鳴ると、知忠は為範へ言い渡した。
「兵を挙げる。鎌倉の犬である京都守護の首を取り、都を制圧する」
その声には、もう少年期の澄んだ幼さは残っていなかった。
◇ ◇ ◇
七年後、挙兵に失敗した知忠は自害し、為範もその遺骸を自身のひざに抱いたまま割腹した。
知忠の首級は身元確認のために母に届けられるが、成長した息子の顔を見てもわからず、亡き夫の面影があることから息子だろうと認めたという。
その二年後には六代も処刑され、ここに平家は潰えた。
了
浮き草に咲く花 小枝芙苑 @Earth_Chant
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