傍流では沈まぬ
紫鳥コウ
上
梅雨はまだ見ぬ地平に希望を見出したかのように瞬く間に走り抜けていき、サイレンが前よりも聞きなじみがあるようになってきた。うだるような暑さが連日のように続き、日中はもう、窓を開けはなしても涼やかな風が吹かないようになった。
それでも、隣の部屋のベランダには風鈴が吊るされていて、ときおり、かすかにチリんと鳴ったかと思えば、恥ずかしさに赤らんで、すぐにかしこまってしまう。
藤澤は、冷房を目当てに、毎日のように西井の家に来ていた。「もう一度下げてくれないか」と、いつも哀願をする。どこかほこりっぽい冷気は、肌着一枚になったふたりに、ラムネの瓶のなかのビー玉のような心地を覚えさせた。
藤澤は、テレビの前にあぐらをかいて、ところどころ塗装の剥がれた小さな円卓の上に置かれた麦茶を、あっというまに飲み干した。ティーバッグが底の方で力なく沈んでいるポットをとりあげて、ガサツな動作で二杯目を汲みだした。……
――――――
エース番号を背負った境の一球目は、外角いっぱいのストレートだった。しかし球審の手はあがらなかった。キャッチャーから山なりに投げ返された白球を前のめりになってグローブにおさめると、額の汗をユニフォームでぬぐった。
「はやく投げないとボークになるぞ」
藤澤は両手を背中の後ろにおいて身体をだらしなく反らせながら、ボソッと冷ややかに言い放った。
境の二球目は浮き球になって、レフト方向への大きなファールフライとなった。打球の方向へ身体を向けた彼の顔には、制球力への不安が見え隠れしていた。
「今日の審判はあのコースをとらんなあ」
藤澤の言う通り、外角いっぱいの球はことごとくボールの判定になっていた。今日の境のストレートはシュート回転気味だったため、ほとんど必然的に外角へと流れていた。
初回は二つの四球を許しただけではなく、前年度の打点王である五番バッターに七球ねばられたあと、右中間にタイムリーヒットを打たれてしまった。
今年のドラフトで二位指名だった大会常連の強豪校出身の内野手は、チーム事情により外野にコンバートされており、クッションボールの処理がうまくなかった。打者が危なげなく三塁ベースを踏むと、アウェーにもかかわらず詰めかけたレフトスタンドのファンから大声援が飛び交った。
「二軍から外野手をあげてくればいいのに。まったくなあ。監督の采配はどうかしてる」
冷淡な藤澤の言葉の裏には、日々の疲れが見え隠れしていた。それを聞いた西井は、どうしても反感を覚えずにはいられなかった。しかし、言葉にはしないだけで、同様のことを感じている自分のことも意識せざるを得なかった。そのうしろめたさを抑えつけようと、「言い過ぎ」と、テレビ画面を見つめたまま呟いた。
「なんだよ、これくらい。SNSの連中よりお淑やかなことを言ってるだろ」
藤澤は、すでに保証切れになった携帯をとりだしてアプリを起動させると、慣れた手つきで検索結果を突き付けた。「二軍に落ちろ」「無能」「監督の愛人采配なんとかしろ」「はい、お決まりのパターン。この雑魚チームが」「最低限の仕事をしろよ」――そんな投稿が次から次へと見つかった。
藤澤のアカウントもまた、どす黒い感情であふれていた。それは、くすぶっている芸人らしい影の色をしていた。仕事への不満と、同期たちへの羨望は、ラディカルな批評の姿を現して、スモッグの中にでもいるかのような息苦しさをばらまいていた。
「裏垢でのお前の投稿、愚痴ばっかりだな」
「おい、見るなよ!」
相方が日々の不満をこれほどまでもため込んでいたのかと思うと、西井は憂鬱にならざるをえなかった。中古ショップで買い求めた本棚に並べられたノートに、寂しい目線を投げかけもした。
「形原のやつ、またこんな写真を撮ってあげてるわ。売れっ子はいいねえ。楽しそうな顔してる」
もう一度放られた携帯の画面には、すっかり売れっ子になった後輩が、軽微な変装とともにユニフォーム姿でうつっていた。「今日こそ勝つぞ!」という一言に、やたらめったらとハッシュタグをつけていた。
いいねはどんどんカウントアップされていく。彼のキメ顔や剽軽な姿をアイコンにしたアカウントが、好意を全面に押し出したリプライを添えている。
「ほんとに勝ったみたいだな」
テレビ画面には他球場の結果が表示されており、どうやら九回裏にサヨナラ勝ちをしたらしい。
「あいつ、いま球場にいるわけないよな」
「あたり前だろ、パニックになるに決まってんだから」
居場所が特定されないようにすることは、有名人の責務のようなものだ。もちろん、ふたりは、そんな責務を負ったことは一度もない。週刊誌に狙われたことも、地上波の番組に出演したことも、前説に呼ばれたこともない。
「はあ……これ、完全に勢いに乗り始めてるよなあ。次のカードは負け越し決定かもしれん」
防御率が高騰し続けているエースは、もう降板していた。このあと3イニングスを投げたロングリリーフの方が、まだ安定したピッチングをした。しかし、そのあとに登板したリリーフの成績は、守備陣を強い日差しが蔓延した球場のあちこちに、長いあいだ拘束し続けるには充分のものだった。
九回裏の攻撃はあっさりと終わり、日陰になったベンチには、いら立ちの空気が張りめぐらされていた。テレビ越しから、現地に応援にかけつけたファンの罵声が、力尽きる前の蝉の最後の一鳴きのように、かすかに、こころぼそく聞こえてきた。
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