白球の詩

 カキィンと乾いた金属音が鳴る。グランドを転がって黒くくすんだはずの球は、真っ青な空に飲まれて白く光った。

 「上がった!」と誰かの声が響くよりも早く、僕は僕の視界を狭めていたマスクを投げ捨てる。広くなった視界の先で、空の青が一層眩しくなった。ジワジワ、ガシャガシャ、蝉がひたすらに騒ぎ立てる焦茶色のグランドの上で僕はただ真っ直ぐに白球を追った。


「捕れぇ!」


 聞き慣れた声が鼓膜を撫でた。

 僕はグランドと同じ焦茶色をした腕を伸ばして、青い空から僕を見下ろす白球を捕らえようとする。身体を前に運ぶたびにプロテクターが音を立て、爪をたてるスパイクが砂埃を上げた。

 宙を舞う白に集中すればするほど、僕の耳に響いていた蝉の声が遠のいていく。青い空と白い点、茶色い砂の色だけが僕の世界になったみたいだった。



───



 カキィンと響く金属も「オーライ」と叫ぶ声も、ボールがグラブに収まる音も、ここからは何もかもが遠くに聞こえた。針金を編んだだけのようなフェンスの向こうが、テレビ画面の向こうよりも遠くに見える。砂に汚れたあのユニフォームを脱いで、真っ白なワイシャツに装いを変えた僕は、もう二度とグランドに戻れない。


 僕は青々と茂る芝に描かれた、大きな灰色の木陰の中に腰を下ろしていた。そこから見つめた空は怖いくらいに青くて、濃い茶色の砂は太陽に焼かれている。白球を追い求め、同じように焼かれていた僕はもうどこにもいない。


「お、珍しい人発見」


 フェンスの先の遠い世界を見つめる僕の背中に、聞き慣れた声がぶつかった。少し低いけど、夏みたいに明るくて力強い君の声だ。


「おつかれ」


 風にショートヘアを揺らす君が、座り込んだ僕の隣に立つ。


「ぼうっと後輩の練習なんか見て何してんの。引退するのが嫌になった?」


それから首を傾けて、小麦色の顔で僕を覗き込んだ。


「それはない。むしろ嫌いな練習から解放されて清々してる」


僕の答えに「ふうん」と興味なさげに返した君は、僕と同じように芝の上へ腰を下ろす。チェック柄のスカートから小麦色の太ももが覗いて、僕は急いで目を逸らしたが、幸いも君は僕の視線に気づいていなかった。


「僕はずっと、あの地獄みたいな練習から解放されたかったんだ。でもいざ解放されてみると、何していいかわからない」


 僕は少し真面目な顔で口にする。しかし君は「そんなの受験勉強一択じゃん」と笑った。小麦色の肌でからりと笑う君は、まさに夏そのものだ。


「勉強はやってるよ。なんなら僕はお前より頭がいい。それよりほら、もっと他にあるじゃん」


 僕はチラリと見つめた君の笑顔から、すぐに視線をグランドに戻す。視界の端に僅かに残った君は、口を嘴みたいに尖らせていた。


「ひっど。それからって何があんの?」

「あー、ほら、海とか、プールとか?」

「そういうやつね。行きたいなら行けば? まだ夏なんだし、君は自由だし」

「練習しすぎて、人の誘い方も遊び方も忘れたんだよ」

「寂しい奴」

「うっさいな」


 それからカキィンと音がして、数十秒。僕たちの前に土をつけた球が転がった。僕が必死に追いかけたそれがコロコロと静かに動いて、フェンスに当たって静止した。針金を編んだだけのようなフェンスに阻まれて、今の僕が掴むことは許されない。

