日暮らしは鳴く、僕は泣く

 カラン、コロン、カラン。


 君は下駄を鳴らしていた。


「あ、風鈴の音」


カラン、コロン、カラン。


「見て見て、ツユクサが咲いてる」


カラン、コロン、カラン。


「なんだか、蚊取り線香の匂いがするね」


 君は三つ足を出す度に、夏を見つけた。それから僕へ、嬉しそうに話す。蛙やヒグラシの声、風鈴や茂った草木のそよぐ音、君が見つけた夏の音に君の音が重なった。


「今日は浴衣着てきてよかったよ」

「どうして?」


 僕が聞き返すと君は、ふふっと笑って空を見上げた。

 今日の君は、僕が見つけた夏だった。夕刻の空気は澄んだ水に紺を溶かしたみたいな薄い闇で、白地に朝顔が描かれた浴衣姿の君は、いつもの君と何かが違った。


「浴衣ってさ、脱いだり着たりは大変だし、歩きにくいの。でもゆっくり歩くから、いつもは見つけられないものもたくさん見つけられる」

「たしかに、たくさん見つけてたね」


 君はいつも、一歩一歩ゆっくりと踏み締めるように歩く。それが今日はもっともっとゆっくりだ。

 陽が落ちても僅かに熱を残した田舎道のアスファルトが、僕たちにしっとりと汗を滲ませる。古めかしい木造の家がまばらに並ぶたけの道で、僕たちは田んぼの緑に囲まれていた。膝丈ほどまでに伸びた稲は風に揺られている。サワサワと葉が擦れる音が響いて、熱に混じった夏の夜の匂いが辺り一面に広がっていた。


「今日はなんだか、昨日よりもたくさんのヒグラシが鳴いてる気がする」

 

 そう言うと彼女はカナカナと声を真似た。その姿に、僕は思わずくすりと笑う。


「ヒグラシの声ってさ、どうしてこんなに悲しくなるんだろう」


 一通り真似てから君は言う。確かにヒグラシの声は、僕の心臓もきゅんと切なげに締め上げていた。その切なさの理由を考えてみながら、僕は君の疑問の答えを真剣に探す。


「うーん、楽しかった一日の終わりを告げられてる気がするから?」

「ああ、なるほど。たしかにそれはあるかもね」


 絞り出した僕の答えに、君は満足したみたいだった。踏み出された君の足元で、先程よりも綺麗な音で下駄が鳴く。


「私ね、ヒグラシの声を聞くと、なぜか無性に大切な人に会いたくなるよ」


 僕はわかるよと答えながら、その大切な人の中に僕がいるのかを問いかけたくなる。


「それから、楽しかったり懐かしかったりするような、いつかの時間に戻りたいと願ってしまう」


 その時間の中に、僕との時間があって欲しいと僕は願った。


「僕も、そう思う」


 そう答えた僕はきっと、一年後の夏にこのヒグラシの声を聞きながら君を思い出すのだろう。

 それから僕たちは静かに歩いた。下駄がカランコロンと鳴り、ヒグラシがカナカナと鳴いていた。僕の肘を君の浴衣の長い袖が何度も掠めて、その度に僕は君の白く小さな手を掴みたくなる。でも僕には、その手を掴む権利も勇気も無い。

 鳴き続けていたヒグラシの声がふっと途切れて、またすぐに哀しげな声で鳴き始めた。


「日暮れ、ヒグラシ、日暮らし…」

「どうしたの?」

「ん? なんだか美しいと思って」

「美しい?」

「そう。名前がね」


 僕は『美しい』と言う言葉を知っている。その意味も理解している。だけどその言葉を何かに向かって感じたことも無いし、口にしたことも数える程にしか無い。


「ミンミンゼミにツクツクボウシ、ニイニイゼミに、それからアブラゼミ。みんな声に由来した名前なのに、この子だけが『日暮らし』って名前で呼ばれてるの。きっと昔の人も、この声に何かを感じたんだろうね」

「確かに、日暮らしってどこか詩的だ」

「昔の人がこの声に何を思ってそう呼んだのか、思い起こすとすごく不思議な気持ちになるよ」


 僕にとってのヒグラシは、ただの昆虫だった。カナカナとなく、六本足の茶色い昆虫。それが君の言葉で美しいものに変わる。そして何かを美しいと思い、言葉にできる君も美しいと思った。

 またしても、君の浴衣の袖が僕の腕を撫でる。意を決して、僕は指先を君の白い手に向けて伸ばした。


「…ねえ、あのさ」

「次に行く街はね、ヒグラシの声が聞こえないんだって」


 僕が落とした音は、ヒグラシの声に飲まれた。その上に、君の声が重なる。僕の伸ばした指先は、タイミングを逃してするりと空を切った。夏の空気だけがその手に残る。


「…そっか」

「ヒグラシは暗いところが好きなんだよ。だから、キラキラ明るいところじゃ生きていけないんだ」


 静かに相槌を打つ。闇が少しずつ濃くなっていく。ヒグラシの声よりも、蛙の合唱の色が増えていった。


「ヒグラシは長い時間を暗い土の中で過ごした後、たった数日の間だけ昼と夜、それから夜と朝の隙間で鳴くの。昼間の爛々とした力強い子たちとは違う、茜と藍が似合う蝉。私、ヒグラシが好きだよ」


 蛙が田んぼに飛び込んだのか、ぽちゃんと小さな音がした。


「夏の間だけ、またここに聞きに来たら?」


 僕の言葉に、君は首を横に振る。


「じゃあ、僕が電話で聞かせてあげる」

「ありがとう。でも私、この緑の匂いと茜色、そこで鳴くヒグラシの声が好きなんだ」


 君は自然の音と匂いを捕まえるように、腕を前に伸ばした。今にも折れてしまいそうな、枯れ枝のように細く白い腕が夕闇の僅かな光を反射していた。


「二年後でも、三年後でも、来れるようになったらここに戻ってきてよ」

「…うん」


 ついにヒグラシが鳴かなくなった。蛙の声がよく響く。僕たちが目指していた提灯の橙が、もうすぐそこまでに迫っていた。

 君は「早く行こう」と言う。今にも消えてしまいそうな、君の小さな体が前に進んだ。カランコロンと音がする。


「ねえ、あのさ」


僕はまた、君に声をかけた。


カラン、コロン、カラン。


振り向いた君は、口紅で赤く染めた唇に人差し指を寄せている。


カラン、コロン、カラン。


「僕は、君が好き」


 僕は、もうずっと胸にしまっていた言葉を口にした。これはきっと、君にとって重たいものになるだろう。それをわかっていたのに、僕は思わず思いを声にした。

 その時、一匹のヒグラシが忘れ物でもしたみたいにカナカナと鳴いた。君は眉毛をハの字に下げて笑っている。


 僕は何故だか、無性に泣きたくなってしまった。



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