熟れた苦瓜

石橋めい

紫炎にまかれて

 ──好き。



 口にして、はっとした。



 夕立に濡らされた空気が、冷たく僕たちの間を吹き抜けていく。彼女の茶色がかった長い髪は左から右に攫われて行くのに、僕が放った言葉はどこにも行きはしなかった。


「あはは」


ぴたりと風が止んで、彼女は赤い唇を歪めるようにして笑った。彼女の瞳は僕を捉えようとせず、ただ遠くの重たい雲に刺さっている。


「あんたさ、あたしの名前、知ってるでしょ?」


雲を見つめたまま、彼女は僕に問いかけた。彼女があまりにも僕を見ないから、僕は三メートル隣にいるはずなのに地球の反対側にでもいる気分になる。


「夏月さん」

「フルネームで」


 尚も問う彼女は、雨水に濡れたベランダの手すりに躊躇うことなく腕を預けた。田舎町の二階建てアパートの眼下では、側溝の隙間から生えた草が風に揺れていた。


「葛西さん。葛西夏月さん」

「正解」


 彼女の問いに素直に答える僕は、彼女が何を伝えたいのか理解している。だから彼女が次に訊くこともわかっていた。


─あんたの名前は?

「それで、あんたの名前は?」


やはりそうだ。この問いに対する答えを、僕は一つしか持っていない。


「葛西陽太」


だから素直に答えた。それから「知ってて訊くなんて、酷い人だね」と少しの嫌味を口にする。すると彼女は「知らないかと思った」と笑った。


「あたしは葛西夏月で、あんたは葛西陽太。あたしたちは、姉弟なんだよ」


ようやく彼女の瞳の黒に僕が映る。僕の心臓がどきりと跳ねた。


「知ってるよ」

「へえ、知らないかと思った」


同じ言葉を繰り返して、彼女は口元を歪める。僕を映した瞳は、すぐに遠くの雲に戻ってしまった。手元は慣れたように煙草を取り出していて、その仕草一つで僕の心臓が締め付けられる。


「たしかに僕は弟だけど、ただの弟じゃない。僕は『義理の』弟だよ」

「でも弟は弟じゃん」


彼女の薄い癖に柔らかな唇に、煙草の白が寄せられた。吸い口に口紅の赤が移る。


「だから『義理の』だってば」

「でも結局、弟は弟でしょ」


キンと音を立てて、ジッポライターに火を灯す。ジジジッと煙草が色づいた。


「頑なだね」

「事実だからね」

「まあ、事実だけどさ」


 風がまた吹いて、彼女の黒いスカートを揺らした。僕の黒いネクタイも同じように運ばれる。彼女が燻らせた紫煙も、風に乱されて空に溶けてしまった。


「私たちは姉弟。それ以上でも以下でもないよ」


彼女がベランダの手すりを掴めば、シルバーの指輪と手すりがぶつかってカチと小さな音を立てる。


「その指輪、いつまで付けておくつもり?」

「さあ、いつまでだろ」


それから彼女は、僕の問いにひどく適当に答えた。だがおそらく、答えは殆ど決まっているのだ。


「じゃあ僕は、しばらく弟のままなのか」

「たぶんね」

「そっか」


 それだけ伝えて少し黙る。煙草の中のカプセルが噛み潰す、パチという微かな音が僕の鼓膜に届いた。


「ねえ、なんであたしなの? 他にも女はたくさんいるのに」

「さあ、なんでだろ」


今度は僕が適当に答える。答えがわかれば、僕だって苦労しないと思った。


「あたし煙草吸うんだけど。あんた、煙草吸う人嫌いじゃん」

「好きで吸ってる訳じゃないでしょ。あの人のために吸ってるようなもんで」

「どうしてそう思うわけ?」

「日に何度も吸わないし、煙を味わうよりも嗅いでるみたいだし、吸うたびに妙な顔で遠く見てるから」


僕が一息に話すと、彼女はベランダにできた薄い水たまりに煙草を押し付けた。消すにはまだ、惜しいほどの長さが残っていた。


「妙な顔ってなによ」

「妙な顔は妙な顔」

「失礼極まりない」

「なんというか、あの人を想ってるって顔してる」

「は、どんな顔よ」


 彼女の瞳は僕をじっと見つめていた。今度は僕が、遠くの雲を見つめて目を逸らす。

 彼女が先程まで見ていたものを辿ってみた。


「今度、鏡の前で吸ってみたら?」

「何が悲しくて、自分の顔見つめながら煙草吸わなきゃいけないわけ?」

「それもそうだね」


 見つめた先の雲は酷く厚かった。その前を黒いカラスがバサバサと横切る。黒という色はどこか重たいはずなのに、それだけはなぜか軽く見えた。


「ねえ、煙草一本ちょうだい」

「やだよ。高いんだからね、これ」

「じゃあもう、やめればいいのに」

「そういう問題じゃないの」


 彼女の視線が、ようやく僕から離れた気がした。雲を見つめる僕の目が動き、今度は僕が彼女を見つめる。

 やっぱり彼女は僕以外をぼんやりと見ていた。


「ねえ、なんであの人だったの」


僕は横顔に聞いてみる。


「なんでだろ」

「最悪だったじゃん」

「最悪だったね」

「最悪だったよ、最後まで」

「うん。最後の最後まで、最悪だった」


 テンポよく刻まれる会話の中、僕の喉元まで迫り上がってきた「じゃあなんで」という言葉は口にされることなく飲み込まれた。彼女がカチャカチャと弄る、ジッポライターが飲み込ませたのだ。自身の手元を見つめる彼女の視線が、僕の胸をまた締め付ける。


「でもさ、理屈じゃないんだよね」


 そう言った彼女は、ジッポライターのカバーを開けて無意味に火を灯した。青くて熱い火をつける白くて長い彼女の指先は、いつも冷たい。


「僕にしておけばよかったのに」

「どうして?」

「僕ならもっと、大切にしたよ」


僕は彼女をじっと見つめて、半分冗談みたいな口調で言った。彼女もじっと僕を見ていた。夕立の名残のような雷鳴が、どこか遠くで小さく鳴った。


「そっか」


それからカラカラと窓を開けた彼女は、ひらりと部屋の中に消えていく。

 煙草の苦味に重なるみたいに、白檀の香りがふわりと香った。しかしすぐに吹いた風が、それらをかき消して湿ったアスファルトの香りに塗り替えていく。


「あ、ゴーヤの怪獣」


隣の部屋のベランダで収穫時期を過ぎた苦瓜が揺れている。昔の記憶がふと蘇って、僕は誰に言うでもなく呟いた。

 風に吹かれて、熟した苦瓜から水滴がパタパタと散る。


 幼い頃の僕は、熟れて赤い種を吐いた苦瓜のことを怪獣と呼んでいた。熟れた苦瓜はオレンジに染まり、三つに分かれる口を開いて、赤い種をバラバラと吐く。その姿形がどこか怪物のようにも見えるから、少しの恐ろしさも込めて僕はそう呼んだ。そんな僕を、ゴーヤの持ち主である祖父はいつも笑っていた。


『完熟のゴーヤはな、甘いんだ。知らなかっただろ。それにこの橙色も綺麗じゃないか。真っ赤な種だって綺麗だ。これが地面に降って、また来年に、次に繋がっていく』


それからこんなことを、言っていたと思う。

 既に僕の気持ちは、赤く熟れて弾けてしまった。そこから降った種は、次に繋がるのだろうか。

 僕は鼻から息を深く吸い込んだ。アスファルトと白檀と、微かな煙草の香りがした気がした。

 


続 ──#5 蝉の声が消えた日 へ

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