 それは代わりに後輩が拾い上げた。その後輩は僕に気がつくと「お疲れ様です」と声をかけてから走り去る。


「海行く? それかプール」


僕は小さくなる後輩の背中を見つめながら君に言ってみた。


「やだよ。私はまだ引退してないし」


これっぽっちも期待はなかったが、やはりイエスは返ってこなかった。


「さすがは当校女子ソフト部。僕らと違って強豪だ」

「別に、普通でしょ」


 君が僕を遇らうと、近くで鳴いていたらしいアブラゼミがジジジッと音を立てて飛び去った。蝉の声が遠くなって少し静かになる。


「十年、野球やってたんだね」


 いつもは夏みたいに明るい君の声が、秋の夜みたいに優しく言葉を紡いだ。


「長かった気がするけど、今思えば短かったような気もする」


 またカキィンと音がした。今度はここに来る前に、誰かの手の中に収まった。


「…ごめん」

「なにが?」

「あんたの十年、私がもらった」

「何でそうなるの」

「だって…実際そうじゃん」


 君はもごもごと言いにくそうにする。それでも僕は君が言わんとすることを理解した。


「野球を始めたのも、ここまで続けたのも、全部僕の意志だよ」


 練習は休憩に入るらしい。黒く焼け、砂に塗れた男たちが一斉に戻っていく。僕は君の小麦色の顔をじっと見つめていた。君も僕をじっと見ていた。


「似合わないんだからさ、しおらしくすんなよ。泣かれんのは十年前の一回で十分」

「うるさいなぁ。だいたい泣いてないじゃん」


 君は僕から視線をグランドに移すと、赤い唇を尖らせて不機嫌という意志を顔に出した。


「あとさ、僕の方こそ、ごめん」

「なにが?」

「約束」

「なんの?」


 不機嫌な横顔に今度は僕が謝ったが、君は心底不思議そうな顔で聞き返すだけで本当になんの話か理解していないようだった。

 熱を孕んだ風が少し強く吹いて、君の鞄につけられた手作りのお守りが揺れる。青いフェルトで『必勝』と書いてあった。


「甲子園、お前の代わりに行くって約束した」


 君は暫くまばたきを繰り返したあとで「ああ、あれね」と手を叩いた。練習が再開されたのか、大きな声が蝉の声を飲み込みはじめる。

 そういえば僕の部屋に置かれた大きなリュックにも、手作りのキーホルダーがついていた。確かあれにも同じように『必勝』と縫い付けられていた。


「え、忘れてたのかよ」

「いや、忘れてたとかじゃなくてさ…」

「まあ、最後は自分自身の夢でもあったけどね」


 僕たちは弱くなかった。でも『必ず勝てる』ほど強くはなかった。だからもう、僕が甲子園を目指すことはない。


「こうやって蝉の声を聞きながら野球見てるとさ、僕は今でもあの日のことを思い出すよ」

「あの日?」

「お前ん家で甲子園見てたら、お前が突然泣きながら怒り出したやつ」


 僕が少し笑ってそう言うと、君の拳が僕の左肩に突っ込んできた。蝉の声と打球音が、辺り一面を埋め尽くしている。


「突然じゃなかったじゃん。あれはお父さんとお兄ちゃんのせいだよ」

「そうだっけ?」

「そうだよ。私が『甲子園でピッチャーしたい』って言ったら、頭ごなしに『無理、無理、無理』って笑ってさ」

「実際そうでしょ」

「そうだけどさ、もっと言い方があるじゃん。子どもだよ? 悲しかったんだからね」

「なるほど」

「あんただけだったよ。笑わなかったのは」


 君は懐かしむように遠くを見つめて、芝の上に足を投げ出した。小麦色の両脚は綺麗に鍛え上げられている。


「もう、あれから十年か…」

「十年だよ。『代わりに甲子園行ってやる』って言って宥めたせいで、僕は遊び方すらわからなくなったよ」

「それは自分のせいって言ったじゃん」

「まあね。でも楽しかったよ、野球は」

「そうだよ。楽しいんだよ、野球は」


 言葉通り、楽しそうに微笑む君は足先を遊ばせた。ローファーのつま先をつけたり離したりしながら、パタパタと音をたてる。


「海、一緒に行ってあげようか?」

「いいよ別に。お前の夏、まだ終わりそうなないし」

「うん。終わらせない」


 僕たちは二人してグランドを眺めていた。紅白戦が始まったのか、グランドで焼かれる後輩たちは一つの白球を必死に追っていた。僕たちの視線も、その小さな点に集中する。


「その代わり応援に行くよ。だから、負けんな」

「負けないよ。だから、応援は要らない」

「なんで?」

「恥ずかしいじゃん」

「お前は来てたくせに?」


 僕は白球から目を離して君を見た。君も僕を見た。驚いた顔をしていた。


「なんで知ってんの?」

「お前の声が聞こえたから」

「嘘でしょ?」

「本当。お前の声はよく響くから」


 そう伝えて、僕は視線を戻した。誰かが打ったらしい。歓声が上がる。あの日の僕はいつもよりずっと集中していた。歓声も大きかった。それなのに、君の声はいつもよりも近く聞こえた。


「八回裏のキャッチャーフライ、あの時は特によく聞こえたよ」

「あれ、よく捕ったね」

「お前が取れって言ったからな」


 蝉が近くまできたらしい。僕たちはの周りが少し騒がしくなる。それから君はもう行くのか、立ち上がった。


「あの日のあんたは、過去一かっこよかったよ。バッティングはもちろんだけど、守備が良かった」

「なにそれ。まあ、ありがと」

「うん。じゃ、私は練習があるからもう行くね」

「おう」


 雑にスカートを払って歩き出す。僕は君の足に合わせて揺れる必勝のお守りにささやかな念を送った。君が怪我しませんように、負けませんように、と。


 だけどきっと、こうして祈ったことも、『甲子園でピッチャーしたい』と言った君のために捕手になったことも、僕は口にしないだろう。


 蝉の声が響いている。風も空気もまだ暑い。


 僕の夏が終わって、始まった。


 了

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