「西井、コンビニに行くぞ」


 藤澤は、あくびをかみ殺しながら、のっそりと立ちあがった。まだ若々しい食欲を誇っていながらも、腹をいっぱいにすることが叶わずにいるふたりは、今日もまた値引きのシールが貼られた弁当を買い、一本の缶ビールをちびちびと飲むしかない。


 夕焼けに染まる刷りガラスの窓を開けてみると、万雷の拍手のように夕立が走っていた。部活帰りであろう土のついた体操着をきた学生がふたり、悲鳴をあげ、青春の香りに酔いながら、西井の目の前を駆け抜けていった。


 隣のベランダに吊り下げられた風鈴が、チリんチリんと乱暴に鳴り続いている。向こうの家の屋根を叩く槍のような雨は、夕焼けに照りかえった瓦に白い線をたくましく走らせていた。


「この雨で試合が成立してなかったらなあ」などと、藤澤は両手を頭の後ろで組んで、ぼんやりとつぶやいたが、凱歌を謳う雨音のせいで、だれの耳にも届いてはいなかった。夕立はまるで、彼らをあざ笑うかのように、もう一段と強まりはじめた。


   ――――――


 日が暮れてしまうと、耳をつんざく雨音は止んだ。それでもなお、いつか澱んでしまった空が、水たまりに波紋を広げている。藤澤は穴のあいた傘を差して、じめじめとした夜道を、幾重もの不満からくるいら立ちを抑えようと努めながら、速足で歩いていた。西井もまた、折り畳み傘のしたで肩を濡らしながら、ときおり横になる雨脚に辟易としていた。


 ふと、西井の脳裏に、ふるさとの光景が浮かんだ。


 晴れ晴れとした空のたもと、山の奥から吹いてくる涼やかな風が、幾度も稲をゆらしている。家の裏の軒下で、温泉地の名称が印刷された年季もののタオルをほっかむりにした祖母が、ラムネのなかのビー玉を鳴らしながら、なにかを待ち続けている。


 その音色は、夏らしいにごりのない玲瓏な響きをしているぶん、風情と郷愁を宿し、古めかしい清らかさとでもいうようなものを纏っていた。そして――、すでに他界したはずの母までもが、すだれの向こうにある台所で、そうめんをゆでているような気配がした。


 しかしいま、――未練がましさとうらめしさを、臆面もなくさらしているこの雨のなかで、ふたりは無言を貫きとおしていた。


 藤澤の足が、公園の入り口を踏んだ。ここを突き抜けるのが近道だということは、ふたりがすでに知るところだった。


 街灯から放たれる微光が、冷たい雨を透かしていた。水たまりを踏んだときに散ったしぶきは、こらえきれない悲しみが噴火したかのように感情的だった。どんよりとした風が吹くと、傘は後ろへと反り返りそうになった。


 ブランコは儚くも濡れそぼって、えぐられた砂の上にかさぶたのような池を作っていた。すべり台は、壊れた鹿威しのように水を流していた。月光がかくれてしまったいまでは、ジャングルジムが立体として見えることはなかった。公園の中央にある休憩スペースは、六角形の木組みの屋根のしたで束の間のオアシスを形作っていた。


 ふと、藤澤の足がとまった。彼はその暗い横顔を西井に見せたかと思うと、またすぐに体を戻して、背中をボロボロのパラソルで隠した。それにつられて、西井も目線を真横へと流した。


 そこは休憩スペースで、――色の濃い光のたもとでふたりの男女が透けた制服の肩をよせあって、雨が止むのを心細い面持ちで待っていた。いや、きっと、燃え上がるような青春を感じ合っているのだろう。


 その光景が目に入ったせいなのか、忽然と首筋がかゆくなった西井は、服のえりを使ってごしごしと皮膚を掻いた。すると、熱気のなかのマウンドに立つ、エース番号を背負った投手――境――の投げた高めに浮いたストレートが、レフト方向へと弾き飛ばされたあのシーンが、運命のように、いやむしろ宿命のように、西井の頭に浮かんだ。


 5回を投げ切れずにマウンドを降りた彼がベンチから見つめた先には、二番手の投手ではなく、――高校生最後の夏の県大会の決勝、背番号「1」をたくされ、球数が三桁になりながらもマウンドに立ち、白球をグローブに隠し、フォークボールに握りかえ、いままでにないほどにストンと落ちる球を投げた、あのころの彼の姿がおぼろげに見えていたのかもしれない。


 そんな妄想は、しばらく、彼の頭から離れようとはしなかった。永遠の一時とでもいうようなものの気配を、身近にあるどこかから感じながら。……

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傍流では沈まぬ 紫鳥コウ @Smilitary

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