三日目・勇気の一歩

 明くる日。玲雄もさすがに昨日のように、クラスメイトから持てはやされることはないだろうと考えていた。

 二日も前の出来事など風化されて、きっと別の話題が教室を支配しているはずだと。

 そんな予想は、教室の戸を開けるまでもなく覆された。

「おっ、来た来た! 如月君、またまた大活躍したんだって?」

 二年A組の教室前の廊下に、もう何人もの生徒が玲雄の登校を待っていた。

 キョトンとする玲雄に、男子も女子も口々に賞賛しながら近付いてくる。

 玲雄の名前を呼んだのが、隣のクラスにも聞こえたのだろう。玲雄の後ろからも大勢、やってきた。

「聞いたぜ~、昨日は電車の中で暴れてた奴をワンパンでやっつけたんだろ?」

「バッカ、如月君が暴力なんか振るうはずないだろ。また外国人に英語で説教してやったんだよ」

「違うって! 酔っ払いに絡まれてた女の子をカッコよく助けに入ったんだって。マジ、俺見たもの」

 前から後ろから聞かされる話は、昨日にも増して大きくなっている。

 誇張に誇張を重ねられた自らの武勇伝に、たじろぐ玲雄。

 一人が称え終えると、また別の誰かが口を開く。訂正しようと玲雄が口を挟む隙を与えてくれない。

 休み時間になってもクラスメイトたちは玲雄を解放してくれず、下校時間にはヘトヘトになっていた。

 玲雄と同じく帰宅部の生徒たちが、ホームルームの後も教室に残って玲雄を取り囲んできた。

「そんな大したことはしてない」という玲雄の言葉を謙遜としか受け取らない彼らを満足させて、教室を後にするのはひと汗かいた。

 昨日は家に着くのが遅くなった分、今日こそは早く帰りたかったのに。と思いながら、それほど悪い気分ではなかった。

 今まで味わったことのない、クラスの話題の中心になるという感覚。

 こそばゆいような、後ろめたいような、それでいて微かな喜びもある。

 自分のことでクラスのみんなが笑顔になってくれること。自分の周りに大勢の笑顔があることが、嬉しく感じられた。

(今の僕は、みんなが褒めてくれる通りのかっこいい奴じゃない。だけど……)

 誤解を誤解のまま終わらせたくはない。

 自分を称えてくれるクラスメイトたちを騙しているようで、いい気分はしないから。

 何より玲雄自身、自分で自分を褒められるぐらいかっこいい大人になりたいと願っている。

 そのために必要なことは何なのだろうか。

 下駄箱で靴を履き替えて、玄関を見据える。この先が、理想通りの未来へ繋がっているのだろうかと考えながら。

立ち尽くす玲雄の視界の端に、エアリーボブの少女が映った。

「あ……如月先輩」

「栗栖さん……もしかして、僕を待ってたの?」

「は、はい……あ、すみません……迷惑、でしたか?」

「そんなことないよ。ゴメンね、遅くなっちゃって」

 気が付けば帰りのホームルームが終わってから、ずいぶんと時間が経っている。その間、結卯は心細い思いをしながら玲雄を待っていたことだろう。

 しゅんとなりそうな結卯をなだめる。

 そこで、玲雄もあることを思い出す。

「あー……僕の方こそ、迷惑かけちゃうかも」

「え……?」

「ほら、僕と一緒にいると、またトラブルに巻き込まれちゃうよ?」

 一昨日も昨日も電車内のトラブルと出くわした玲雄だ。もしかしたら治安の悪さが原因ではなく、自分が巻き込まれ体質なのかもしれないと思い始めていた。

「そんなこと……ないです」

 玲雄が結卯に言った言葉を、今度は結卯が返す。

 それから少しだけ目を伏せて、胸の前で手を合わせて言葉を紡ぐ。

「私、は……如月先輩に、どうしても伝えたいことが……あの時の、お礼を言いたいんです」

「お礼? あの時って……」

 目を丸くさせながら、結卯の言葉を繰り返す玲雄。

 また何か勘違いされているのだろうかと思っていると、顔を上げた結卯と目が合う。

 その視線に迷いは無く、しっかりと玲雄を見つめていた。

「二月の……受験の日、でした」

「受験の日……」

 とっさに玲雄が思い浮かんだのは、高校受験のことだった。

 二ヶ月前の二月に、結卯が受けたあゆみ橋高校の受験日のことかと。

 その日は確か、授業は無かったはず。今年の二月も寒かったから、休みの日は家の中で温まっていたいと思った記憶がある。

「受験が終わった帰り、駅に着いたら、帰りの電車賃が足りないことに気が付いて……あの日も、両親は仕事で家にいなくて、迎えに来てもらうことも出来なくて……そんな時、先輩が助けてくれたんです」

