花火

 怖いくらいに静かだ。

 車の音も、人の声もない。

 川沿いを伸びる夜道に漂うのは、

 蛙の声とかすかな水音、

 それから時折風に揺れる草木の音だけ。


「すごく、静かだね」


 ふと君が口を開いた。続けてアタシも口を開く。「うん」とだけ言った。その拍子に転がった飴玉が口の中でカチと小さな音を立てて、それすら妙なくらいに大きく響くから少し驚く。


 アタシたちは二人、夜の道を歩いていた。適当に車を走らせて来たから、ここがどこだかよくわからない。この川沿いに延びる道はどこにたどり着くのだろうか。ぽつりぽつりと並ぶ街灯は仄かに周囲を照らすだけで、夜の先を見せてはくれない。ただ夜がずっと先まで続いている。


「あのさあ、ほのちゃんの突発行動ってどうにかならない? これに毎回巻き込まれる僕は大変なんだけど」


 川の音と蛙の声を聞きながら、ぼうっと歩くアタシに君が言った。ブツブツと文句をぶつけながらも、素直についてくる姿は少し面白い。


「すまんね」


 アタシが適当に返せば、街灯の柔い灯りに照らされた君の呆れ顔が夜に浮かぶ。それは少し可愛くもあった。


「もう、こんなに歩くなら、サンダルじゃなくて靴を履いてくればよかったし」


 口を尖らせながら文句を重ねる癖に、君はどこが楽しそうだ。

 午後十一時前、アタシは突然ドライブがしたくなった。だからよれたTシャツのまま部屋を飛び出して、なんとなく君を捕まえた。君も見慣れた部屋着のまま、アタシの車に乗り込んだ。


「ごめんごめん。でもアタシもスリッパだからさ」


 適当に引っ掛けてきたスリッパの隙間に、アスファルトの上の細かな砂利が侵入して少し痛い。そんなことに意識を取られながら、アタシは君に返事をする。それから雑な口調で「許してよ」と続けた。君は「しょうがないなあ」と不服そうにしながらも口にする。

 ちょっとだけ、こんなんで許してくれるんだって思った。


「でも、気持ちいい夜じゃん。来て良かったと思わない?」


 君の手に下げられたコンビニ袋を風がカシャっと鳴らす。それからアタシたちの腕も撫であげた。それは夏らしい熱と湿気を確かに含んでいるのに、一日中昼間の熱を忘れないコンクリートジャングルの風とはどこか違っていた。


「ほのちゃんの思いつきって、着いて行ってみると案外楽しいから余計に腹が立つんだよね」


 君は口にしながら、その苛立ちを表現するように転がっていた足を蹴る。石ころはカラカラと軽快な音をたてながら闇の中へと向かっていった。


「はは。アタシ、楽しくないことはしないからね」


 アタシも石を蹴る。同じようにカラカラと音を立てて、今度は縁石から車道に落っこちて止まった。歩道と車道は縁石でしっかりと区切られているのにこの道を進むのはアタシたちだけで、これから先もずっと続くであろうこの二つの境界線が、なんだか曖昧なものに思えた。


「そういえば颯太、またフラれたらしいじゃん」

「…なんで知ってんの」


 アタシの揶揄う声も、君の呆れた声も、すぐに夜の闇に攫われて消えていく。ここはそれくらい真っ暗で静かだ。


「隣の学部の子たちが騒いでたよ」

「あぁ…」


 面倒くさそうに溢すくらいなら、初めから付き合わなければいいのに、と思った心は敢えて外には出さなかった。出してもたぶん、ただ夜に攫われる。


「向こうから告白してきたくせに『もうよくわかんない』だってさ。そもそも初めから何一つわかってなかったくせに、よく言うよ」

「怒ってるねえ」

「怒ってないよ、悲しんでるんだ」

「あら意外。そんなに好きだったの?」

「いや、ぜんぜん」


 アタシたちの上にある空は薄い雲が無数に浮かんでいて、満点の星空とは言えなかった。そもそも少し欠けたくらいの月が大き過ぎて、星がない。そんな夜空は不思議と月の周りだけ雲がなくて、その明かるさが地面によく届いていた。青白い光に照らされる君は一層神秘的で、中性的で整った顔が仄かに光って見えた。


