ミルキー・ゴースト

スズムシ

「きみの願いを教えてよ」

 夕風のように透明な声で彼女がたずねた。

 七月七日、夏祭り。

 よいの深まった神社の境内けいだいは、参道の屋台目当ての人々でごった返していたが、彼女の声は不思議とよく響いた。


「前と同じですよ、奈々なな先輩」


 去年は確か、僕の短冊を勝手に見られたんだっけ。彼女はクラスメイトが所属する部活動の先輩で、名前だけは知っているけれど、同じ部活ではないので苗字までは知らなかった。

 先輩をひと言で表現すると、夕立のような女の子だ。彼女との関係はある日突然、けようもなく降ってきた。 

 


 とはいっても、本当に空から先輩が降ってきたわけじゃない。僕と先輩の縁は地元の高校の教室で結ばれた。

 僕の住んでいる街では、七夕の日は決まって夏祭りが開催される。祖父母の話によると元々は戦後の平和を願った祭典らしく、空襲で焼けた鳥居がそのままの神社でもよおされるなど、暗い歴史のいましめのような意味合いをはらんでいるという。

 もっとも僕らは、そんな過去の背景に欠片ほどの興味もなく、どこにでもある普通の夏祭り感覚で今まで楽しんできたし、きっとこれからも同じように楽しんでいくのだと思う。

 放課後、僕の教室にやってきた先輩が、隣の席の女の子に「やっほー!」と声をける。

 先輩はいかにもスポーツに青春をささげていそうな清潔感のある短髪で、半袖の制服から伸びるほっそりとした腕と、輪郭のわりには少しふっくらとした頬が可愛らしく、長身とのアンバランスさもあいまって室内ではとりわけ目立った。 

 容姿が整っているとか、性的な対象にされやすい見た目とか、そういうものとは違うけれど、なんとなく振り返ってしまう程度には人の目をき寄せる存在だ。

 こうたとえると失礼な気がして本人には絶対言えないが、ちかちかと点滅する切れかけの誘蛾灯ゆうがとうに近しい雰囲気があった。

「今日も暑いねー」と女の子は返す。いつもの会話だ。二人は幼稚園からの幼馴染らしく、部活前によくこうして先輩と世間話をしていた。


「曇りなのにじめじめしてるよね」

「わかるー。棚端たなはしみたいだ」

「全然わからないんだけど。僕をおとしめる必要あったか?」


 するとくだらないやり取りの後、女の子が申し訳なさそうに「明日の夏祭りは急用で行けなくなった」というむねを先輩に伝えた。

 なぜこの会話をはっきりと記憶しているのかというと、もうその時には、先輩に見つめられていたからだ。


「きみさぁ。棚端たなはしくんっていうんだよね」彼女はいたずらっぽく笑っていう。「明日さ、夏祭りに行こうよ。私たちにはぴったりだし」


 彼女のくっきりとした笑顔に一瞬で心をつかまれた。僕はただうなずいて、かわききった喉をペットボトルの生ぬるい水でうるおわせた。いつの間にか、教室の窓で雨粒がつぶれて気怠そうにしたたる。

 