「僕が? 助けるって、何を……」

「……私が、帰れないでいたから……私の代わりに、切符を買ってくれました」

 玲雄は自分の記憶を遡ってみる。

 結卯を初めて見かけたのは、一昨日の放課後だと思っていた。

 二ヶ月前、あゆみ橋駅で結卯は玲雄が切符を買ってくれたと言う。

 言われてみれば、うっすらと思い出す。二月の寒い日、駅で中学生くらいの女の子が困っているのを見かけた気がする。

 それが今、目の前にいる結卯と同一人物であったかまでは自信が無い。

 多分、その時の結卯は不安でいっぱいで表情を曇らせていたことだろう。一昨日、下駄箱の前で出会った可愛らしい少女と結びつかなかったとしても無理はない。

「ごめん、覚えてないや」

「それは、きっと……先輩にとっては、当たり前のことだったから。でも、私にとっては……違う。私は、あの時……初めて、人の優しさに触れた気がしたんです」

 人の優しさという響きに、玲雄は何となく思い当たった。

 玲雄も人付き合いが少ない方だから、結卯の気持ちが分かる気がする。

 結卯の両親は共働きで、結卯はきっと小さなアパートで一人で過ごす時間が多かったのだろう。

 そのため大人しく、人と話すのが苦手な少女に育った。

 玲雄は想像を働かせる。自分がかっこいい大人になりたいと夢見るように、結卯もきっと今の自分から脱却したいと願ったことだろう。

「もし、私が逆の立場だったら……きっと、見て見ぬふりをしてました。そんな自分の情けなさを、いつまでも責め続けていたと思います。先輩のように手を差し伸べられるのは、すごく……勇気があることだと、思います」

 玲雄も同じだ。目の前で誰かが困っているのを見れば、心が痛む。

 それでいながら、自分が手を貸すのは余計なことかもしれない。かえって迷惑なことかもしれないと、足踏みしてしまう。

 そして見て見ぬふりをして通り過ぎたことを、いつまでも後悔したことだろう。自分で自分の心の弱さを許すことが出来ずに、いつまでも引きずって、以前よりももっと弱い人間になっていただろう。

 だから、自分の心の負担を減らすためにも誰かの助けになろうと考えてきた。

 最初は、それでもいい。そうして行動し続ける姿が、いつか自分が目指した理想と重なればと。

「……ありがとう、ございました……切符を買ってくれたことだけじゃなくて、もっと大切な……人としての勇気と優しさを、教えてくれて……」

「……お礼を言いたいのは、僕も同じだよ」

 玲雄はただ、両親に憧れて両親のように行動したまで。

 結卯が語る本当に人として大切な心を持っているのは、玲雄の両親のような大人だ。

 玲雄はそんな二人の真似をしているだけ。それでも玲雄を通して、結卯は人の心に触れることが出来たと言う。

 それは事実だと、玲雄も確信した。

「栗栖さんがそう言ってくれるおかげで、僕は自分が取った行動に間違いはなかったと信じることが出来る。そのことについて、栗栖さんに感謝したい気持ちでいっぱいだよ」

「……いいえ。私は、まだ弱くて、先輩みたいに勇気も優しさも持っていないから……先輩に、お礼を言ってもらえる資格なんて無いから……それでも今のまま、弱いままでなんていたくない……先輩が教えてくれたみたいに、私も……」

 まっすぐに玲雄を見つめる結卯の視線。そこに弱さは感じられず、明るい希望に満ちていた。

「私も、誰かの助けになれるぐらい強くなりたい。先輩みたいな人になりたい。だから、そのためにも……先輩の側で、先輩のことを見続けていたいんです」

 顔を赤らめながらも、決してそれを隠そうとはしない。

 自分の想いを乗せた言葉を、結卯は最後まではっきりと言い切った。

 結卯の中に芽生えた、玲雄への憧れと確かな勇気。玲雄も、そこから目をそらそうとはしない。

「僕もまだ、本当の意味で誰かの憧れになれるほど立派な人間じゃない。それでも、今のままでいたくないのは僕も同じだから」

 自分を見つめる結卯の瞳。それが輝いで見えるのは、純粋な想いゆえか。

 その輝きを消すまいという決意が、玲雄の目にもあふれていた。

「だから……栗栖さんには、僕の姿を見ていてほしい。栗栖さんに幻滅されないよう、僕も勇気と優しさを持ち続けるから。栗栖さんが僕を見てくれている限り……僕は、自分が憧れた姿を忘れないはずだから」

 人知れず立てた誓いがある。

 両親のように、かっこいい大人になりたいと。

 自分を称えてくれるクラスメイトの期待を裏切りたくないと。

 そのために必要なことは何なのか――憧れと共に自分を見つめる結卯の瞳に、玲雄は見出していた。

(栗栖さんの目を通して映る僕の姿……それが、僕が思い描いた理想の姿と重なるんだ)

 結卯の憧れを消すまいと行動し続けていけば、その先に玲雄がなりたいと願う未来が待っていると確信した。

 そして玲雄への憧れを抱き続けていれば、結卯もまた自らの理想へと近づけるはず。

 だから二人は一緒にいるべきだと、互いに信じていた。

「……はい。ずっと、先輩のことを見ています。先輩の隣で、先輩と一緒に私も強くなる……約束します」

「うん……行こうか?」

「……はい!」

 互いに夢見る未来の姿。憧れの人たちと同じように、立派な大人へと成長した姿。

 二人一緒なら、必ずそこへ辿り着けるはず。そんな希望を、それぞれの胸に抱く。

 二人は並んで、未来への一歩を踏み出した。

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勇気のあゆみ 相川巧 @yosemite

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