「好きじゃなかったんなら、いいじゃん、べつに」

「まあたしかに、どうでもいいかもね」

「はは、ちょっとひどい」

「そうかな?」


 アタシはサンダルを一度脱いで砂利を取り除いた。立ち止まったアタシを置いて、君はゆっくりと歩き続ける。


「颯太がモテるのにすぐフラれる理由ってそれだよね」

「どれ?」

「優しそうな仮面被っておいて、中身はぜんぜん優しくないとこ」

「え、僕は優しいじゃん。大事なものには、ちゃんと」


 アタシは二、三歩前を行く君の背中に追いつく。パタパタとサンダルを鳴らすと、また砂利が入った。


「僕は僕一人だからね。大事なものにだけ優しさを向けたいの。みんなに渡せるほど、僕の優しさの総量は多くないから」

「なにその理論。やっぱ颯太って面白いわ」


 アタシは笑った。そしたら「え、ない?」って本気の顔するから余計に笑えた。

 アタシが暫くケラケラ笑っていると、黙々と歩いていた君が口を開く。


「あ、ねえあそこ、良さそうじゃない?」

「たしかに」


 そもそもこのドライブの果てに続けた夜の散歩は、コンビニで買った安い花火をするためだった。バケツが無いから水辺の近くで、それから民家の邪魔にならないような静かな場所、アタシたちはそんな場所を求めていた。

 車を開けた場所に停め、十五分ほど歩いて漸くこの河川公園みたいな場所に辿り着いた。


「でもちょっと、夜の川って怖いね」

「ほのちゃん、流されないでよ」

「颯太こそ」


 冗談を言いながら、舗装された階段から川に降りていく。その途中に佇む小さな東屋が周囲を街灯に照らされていた。そのぼんやりとした灯りが川の方まで届いて、アタシたちはそれを頼りに川まで進む。

 都会の河とは違って転がる石はゴツゴツ大きいし、対岸はよく見えないけどたぶんすごく近い。悪い足場と薄暗い闇を歩きづらいサンダルで進めば、互いに何度かよろけて互いが笑った。


「この辺でやる?」


 ヨタヨタ歩いて、ケラケラ笑っていた君が立ち止まる。腰掛けられそうな石が並んだ場所を指差していた。


「うん、そうしよ。蝋燭あったっけ?」

「あるけど花火も少ないし、面倒だから直接付けちゃおうよ」

「そうだね」


 君の手に揺られていたコンビニ袋からアタシは花火を奪い取る。一番安いのにしたから本数は少ない。


「僕、花火やるのなんて数年ぶり」

「へえ。アタシはこの間ぶり」


 アタシは一本の花火を握って、ポケットからライターを取り出した。煙草なんか吸わないのにいつも持ち歩いている黄色いライター。大事な大事なお守りで、死ぬほど嫌いなもの。百円の安っぽいライターの癖に、アタシの心をどうしようもないくらいに揺るがしてくる。だから嫌い。でも捨てられない。


「のわっ! あっつい!」


 ライターは親指をくいと動かすだけで、簡単に火を灯した。手にした花火に寄せれば、花火がシュボッと音を立てて青白い火を噴く。それからパチパチと乾いた音に変わって、オレンジ色の火花を花びらみたいに散らし始めた。


「火傷するかと思った」

「大丈夫だって。ほのちゃん、そのまま僕にその火を頂戴」


 アタシの花火が溢す火花を君が受け取る。君が手にした花火はアタシのとは違う色の閃光を見せた。

 アタシはライターみたいだ。それもこの、安っぽい百円のライター。簡単に手に入れられて、簡単に火がついて、簡単に捨てられる。ジッポライターみたいに手入れの必要もなくて、失くしたって構わない、代わりが効く存在。花火みたいな綺麗さもなくて、オレンジの火が揺れるだけ。

 はぁと溜め息をついた時、アタシの花火もシュンと萎んで終わりを迎えた。黒く残った燃えカスがポトリと落ちる。これも、アタシみたいだ。


「あ、僕のも終わっちゃった。またライターで付けなきゃだよ」

「うん」


 アタシは二本目の花火に手を伸ばした。色はわからないけど、火薬の部分がストライプのそれはあの日の花火によく似ていた。


「ほのちゃん、あの人となんかあった?」

「なんでわかんの?」

「ほのちゃんの突発行動の原因、七割はそれだから」

「…うん。まあ、あった、かな」

「ふうん。そっか」

 

