中編
十一月。滞りなく皇子に親王宣旨がくだり、数日後には五穀豊穣を祝う新嘗会に伴う五節舞姫の内裏参入がはじまった。
おなじころ、知忠は都の東のはずれ、かつて平家一門の邸が建ち並んでいた西八条からほど近い、法性寺あたりの一橋というところに潜伏していた。
「やはり伊賀の山奥とはちがうな。都を目の前にすると心が浮き立つ。なあ、為範」
「は、左様でございます」
「いよいよだな。あすには母上にお会いできるぞ」
知忠は頬を紅潮させ、目を潤ませて言った。
舞姫が参入したということは、翌日からは
知忠は彼らが上西門院のもとを訪れることを期待していた。宴の騒ぎに乗じて母に会いにゆこうと考えていたのだ。
「その件ですが、知忠さま……現在、親王は持明院第を御所にされているようでございます」
「……持明院?」
皇子の親王宣下決定の報が知忠へ入るのと前後して、上西門院は亡くなっていたらしい。
「はい。権中納言基家さまが所有する邸宅です。どうやら、その妻も親王の乳母としてお仕えしているようです」
「ふむ……では、権中納言どのが淵酔で留守のところを狙って忍び込むか。主人のいない邸ほど無防備なものはないからな。だれも──」
言いさして、喉に違和感を覚えた知忠は軽く咳払いをした。
「いかがされましたか?」
「ん……いや──なんだか、声が出しにくいんだ」
「なんと。お体の具合はいかがですか? 熱っぽいとか、どこかお痛みがあるとか」
「それは大丈夫だ。声だけが、おかしい」
しきりに咳払いをする知忠に、為範は顔を明るくした。
「おそらく、お声が変わろうとしているのでしょう。これまでよりも低い声になる過程でございます。──しかし、万が一ということもございます。ご無理をなさらずに、今宵は外へお出でになるのはお止めになったほうがよろしいのでは」
「いやだ。ここまで来たのだから、母上にお会いするまでは帰らない」
「ですが──」
「心配するな。女の格好をして行く。着物も用意させた。もし見つかったら、ん──邸のだれかの童女か下仕のふりでもしていればいい。ああ、わたしには妹がいたな。どうせ母上といっしょにいるのだろう。妹付きの童女というのはどうだ」
ときどき声をひっくり返しながら、知忠は楽しみで仕方ないとでも言うように薄く笑った。
山奥で育ったとは思えない青磁のようになめらかな肌と、涼しげな目もとを彩る濃いまつげ、血色の良い小振りな唇。どれをとっても可憐で愛らしく、夜目であればだれも少年だとは思わないだろう。
翌日、薄化粧をほどこした知忠は、目立たないように網代車へ乗りこんで持明院第を目指した。ところが、あらかじめ潜り込ませていた雑人から、親王の不在を聞かされた。
「母上は? 母上も親王に付き添っておいでなのか?」
「雑人によれば、そのようでございます。やはり今宵はひとまず、一橋へお戻りになりましょう」
「……どこへお出でなのか、いつお戻りなのか、調べさせろ」
「かしこまりました」
出鼻をくじかれた知忠は不機嫌に言いつけた。
七歳で母と別れてから、じつに六年が過ぎている。為範が言うように、知忠の身の安全を考えたが故の沈黙なのか、それとも、とうに知忠の存在などなかったことにしてしまったのか──
(ひと言、たったひと言でいいんだ。母上がわたしの名前を呼んでくだされば、それだけで、わたしはわたしの存在をたしかめられる)
平家の遺児として追われる身でありながら、母からは打ち捨てられたも同然の対応が理不尽でならない。六代のように母がそばにいてくれたなら、どれだけ心強く、また、平家の血を引く者としての矜持を貫くことができるだろうか。
(母上、わたしはいつまで逃げ隠れていればいいのですか? これではまるで、わたしは浮き草のようではありませんか)
自己を確立していく年ごろになるにつれ、知忠はおのれの存在がいかにも不安定であるということを自覚し、そのことが心の棘となって絶えず痛みを感じるようになっていた。
やがて日が変わるころになると、親王は新嘗会に参列するために参内しているようだという情報がもたらされた。
「親王が内裏に……ということは、母上も内裏にいらっしゃるのだな」
「そうだとは思いますが。──知忠さま、ここは思いとどまられたほうがよろしいのでは。さすがに宮中へ忍び込むというのは、危険が過ぎます」
「なにを言っている。むしろ宮中こそ忍び込みやすいというもの。いまなら舞姫たちの女房や童女が大勢いるんだ。知らない顔があってもだれも不審には思わないだろう」
知忠は不機嫌な顔のまま、なにかと引き止めようとする為範へ言い捨てた。
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