蝉の声が消えた日 ─ 終

 「見て、陽太。空が燃えてる」


 彼女は白くて長い人差し指で、空を指した。顔を橙に染めながら見つめる彼女は、どこか子どもみたいだった。


「本当だ。まさに夕焼けって感じ」

「いいよね、夕焼け。すごく綺麗で、ずっと見ていられる」

「そう? 僕にはよくわからないけど」

「情緒の無い人だね」


 僕は彼女の部屋のベランダに立っていた。三メートル隣には空を見つめる彼女がいて、今日も僕だけが彼女を見ている。

 僕が彼女に「好き」だと溢してから、一ヶ月と少しがたった。あの日もこうして、ここで空を見ていた。僕は相変わらず彼女が好きで、相変わらず彼女の弟だった。


「あたしさ、好きだよ」

「…なにが?」


 彼女の口が紡いだ「好き」という言葉に、僕の息が僅かに詰まる。


「夕焼けだよ。夕焼け」


 その好きの向く先が僕ではないことくらいわかっていた筈なのに、そうなってしまった単純な自分が少しだけ情けなくて、少しだけ腹が立った。


「…なんだか、少し意外」

「なに? あんた、自分のことかもって期待した?」

「…いや、全然」


 揶揄う君を避けて、僕は彼女が好きだという夕焼けの空を見た。彼女の頬を橙に染め上げる空や太陽は、怖いくらいに赤く燃え上がっている。


「あたしさ、まず夕焼けって名前が好きなんだ。安直なような気もするし、大胆であり繊細な感じもして、素敵な語感でしょう?」

「…考えたことなかったけど、確かに言い得て妙かもね」


 僕にとっての夕焼けは夕焼けで、それ以上でも以下でもなくて、いつもただそこにあるだけのものだった。それが彼女の言葉一つで、どこか違う何かになってしまう。こうして僕の世界に今までとは違う色をつける彼女の言葉が、僕は好きだったんだ。


「ねえ、夏月さん、この場合焼けてるのは空? それとも太陽?」

「確かに、どっちだろうね。でも夕焼け空っていうくらいだし、空なんじゃない?」

「なるほど」


 彼女が煙草とジッポライターを取り出した。キンと音を立てて火を灯すと、ジジジっと煙草の先が赤黒く燃える。彼女が少し目を細めながら真っ赤に燃える空に向かって煙を吐けば、僕の胃なのか食道なのか、はたまた喉なのかよくわからないその辺りが、ギュッと握られたように重くなった。


「あ、もしくはさ、焼けてるのはあんたかもね。それからあたし」

「どういうこと?」

「煙も、あんたも、多分あたしも、今は真っ赤でしょ。空と一緒にあたしたちも焼かれてんだよ。そしてそのうち空もあたしたちも黒くなるんだ」

「なるほど。これもまた、言い得て妙だ」

「は、なにそれ」


 鼻で笑って、彼女は煙草の火を消した。やっぱり消すには勿体無いくらい長い。それなのに僕たちを包む空気は苦味で溢れていて、早く風が攫ってくれればいいのにと思った。

 煙草を消し終えた彼女がまた空を眺めて、僕はその視線を追う。同じものを見つめれば、同じところに立てるのだろうか。


「なんかさ、綺麗になった?」

「何が? あたしが?」

「いや、空が」

「なんだ、そっちか」


 僕は軽口を叩く君が好きでもあった。でも、その口元から煙草が香るのは少し寂しくもあった。僕は彼女の三メートル隣から、彼女の煙草の香りを纏った赤い唇に視線を移して口を開いた。


「夕焼けって、こんなに綺麗だったっけ?」

「今日は確かに、随分と壮大で綺麗だね」


 彼女の薄くて赤い、柔らかな唇がそう繋いで、僕の視線をまた空に戻す。僅かにかかった雲が、黄、橙、赤、紫に染まっていた。こんな夕焼けは、久しぶりのような気がした。


「もう、秋だね」

「夕暮れは確かに、少し涼しくなってきたかもね」

「ねえ陽太、『枕草子』を知らないの?」

「え、知ってはいるけど…」

「秋は夕暮れって、知らない? 清少納言も言ってるんだ。秋は夕暮れがいいってさ。だから夕焼けが美しくなったらきっと、秋が来たってことだよ」


 『枕草子』を知ってはいたけど、内容も意味も頭になかった僕はただ「へえ」と相槌を打った。それから「ちなみに『夏は夜。月のころはさらなり』つまり夏はあたしの季節ってこと。まあ、新月もいいって、彼女は言ってるんだけどね」と呟いた彼女にも、僕はまた「へえ」と返した。

 ここ数ヶ月、彼女は酷く落ち込んでいた。僕もおそらくそうだった。僕たちを、特に彼女を色濃く包んでいた白檀の香りが薄まるにつれて、少しずつ明るくなったと思う。それは嬉しくもあり、寂しくもあることだった。


「ねえ陽太、そういえば今日は蝉、鳴いてたっけ?」

「あれ、どうだろう? 鳴いてなかったかも」

「じゃあもう、本格的に夏も終わりだね」


 彼女はそう呟いて、どこか遠くを見つめながらジッポライターを弄った。彼女がいつも大切に手入れをしているそれは綺麗で、夕焼けの赤を反射している。


「蝉って鳴き始めた時は気づくのに、鳴きやんだことには気がつかないよね。この間ツクツクボウシが鳴き始めて『ああ、今年も夏のピークが過ぎたな』って思ってたのに、いつのまにかみんな静かになってた」

「なんだか、わかるかも」

「それに、夏の間はずっと道に横たわる蝉を見かけてたのに、夏が終わると見かけない。あんなに沢山いた筈なのに、どこへ消えたんだろうね」


 彼女は耳を澄ませるみたいに、目を細めた。身を預けるために手すり寄せた左手の薬指で、シルバーのそれも赤を反射した。


 夏も、蝉も、いつのまにか消えていく。彼女が纏うあの人の気配も、いつか消えていくのだろうか。


 遠くで犬の声がした。少し大きな犬種のようだった。夜は静かに虫が鳴くだろう。空気の匂いでそんな気がした。


「ねえ、僕はやっぱり夏月さんが好きだよ。この関係を変えたいわけじゃなくて、ただ夏月さんが知っていてくれれば、それでいいと思ってる」


 僕はもう、僕の感情を隠さなかった。


「ひどい話だね。それに知ってたよ。もう、ずっと前から。でも駄目、君は弟。あの人の弟で、あたしの義弟」

「ずっと?」

「さあ、この世に不変はないからね。でも今は、そうであってほしい」

「そっか」


 彼女はカラカラと窓を開けて。ふわりと消えるみたいに部屋に戻っていった。去り際に「今日は新月だから、そこにいると本当に真っ黒になるよ」と、背中で言った。僕は「うん」とだけ返す。カーテンの隙間から覗いた部屋の中には、段ボールが転がっていた。もう少し狭い部屋に引っ越すのだと彼女は言った。隣の部屋のベランダにあったゴーヤもすっかりと消えている。


 時間が進む。

 季節も、人も、進んでいる。

 僕の弾けた赤い実は、芽吹くのか、枯れるのか。

 時が過ぎればわかるだろうか。

 でも今は、誰にも分からない。


 了

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熟れた苦瓜 石橋めい @May-you

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