 花火に火を灯すと、あの日とは違う色の火花が散った。噴き出す火にも、今度は驚かない。


「アタシもさ、フラれちゃった」


 花火から目を逸らしたら、君と目が合った。君の瞳の中に、パチパチと弾けて散っていく火花があった。


「へえ。よかったじゃん」


 アタシの手の中で燃える火を、君は勝手に持っていく。ジジジッと移って赤に燃えた。黒い影と赤い光で彩られた綺麗な顔と、優しくこっちを見る目が嫌だった。


「なにそれ」


だから吐き捨てるみたいに言う。


「だってそうでしょ。あんなに未来も生産性も無い恋愛なんて、やめて正解。続ける意味なんてどこにも無かったよ」


そしたら君は突きつけるみたいに言った。


「そんなこと、アタシだってわかってたよ」


 言葉の通り、わかっていた。何の意味もないこと、損するだけだってこと。


「わかってたけどさ…」


 でも、辞め方がわからなかった。

 ついに二本目の花火も終わって、アタシはオレンジの火が燻るそれを川に浸した。そしたらジュッと小さく鳴いて完全に消えた。

 アタシは安いライターみたいで、燃えカスみたいだったけど、こうも簡単に火を消せなかった。もう殆ど消えかけの火が、今もどっかでジツジクと燻っている。


「何て言ってフラれたの?」

「…ねえ、普通そんなこと訊く? デリカシーってものを知らないの?」


 冗談半分で笑って言った。でも半分は本当で、思い出すのは少し胸が痛い。


「ごめん」

「嘘。教える。なんかさ、アタシが本気になるから面倒になったんだって。結局アタシはずっと、二番目以下だったんだよ」


 手元にあった小石を、なんとなく手に取って川に放った。闇の中でぽちゃんと音がする。これくらい簡単に、アタシは捨てられたんだ。


「うわ。最低じゃん」

「最低でしょ」

「なんでそんな奴が好きだったの?」

「なんでだろうね」


 溜息を吐きながら、君が花火を差し出した。二本手にしていたから二本とも奪い取って火をつける。火をつけるライターは、アタシがあの人に何か欲しいと強請ったらくれたものだった。あの夜、困ったような、そしてどこか面倒くさそうな顔でポケットから出されたこれは、今はないあの人の体温が滲んでいた。そして差し出した手の薬指に白く残った、指輪の日焼け跡だけは酷く冷めていた。


 二本まとめた花火が、盛大に燃えて散っていく。


「あの人はさ、欲しかった言葉をくれたんだよね。だから一緒にいると安心した」

「なんて言って欲しいの? 教えてくれたら、次は先に僕が言ってあげるよ」

「はは。それじゃ意味無いって」


 また花火が渡された。この二本が燃え尽きたら、後は線香花火だけになるらしい。燃えゆく花火は、少し大きな見た目とは反対に線香花火に似ていて控えめだった。


「そのライター、あいつに貰ったんでしょ?」

「うん」

「僕がもっと良いの買ってあげるよ」

「要らない。アタシは別に煙草も吸わないし。ただ、あの人からの何かが欲しかっただけから」


 二人で座る石は、太陽の名残か僅かに温かい気がした。


「ねえ、ほのちゃん。僕はほのちゃんになら優しさをあげられるよ」

「なんで?」

「あげられるって、思ったから」

「はは、なにそれ」


 それから二人で静かに残りの線香花火を燃やした。君があれっきり口を開かないから「すっごい静かじゃん」と笑ったら「線香花火は静かにやるもんでしょ」って真剣な顔で言われた。


「アタシは煙草吸わないし、花火ももうやらないだろうから、このライターは要らないよね」

 

 全部燃えた花火を前に、アタシは握っていたライター見つめた。三秒間見つめて考える。まだどこか迷っていたけど、ギュッと握り直して川に向かって腕を振った。バイバイって心で言った。


「ポイ捨てはダメ」


なのに君に腕を掴まれた。


「ゴミ屑でもちゃんとリサイクルだよ。まだなんか迷ってるんでしょ? 全部消化して、分解して、次に行かなきゃ」


 アタシはどっかで、川の底に消えなくて少しホッとした。あの人との関係を取り戻すつもりはない。でもこの悲しみや苛立ちや片付けないまま、無闇に捨てるのも違うと思った。


「できるかな」

「やるんだよ」

「…やるのか…」

「いっそのこと、これであいつを燃やしちゃう?」

「…悪くないかもね」


 くすくすと笑ってから、アタシたちは川を後にした。静かな夜の闇は、色んなものを飲み込んでいくけど、アタシの燻る心は飲み込んでくれなかった。でも少しだけ、軽くなった気がする。


「僕、ほのちゃんのこと好きなんだよね」

「ごめん。アタシは、わかんない」

「そっか」

「でも確実に嫌いじゃないし、寧ろ好きだと思う」

「ふうん」

「だからさ、ライターを捨てるまで、待っててよ」

「なるべく早くね。僕の優しさは、君のためにとってあるんだから」

「善処する」


 夜はまだ深い。

 でも、夏の朝は早い。

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