 待ち合わせ場所は学校の校門だった。アサガオの入った紺色の浴衣に牡丹ぼたんの髪飾り。学校では見られない大人びた化粧。僕はその恰好を鮮明に思いだせる。

 年に一度、織姫の姿を目にした彦星はこんな心境だろうな、とわけもなく思いながら先輩に手を振った。

 そわそわとした感じで待ちぼうける先輩の表情が、ぱっと明るくなり、下駄を鳴らして駆け寄ってくる。


「やっほ、七夕が似合う男だねー」


 ほんのりと頬を赤らめ、僕をからかってくる。


「名前だけですよ」と僕は肩をすくめて答えた。


 棚端たなはしという名前なので「たなばた」と間違われることが多かった。だからどうってことはないのだけど、七夕が似合うと言われるのは複雑な気持ちにさせられる。


「じゃ、いこっか」


 僕らは自然に肩を並べ、太鼓の音を目指して歩きだす。途中、腕をからませた若いカップルとすれ違い、虫よけスプレーと焼きそばのソースの匂いが鼻腔びくうをくすぐった。


「お腹空いたねぇ」

「僕もです」

「なにが好き?」

「焼きそばですかね。まずくて高いやつが特に」

「えー、唐揚げのほうがいいよう」


 なんていう会話がはずんだ。

 屋台のある場所に着くと、凄まじい熱気と人々のかたまりがあった。僕らは人混みにまれ、爪先を何度も踏まれたし、逆にかかとを踏んでしまったりもした。

 先輩はりんご飴をかじり、僕は希望通りのまずい焼きそばを買った。外気に触れて結露けつろした缶ジュース、大量のシロップをかけたかき氷、スーパーボールすくい。楽しそうに歩きまわる彼女をみて、それだけで来てよかったと、幸福がみていく感覚にひたった。

 

「きみ、私ばっかりみるんじゃないぞ」とたしなめられたときに、僕はこの人が好きなんだな、と思った。



 一通り屋台を巡り終えた僕らは、鳥居下の石段で休憩をとった。先輩は神社の社務所でボールペンと短冊を二枚購入し、片方を僕にくれた。

 唇が何かをなぞる。

 喧騒に言葉がさらわれてしまったが、「願い」という単語だけは聞き取れたので僕は従う。

 そして人混みを遠ざけるために、神社を囲う大きな池の桟橋さんばしに避難した。

 僕らだけが夜の街から隔離されてしまったのかと錯覚してしまうくらい、静寂にちた場所だった。

 二人で裸足になり、しばらく足をぶらぶらさせて話したり、小石を投げ込んでらぐ水面をながめたりしていたのだが、たぶん、花火が打ちあがったタイミングで先輩はそっと耳打ちした。


「きみの願いを教えてよ」


 短冊に書いた意味がないじゃないか、と苦笑しつつ、僕は願いをしるした紙面を見せた。



 あれ以来、先輩とのプライベートでの進展はなく、学校でたまに話す程度の日々が過ぎていった。

 結局、思いのたけを打ち明けられないまま三年生に進級すると同時に先輩は県外の大学に進学し、僕の初恋は夏の終わりのような静けさで息えた。

 抜け殻めいた四月を過ごし、五月はせり上がる涙で夜がにじんで、六月の雨が涙痕るいこんゆすいでくれた。できたばかりの瘡蓋かさぶたがじくじくと痛みだすのは嫌だから、今年の夏祭りは引きもろうと決めた。

 ところが一週間前の帰り道、僕は思いがけず先輩に肩を叩かれる。くしゃくしゃになった短冊を見せられ、赤面する僕をよそに、先輩は短く「待ってるからね」といってきた。

 そうして僕らは去年と同じ場所で待ち合わせ、去年と同じ格好をした少し垢抜あかぬけた先輩が、去年と同じように屋台を楽しんで、今しがた、去年と同じ質問を僕にしたのだ。


「それは困るなぁ……」と彼女は頬をいていった。「ね、もっと他の願いはないの?」

「他の願い」

「そうそう。志望校に受かりたいとか、夏休みを前借りしたいとか、アイドルになりたいとか、月曜日を消したいとか、世界征服でもいいよ」


 なんだその選択肢は、と思った。


「奈々先輩と付き合いたいです」


 自分でもびっくりするほど、すんなりと言葉が出てきた。随分とあっさり告白してしまったので、ちゃんと気持ちが伝わったのか不安になる。


「あちゃあ、そうきたかぁ……」


 彼女はうつむいて、ふと顔を上げたかと思えば、いたずらっぽくひとみを輝かせた。

 唐突に僕の手を握り、あの夜の桟橋に移動する。


「目をつむってよ、棚端くん」

「目を瞑るんですか」


 その瞬間、僕の鼓動が一気に加速した。好意を示した状況で、目を瞑らせるなんて、キスを期待しないわけがない。


「そうだよ。目を瞑るの。きみは絶対に開いちゃだめ。私の心の準備が出来たら、告白してもいいよっていうから、棚端くんは目を開かず、思いっきり告白して」

「注文が複雑すぎませんか」

「いいからして」と先輩はかすように命令した。「付き合って欲しいならね」


 そう言われてしまっては逆らえない。

 告白のシチュエーションにこだわりがあるのだろうか、と僕は自分を納得させ、まぶたを閉じた。

 とても長い時間に感じた。正確な時間は分からないけれど、心の準備とやらに十分以上をようするらしい。

 やがて靴音がだんだん近づいてくる。冷静になりつつあった思考が一転し、まとまらなくなる。

 鳴りをひそめていたはずの鼓動がうるさい。

 離れる足音はしなかったけれど、僕は緊張で考えるどころではなかったし、ただひたすらに成功を願った。

 今、告白していいよ、とささやかれたような気がした。先輩の言いつけ通り、僕は目を開かず、にわかにしびれだした指先に力をめた。


「ずっと前から好きでした……僕と付き合ってくださいッ!」


 息を呑む音。

 静寂。

 言葉の余韻よいんが夜空にたなびく硝煙のようにひろがり、僕の羞恥心は限界に達した。

 ゆっくりと目を開くと、先輩はいなかった。代わりにかつて隣の席だった女の子が立っていた。


「うち、棚端に声かけようとしただけなんだけど、そのっ、いきなりは困るっていうか……」

 

 校庭で咲く百日紅さるすべりのような桃色に頬が染まり、しどろもどろに言葉をつむいだ。


「ていうか、なんでこんなとこに一人でいるわけ?」

「奈々先輩と――」


 一緒に夏祭りに……と続けたかったのだが、金縛りにったみたいに動かせなくなる。

 彼女の表情がけわしくなったのを、僕は見逃さなかった。


「あー……棚端は知ってたんだ」



 

 奈々先輩が、亡くなったこと。


 そんなの知らなかったよ、僕は。



 声がかすれて、心臓がぎゅっとなって言葉にならなくて、まぶたの奥が熱くなる。

 息がまった。

 どうしようもなくどうしようもない感情をおさえきれず、顔がゆがんでむせびそうになって、それで――。

 僕は、彼女の胸を借りた。あのときどんな会話をしたのか、おぼえていないけれど、ずっと背中をさすってくれたような気がする。

 


 彼女はしばらくすると部活仲間たちのところに戻り、照れくさそうに会話を交わして、僕のほうに来た。


「うちも奈々に呼ばれた気がしたんだよね」

「そっか」


 帰り道の僕たちは終始無言だったけれど、ぶつかり合う肩と指先から伝わる熱が、まるで饒舌じょうぜつに喋りかけてくるようだった。

 大事な後輩をよろしくってか。

 自分の願いだけを押しつけて、本当にどうしようもない人だ。何もかもが馬鹿らしくなって、僕は大きな溜息をいた。

 ジーパンのポケットをまさぐるとくしゃくしゃになった短冊が入っている。これは先輩が持っていたはずの短冊だ。

 当然、内容は知っている。

 僕はできる限り丁寧にしわを伸ばし、隣を歩く女の子に渡す。



 ___


  〇


  来

  年

  も

  一

  緒

  に 

  夏

  祭

  り

  に

  行

  き

  た

  い

  で

  す

 ___



 祭りの喧騒が遠のいた夜の静寂にすらまぎれてしまうくらいに細い声で、いいよ、と彼女がいう。果たして、どっちの答えなんだろうなぁ、と僕は思う。



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ミルキー・ゴースト スズムシ @suzumusi

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